【第71回】『ハニートラップ 大統領になり損ねた男』(アベル・フェラーラ/2014)

SEX依存症のフランス人政治家デヴェロー(ジェラール・ドパルデュー)は、
ニューヨークの高級ホテルでコールガールたちと乱交騒ぎを起こした翌朝、
「部屋の掃除中に、性行為を強要された」と主張する黒人客室係から訴訟を起こされた。

手錠姿で連行される権力者のスキャンダルをマスコミは大々的に報道。
本人だけは「誰かに仕組まれたワナだ! 」と反論するのだが。

フランスの政治家で次期大統領候補の呼び声も高かった
ドミニク・ストロス=カーンの前代未聞の一大スキャンダルを映画化した作品。

ドミニク・ストロス=カーンという人物は本国フランスではあまりにも有名で
経済の専門家としてフランスでの地位を不動のものにし、
市長を務めたのち、90年代に経済・財政・産業大臣を歴任。

2007年のフランス大統領選挙では社会党の大統領候補として立候補し、
惜しくも2位で落選したものの、
2012年の大統領選挙でも有力候補の1人と目されていた人物である。

その後一度政界を離れ、国際通貨基金 (IMF)の専務理事として
任期期間中にニューヨークで起こした性的暴行事件により逮捕・訴追される。

映画はこのニューヨーク出張中のストロス=カーンの行動を逐一追う。
一応ストロス=カーンではなく、デヴェローという名の架空の政治家になっているが、
事件の生々しい顛末は明らかにストロス=カーンの所業と一致する。

彼がホテルで乱交騒ぎをし、
翌朝黒人のハウスキーパーに暴行するまでの一部始終は
はっきり言って面白くも何ともない。

フェラーラにしてはごくありきたりで凡庸なショットが並ぶのだが、
ドパルデューが空港で捕まるあたりから俄然面白くなるのである。

前作『4:44 地球最期の日』が鈍重なショットの中で
ゆっくりと映画の中の時間が進行していたのに対して
この映画のショットの連なりは明らかにリズミカルでテンポが良い。

動的なショットの連なりの中で、
警察とドパルデューの飛行機に搭乗出来るか否かのスリリングなサスペンス展開は
一気に画面を高揚させる。

冷静さを装いながらも、事態が呑み込めないドパルデューと
事務的に事件を処理しようとするアメリカの警察官の冷酷さとの対比も非常に上手い。

どんな地位や名誉に就いた人物も、ひとたび拘留されれば街の黒人と同じになる。
そんな状況をさりげなく描いた鉄格子の中の様子が
実にフェラーラらしい軽やかな筆致で描かれていく。

一瞬だけ出て来る法廷シーンの緊迫感溢れる描写も
近年稀に見るレベルの高い演出力とカメラワークだと断言する。

頭頂部を僅かにカットした絶妙なフレーミング・ワークを駆使しながら
クローズ・アップ多めで、
静的な場面を強引に動的に変えるフェラーラの力業は必見である。

その後600万ドル相当の保釈金で保釈が認められ、
妻であるジャクリーン・ビセットが間借りした家賃600万ドルのアパートへ
マスコミの目から逃げるようにして駆け込むのだが、
そこで繰り広げられる夫ドパルデューと妻ビセットの9分間の罵り合いが非常に素晴らしい。

2000年代屈指の演者の見せ場と言っても過言ではないような
名優同士の魂のこもった演技を、引きの絵でじっくりと捉えた9分間の攻防のカタルシスは
観る者の心を捕らえて離さない。

またもう一度出て来る夫婦の言い合いの場面の対比も実に効果的で上手い。
夫婦同士の力関係が、ゆっくりと立場を変えてしまう。
最初の攻防のように9分間尺を与えてのやりとりではないのだが、
ある映画のスクリーンを媒介にして、夫婦の距離が絶望的に提示される。

ここでドパルデューが心落ち着かせるために観ている映画には、あまりにも驚いた。
ドパルデューに大変ゆかりのあるあの監督の作品である。
そしてそれはジャクリーン・ビセットにも関係の深い監督の作品でもある。

アパートの窓越しに高層ビルを眺めながら、
無宗教なのに自分の罪を懺悔する印象的な独白場面は、
これまでのフェラーラ映画の中で繰り返し見られた特徴的なシークエンスである。

そうやって一度は神に許しを乞い、改心したはずの社会的地位も名誉もある男の悲哀を
ある種皮肉的に描いたクライマックス・シーンのドパルデューの熱演が素晴らしい。

作品上、全裸にならざるを得ないシーンが何度も出て来るが、
若き日のジェラール・ドパルデューの面影のないトドのような体型には笑った。

普通、人間は生きているうちにあそこまで太れるものではない 笑。
ましてや俳優ならば常に摂生しなければならないはずだが、
80年代初頭くらいから年々太り続け、遂にはトドのような腹になってしまった。

そのトドのようなドパルデューを主演に一本釣りしたフェラーラは実に天晴れだし、
フルチンでただ喘ぐだけのSEX依存症の男をドパルデューもよくぞここまで好演したと思う。

ちなみにドミニク・ストロス=カーンとジェラール・ドパルデューでは
同じフランス人でありながら、顔立ちも体型もまったく似ても似つかない。

ドパルデューはフランス屈指の演技派であり、常に演技力が評価されて起用されるが
この作品では演技にプラスしてトドのような肥満体型が強烈に目に焼き付いて離れない。

アメリカの俳優であれば、ロバート・レッドフォードもロバート・デ・ニーロも
アル・パチーノもハーヴェイ・カイテルもハリソン・フォードもリチャード・ギアも
フルチンでフェラを強要するような役柄に対しては即答で「No」と答えたであろう。

レネ『薔薇のスタビスキー』やトリュフォー『終電車』
ニュイッテン『カミーユ・クローデル』、JLG『ゴダールの決別』
シャブロル『刑事ベラミー』など実に輝かしいフィルモグラフィを持つフランスの名優は
その自らのプライドを捨て、60代半ばにして倫理観の欠けた人間を嬉々として演じる。

思えば一発の銃声も人間の死さえ描かなかった映画で、
これ程活劇的な興奮を得られる作品に出会うことは、近年稀になってしまった。

珍品と言えば実にアクの強い珍品だが、やはりアベル・フェラーラの強烈な匂いのする映画である。

【第62回】『ニューローズ・ホテル』(アベル・フェラーラ/1998)

近未来の東京。X(ウィレム・デフォー)とフォックス(クリストファー・ウォーケン)はコンビを組み、
ハイテク企業の優秀な人材をヘッドハンティングしている。

時には違法な手段にも及んできたふたりは、
次のターゲットとして天才日本人研究者ヒロシ(天野喜孝)に目を付け、
クラブで出会ったコールガールのサンディー(アーシア・アルジェント)を引き込み、
計画をスタートさせる。

いぶし銀の個性が光るウォーケンとデフォーの贅沢な共演作。
原作は『ニュー・ロマンサー』で知られるサイバーSFの鬼才W.ギブスンが手掛け、
日本を舞台にしている。

CGなのか実際に撮影されたものなのかはっきりしたことはわからないが、
電光掲示板や企業看板などが映し出されるので、日本で撮影した映像には違いないのだが、
どうもウォーケンもデフォーもフェラーラでさえも、
日本に来て撮影していないんじゃないか 笑?

というのも、フェラーラにしては空間の作り込みがどうにも甘い。
寿司屋も日本人娼婦を呼び寄せたホテルも、日本にあるリアリティがない。
アメリカ人の考える異国風の装いになってしまっている。

SFということで真っ先に思い出したのは、『ブレードランナー』
あの映画のアジアをミックスしたようなごった煮感を今作も十分に有しているのだが、
やはり低予算映画のため、遥かにチープに見える。

またせっかく『ファイナル・ファンタジー』シリーズの天野喜孝が出演してくれたにも関わらず、
彼の出演がVTRのみで、物語の重要なキャラクターでありながら
ほとんど比重を置いていないのも残念。

むしろ彼よりも、日本人ホサカを演じた坂本教授の方にフェラーラは肩入れしている。
会社での商談の場面にだけ出て来るのだが、デフォーとウォーケンとの絡みもしっかりある。

冒頭のナイトクラブのシーンは、
フェラーラにしては珍しくクローズアップ多用で、視線の交差をじっくり描いている。

アーシア・アルジェントはおそらく当時20歳そこそこだったはず。
流石に表情は若いが、甘く危険なファム・ファタール像を堂々と演じている。

脱ぐ事を厭わないアーシアの大胆な演技はこの頃からもう既に始まっていて、
プールで自分の両親の出自を話す場面や
ヒロシとSEXをした後、やきもちを焼くデフォーと口論になる場面などに
男女のヒダを理解した堂々たる演技が見える。実に肝の座った女性である。

だがそれ以上に良いのは、ウォーケンとデフォーの乱痴気騒ぎっぷりだろう 笑。
真顔で互いにジョークを言い合うベテラン2人の共演は本当に贅沢で
スコシージ作品とは違ったハメの外しかたが最高である。

足の悪い設定のウォーケンは常に杖が手放せないのだが、
ナイトクラブでうっかりステッキに見立てて踊りそうになった場面では笑った。
『キング・オブ・ニューヨーク』の怪演再びである。

フェラーラにしては珍しく、ドラッグは一切出て来ないが、
レズビアンの乱交場面とマリアの肖像が交互にモンタージュされる映像の過激さたるや凄まじい。
そこにはしっかりとフェラーラにしか描けないインモラルな映像と確固たる世界観がある。

またフィルムで撮影された現実の中に、VTR映像を効果的に織り交ぜ、
異なる質感を持った映像世界を一つに纏めるあたりは、やはり独特の作家性を持っている。

やがてフィルムとVTRの世界観が融解し、そこで現実と空想の境目が曖昧になる。
ウォーケンが命を失う決定的な場面を、フェラーラは決してフィルムで描写しない。

監視カメラの白黒4分割映像に一瞬だけ映った死の瞬間が、
それまでの1時間強、カラーフィルムで記録されたウォーケンの生の記録に対して
随分あっけなく、ドラマチックさの欠片もなく、観客に提示される。

そこから先、デフォーの目に見えているのは幻覚なのか?それとも現実なのか?
それは観る側一人一人が自分で判断すればいい。

フェラーラのフィルモグラフィの中でも、恐らく1,2を争うくらい難解であろう今作。
低予算映画の酷く限定された世界の中で、フェラーラの刻印がはっきり見える。

【第57回】『スネーク・アイズ』(アベル・フェラーラ/1993)

映画監督エディ・イスラエル(ハーヴェイ・カイテル)は
念願の企画だった『鏡のマリア』の製作に取りかかる。

崩壊していく夫婦の姿を描くこの映画は、TV界のスターサラ(マドンナ)と
エディの長年の友人であるバーンズ(ジェームズ・ルッソ)が主演を務め、クランク・インする。

だがこの映画の撮影はやがてエディの妻マドリンも巻き込んで
狂気のドラマへと姿を変えていくのだった。

映画界の内幕を、虚構と現実の混濁する様を力強いタッチで描いた
NY派アベル・フェラーラの真骨頂たる1本。

冒頭のえらく凡庸な家族の食卓の撮り方に嫌な予感がしたが、
あのある種の空虚さは、来るべきクライマックスを暗示していたんだと思う。

この映画の中には、『鏡のマリア』という映画の中のカメラがまず一つあり、
フレームの外の彼らの行動を捉える最もオーソドックスなフィルムとしてのカメラがあり、
エディが主演の2人に演出の意図を伝えるビデオ・カメラがあり、
三種類の質感も機能性もまったく違うカメラがスリリングに行き交う。

それはフィクションとノンフィクションという単純な二極構造ではなく、
ビデオ・アートの領海に侵犯し、スクリーンとフィルムの混濁した世界と
彼らが行動する現実世界との境目の意識を失わせる。

ここで撮られている映像の強度は、
酒場でカイテルがチラ見するボクシング映像や
雪の降る冬のNYに戻る飛行機内でチラ見するオリンピック広報映像との対比で
暗喩的に繰り返される。

凡庸な映像との対比が、ここまで明確に描かれているフェラーラの作品は稀だろう。

これまでのフェラーラ作品の根底にあった犯罪としての暴力はここにはない。
『鏡のマリア』という暴力描写ありきのフィクション映画に2人の俳優が取り組み、
それを見守る監督の目があり、静かにゆっくりと暴力が3人の内面の中に入り込んでしまう。

映画と実生活という切り離すことの出来ない領域に対して、
監督と2人の主演俳優の葛藤が、セックス、ドラッグ、宗教と絡み合いながら
やがて一つになる映画の素晴らしさは、90年代のフェラーラ屈指のカタルシスだろう。

その倒錯した世界は、
エディの妻がNYからハリウッドにフライングで現れたところでピークを迎える。

エディの妻マドリンを演じるのは、
実際のアベル・フェラーラの奥方であるナンシー・フェラーラその人である。

トリュフォーの分身としてのジャン=ピエール・レオがいたように、
この映画の中でもフェラーラの分身としてのハーヴェイ・カイテルが
フェラーラの奥方と倒錯した世界を繰り広げることになる。

フィクションとノンフィクション、映画監督と俳優、夫と妻、ドラッグとキリスト、
それぞれの危ういバランスが音を立てて崩れる時に剥き出しになる狂気の瞬間こそ
フェラーラ映画の真骨頂である。

まるでジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』のような
俳優たちの追い込み方をフェラーラは実践している。

その象徴として『鏡のマリア』内のシーンの1つ1つをカットを割らずに長回しで撮る。
途中エディとバーンズのキャンピング・カー内での口喧嘩も長回しで撮り、
人間の生理的な喜怒哀楽を捕まえて離さない演出で、俳優陣を追い込んでいく。

それは奥方ナンシー・フェラーラとて容赦しないのである。
ハーヴェイ・カイテルが一晩だけNYに帰り、妻にこれまでの不貞を打ち明ける場面は
カットはしっかり割られているが、一連のシークエンスの中で
自分の妻にハーヴェイ・カイテルと渡り合うだけの怒りを強いる。

カイテルとマドンナがダンスを踊る場面を上から撮ったところだったり、
奥方達がプールでセレブ的に盛り上がるのと対比して
静かなズーム・アップでカイテルの様子を捉える映像だったりに
フェラーラの非凡な才能は充満している。

いわゆる厳格なショットは一つもないが、
明確な意図で撮られたであろうショットは無数に存在する。

そんなところが、フェラーラの熱心な信者を世界中に生んでいるのかもしれない。

傑作『バッド・ルーテナント』直後に撮られ、
駄作と評されることの多い『ボディ・スナッチャーズ』直前に撮られた作品だが
当時のフィルモグラフィを振り返れば、いかに偉大な監督であるかを痛感させられる。

間違いなく、今後20年以内に然るべき再評価がなされるアメリカの監督の一人だと思う。

【第28回】『ボディ・スナッチャーズ』(アベル・フェラーラ/1993)

ジャック・フィニイの小説『盗まれた街』の3度目の映画化
一度目はドン・シーゲル、二度目はフィリップ・カウフマン。
そして三度目に我らがアベル・フェラーラの登場である。

結論から言ってしまうと、シーゲル版よりは予算面でも演出面でも遥かに厳しい。
このフェラーラ版はカウフマン版の後日談のような内容で、
父親の仕事の都合で辺境の基地に移動するところから物語は始まる。

まず夕闇迫る森林を俯瞰で撮影したショットから
徐々に雨に濡れた地面に移行する映像が素晴らしい。

夜の闇の中で不気味に光る基地のライト、ガラス越しに映る月、
そういう細かい部分にまで手を抜かないフェラーラらしさが随所に息づく。

主人公たちの生きる世界と基地全体を覆う不穏な何かの感覚的なズレ。
これをフェラーラは微妙に寝かせたカメラで表現する。

街全体が不気味にまどろんでいる。
外の世界の動く速度と自分たちの呼吸する速度のズレ。

それがバスタブでうとうとした瞬間に、堰を切ったように漏れ出す。

風呂場の通気口の穴からゆっくりと触手が近づいて来るシーンは
不謹慎だがあまりにも美しい。

それ以上に、父親の背中をアルコールのついた手で撫でるシーンの
フェティッシュな美しさは何度観てもやられる。

そういう感覚にゆっくり訴えかけてくる演出こそが、フェラーラの真骨頂なのである。

ゆったりとしたリズムを持った50分間とは一転して
ラストの35分間の性急さは、まるで別の映画になったようである。

その機転となるのは、ある音の襲来であり、
あまりにも恐ろしいその音が、無理矢理活劇をスタートさせる。

だからこそラスト・シーンのヘリコプターからの落下のCGの不味さが心残りだが、
空撮シーンは問答無用に素晴らしい。

軍医のフォレスト・ウィテカーが宇宙生物に囲まれ、
自害して果てる場面の光と影の演出なんて、
モノクロ時代の演出に真っ向勝負を挑んでいるかのようで、
わかっているけど何度観ても胸が熱くなる。

SFファンはラブストーリーを入れたことで緊張感がなくなったという声もあるけど
向かい合わせで人を殺したことがあると聞いた時の2人の表情なんて最高。

フェラーラお得意のキリスト教的な場面をあえてどこにも入れず、
正統派SFに徹した画面作り。

まさに職人フェラーラの面目躍如たる傑作である。

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