【第55回】『悪魔のいけにえ3 レザーフェイス逆襲』(ジェフ・バー/1990)

真夜中のハイウェイを走らせていた若いカップル、
ライアン(ウィリアム・バトラー)とミッシェル(ケイト・ホッジ)は、
近道をするために荒野を抜けた。

しばらくすると、行く手に人皮マスクをかぶってチェーンソーを振り回すレザー・フェイスと
そのファミリーが現れる。

トビー・フーパーが手掛けた1と2から一転、
ジェフ・バーに監督を譲り、自らは裏方に退いた今作。

伝説の1の設定を踏襲し、
冒頭はガソリン・スタンドから森の中に迷い込み、
主人公は最終的にレザーフェイス一家の屋敷に引きずり込まれる。

また死のゲームに巻き込まれるのがそこまで大人数ではなく、
ライアンとミッシェルという若いカップルに限定し、
シンプルな枠組みで見せようとした監督の野心はそれなりに評価出来る。

最初は正義の面をしたヴィゴ・モーテンセンが
実はレザー・フェイス一家だったというオチもまずまずなのだが、
問題はヴィゴ・モーテンセンが特殊メイクをせずに、素面で出演していること。

流石にホラー映画の大ボスとして、素面はないだろう 笑。

カップルが、真夜中の森の中に迷い込むまでを描いた前半部分は
ごくごく真っ当なホラー映画と言えるのだが、
前から来た車と衝突し、ケン・フォリーと出会ったあたりから、
ホラー映画ではなく、ありきたりなアクション映画になってしまっている。

普通の黒人ならば、ここであっさりと殺されてしまうのだろうが、
ホラー映画が好きな観客たちは、『ゾンビ』のあの男だとわかっているだけに、
簡単に死なないのは目に見えている 笑。

実際にどんな酷い目にあってもなかなか死なないんだこれが 笑。

突然出て来た若い少女の描写もよくわからなかった。
ケン・フォリーと一緒に煙草を吸う場面なんて明らかにカットだろう。
それを律儀に描写してみせるあたりに監督の力量が透けて見える。

レザーフェイス一家の屋敷も、
光量が強いのか、美術が弱いのかわからないが、
いまいちおどろおどろしい雰囲気が出ていない。

もし監督がフーパーだったならば、
主人公を引きずり込む屋敷はもっと魅力的なものに仕上げたに違いない。

舞台装置が雰囲気を伴っていなければ、ホラー映画としては失格なのだ。

またレザーフェイス一家の人間関係をあまりにも丁寧に描き過ぎたために、
レザーフェイス一家の神秘性や恐怖感が薄れ、
普通のアクション映画のやばい家庭に成り下がっているのはいるのが非常に残念でならない。

屋敷に逃げ込んだ時に、最初に出くわしたゴス・ロリ系の少女も狙いは悪くないし、
母親が人工スピーカーで話すなど細かい設定も悪くないのだが、
家族が普通に言葉を使って会話する時点で、観る側からすれば怖さが半減してしまう。

理性的な人間よりも、たがが外れた動物的な凶暴性にこそ、この家族の怖さがあったはず。

おまけにレザーフェイスが1階に降りて、
コンピュータにログインしよう何度も「food」と打ち込む場面では
あまりの幼稚さに笑いが止まらなかった。

普通の映画会社の経営判断ならば、あの場面は丸々カットでもおかしくない 笑。
あそこまで幼稚な場面は、幾らハリウッド映画とはいえなかなかお目にかかれるものではない。

またレザーフェイスが妹の頬にキスをする場面も、普通の神経ならば明らかにカットだろう。
もしフーパーが監督ならば、絶対に有り得なかった描写の一つだと思う。

レザーフェイス側以上に、主人公とケン・フォリーの不死身さも最後までよくわからなかった。
まるでゾンビのように、何度も何度も甦る姿は人間の範疇を超えている。

普通ならば手の甲に五寸釘を打ち付けられた時点で気絶していてもおかしくない 笑。
それを引っこ抜いて次のアクションを起こせる時点で、
主人公はスタローンかシーガルかシュワルツェネッガー並の何かを有している。

そんな馬鹿な話があるはずがない 笑。

特別にデコレーションされたチェーンソー並のちぐはぐさで
観た瞬間、速攻で忘れたくなる凡庸なリメイクである。

【第23回】『悪魔のいけにえ2』(トビー・フーパー/1986)

前作から12年、すっかりヒットメイカーとなったフーパーが
再びレザーフェースを題材にした『悪魔のいけにえ』の正当な続編。

前作ではまだ無名の役者ばかりが出て、
もっともらしい恐怖感を演出していたが、
今作はデニス・ホッパーが主人公のバリバリのスター映画。

オマケにロメロの特殊メイクとしてあまりにも有名なトム・サヴィーニを起用し、
残虐描写をほとんどしなかった前作とは一転、
目を覆いたくなるようなこれでもかと言う残酷描写のオンパレード。

しかしプログラムピクチュアとして回収されてしまったことが
『悪魔のいけにえ』にとって幸福だったのかはわからない。

レザーフェイスという人物の不鮮明さと暴力の不明瞭さが
際立つ怖さを醸造していた前作に対して、
今作ではレザーフェース一家がコミカルになってしまっている。

冒頭の並走する車の屋根を突き破るチェーンソーのシーンと
ラジオ局にレザーフェイス一家が侵入するシーンはなかなかに怖いが、
肝心要のフーパーお得意の蟻地獄のような舞台装置があまり効果を発揮していないように思える。

あのクライマックスに選ばれたエイリアンの洞穴のような舞台装置はいったいなんだろう?

前作ではごく普通の民家の中でチェーンソーを振り回していたからこそ、日常に狂気が宿ったのだが、
エイリアンが住み着いていそうな洞窟に一家が住んでいるとわかった途端にフィクションになってしまう。

はっきり言って、クライマックスよりも冒頭の15分間の方が遥かに怖い。
陸橋を並走する車の中から男が仁王立ちでチェーンソーを無軌道に振り回すシーンは
もう十分に怖いがそこが恐怖のMAXで、徐々に怖さに慣れてしまう。

これは単純に言って、フーパーの設計ミスだろう。
あの洞窟から命からがら脱出したホッパーとキャロライン・ウィリアムズが
追いかけて来たレザーフェイス一家に並走され、
レザーフェイスが仁王立ちでチェーンソーを無軌道に振り回すところを
クライマックスに持ってくれば、まったく違う印象になったはず。

しかしキャロライン・ウィリアムズに密かに思いを寄せる男が
レザーフェイスの餌食になる場面は妙にわびしかった。

ああいう不幸な男にフーパーは明らかに感情移入している。
それに対してキャロライン・ウィリアムズ扮するヒロインの人間性はまったく描けていない。

けれどそれでこそボンクラ男フーパーなのである。

極論を言えば、フーパーやカーペンターが男性だけではなく、
もう少し女性キャラクターの細かい描写が出来ていれば、
今頃スピルバーグやキャメロンに近づけていたかもしれない。

彼らが登場した70年代というのは、ホークスやシーゲルやオルドリッチの時代のように、
女性を粗雑に扱うことが許される時代ではなくなっていた。

映画監督としての野心から、男女の描き分けに注意を払い、時には人種さえも乗り越え、
自分の専門外のジャンルに果敢に手をつけていったスピルバーグやキャメロンと
頑に自分の好きなことだけしかしなかったフーパーやカーペンターの野心の差が
今の彼らの立ち位置を明確に決めてしまったと言えるのではないか。

しかし私はそんなフーパーの作品が嫌いになれない。

【第22回】『悪魔のいけにえ』(トビー・フーパー/1974)

1973年のある夏の熱い日、
1台のワゴン車で小旅行を楽しむ2組のカップルと車椅子の青年。
ガソリンがなくなり、テキサスの田舎町のある一軒家を訪れたところから、
レザーフェース一家の殺人ショーが始まる。

最初に事件の概要が説明され、それを辿る形で物語はスタートする。
この映画にスターや顔の知れた役者は一切出て来ない。
それがかえってリアリティを高め、疑似ドキュメンタリーのような効果を生んでいる。

どこにでもいる5人の男女が乗ったワゴン車が
ヒッチハイクをする1人の男を乗せるところから恐怖の幕が開く。

ナイフを見た男の目が輝き、突然何の前触れもなく自傷行為に走る。
まずこの場面が奇怪なのは、敵が味方ではなく自分自身を傷つけていることにある。

そしてここから先に物語が進んでいっても、
レザーフェースが殺人鬼になった理由もこの家族と思われる男たちの関係性も
観客である我々にはいっさい提示されない。

人皮の仮面を被った男は果たして話せるのか?
素顔さえもわからぬまま、ただただチェーンソーを振り回し、
5人を執拗に追い回す様子は心底怖い。観ているだけで吐き気をもよおす。

フーパーの映画では常に、ある建物を訪れた瞬間から恐怖が始まる。

蟻地獄のような罠がはりめぐらされ、
そこに主人公たちが踏み込んだ瞬間から、奈落の底に落とされていく。

そしてある集団が、1人に分断されたところから殺戮が開始される。

このデビュー作でも、あるカップルの男が分断され、女がおびき出される。
殺人鬼は律儀にも一遍に殺さない。1人ずつ寸断されたところから、じっくり料理していく。

5人のうち4人が殺され、最後の1人になった時の恐怖は想像を絶する。
『アンダルシアの犬』ばりの目玉のクローズ・アップと瞳孔の揺れるショットは
観客と主人公を精神が錯乱したかのような混乱に陥れる。
主人公の恐怖と痛みに完全に同化してしまう。

真に活劇的なクライマックス・シーンの野蛮さは
明らかに撮影所育ちの監督ではない感覚的な若者の登場をふいに宣言する。

こんな映画はフーパー自身のフィルモグラフィの中で、後にも先にもない。
処女作であるがゆえの暴走する恐怖と狂気の勢い。
16mmフィルムの粒子の粗いショットの1つ1つに、観ていて痛みが走るようである。

決して直接的な描写はしていない。
経済的な理由もあるだろうが、それ以上に残虐描写を省いたフーパーの美学。
観客の心に恐怖心を植え付けるような精神を蝕む描写の数々。

今でこそごく当たり前のようにCGで作られたホラーが量産され、
どんな人でも多かれ少なかれ残虐なシーンをお目にかかることはあるだろうが、
これが70年代当時にどれだけショッキングな出来事だったかは想像に難くない。

スピルバーグ『ジョーズ』やカーペンター『ハロウィン』と並んで
70年代から80年代へのアメリカ映画のターニング・ポイントになった
あまりにも重要な映画である。

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