【第716回】『 家族の灯り』(マノエル・ド・オリヴェイラ/2012)


 夕闇の波止場に佇む1人の男ジョアン(リカルド・トレパ)の姿。ひどく物悲しい諦念を纏うその背中、港町の湿気った風は容赦なく男の身体を寒空にさらす。洞穴の中央に灯るオレンジ色の柔らかい光。影を纏ったジョアンはオレンジ色の光に触れようとして、絶叫を残し逃げ去る。石畳の路地裏、暖かい室内では今日もいつものように妻ドロテイア(クラウディア・カルディナーレ)と嫁ソフィア(レオノール・シルヴェイラ)が窓の外を見ていた。ひざ掛けとスリッパを用意しないと。嫁姑は父親の座る上座にひざ掛けをそっと掛ける。時代はおそらく19世紀、まだ電気のない時代。蝋燭の僅かな明かりだけがこの家の光源となる。石畳に響く革靴の音、咳き込みながら会話する父親ジェボ(マイケル・ロンズデール)の声に部屋で待つ2人は微かな希望を抱く。やがてドアが開くと、期待していた息子の姿ではなく、隣人で芸術家のシャミーソ(ルイス・ミゲル・シントラ)が陽気な声で話しかける。落胆する2人、妻ドロテイアは夫のジェボにジョアンの安否を確認するが、ジェボはいつも答えをはぐらかす。父の死をきっかけにこの家に引き取られたソフィアはやがて当たり前のようにこの家の一人息子のジョアンと恋に落ち、めでたく結婚するが夫婦に子供はいない。平和な暮らしを続けるごく平凡な家族の暮らしが8年前、音を立てて崩れる。ジョアンは8年前、家族に何も告げずに突如家を飛び出した。

 ポルトガルの作家ラウル・ブランダンの戯曲を基に描かれた物語は、息子の不在を受け止められない家族の姿を殺風景な部屋からほとんど出ることなく静謐な筆致で描く。マッチを擦って灯されるテーブルの上のランプ、石畳の路地を照らす街灯の明かりはLEDライトで飾られる現代の照明とは一線を画す。そのショットはまるで宗教画のようにも見える。さながらバロック期の画家レンブラント・ファン・レインの絵画のような光の量塊表現が各ショットに緊張感をもたらす。撮影を担当したのは『家宝』以来2度目のタッグとなるレナート・ベルタ。彼は石畳に囲まれた狭い部屋の情景をテーブルを基調とした固定カメラによる単純な切り返しで据える。長回しで据えられたカメラはそれぞれが哲学的な主張を繰り広げる役者たちの生理にじっくり寄り添う。会計士として今なお働き続けている家長のジェボは、妻のドロテイアにいつも大きな嘘をつき、真実を誤魔化している。そんな義父の姿に真実を話した方が良いと忠告するのはジョアンの妻ソフィアに違いない。息子が8年間戻らない理由を家長は知っていながら、女たちにはいつも答えをはぐらかす。それは偏に3人の関係性が真実を知った瞬間、崩壊すると感じ取っているからである。父親は旧態依然とした核家族の風景を頑なに守ろうと苦心しているが、そんなある日、8年ぶりに息子のジョアンが我が家へ帰る。彼はジェボの隣に座ると、高笑いのような笑みを浮かべるのである。

 今作の描く家族の有り様はポルトガルの近現代史とも切っても切り離せない。ジョアンを演じるリカルド・トレパは往往にしてオリヴェイラ作品ではこの街の因習を突き破る冒険家として振る舞って来た。『アンジェリカの微笑み』では既に亡くなったアンジェリカ(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)の微笑みに見せられ、農民たちの土の歌が鳴り響く中、黄泉の世界へ躊躇なく飛び込む写真家イザクを演じ、『ブロンド少女は過激に美しく』でも隣家の2階に住む少女に熱を入れ上げ、彼女のために外貨を稼ごうとアフリカの海へ出発した。『コロンブス 永遠の海』は大航海時代にポルトガルから新たな航路へ打って出た冒険家クリストファー・コロンブスの生涯に魅せられた男が、一生を賭けて冒険家の出生の秘密を暴こうと躍起になった。オリヴェイラの映画において、実際に彼の孫にあたるリカルド・トレパの起用は常に伝統を守ろうとするポルトガルの歴史を覆す冒険家のイメージを有する。クラウディア・カルディナーレ、ジャンヌ・モロー、マイケル・ロンズデール、ルイス・ミゲル・シントラが席に着いた切り返しの場面は何度観ても彼らの演技に唸らされる絶品の名場面だが、8年ぶりに我が家へ帰った男は感慨に浸ることもなく、古い世代の諦念をひたすらに罵倒する。夜になると別の人生がやって来るというジョアンの神経症的な病巣と贖罪意識を、彼を育てた両親も彼が愛した妻でさえも救済することが出来ない。家族を遠ざけようとした影は隠そうとすればするほど惨めな思いに苛まれ、古い世界の秩序に突如テロリズムの病理が浮かび上がる。19世紀の古色蒼然とした物語を扱いながら、伝統と革新の板挟みに遭う祖国の風土を暗喩した物語は、極めて現代的な革新性に満ち溢れている。

【第596回】『ブロンド少女は過激に美しく』(マノエル・ド・オリヴェイラ/2010)


 リスボンを出発した保養地アルガルヴ行きの長距離列車の中、満員の号車の客席。車掌が1列ずつ左右を見回りながら、客の切符にハサミを入れてゆく。その様子を4分間に渡り長回しした絵画のワンシーンのようなアヴァンタイトル。ちょうど真ん中辺りの左側2列の席の通路側に座ったマカリオ(リカルド・トレパ)は所在なさげな様子で、少し目も泳いでいる。隣に座るご婦人(レオノール・シルヴェイラ)は窓際を見ているが、やがてマカリオの方を向いたところで、彼に声を掛けられる。男は誰かに自分の思いを話したくて仕方ないらしい。マカリオはご婦人に視線を合わせることなく、上の空で自分に起きた身の上話をゆっくりと語り出す。会計士のマカリオは、リスボンで叔父フランシスコ(ディオゴ・ドリア)が経営する高級洋品店「マカリオの店」の2階で仕事を始めた。その部屋のインテリアは殺風景で、ブラウンのテーブルが置かれ、ベランダの窓は開け放たれ、白いレースのカーテンが風に揺れている。マカリオは向かいの家の窓辺に姿を現した美しいブロンドの少女ルイザ(カタリナ・ヴァレンシュタイン)に心を奪われる。手には大きな中国製の扇子を持ち、ゆったりと振る優雅で気品ある手付き、いかにもお嬢様的な麗しい憂いを帯びた退廃的な表情。2週間後、その少女と母親(ジュリア・ブイセル)が店を訪れる。マカリオはそっと2階から降りて彼女と母親の様子を伺うが、叔父に窘められる。夕飯時、いつもと同じように並んで座り飯を食べる叔父は、高級ハンカチーフがなくなったとマカリオに語りかける。

覗き見るマカリオと覗かれるルイザが折り目正しいリバース・ショットで、何度も繰り返される視線の交差が甘美で胸を打つ。まるでポルトガルのワインのような芳醇な香りに包まれる美しさは、ジョルジュ・メリエスの時代のプリミティブな眼差しの官能性が息づく。フレームの中に配された大きな窓は世界の「あちら側」と「こちら側」を隔てる突破不可能な壁となり、僅か数mの石畳の距離に置かれたマカリオとルイザは互いに住居の2階に幽閉され、容易く動くこともままならない。一見近いようでいて、絶望的に遠い男と女の距離は次作『アンジェリカの微笑み』でも踏襲される。見るものの方向感覚を一瞬で失わせる倒錯性こそが、オリヴェイラの仕掛ける美しさの本質に他ならない。数日後、マカリオは文学好きの友人が向かいの家の母親に挨拶している姿を目撃する。少女の母親はヴィラサ夫人という名前の女性で、良家の母娘だと聞いて安心したマカリオは、友人に紹介を頼みこむ。土曜の晩、公証人の家で開かれた上流階級の集い、エッサ・デ・ケイロスのスケッチ、アルベルト・カイエロの詩、そしてルイス・ミゲル・シントラの不思議な朗読、ソファーの右端に佇む少女ルイザの微笑み。2人は別室に誘われ、上流階級だけのカードゲームに加わるが、ルイザに配られたチップが忽然と消える。

ヴィラサ夫人宅の友人の集いに招かれたマカリオはいても立ってもいられず、遂に夫人にルイザへの想いを打ち明ける。『アンジェリカの微笑み』同様に、リカルド・トレパの果てなき恋の情熱が素晴らしい。翌朝、叔父に結婚の許しを乞うマカリオだったが、何故か叔父は強硬に反対し、彼をクビにしてしまう。有り得ないところまで落ちぶれた男は、カンカン帽の友人から、貿易商がカーボヴェルデで働く男を探していると聞き、即座に引き受ける。こうして15世紀から1975年までポルトガル領であったアフリカの島にリスボンから単身渡った男は、一財産を築いてリスボンに戻る。彼はヴィラサ夫人を訪ね、ようやく結婚の許しを得る。ここに見えるのはルイザと一緒になりたいというマカリオのひたむきな思いに他ならない。全てのいきさつを知る叔父もとうとう折れ、マカリオに2階で仕事をするように告げ、遂にルイザとの結婚を許すのである。だがファム・ファタールに翻弄された男の最期は随分残酷で呆気ない。オリヴェイラ独特の唐突な転調が観るものを捕らえて離さない。天にも昇るような喜びから、一瞬で奈落の底に主人公を突き落とす描写は、エッサ・デ・ケイロスらしい寓話性に満ちている。そんな地上界で起こる恋の顛末など知らないと言わんばかりに、リスボンの美しい風景は昼から夜に変わり、夜から朝へと変わる。男の馬鹿さと女のしたたかさを対照的に描きながら、たった一度のキス・シーンを、互いの口と口が触れるところを映さず、ルイザの右足が「く」の字に折れ曲がる様子と重なり合う2人の影で描写する鮮烈なショット。100歳を超えたオリヴェイラの瑞々しいアイデアが息を呑む。

【第422回】『アンジェリカの微笑み』(マノエル・ド・オリヴェイラ/2010)


 リスボンの北側、ドウロ河流域を一望出来る素敵な場所から、フィクスで撮られたロング・ショットの美しい夜景。見渡す限り、ビルボードやネオンサインなどはどこにもなく、道路に面して設置されたであろうオレンジ色の暖色の光だけが煌々と辺りを照らしている。川面に反射したオレンジ色の光、山川を切り開いて作られたであろう独特の地形、岩山を切り崩した丘陵地帯からはポルトガルの伝統的な文化が顔を覗かせる。全面黒色の中に、無数のオレンジ色の光がまばゆく光るうっとりするような光景から暗転し、カメラは地上の薄暗い路地へと移る。人通りのない石畳の路地裏に一台の車が停車する。車は「 FOTO GENIA」と書かれた写真店の前で止まる。しとしとと雨が降る中、傘を差して車から出て来た男は、写真店の閉じられたフェンスを何度もノックする。しかし中からの応答はない。それでも男は諦めることなく応答を試みると、2階の窓が開き、老婆が顔を出す。どうやら緊急の依頼者は深夜にカメラマンを探しているらしい。老婆は夜中ですよと呆れながら、カメラマンの夫は明後日まで帰宅しないことを告げると、石畳の向こうから歩いてきた男が、代わりのカメラマンの存在を依頼者に告げることになる。彼らが噂している男は古いラジオを直そうと、何度も電波の受信を試みるが、周波数が合うことはない。苛立つ男は読みかけのハードカバーの山を落とし、灰皿に入っていた煙草を何度もくゆらしている。そこに下宿の大家さんが扉をノックして入って来る。深夜にも関わらず、あなたに会いたい人が来ていますよと告げるのである。

イザク(リカルド・トレパ)は深夜の誘いを断ることが出来ず、依頼者の屋敷へと向かう。車窓からの風景は少し湿った空気をまとい、街灯のオレンジがよりまろやかで幻想的な雰囲気を帯びている。屋敷に着いてみると、明らかに暮らしぶりの違う上流階級の豪邸にイザクは面食らう。この困惑にはキリスト教的な儀式に紛れ込むユダヤ人の暗喩が含まれていることも見逃せない。中からは黒い服を纏った女性がゆっくりと現れ、妹の亡骸を撮影して欲しいと告げるのである。上流階級ならではの丁重な挨拶と人物紹介に戸惑いながら、やがて大広間に眠るアンジェリカの元を訪れる。後ろに親戚一同が見守る中、イザクはおもむろに古い一眼レフカメラを取り出し、死体にフレームを合わせる。アンジェリカの表情は穏やかで、微笑んでいるようにも見える。色白の透き通るようなきめ細やかな柔肌、目鼻立ちのはっきりとした表情、美しいブロンドの長髪、紺色の枕とブラウンの格調高い椅子、およそこの世のものとは思えないような荘厳さを讃えながら、若者の不慮の死が親族・血縁に深い悲しみを抱かせる。イザクはファインダーを覗きながら、光量が足りないと姉に告げる。天井から吊り下げられたライトを別のものに変え、彼のカメラマンとしての儀式が始まる。

ファインダー越しに切り取られた彼女の美しい死姿にピントを合わせるうちに、信じられない不可解な事態が起こる。彼女はフレームに顔を向けると、目を開け、イザクの方を向きにっこりと微笑むのである。びっくりさせられたイザクはフレームから目線を外し、裸眼でもう一度死体に目をやると確かに死んでいるのだ。仰天した男は無我夢中で数枚の写真を撮ると、その場をそそくさと出て行くのである。天使のような微笑みを讃え、冥界から来たファム・ファタルに主人公の心は惑う。これは純然たる怪奇映画であり、ホラー映画だ。椅子にもたれながら、既に死んでいる女が起き上がるでもないのに、突然ファインダーの中で目を開けたことに対する純粋なる驚きと恐れ。写真を現像した際に起こる二度目の再登場。1枚1枚を等間隔にずらしながら整然と並べられた現像後の写真。そのうちの1枚が彼に優しく微笑みかける。親切な大家さんの朝食や昼食の誘いにも、一切手をつけずに、彼は街を彷徨い歩く。イザクはまた自室のベランダから聴こえてくる、遠くのブドウ畑を耕す農民たちの歌に魅せられる。彼らは掛け声とも合いの手とも付かないような奇妙な歌を歌いながら桑を高らかに上げ、土めがけて一斉に落とす。その繰り返しの作業の中で、農民たちの歌は自然と熱を帯びる。土を耕すことが、まるで自分たちの帰るべき場所を耕しているかに見えるのは目の錯覚だろうか?

写真とは「静止画」であって「動画」ではない。しかし今作ではそれら動画ではない静止画が一連の動きを持って捉えられていることに驚く。例えば数枚の現像された写真が吊り下げられた紐に掲げられる中、カメラは写真の中身を1枚1枚ゆっくりとパンしながら据えていく。そこにはアンジェリカの遺影と農民たちの鍬を土に入れる様子が交互に挿入され、最後にその中の1枚がイザクに向かって微笑みかける。モーション・キャプチャと呼ばれるVFX全盛の時代に、あえてオリヴェイラが挑むのは極めてプリミティブな二重露光の快楽に他ならない。体が透けるような白色でベランダに突然現れたアンジェリカは彼を空の静寂へと連れ去り、川面スレスレの空間を横倒しになりだからゆっくりと飛んで行く。この馬鹿馬鹿しさはロマン主義に傾倒したジャン・ルノワールやルイス・ブニュエルの意匠を現代に蘇らせる。またミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』やクリス・マルケルの『ラ・ジュテ』などのヨーロッパ映画の名作群を思い起こさずにはいられない。下宿のテーブルに飾られた一輪の白い花、鉢の中で優雅に動き回る金魚、ショパンの調べ、籠の中の鳥と死、鍬で耕した男たちの突然の失踪とトラクターの代替。昏倒する主人公を見つける小学生たちの眼差し、救急車の不穏なサイレン、それら一つ一つのイメージの蓄積が、あの世への主人公の誘いとなるのは言うまでもない。絵画のような構図の完璧なショットの数々、活劇とは真逆の静謐さ溢れる長回し、いつものように冗長なレオノール・シルヴェイラ、ルイス・ミゲル・シントラらオリヴェイラ・ファミリーの台詞回し、教会に現れた「たかり」とのやりとりの喜劇性など、101歳の老人が撮った今作は陶然とした喜びと真の若さに満ち満ちている。

【第69回】『ポルトガル、ここに誕生す〜ギマランイス歴史地区』(マノエル・ド・オリヴェイラ/2012)

フィンランドのカウリスマキ弟、
スペインのペドロ・コスタとヴィクトル・エリセ
そしてオリヴェイラというヨーロッパ映画の4人の巨匠たちが
ポルトガルの建国の歴史に迫った4本のオムニバスをまとめた作品。

オリヴェイラはラストの第四部を担当。
これが僅か15分程の短編ながら、
実にオリヴェイラらしい小気味良い作品に仕上がっている。

観光でギマランイス地区を訪れた観光客とガイドの男性とのやりとりを
美しい銅像や建物を紹介しながら描いた今作。

ショットの数は15分間で50にも満たない。
冒頭の石壁をなめるように撮った長回しの映像から
バスの窓を外から撮った映像に切り替わり、その切り返しが2回続く。

観光客といっても、窓越しには2人の美人がいて、
ガイドの話を聞きながら神妙な表情で歴史的建築物を見ている。

ただ歴史的建築物の後ろの空にはひとすじの飛行機雲があって、
2人の美人が歴史的建築物を見ているのか飛行機雲を見ているのかは怪しい 笑。

いつものごとく、飄々として実にオリヴェイラらしい導入部分である。

程なくして広場に据え置かれたカメラが、
ガイドの男性の号令により、バスから出て来た観光客を長回しで据える。

この後、ガイドの案内でポルトガル建国の立役者のブロンズ像を見るのだが、
さっきまでのショットのゆったりとしたリズムから一転、一気に性急になる。

オリヴェイラの映画では、いつも物言わぬ銅像が
登場人物にとって「鏡」のような役割を果たしている。

今作でもブロンズ像はただの観光地のありきたりな風景ではなく、
人間と同等に、あるいはそれ以上に重要な媒介者として描かれる。

門の中からゆっくりと馬に乗り現れた兵士たちとブロンズ像はモンタージュされ、
やがてあっと驚くような主人公のガイドの表情を引き出してしまう。

ガイドの男性を演じるのは、オリヴェイラの孫であるリカルド・トレパ
2000年代以降のオリヴェイラ組の常連俳優として欠かせない存在に成長した孫が
実にお茶目であっけらかんとしたガイドを演じている。

オリヴェイラの多岐に渡るフィルモグラフィの中で、
いったい何を最初に観れば良いかわからない人は
僅か15分にも満たない短編である今作を観るといい。

ここにはオリヴェイラの撮影スタイルだったり、独特の編集のリズムだったり、
何気ない風景の撮り方だったり、役者の演出の仕方など全てが詰まっている。

それどころか100歳を越えたオリヴェイラの演出は、
無駄なものが削ぎ落ち、どんどんシンプルになっている事に気付くだろう。

我々観客は、その気持ち良さに身を委ねればいいのである。

カウリスマキ弟、コスタ、エリセに関しては、また機会があれば別枠で論じたい。

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