【第213回】『運動靴と赤い金魚』(マジッド・マジディ/1997)


 タイトルバックではボロボロになった小さな靴を丁寧に糸と針で縫っている。その靴はもはや修理出来ないほど履き潰され、ぺしゃんこになっている。その靴に新しい息吹を入れるかのように職人は丁寧に作業を進める。今作は87年にアッバス・キアロスタミが手がけた『友だちのうちはどこ?』に肌触りが非常によく似ている。主人公のアマチュアならではの朴訥とした演技がそう感じさせるのかもしれないし、少年に身の丈以上の冒険を求めるシンプルな構造も非常に近い。路地から路地へ、裏通りから裏通りへ、少年の焦燥感を持った走りが生きることの大変さを我々に訴えかけてくる。

貧しい家で暮らす少年アリ(ミル=ファロク・ハシェミアン)は、家の仕事のお手伝いで八百屋に寄った際、修理してもらった妹ザーラの靴をなくしてしまう。両親に怒られることを心配したアリは、ザーラに頼んで自分の運動靴を彼女と交代で履くことを提案する。渋々兄の靴を履くことを了承した妹。朝はザーラが運動靴を履いて登校し、彼女の下校途中でアリは運動靴を受け取って学校に行くようにするがどうしても遅刻してしまう。このようにあらすじは極めてシンプルながら非常に奥が深い。開巻直後、八百屋の軒先に妹の靴の入った黒い袋を置いてしまったのがそもそもの失敗の始まりであり、店内でじゃがいも集めに夢中になっている時に、ゴミ収集おじさんが無慈悲にも黒い袋を持ち去ってしまう。我々観客はその一部始終を目撃したところから、主人公のアリを応援する。

じゃがいもを買い店を出ると、そこにあったはずの黒い袋が見当たらない。木箱の山を手当たり次第に探すうち、店の陳列棚を崩壊させてしまう。案の定店の主人は激昂し、アリは一目散で家へと戻る。妹に靴をなくしたことを何と言えばいいのか兄は心から悩み、狼狽し、妹の前で不覚にも涙を流す。泣きたいのは妹の方であるが 笑、兄のただならぬ雰囲気を感じ取り、彼をそれ以上責めることはしない。健気な兄弟愛にほろっと涙する名場面である。

マジディは90年代のイラン映画の伝統的な傾向に則り、この映画を製作する。その一つには非職業俳優の起用が挙げられる。主人公であるアリも、その妹であるザーラ(バハレ・セッデキ)も、彼ら兄弟の父親(アミル・ナジ)もこれまで一度も俳優経験のないアマチュアを起用している。このことはイラン映画の特徴であるドキュメンタリーとフィクションの境を曖昧にする。つまりそれはもっともらしい嘘であり、作為的にフィルムに収められた真実でもある。前作『バダック 砂漠の少年』でも明らかなように、物語がハッピー・エンドで終わるかバッド・エンドで終わるかは全て監督のさじ加減であり、そこに起きる波風をどれだけの強弱にするのかも監督の判断に委ねられている。ここでいう波風とは妹の靴の入った黒い袋をおじさんが持って行ってしまうことであり、妹が兄貴に貸してもらった靴の片方を水路に落としてしまうことであり、兄貴が校長先生に遅刻を見つかり、学校を追い出されそうになることである。要所要所に彼らにとっては高い壁を設定することで、作り手は登場人物を陥れ、困惑させ、絶望の淵へと持って行く。

思えば『友だちのうちはどこ?』でも主人公の少年に対するきついしごきが随所に見られた。イラン映画の中では往々にして大人たち(老人たち)は厳しいが、子供達に厳しく言うわりには、大して働かないという描写が何度も繰り返される。ババク・アハマッドプールは友人のノートを間違って持って帰ったことで罪を背負い、とんでもない代償を浴びせられる。今作でも主人公アリの行動には黒い袋から目を離したにせよ、大人から見れば同情の余地はある。しかしながら彼はこの物語においてそのたった一瞬の過ちの罪を背負い、あえて付かないでもいい嘘までつき、良心の呵責に苛まれるのである。フィクションにおけるしごきの強弱とはこの主人公の境遇と監督のさじ加減一つで決まってしまう。監督と脚本家が主人公が背負った罪の手綱を緩めてあげない限り、主人公はどこまでもその運命を自分のものとして背負ってしまうのである。ここにもっともらしい嘘の本質があると言っていい。

しかしながら唐突に、妹は自分の靴の行方を意外なところで目撃する。校庭で下級生の履いている靴にふと目をやると、明らかに自分が毎日履いていたお気に入りの靴が別の持ち主によって履かれている。けれどここでも聡明な妹は彼女を泥棒呼ばわりせず、その後のミステリーの持続を頑なに守る。学校帰りに彼女の後をつけ、家まで尾行し、後に兄貴を伴ってその娘のうちまで行くが、そこで兄弟は目の前に突きつけられた貧困と格差という現実を目の当たりにするのである。少女の父親は目が見えず、彼女の支えなしでは歩くことさえままならない。兄弟は自分たちがテヘランの極貧地区の人間であり、普段は同級生との差異に落ちることもあるが、そこで自分たちよりも厳しい境遇の家庭を目撃し、泥棒呼ばわり出来ない事実に悶えるのである。このことに観客は2人の確かな成長の足跡を見る。

少年が父親と庭師のセールスマンとして働く場面は、丸々カットしても良かったくらいだが、この映画の持つ本質は最後まで揺るがない。たかが一足の靴くらいでと嘲るのは我々の奢りであり、育った環境の違いであろう。主人公は愚直なまでにたった一瞬の罪を背負い、妹のために東奔西走する。真に有名なクライマックス・シーンの主人公の姿に、スクリーンに何度もエールを送ってしまう。ここでもハッピー・エンドにするかバッド・エンドにするかの判断は監督であるマジディに委ねられており、もっともらしい嘘はどのような結末を迎えるのか?実際に観て判断して欲しい。

キアロスタミの『友だちのうちはどこ?』からちょうど10年、狭い路地や彼らの育つ環境の貧困や子供達の純粋な瞳は10年経っても少しも揺るぐことはない。この間にイラン・イラク戦争は終結し、新たに湾岸戦争が起こったものの、イラン映画の現状は依然としてキアロスタミが『友だちのうちはどこ?』を製作した時からさほど大きな変化はなかった。イラン映画が劇的な変化を遂げたのは、21世紀に入り、キアロスタミ門下のジャファル・パナヒやバフマン・ゴバディが真に国際的な映画を撮り始めた辺りからである。その変化はアスガー・ファルハディの登場で決定的なものとなる。マジディはキアロスタミではなく、マフバルバフの現場で俳優としてキャリアを積み重ねた第三世代のエースであるが、イラン映画の新陳代謝は彼を飛び越えて、彼よりも下の世代が中心となって個別に進んでいるのである。

【第19回】『バダック 砂漠の少年 』(マジッド・マジディ/1992)

イラン映画のある種の傾向として、
検閲で戦争を直接的に描けない代わりに、
底辺で暮らす子供たちの惨状から戦争を見つめるという表現形式がある。

この映画はまさにその種の傾向の映画で、
制約がある中で逆にそれを逆手に取り、子供たちを活き活きと描いている。

マフバルバフの門下生として俳優デビューしたマジディの監督デビュー作にあたる。

しかしこの物語にはどこにも救いがない。
砂漠の中に井戸を掘ることに生涯をかけた兄妹の父親が生き埋めになって死ぬ。
路頭に迷った兄妹は人さらいに遭い、それぞれ別の悪人に売られる。

いわゆる人身売買というやつである。
男は過酷な肉体労働や危険な運び屋の仕事でこき使われ、
女は売春婦としてサウジアラビアに売られる。

どこまでリアリティがあるのかはわからないが、
92年当時のイランの最底辺では、実際に行われていたのかもしれない。

この兄妹も、さらわれるまでの過程の中で
誰か一人でもまともな大人に出会っていれば、また違う運命だったに違いない。

本当に出て来る大人がことごとく汚くて、観ていてげんなりする。

こき使う大人、騙す大人、平気で子供を殺す大人
イランの人は全員がこういう人間なんじゃないかと思うほど 笑、
子供たちから搾取出来るだけ搾取し、最後には命までも奪う大人に憤る。

結局この映画の中では、運び屋時代の仲間の少年のみが彼を手助けする。
他に誰一人として主人公を助けるものがいないことに絶望する。

そう言えば些細な描写の中に、赤十字のお金を悪人が搾取する場面があったが、
日本赤十字の募金もあのように貧しい人に渡っていないとしたら、あまりにも救いがない。

妹と引き離された主人公が、必死の思いで妹を探そうとする。

こういう展開を持った映画の中では、
ハリウッドの典型的なパターンとして、最後の瞬間の救出が実行され、
ある程度の成功を収めると相場が決まっているのだが、この映画はそうではない。

あくまでエンターテインメント性よりもリアリズムが重んじられるイラン映画の中で
絶望的なバッド・エンディングにしばし言葉を失ってしまう。

しかし運び屋の元締めが2人で羽交い締めにし、首を絞めて殺す場面は
あのロフト状になった舞台装置の視覚的特徴も含め、
まるでサイレント映画のようなある種の斬新さを感じた。

失われたイメージがこの辺境の映画で徐々に立ち現れる。

ハリウッドのようにCGで補えば補うほど、
人をあやめることの実感を失い、暴力性が徐々に薄れてしまうのだが、
少なくともこの映画の中では、痛みへの強い認識を感じる。

有刺鉄線の柵をくぐる時の少年の緊迫感もアメリカ映画では表現しきれない凄さがある。

本当に救いようのないこの作品の中で、一つだけ救われる場面がある。
ランプが床に落ち、炎上する屋内で少年は一度躊躇しながらも
結局地下室にいた少年たちを逃がす。

少年は被害者であって、加害者ではないというささやかな抵抗をあの一瞬に感じる。
それがこの救いようのない映画を唯一救ってくれているようだ。

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