【第151回】『ランデヴー』(アンドレ・テシネ/1985)


アンドレ・テシネの寵愛を受けていたオリヴィエ・アサイヤスは
この映画の共同脚本でフランス映画界にデビューを果たす。彼が30歳の頃のことだった。

また主演を務めたジュリエット・ビノシュにとって、今作は初めての主演映画である。
『ゴダールのマリア』やドワイヨン『家族生活』に端役として出演した彼女は順調にキャリアを積み重ね
映画出演4本目でようやく主演の座を掴んだ。彼女が21歳の頃であった。

つまりオリヴィエ・アサイヤスとジュリエット・ビノシュは同じ時期にフランス映画の門を叩き、
それぞれが別々にキャリアを築き上げた。
アサイヤスは監督として、ビノシュは女優としてあまりにも大きなキャリアを積み重ねて来た。
その2人が監督として、主演女優として初めて再会したのが『アクトレス~女たちの舞台~』である。

『アクトレス~女たちの舞台~』と今作は驚く程共通点が多い。
あくまでアンドレ・テシネとの共同脚本であり、
アサイヤスが具体的にどの部分に何%程関わったのかは定かではないが、
今作は若き女優ジュリエット・ビノシュに対して宛て書きされた物語に違いないであろう。

フランスの片田舎出身の女優志願の娘ニーナ(ジュリエット・ビノシュ)は
劇場の屋根裏部屋を借りていたが、1人で暮らしてみたいと考えていた。
部屋を借りる時世話になった不動産屋のポーロ(ヴァデック・スタンザック)のはからいで、
彼の家に案内されたニーナは、そこで退廃的な同居人カンタン(ランベール・ウィルソン)と
運命的な出会いを果たすことになる。

映画は簡単に言えば、ニーナとカンタンとポーロの三角関係の物語である。
ビノシュは誠実でどこか生真面目なポーロに求愛されるが、
退廃的で破滅的などこか冷たいイメージのカンタンと関係を持ってしまう。
カンタンとポーロは実に対照的な人物として描かれる。
ポーロは不動産屋に勤務する実直な男として描かれるが
カンタンはすさんだポルノ演劇の役者として生計を立てている。

この三角関係の描写は非常に寓話的で抽象的な性質を帯びていると言ってもいい。
今作においてこの三角関係の描写はヒロインの成長を促す重要なきっかけを与えているに過ぎず、
ジュリエット・ビノシュの女優としての成長にこそ今作の主眼はあるのである。

劇中、夢を持ってパリを訪れたビノシュは順調にキャリアを築くが
カンタンとの出会いから徐々に堕ちていくことになる。
この堕ちていく女性の描写は、明らかにアサイヤスの脚本ではないかと推察する。
端役としてキャリアを掴んだ劇団を辞めてしまい、失業し夢破れる寸前に至ったヒロインが
愛するカンタンの交通事故に見せかけた自殺を持って、自分の人生を力強く歩き始める。

そのきっかけになるのが、ジャン=ルイ・トランティニャン演ずる演出家との出会いであり、
彼の『ロミオとジュリエット』のオーディションを受けることだろう。

愛するカンタンを失い、彼の幻視に惑わされるジュリエット・ビノシュ
そのカンタンとかつて恋をし、愛する我が娘を失ったジャン=ルイ・トランティニャン
この2人には共にアサイヤス作品の根底にある「不在」を共有する人物として立ち現れるのである。

愛する我が娘を失ったジャン=ルイ・トランティニャンが
娘の演じたジュリエット役をジュリエット・ビノシュに演じさせることで
2人は何らかの贖罪の感情を共有していると言ってもいい。

今作でも『アクトレス~女たちの舞台~』と同様に何度も台詞を音読する場面が出て来るのだが、
その度にビノシュは亡きカンタンの亡霊に悩まされる。
『アクトレス~女たちの舞台~』では、かつて自分の演じていた役柄を新進気鋭の役者に奪われ
ビノシュはかつての若い頃の自分と必死で折り合いをつけようとする。
どちらも根底にあるのは女優としての葛藤と成長であろう。
舞台にはとても立てないと挫折する瞬間もあるが、
クライマックスではそれらの苦悩や葛藤を克服し、女優は舞台に上がる。
その喜怒哀楽や成長の過程をジュリエット・ビノシュの身体は余すところなく伝えているのである。

今作の製作から30年が経過したが、未だに色褪せない。
さすがに三角関係の描写は少々寓話的だが、それでもそれらの役柄を演じる俳優の生身の姿が
実にリアリティを持って我々の胸に迫る。

ビノシュはこの翌年、レオス・カラックスの『汚れた血』で主演を務め、
国際派女優としての華々しい成功を収めていく。
アサイヤスは今作に共同脚本として参加した翌年、ポーロ役のヴァデック・スタンチャックを主演に据え、
処女作『無秩序』のメガホンを取る。

2人が再会を果たすのは2008年の『夏時間の庭』まで待たねばならなかったが
この『夏時間の庭』の時、アサイヤスには既にジュリエット・ビノシュ主演で映画を作る構想があったのだった。

【第56回】『溺れゆく女』(アンドレ・テシネ/1998)

私生児として生まれたマルタン(アレクシ・ロレ)は、
10歳のとき父のもとで暮らすようになった。

20歳になったマルタンは父の死とともに、狂ったように家を飛び出した。
やがてパリに住む義理の兄(マチュー・アマルリック)のもとへ転がり込んだ彼は、
そこで同居人のアリス(ジュリエット・ビノシュ)に出会う。

次第に惹かれあう二人。やがてアリスのお腹には赤ちゃんが宿るのだが。

冒頭のマルタンの10歳から20歳までのエピソードは
まるで現代に甦ったトリュフォー『大人は判ってくれない』のようで胸が熱くなる。

やがて川に辿り着き、入水自殺を試みるも死ねない。
浮浪者のような生活の中で、生活に困窮し、
やがてパリに住む義理の兄を頼ることになるのだが、
この最初のアレクシ・ロレとジュリエット・ビノシュの出会いの場面が良い。

テシネの映画の中では、常に登場人物たちが忙しなく動き続ける。
モーションの中に喜怒哀楽の全てがあり、印象的なモーションが何度も登場する。

室内の場面でも人物の動線をめいっぱい使いながら、
登場人物の感情を身振り手振りで観客に提示する。

当時、30代半ばくらいだったジュリエット・ビノシュが
芸術家気質で心の優しいマチュー・アマルリックと
若くてどこか頼りないが、危険な魅力を持つアレクシ・ロレの間で揺れ動く様子が
前半部分の単線として描かれる。

最初はアレクシ・ロレ扮する弟の強引な誘惑を突っぱねるように見えたビノシュが
少しずつロレに惹かれていく描写がやや唐突過ぎるきらいはあるが、
フランス映画お得意のパリを舞台にした三角関係の描写が非常に心地良かった。

ただその心地良いムードが、ビノシュが妊娠を告げる辺りから急に険しくなる。

ビノシュが自分の子供を宿していると聞いたところから、ロレの態度は急に冷たくなる。
明らかに情緒不安定になり、仕事を辞め、一人で生きていくと突っぱねるが
ビノシュはそんなロレの姿を献身的に支えようとする。

前半部分ではどこまでも自由奔放で感情のままに生きる女に見えたビノシュが
ロレの病理に気づいたところから、彼に代わって自分探しの旅に出る後半部分は
やや人格破綻にも見えるし、一見筋が通っていないようにも見える。

ただそれを強引に筋の通った映画に見せてしまうような
若き日のジュリエット・ビノシュの演技が実に素晴らしい。

自分の仕事まで投げ打ってまで、老獪な刑事のように、
マルタンの生家や家族に執拗にコンタクトを計る後半の描写というのは
ビノシュのロレに対する強い愛情に他ならないと共に、
恋愛映画とはひと味違うテシネの妙味をしばし味わうことになる。

またそんな彼女に逃げられながら、義理の弟にパートナーを寝取られながらも
それでもビノシュとロレのために尽くそうとするマチュー・アマルリックの誠実さに心打たれる。

前半部分ではそこまで見られなかった
若き日のビノシュとアマルリックの葛藤こそが、この映画を支えているのである。

デプレシャンの傑作『そして僕は恋をする』で
インテリでありながらどこか優柔不断で頼りない男を演じ、
90年代のフランス映画の男子像を決定づけたマチュー・アマルリックという男を
テシネはゲイで一族のはぐれ者だが、ロレやビノシュの唯一の理解者として描いた。

まだまだ未消化な作品ではあるが、
ジュリエット・ビノシュとマチュー・アマルリックという
フランス映画を代表する才人同士が初めて共演した1本として実に興味深い。

また今作はテシネとオリヴィエ・アサイヤスの共同脚本だということも
極めて重要な要素を孕んでいる部分の一つである。

キアロスタミの『トスカーナの贋作』を観た時、真っ先にこの映画を思い出した。

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