【第1105回】『マリー・アントワネット』(ソフィア・コッポラ/2006)


 Gang of Fourの『Natural's Not in It』が流れる中、オーストリアの皇女マリア・アントニア(キルスティン・ダンスト)はバスタブの中で従者にピンクの靴を履かせてもらっている。傍らにはカラフルなタワーケーキが少女の好奇心を満たす。1769年、オーストリアの皇女マリアは、オーストリアとフランスの同盟関係強化の一策として、母マリア・テレジア(マリアンヌ・フェイスフル)の命によってフランス王室に嫁ぐことになった。犬のモップスを抱えながら、白馬が数頭連なる馬車でフランス国境地帯に停まった車、マリアはここで王妃としての契りを交わす。待ち構えるのはマリアの美貌を楽しみに待つルイ15世(リップ・トーン)の姿、フランスの服に着替えた彼女は遂に結婚相手であるルイ16世(ジェイソン・シュワルツマン)と初対面を果たす。馬車の中、従者にルイ16世の肖像が描かれたペンダントを見せる彼女の姿は、14歳の少女らしい無邪気さを見せる。新婚初夜、多くの従者たちに見守られる中、キングサイズのベッドの緞帳を閉じる。夢にまで見た初体験の興奮、だがどういうわけかルイ16世は同じベッドに寝ていても指一本触れようとしなかった。寂しさを紛らわすようにマリアは浪費に楽しみを見出し始める。

 オーストリアに母親と兄を残し、遠く離れたフランスに嫁いだ少女は、前作『ロスト・イン・トランスレーション』のシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)同様に、異国での孤独に悩まされている。フランスに連れて来た愛犬とは引き離され、24時間衆人環視のようなプライベートのない空間、娼婦上がりの国王の愛人デュ・バリー夫人(アーシア・アルジェント)との確執。中でも一番心を傷付けるのは、政略結婚の旦那が彼女に夜毎、関心を示さないことに他ならない。現代で言うところのED(勃起不全)の症状を患う夫との生活の中で少女は疲弊し、服装はどんどん派手になって行く。Bow Wow Wowの『I Want Candy (Kevin Shields Remix)』が流れる中、ケーキやタルトをほおばりながら靴やドレスを試着するマリアの姿は、冒頭のオーストリアでの少女時代に退行していくかのように映る。だが永遠に見えた彼女の前に突然、少女の孤独を癒すスウェーデンのフェルセン伯爵(ジェイミー・ドーナン)が現れる。インモラルな仮面舞踏会、飛び交うシャンパンとセレブリティの退廃、アヘンを回す少女の姿を男は狼のような獰猛な目で見つめる。旦那のルイ16世よりも激しく抱かれた女は永遠よりも一瞬に生きる。『ヴァージン・スーサイズ』に続いてここでも、少女のイニシエーションの主題に朝陽が昇る。娘の誕生からあれだけ派手だった女のファッションは質素になり、自然回帰を唱えたルソーとも共鳴する。映画はマリー・アントワネットの最期を描くことを放棄したまま、The Cureの『All Cats Are Grey』により切断される。永遠よりも刹那に生きたヒロインの姿に涙腺が緩む。

【第1104回】『ロスト・イン・トランスレーション』(ソフィア・コッポラ/2003)


 ヴァーミリオン色の下着姿で丸まって眠る女の姿、その背中はどこか寂しげに見える。タクシーの中でうたた寝する男はふいに目覚め、新宿の夜景に面食らったような表情を見せる。その時、自身がモデルを演じたウィスキーのビルボードが目に飛び込んで来る。渋谷ハチ公前の三千里薬品のネオン・サイン、パークハイアット東京のロビーで男はコーディネーターの川崎氏から歓待を受ける。ウィスキーのコマーシャル撮影のため来日したハリウッド・スターのボブ・ハリス(ビル・マーレイ)。彼は滞在先である東京のホテルに到着すると、日本人スタッフから手厚い歓迎を受けるが、時差ボケと異国にいる不安や戸惑いも感じ始めていた。息子の誕生日の不在を責める妻リディアからの「アダムの誕生日だったのよ、お仕事頑張って」という素っ気ないFAX、200万ドルの仕事に意気揚々と来日した彼は気分が滅入ってしまう。部屋ではTVを付けっぱなしにし、手持ち無沙汰な彼はホテルのバーで葉巻きにウィスキーを口にするが、ここでもファンと称する一般人からの問いかけに少々うんざりする。一方その頃、同じホテルにはフォトグラファーの夫ジョン(ジョバンニ・リビシ)の仕事に同行してきた若妻シャーロット(スカーレット・ヨハンソン)が滞在中。彼女は新婚にもかかわらず多忙な夫にかまってもらえず、孤独を感じていた。

 東京に来た2人の異国人は、夢遊病者のように眠らない街を彷徨い歩く。初めての出会いはエレベーターの中、互いに言葉は発しないが、お互いの存在には気付いている。木曜の飛行機で帰りたいというホームシックな男は急遽、マシュー南(藤井隆)の仕事の依頼で週末まで孤独な生活が引き伸ばされる。連日、ホテルのバーで葉巻きにウィスキーを口にする男の元に、バーテンがあちらのお客様から一杯のお酒のサービスですとシャーロットの姿を指し示す。大学を卒業したての20代そこそこの女と中年ハリウッド・スターの関係は、本当の自分探しをする女と、中年の危機に瀕した男とをいつしか溶け合わせる。「言葉の違いから抜け落ちるもの」という原題を持つ今作は、我々日本人が見た東京と異国者のボブやシャーロットから見た東京のイメージのずれ、及びかつては愛し合った者たちの意識の齟齬とディスコミュニケーションを意味している。CMディレクター(ダイアモンド☆ユカイ)やコールガール(明日香七穂)、病院で出会う杖を突いた老婆とのディコミュニケーションは親しい人との間で起こる齟齬とも無縁ではない。互いを知らない赤の他人だからこその共鳴は時に、異国でも人生を揺るがすような大きなきっかけになる。ボブとシャーロットが見つけた心安らぐひととき、カラオケ館でシャーロットが付けたピンクのウィッグ、つま先が痛いとごねた車椅子、ドア下にそっと差し出された手紙、浴衣の上に羽織ったコートなど幾つもの印象的な道具立てが効いている。ボブの背中に触れるか触れないかの丸まったシャーロットの足先に集約される一瞬の刹那、雑踏の中での抱擁、ソフィア・コッポラはここでも処女作『ヴァージン・スーサイズ』のように、永遠よりも一瞬の刹那を大胆に繊細にたおやかに描き切る。

【第1103回】『ヴァージン・スーサイズ』(ソフィア・コッポラ/1999)


 庭先でアイスを舐める4女の姿はふてぶてしく、どこか挑発的である。広い庭先に散水するのは母親の役割で、ふっくらした彼女は夏の草花に水をやる。道路を2人仲良く歩く犬の散歩。バスケットゴールに投げられるボール、その傍らでは父親がウィンナーを焼いている。姉妹たちが慣れ親しんだはずの庭のニレの木は市から「切断」の判定を受ける。初夏の6月の木漏れ日の下、化粧ボックスが置かれたドレッサーの無人ショットに救急車のサイレンが鳴る。ソフィア・コッポラの処女作のオープニングはこのようなシーンで始まる。救急車のサイレンの後、バスタブに浮かんだ少女の自殺未遂が起き、平和な町の人々は好奇の目を向ける。病院に眠る少女の容体は安定しているが、先生からの呼びかけに「先生は13歳の少女じゃないから」と残酷なまでに突き放した言葉を浴びせる。今作の映画の語り手になるのはリスボン家の父母やテレーズ(レスリー・ヘイマン)、メアリー(A・J・クック)、ボニー(チェルシー・スウェイン)、ラックス(キルスティン・ダンスト)、セシリア(ハンナ・ホール)という美しい5人姉妹ではない。専ら隣家に住むうぶで純粋な少年たちの回想で明示される。美しい5人姉妹の様子は、夏の木漏れ日の光よりも美しく、ただただ少年たちを魅了する。

 25年前のミシガン州は、アジア系はおろか、黒人すら居住していない。数学教師の父親ロナルド・リスボン(ジェームズ・ウッズ)を一家の大黒柱とする家族において、母親(キャスリーン・ターナー)はパートタイムの仕事すら探していない。エアロスミスやキッスのLPを買い求める姉妹の嗜好は、中流というよりは上流階級に近いリスボン家の暮らしぶりを伝える。プロム・パーティへの参加を最後まで悩み抜き、答えを出す両親の姿は敬虔なカトリックの厳格な家庭である。コロニアル様式の住宅、住居の真ん中に印象的にそびえる階段では、脱ぎ捨てられた下着、ビール箱に入れられた30cmレコード、メイクアップ道具など幾つものソフィア・コッポラの記号的な道具立てが何度も散らばる。ジェフリー・ユージェニデスが1993年に発表した『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』を題材とした物語は、自殺未遂に始まり、完璧な自殺で幕を閉じる。だが彼女たちの不可解な死は決して残酷なものではない。ダンス・パーティで長机の裏でラックスとトリップ・フォンテーン(ジョシュ・ハートネット)が交わした濃厚なキスの瞬間は10ccの『I'm Not in Love』の調べに乗せて永遠に溶け込む。人生最良の季節に母親から自宅謹慎を命じられた四姉妹、受話器越しに聞かせたGilbert O'Sullivan の『Alone Again (Naturally) 』やTodd Rundgrenの『Hello It's Me』、Carole Kingの『So Far Away』の淡い記憶だけが、少年たちにとって幻の少女たちの記憶を繫ぎ止める。

【第1102回】『メメント』(クリストファー・ノーラン/2000)


 アメリカ・ロサンゼルス、保険の外交員をしているレナード・シェルビー(ガイ・ピアース)は、自宅に押し入った何者かに妻(ジョージャ・フォックス)を強姦され殺害された。主人公・レナードは現場にいた犯人の1人を射殺するが、犯人の仲間に突き飛ばされ、それが原因の外傷で記憶が10分間しか保てない前向性健忘になってしまう。冒頭、手首のスナップを利かせ、ポラロイド写真を感光させようとする主人公の姿は、薄れ行く記憶のメタファーに他ならない。10分間しか記憶が持たないレナードは、覚えておくべきことをメモすることによって復讐を果たそうとする。そのため出会った人物や訪れた場所をいちいちポラロイドカメラで撮影し、写真にはメモを書き添え、重要なことは自身に刺青として彫り込む。大切なのは記憶ではなく、記録だと言わんばかりに男の記録は極めて多岐に渡るのだが、実際に男が観た真実ではなく、断片的な痕跡や第三者の証言を元にして編集された恣意的な記録でしかない。

 クリストファー・ノーランのアメリカ・デビューとなった2作目は、前作『フォロウィング』の時間退行を更に推し進め、過去・現在・未来だけではなく、夢と現実、内部と外部の領域をも曖昧にする。最愛の人の死が、主人公を突き動かす原動力となる物語は、断片的な情報が集められ、最後に真相が明らかになるのだが、どうにも心許ない。レナードの周りにいるナタリー(キャリー=アン・モス)やテディ(ジョー・パントリアーノ)、ドッド(カラム・キース・レニー)やジミー(ラリー・ホールデン)などの人間関係の見取り図は刻一刻と変化し、ノワール・サスペンスとしての「疑惑」は立ち上る。「サミーを忘れるな」という文言は何度もリフレインされ、サミー・ジャンキス氏(スティーヴン・トボロウスキー)とその妻(ハリエット・サンソム・ハリス)とのやりとり、それを見つめるレナードの眼差しは順行するモノクロ場面となり、対照的にそれ以外の場面は時系列的には逆光するカラーで描かれる。頻繁に繰り返されるレナードの車による移動(テディのオマケ付き)はロサンゼルスから他州への移動のような長距離ではなく、専ら神経症的な短距離移動として何度も登場する。1回観ただけで全てを理解するのは困難な物語は口コミで拡がり、ノーランの名前を世界に知らしめた。

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