【第159回】『フラッシュバック』(フランコ・アムリ/1990)


90年代、かつてのアメリカ映画のヒーローたちは自分たちの栄光に強引に見切りをつけた。
『夕陽のガンマン』や『ダーティハリー』のイーストウッドは自ら主演・監督した作品『許されざる者』の中で
ジーン・ハックマンやモーガン・フリーマンら同じく盟友たちと共に
西部劇というジャンルにを強引に終わらせてしまう。
『狼の挽歌』や『ストリートファイター』で70年代を牽引したチャールズ・ブロンソンは
ショーン・ペンの処女作となった『インディアン・ランナー』で主人公の兄弟の父親役を演じ
その精神的支柱が死ぬことで、アメリカン・ニュー・シネマの時代に終わりを告げた。

今作はかつて『イージー・ライダー』を自ら脚本・監督し、
アメリカ映画の異端児・アメリカン・ニュー・シネマのヒーローと呼ばれたデニス・ホッパーが
60年代の栄光に取り憑かれた男を演じた実にリアリティのある物語である。

しかも『許されざる者』や『インディアン・ランナー』とほぼ同時代
90年代初頭に制作されていたことに何かしら因縁めいたものを感じてしまう。
逃亡していた60年代の反体制側のリーダーであるヒューイ(デニス・ホッパー)を護送する役目に
FBIの新人捜査官であるジョン(キーファー・サザーランド)が抜擢される。
彼はただ1人この大役を任されるが、列車の中でヒューイに逃げられてしまう。
まんまと罠にはまったジョンは必死の捜査でヒューイを捕まえようとするのだが。

ここでホッパーが演じる役柄は、かつての自分そのものと呼んでいい。
60年代、若者の革命の象徴として反体制側のリーダーとして時代を動かしていた男が
いつしか政治思想が薄れ、権力により投獄される。
その彼を移送する役割として、80年代のフレッシュな若手がその任務を任される。
1990年に新米の捜査官だから、おそらく1960年代生まれの彼は、
ウッドストックもヒッピー・カルチャーもバイカー映画もサマー・オブ・ラブも知らない。
ヒッピーによる理想が権力によりあっけなく崩れ去り、
ベトナム戦争や朝鮮戦争で国民は疲弊し、現実と理想の妥協点を見つけた世代である。

この映画の前半部分は、60年代と80年代に青春時代を過ごした男たちの立場を超えた対立と言ってもいい。
ホッパーは80年代レーガノミクスに沸いた当時の大統領ロナルド・レーガンを痛烈にDISる。
そんなホッパーに対し、レーガノミクスの大幅減税の影響を受けたサザーランドは聞く耳を持たない。
こうして2人は世代間における越えられない壁を痛感することになる。
食事の注文の際も同様で、サザーランドはケミカルな食品を極力抑え、健康に気を遣うのだった。
だからこそ前半部分の逃亡の原因になる薬物の摂取に必要以上に怯えてしまうのである。

今作はナンセンス・コメディの様相を呈するが、その実真っ当な60年代総括の映画である。
ホッパーは逃亡の際サザーランドになりすまし、逃げた先で酒場に入る。
田舎の野球チームの呑んだくれたファンに60年代のヒューイのことを知っているかと問いかけると
彼らは熱狂的にヒューイにまつわる噂を語り始める。
「いまも反体制を気取っているのか?」の問いに彼らは逆上し、物語はあっと驚く展開を見せるのだが
「いまも反体制を気取っているのか?」の問いはそのまんま自分自身への問いかけでもある。
彼ら60年代の世代はそうやって自分たちを総括するか?権力に迎合するか?
二者択一を迫られながら、その後の20年間を歩んで来た世代である。
ギャグ・コメディの体裁を保ちながら、そういう思想の迷いや葛藤がこの映画にはしっかりと見られる。
だからこそホッパーの姿は何倍も何十倍もリアリティをもって我々の胸に迫るのである。

映画はほぼ、ホッパーとサザーランドの世代的対立を扱っている。
登場人物は彼らの他に、列車で隣り合わせた娼婦と逃亡先の保安官とFBIの同僚、上司、
それにサザーランドの親族、呑み屋の客2人の僅か10人にも満たないミニマムなドラマながら
彼ら9人それぞれのキャラクターの脚色と演出に余念がない。
その中の誰1人としてご都合主義的に主人公の犠牲になることはないし、
彼らはぞれぞれの想いを一応まっとうしている。これは近年のアメリカ映画にはない魅力である。

中盤以降、主人公の驚くべきカミング・アウトから前半部分とはまったく異なる様相を呈するが
根っこの部分はまったく変わらない。
これは2人の男の必死の逃亡劇であり、純然たるロード・ムービーである。
しかもホッパーは一度も彼の十八番であるバイクに乗ることがない。

映画は列車からバン、そして列車へと移動手段を変えながら、
60年代とはまったく違う方法で感動のクライマックスへと流れていく。
だからこそ主人公がラストに乗る乗り物にぐっと来てしまう。

監督であるフランコ・アムリはフェリーニの助監督として本国イタリアで修行を積んだ後、
アメリカに渡り、今作を手掛けた。
列車の場面の凡庸ではないショット構成は、流石にフェリーニ組で鍛えられただけのことはある
素晴らしい才能である。残念ながら次作『ゆかいな天使(ペット』から23年メガホンをとっていない。

『許されざる者』でイーストウッドは強引に西部劇と呼ばれたジャンルに終わりを告げた。
『インディアン・ランナー』でブロンソンはショーン・ペンという若手スターに将来を任せた。
今作でホッパーは未来の世代に自らの反逆のイメージを託し、継承しようとしている。

間違ってもアメリカ映画の歴史的傑作ではないが、
90年代初頭の忘れるわけにはいかない佳作である。

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