【第130回】『リアリティのダンス』(アレハンドロ・ホドロフスキー/2013)


ホドロフスキー自身の自伝的な物語を元に作られた『サンタ・アングレ』から24年振りの監督作。
彼の70年代の初期作からは既に40年以上の月日が流れているが、未だにまったく古びていない。
それどころか彼のルーツとなったイメージが幼少期から既に形作られていたことに驚く。

1920年代、まだ幼かったアレハンドロ・ホドロフスキー少年は、
父母とともにウクライナから軍事政権下のチリ、トコピージャに移住し暮らしていた。
権威的で暴力的な共産主義者の父親と、
アレハンドロを自身の父の生まれ変わりと信じる元オペラ歌手の母に愛されたいと願いつつも 
その父親と母親の狭間でもがき苦しむ。

『サンタ・アングレ』でも見られた厳格な父親と物言わぬ母親の対比が
ここではより一層強調されている。
一番印象的な場面はお爺さんの金髪のカツラを付けたホドロフスキー少年を
理髪店に行って父親が強引に地毛に戻す場面だろう。
決して台詞を話すことなく、オペラ調の歌でしか表現出来ない母親との対比が
くっきりと映し出された象徴的な場面であり、少年の苦労を浮き彫りにする。

荒涼とした山々、見世物小屋の球体のサーカス場、奇形の人々、大量の動物の死骸、
それらのイメージは全て幼少時代のホドロフスキーが思い描いていたイメージの集合体に他ならない。

それと同時に今作は色を巡る物語でもある。
ホドロフスキー少年の着ている青い服にくっきりとした赤い靴の対比。
疫病患者たちの黒い服と黒い傘、大統領が寵愛する真っ白な馬。
それらのはっきりとした原色が主張する明確なイメージが
後のホドロフスキーの映像美を育むことになるのだ。

母親との観念的なやりとりもこの色を巡る物語を象徴するエピソードである。
いじめられて泣きつく息子に母親は「透明になればいい」と語りかける。
夜の闇の怖さに泣きついた時には、全身黒塗りでスキンシップを図ろうとする。

映画の前半は父親と母親の思いの狭間に揺れる少年の微妙な心情を丁寧に描いているが
後半は父親の共産主義者としての半旗、暗殺未遂、記憶喪失、失意の帰宅が克明に描かれる。
これがどのくらい史実に基づくもので、当時のイバーニェス大統領に父親が接近したのか定かではないが
観念的なイメージの中に父親の思想の挫折と家族としての再生が同時に示される。

後半記憶喪失となり、指が真っ直ぐ開かずに街の中を彷徨う奇怪な父親の姿は
『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』の主人公たちの鬼気迫る彷徨にそっくりである。

荒涼とした山々、見世物小屋の球体のサーカス場、奇形の人々、大量の動物の死骸、
それら既存のイメージの他に、今作には新たに海という新しいイメージが付け加えられる。
当然のように海は全ての始まりであり、終わりをも意味する。
家族を見送る色を失った人々の等身大パネルが過去と現在、未来を象徴するかのようである。

【第73回】『サンタ・サングレ/聖なる血』(アレハンドロ・ホドロフスキー/1989)

サーカス団長のオルゴとコンチャの間に生まれたフェニックスは
繊細で感受性豊かな少年。

父オルゴは女たらしのサディストで現在の相手は“刺青の女”。
少年はその養女6歳のアルマに一目惚れする。

聖なる血を流す乙女の像を崇拝する母コンチャは、オルゴの浮気現場を発見。
彼の下半身に硫酸を浴びせるが、これに激怒した夫は彼女の腕を切断し、
自らも喉をかっ切って果てる。

この一部始終を目撃したフェニックスはショックの余り精神を病んで施設に収容された。

やがて成長した青年フェニックス(ホドロフスキーの息子アクセル)は、
病んだ精神を母の狂気に操られて、女すべてへの身の毛もよだつ復讐を繰り返すが、
そこへすっかり娘となったアルマが現われる。

前作『ホーリー・マウンテン』から16年、
すっかり寡作家となり、文字通りカルトな作家になってしまったホドロフスキーの89年作。

この間に後にデヴィッド・リンチが出がけた『DUNE』の監督に決まり、
順風満帆に見えた彼のキャリアはこの『DUNE』に振り回され、15年もの期間を棒に振る。
この辺りの顛末は『ホドロフスキーのDUNE』に詳しい。

今作はホドロフスキーと縁もゆかりも無いイタリア資本によって制作されたのだが、
ある種監督とイタリアとの出会いは必然のようにも思える。

『エル・トポ』と『ホーリー・マウンテン』の2本の映画を観て、
映画全体の見世物小屋のような雰囲気に、
フェリーニやパゾリーニの世界観との相関性を感じた人も少なくないはず。

その見世物小屋のような秘宝館のような怪しい雰囲気は
イタリアのサーカス小屋に形を変え、ある家族の物語にフォーカスする。

冒頭、精神病院の独房に入れられた若者が現れる。
黒鳥がサーカス小屋へと飛んで生き、彼の若い頃を思い出すという
実に映画らしい最初のシークエンスである。

ホドロフスキーの映画の中では、饒舌な主人公は1人もいない。
台詞に頼るのではなく、身振り手振りと表情と視線だけで相手に思いを表現しようとする。

今作はヒロインのアルマも口がきけない。
2人は互いの身振り、手振りだけでゆっくりと距離を縮めていく。

前半部分は母親の気狂いじみた宗教への妄信と、夫婦の不和が割と丁寧に描かれる。
法王に教会の中身を好意で見せようとするのだが、逆鱗に触れブルドーザーで教会が潰される。
何もそこまでというような粗暴なアクションである。

また象の埋葬シーンも、あまり物語の展開には直接関係ない場面に見えるのだが
これでもかというくらい大量の子供エキストラを使っている。
その力の入れっぷりは異常とも言える。

前半部分は随所にホドロフスキーらしさを入れたために物語は過剰になり、
やや焦点がぼけてしまったのは否めないが、それでも前2作よりは随分まともな印象である。

前半部分と後半部分の整合性の無さは前2作と同様で、
まったく違う話をつなげたようにも見える。

やがて硫酸をかけられた父親が逆上し、母親の両腕を切り、血がドバッと流れるところは
アメリカ産スラッシャーではなく、イタリア製ジャーロの影響が色濃い。

それは完全にアルジェントだろうという残酷描写が何箇所か見られるし、
シルエットの女性が何度も刺されて殺される描写なんて、典型的なホラー映画の手法である。

この映画、オープニングからしっかり観ていた人にはおわかりだと思うが、
製作陣の筆頭に、アルジェントの弟の名前がある。

本来ならばこういう人の殺し方にこそ、ホドロフスキー独自の描写が観たかったのだが、
奇形の人間や障害者などのいわゆるタブー視されたキャラ設定にだけ注力し、
肝心要の残酷シーンはジャーロやもっと言うとアルジェントの受け売りと言うのは残念である。

中盤以降はフェニックスの挿話とアルマの挿話が交互に描かれるが、あまり器用だとは言えない。

あれだけ大量のエキストラを使い、残酷なエロ・グロ映像のオンパレードで魅せるが
後半部分は幾分あっさりしてしまった気もする。

もう少しフェニックスとアルマの再会をドラマチックに描写しても良かった。
フェニックスは俳優経験なしの監督の実子で、アルマも初めての俳優経験であったことを考えれば
もう少し俳優の中から絞り出すような演出で、子役の力を十分に引き出しても良かったと思う。
特にアルマ扮する少女に問題が多いが、随分さっぱりとした淡白な再会になってしまった。

クライマックスも大女のプロレス・シーンから屋敷に呼び出すあたりは良かったのだが、
実際に戦う場面になると一気に間抜けになってしまうのはどうしてだろうか?

これまで殺して来た女性達が土の中から白塗り全裸で出て来る場面には笑った。
あのクラシックな装いは、89年の観客にはフィットしない。

今時、頭がクラクラする様をカメラをグラグラさせ表現するなんてなかなかない 笑。

それでも随所に見える演劇的世界観とクラシックなホラー性が妙に心地良い。
血しぶきの量や残酷描写はアメリカ映画のレイティングでは土台無理な
イタリア資本ならではのもので、それなりに効果をあげている。

この空白の15年間が世間のホドロフスキー熱を幾分和らげてしまったのは否めないが、
世界有数の巨匠というよりは、極めて真っ当な才能なのだと思う。

『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』は初期衝動の塊のような映画で
真っ当な才能が初めて自分の立ち位置と向き合い、
愚直に限界に挑戦したのが今作だとするのはいささか強引だろうか?

【第72回】『ホーリー・マウンテン』(アレハンドロ・ホドロフスキー/1973)

キリストに似た盗賊(ホラシオ・サリナス)が、
十字架に張り付けにされ、裸の子供たちに石を投げつけられている。

自らの力で十字架から降りた盗賊は、居合わせた奇形の小人と町へ向かう。
その町で盗賊は太った男たちに捕えられ、鏡の部屋に閉じ込められてしまう。
なんとかそこから脱出した彼は、高くそびえる塔を登り、
最上階で練金術師の男(アレハンドロ・ホドロフスキー)と出会う。

男の持つ錬金術の力を目の当たりにした盗賊は、
その技を手に入れるため、世界で最も力を持つ8人の男女と共に、
錬金術師に導かれ“聖なる山"を目指す。

カルト映画史に燦然と輝く傑作『エル・トポ』に続くホドロフスキーの3作目。

今作も前作と同じように、
前半部分と後半部分がまったく別の映画を繋ぎ合わせたような
非常にいびつな構造になっており、
裸、死体、真っ赤な血、虫などの直視出来ない映像のオンパレード。

そういう雰囲気の映画が駄目な人はとことん駄目だろうし、
前作よりも残酷描写もグロ描写も多く、観る人を選ぶ作品かもしれない。

見世物小屋の奇術シーンに始まり、
異常者だらけの町に迷い込むなど前作『エル・トポ』と類似点が多い。

しかし前作以上に背景の書き込みが密にされており、
映画自体が一つの見世物小屋のような怪しい秘宝館のような世界を形成している。

動物の死骸を積んだ部屋のショッキングさは
映像から強烈な悪臭が漂ってくる気さえする。
悪い夢を見ているような錯覚に陥るシュールレアリズム的世界こそ
ホドロフスキーが表現したかったものかもしれない。

盗賊は一度は生け捕られてしまうが、脱出に成功しオレンジ色の塔をよじ登る。
そこには四次元のような立体的な空間が広がっており、
ホドロフスキー自身が演じた錬金術師の男と出会う。

こう文字に起こすのは簡単だが、
CGのなかった73年にこういうイメージの中の世界を映像化するのは極めて難しい。

今なら役者達にグリーン・バックの前で演技させ、
CGで作り込んだ背景と役者達をはめ込めば、ある程度簡単に出来るはずである。

ただ当時は全てアナログで、現実にはCGで作る何十倍も時間がかかっていた。

盗賊は錬金術師と出会い、太陽系の惑星の名前が付けられた8人と合流するのだが
この一人一人の挿話を全員異なる映像世界で表現しているのには恐れ入った。

中にはやはり73年ということで多少古びてしまった表現もあるが、
その挿話の幾つかは21世紀の今もまだまだ錆び付いていない。

ただここで8人のエピソードを丁寧に描き過ぎたために、
映画自体が横道に逸れてしまったのもまた事実である。

ラストには師匠である錬金術師の男と弟子の9人が険しい山を登るのだが、
それまでのタロット・カードのような怪しい世界観とは打って変わり、
苦行を克服し、悟りを開くというありきたりの根性論になってしまっているのは
ただただ残念である。

あらゆる欲望を断ち切るために、幻覚シーンがそれぞれに挿入されるのだが、
結局はただ己のフィジカルの限界に挑戦し、山を登った達成感でしかない。

山登りの過酷さはわかるのだが、
この収拾のつかない映画を果たしてどこで終えるのかということに対して
ホドロフスキーは致命的に失敗しているように思えてならない。
(岩山に張り付きながら腰を振るシーンはいつ観ても笑ってしまうのだが・・・)

前作『エル・トポ』はジャンル映画としての西部劇を目指しながら、
最終的にそれとは似ても似つかないところに着地した作品として、得難い魅力があった。

結果的にはカルトの称号を得たが、
撮影中にどこまでカルトになることを意識した作品だかはわからない。

それが今作は最初からカルトとなることを目指して撮影されたように思う。
そこが決定的に弱いし、クライマックス・シーンの現実とのけじめの付け方が甘い。

物語としての魅力には乏しい作品だが、
トータルの画力としては『エル・トポ』を凌ぐ作品になっている。

【第70回】『エル・トポ』(アレハンドロ・ホドロフスキー/1969)

黒装束の流浪のガンマン、エル・トポ(アレハンドロ・ホドロフスキー)は、
幼い息子を連れ砂漠を行く。

行き着いた村は山賊の襲撃による大虐殺の後で、あたり一面血の海だった。

エル・トポは、修道院に陣取る大佐らを倒すが、大佐の女に心奪われ、
息子を残し、最強のガンマンを目指し、砂漠にいる4人の銃のマスターに対決を挑む。

やがて命を落としたエル・トポだったが
フリークス達の暮らす洞窟で長い眠りから目覚めた彼は、
虐げられた境遇から救うべく再び現世と向き合うが、
そこは彼の想像を超えた腐敗と混乱の世界だった。

ご存知70年代屈指のカルト映画の金字塔にして、
ミッドナイト・ムービーの伝説的古典としても知られる傑作。

砂漠の中を漠然と彷徨い歩くうちに、
山賊に囲まれ身の危険を感じるあたりは
ホドロフスキーによる西部劇の変奏曲のようにも感じられるが、
主人公の超人的な強さが全てを呑み込んでしまう。

息子を馬の背中に乗せ、殺戮の嵐を繰り広げるあたりは
偶然にも勝新太郎の『子連れ狼』に限りなく世界観が近い。

やがてエル・トポは山賊を率いる大佐と呼ばれる人物を見つけ出し、
彼の性器を鋭利な刃物で切り落とす。

悪を倒すペキンパーばりのえげつない暴力であったが、物語はここでは終わらない。

大佐の女に入れあげたエル・トポは息子を村に置き去りにし、
4人の凄腕の殺し屋たちにそれぞれ決闘を申し込む。

ここで出て来る4人の男の強烈なキャラクター造形と住処がまた素晴らしい。
大佐と山賊たちはまだわずかにケダモノの中に人間らしさを残していたが、
この4人の殺し屋たちは完全にたがが外れた人物として描かれている。

石で作られた円形の塔の中で暮らす弾の急所をずらす男も強烈だったが、
大量のうさぎの死骸の中で改造銃を手にした男のパンチの利き方がまた強烈なキャラクターである。

ラストにはピストルに対して、虫取り網で勝負を挑もうというおっさんも出て来る始末。
ほとんど『ジョジョの奇妙な冒険』ばりの強烈なスタンド使い達が次々に出て来る。

大佐の女ともう一人の女とエル・トポが根城を構える砂地がまた凄い。
まるで勅使河原宏の『砂の器』のような全てを呑み込む砂地の中で、
三角関係が織りなす倒錯的な性世界がやがて悲劇を呼び込む。

それまで無敵の強さを誇ったエル・トポが、
巨大な陸橋の上で派手に殺されるのには笑ったが
そこでフリークス達に助けられ、すっかり変貌を遂げたエル・トポを目撃するのだが、
今も昔もここから先は完全な蛇足だと思うのだがどうだろう?

室外のロケーションの有無を言わせぬ魅力と、
強さのみを追いかけ続けたエル・トポの暴力衝動に押された前半部分の比類なき完璧さが
街に見立てた巨大セットに入った途端、求心力を失ってしまうのである。

黒人達を奴隷にした宗教がかった街全体の雰囲気はそこそこ怖いのだが、
肝心のセットが西部劇の類型では、受ける印象も凡庸なものにならざるを得ない。

お金を稼ぐために急に戦前の喜劇のような業を身に付けたのは、
ホドロフスキーの舞台経験の下地があってこそなのだが、
それにより異形の暴力の連鎖というこの映画の焦点がやや曖昧になってしまった。

それでもたった一人でマシンガンのような小銃の嵐を受けながら、
殺戮の嵐を繰り広げるクライマックスはかなりのカタルシスがある。

ハリウッド映画でありながら、ハリウッドの流通体制にそっぽ向かれ、
ヒスパニック圏の脆弱な流通システムに頼らざるを得なかった今作だが
この強烈な画力と暴力だけのハリウッド・デビュー作が
真夜中のスクリーンに多数の信者を生み、やがてハリウッドの牙城を画期的に切り崩す。

きっかけは若者の映画に対する飽くなき欲望であったが、
西部劇やアメリカン・ニュー・シネマをも通過した新しい映画の胎動が
この『エル・トポ』にははっきりと見えるのである。

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