【第395回】『インサイダーズ/内部者たち』(ウ・ミンホ/2015)

あらすじ・結末に触れていますので、これから観る方はクリックしないでください

【第95回】『パラダイス:愛』(ウルリヒ・ザイドル/2012)


母親・叔母・娘の3人の女性の歪んだ愛情を
徹底してシニカルに見つめきったパラダイス3部作の第1作目。

この親あって、あの娘ありと言いたくなるような
正視出来ない映像のオンパレード。
中年女性の悲哀がこれでもかというくらい胸に迫る。

50代のシングルマザーであるテレサは、
一人娘のメラニーを妹アンナ・マリアの家に預け、
ヴァカンスを過ごしにケニアの美しいビーチリゾートへやって来た。

冒頭、オーストリア時代の彼女の生活がほんの少し出て来るのだが、
普段は知的障害者の施設で働いているらしいことがわかる。

娘とは常に折り合いが悪く、ろくにコミュニケーションも取れていない様子が提示され、
第1作目として母親・叔母・娘が初めて同じ場所に一瞬だけ集う。

パラダイス3部作の中では、今作が最も絵画的なショットの美しさに溢れている。
青い海や白いビーチを背景に、色味を活かしたシンメトリーの構図は
ただただ美しく活気に満ち満ちている。

以前も話したが、この室外撮影の大半はおそらくエド・ラックマンによるものだろう。
それに対し、室内撮影はドキュメンタリー出身のヴォルフガング・ターラーが担当し、
手持ちカメラで臨場感溢れる映像を生み出している。

今作の中では室外でもケニア人がテレサに話しかける場面は
ヴォルフガング・ターラーが担当しているのではないか?

そしてベッドに横たわるテレサをカメラ据え置きで据えた
実に絵画的な蚊帳の中に横たわる名場面はエド・ラックマンによるものだと思う。

この2人を並列で起用したことが、
最も明確に戦略として立ち現れているのが今作である。
風景に溶け込むような絵画的な構図や色味に対し、
対照的にどこかブレながらも機動性を重視した映像があることで
物語が独特の語りを生んでいる。

しかしそれにしても今作を観たオーストリアの観客の反応が気になってしまう。
日本でもフィリピンへの旅行者の中には、経済的裕福さから現地の少女を買う大人が後を絶たないが、
あれはあくまで男性であって、女性ではない。

ヨーロッパの女性がアフリカのリゾート地へ行き、
現地の男性を買うなんてことはあまり考えたことが無かった。
ただこの映画を観てから調べてみると、「Sugar Mama」というスラングがあるらしい。
これは字面でも大体わかるように、アフリカ人にとってのパトロンのことを意味する。
まさにこの映画の中に登場する経済力のある大人を「Sugar Mama」と呼ぶのである。

テレサは現地で旧知の仲のインゲと落ち合うのだが、
そこで出会う2人のオーストリア女性も同じ目的地でこの地を訪れているように描写される。

この映画において最も厄介で崇高なのは、彼女が自分の年齢や立場を忘れて、
1人の女性として認めてもらうことを欲しているところである。

彼女はこの地で4人の現地人男性と出会いSEXに至るのだが、そのうち2人とは未遂に終わる。
男がとりあえず自分の性欲を満たすために手当たり次第なのに対して、
このヒロインは心のつながりを何より重視しているところが、
最も素敵で、逆に言うと最も痛いところになるのかもしれない。

その4人との行きずりのSEXも最初はまともに観れていたのだが、
徐々にテレサの精神状態に呼応して、だんだん吐き気を催すことになる。

クライマックスの中年女性4人の乱交シーンなんて
最も目を背けたくなる近年稀に見る醜い映像だった。

『パラダイス:神』のエントリでも話したが、
誰がこんなに肥え太った中年女性の裸体を見て喜ぶのだろうか 笑?
さすがに性交シーンや乱交シーンは観ていられなかった。

前半部分にちらっと出て来たが、
このヒロインは姉と一緒で潔癖症という精神疾患を抱えており、
それが極端に偏った承認欲求という形で表に出て来ているのだが、
その中でも心理学的に言うと、上位承認という形で出てしまっている。

彼女はケニア人に対して常に施しをする側であり、
日頃の仕事のストレス、親子関係のストレスからSEXに依存してしまうのである。

しかしその留まるところを知らない承認欲求は、観ていてただただ痛い。
不快になるくらい、制御不能になってしまった中年女性の悲哀は正直言って観ていてつらい。

結局親子関係の不和が表面化し、母親も娘も携帯電話というツールがあれば、
それをただ単に不平不満をぶちまけるだけのツールとして使っているということを
ザイドルは努めて冷静に描写している。

叔母も母親も娘も、それぞれパラダイスのただ中にいることで、
外にあるパラダイスを否応無しに求めてしまう。
その生理的欲求を極めて突き放してザイドルは描いている。

【第79回】『インポート、エクスポート』(ウルリヒ・ザイドル/2007)

ウクライナで暮らすシングルマザーの看護師オルガは、
より良い生活を手に入れるためオーストリアへ行くことに。

そこで彼女は家政婦の仕事に就くがクビになり、
高齢者医療の病院で清掃員として働きはじめる。

一方、オーストリアの青年ポールは警備員の仕事を解雇され、
義父の仕事を手伝うためウクライナを訪れる。

生活の糧にウクライナからオーストリアに出稼ぎに来た女と
自らの生活を変えようとオーストリアからウクライナへ出稼ぎに行く男の
あまりにも切ない底辺の生活を淡々と描いた今作。

両者は決して交わることは無いのだが、並行して描写される。
『インポート、エクスポート』とはつまり、輸入され輸出される双方の関係を意味する。

まずはウクライナの女の方から物語は始まる。
彼女は母親と同居しながら、まだ赤ん坊の一人息子を育てている。
どうやら父親はいないらしく、看護師として懸命に働いている。

その通勤時の様子をロング・ショットで撮った冒頭の映像が素晴らしい。
ウクライナの荒涼とした雪の中、吐く息も白くなったヒロインが電車を待つ姿は
ルーティン・ワークと化した仕事の大変さを物語っている。

しかしあまりにも安過ぎる給料にぶちぎれたオルガは
生活のためにアダルト・チャットの仕事に就こうかと考えるが決心がつかない。

ウクライナ国内にまともな仕事などなく、友人を頼って単身オーストリアに出稼ぎに出る。

状況を呑み込んでいる母親が、玄関に来て娘としばし抱き合うシーンがいじましい。

ウクライナでは政治的混乱もあるのだろうが、年金の額がかなりカットされていると聞く。
セーフティ・ネットも整備されていない中で、シングル・マザーには重い負担がのしかかる。

オーストリアに出稼ぎに行き、最初は住み込みの家政婦として働くが、
その家の子供がやたら憎たらしい子供で 笑、
雪合戦をしてはしゃぐ姿に腹を立てた雇い主の夫人に一方的に解雇されてしまう。

見かねた友人のつてを利用し、今度は病院の清掃員として雇われる。
この病院が認知症老人たちの入院施設で、患者達は先の長くない未来を待っている。

ここでオルガは、三度目の糖尿病で入院する老い先短い老人に惚れられプロポーズされる。
国籍を得るためには、一番手っ取り早いのはオーストリア国籍の男と結婚することだが
なかなか決心がつかない。

貧困にあえぐシングル・マザーや女性世帯の所得の少なさは日本でも問題になっているが
オーストリアでも例外ではない。

EU圏の映画では、2000年代になって度々貧困の問題や移民の問題が取り上げられて来た。
ベルギーのダルデンヌ兄弟の映画やフランスのケシシュの映画など、
世界的に話題になるEU映画の多くが、この貧困の問題や移民の問題を凝視している。

特に男性側の描写に顕著だが、ザイドルは明らかに
ダルデンヌ兄弟『ある子供』を念頭に置いているのではないかと思う。

手持ちカメラの淡々としたドキュメンタリー・タッチの映像然り、
這い上がろうにも這い上がれない環境や境遇然り、『ある子供』を想起させる。

女性側は人格的には何の問題も無いが、働き手としての力には限りがある。
それに対して男性側の馬鹿さ加減は見ていて呆れるくらい、ただただ救いが無い。

『ある子供』では彼と彼女の間に赤ん坊の存在があったのだが、
この映画においては、男性側を改心させるだけの要素がどこにも無いため、
男が最後まで煮え切れない態度に終始してしまっている。

この2人が出会うとかドラマチックな展開にしようと思えば
幾らでも出来る気もするが、ザイドルはあえてハッピーエンドに物語を持って行かない。

確かに貧困に至った状況や自分の身の回りの環境を変えることは難しいかもしれない。
けれど2人の主人公に出会う人間が子供から老人まで
ことごとく嫌な人間ばかりなのはいかがなものなのか 笑?

女は結局、病院で淡い思いを持った老人の死を看取り、
このギスギスした環境の現実を思い知る。

男は心機一転、国外で仕事を一から始めようとするが、
義父の性格や態度にげんなりし、独立して仕事に就こうとするが急には探せない。

必死で居場所を探す主人公たちに対して、徹底的にザイドルの目線は冷たい。

相変わらず映像はキレイで、ロングショットを多用した室外の場面はどれも美しい。
ウクライナの低所得者住宅もこれをよく見つけて来たなというような悲惨さで
底辺の暮らしを余すところ無く伝えてくれる。

ただ基本的にカメラ据え置きでロングショットとミディアム・ショットを多用した室外ショットと
手持ちカメラを多用する室内ショットのアンバランスさが少し気になった。

ここからは私の推論になるのだが、ザイドル作品は
エドワード・ラックマンとヴォルフガング・ターラーの2人が撮影を担当しているのだが
室外のロケーション撮影は主にエドワード・ラックマンが担当し、
室内の手持ちカメラによるフェイク・ドキュメンタリーは
ヴォルフガング・ターラーによるカメラの動きではないかと推測される。

そう考えると、室内撮影と室外撮影のテイストの違いが腑に落ちるのである。
この2007年の映画から、ザイドルはアメリカからエドワード・ラックマンを呼んでいる。

あらためて『ドッグ・デイズ 』を観直してみないことには何とも言えないが
どうもそんな気がするのである。

【第77回】『パラダイス:神』(ウルリヒ・ザイドル/2012)

ウィーンでレントゲン技師として働くアンナ・マリア(マリア・ホーフスタッター)は、
妹テレサのようにヴァカンスに出かけるでもなく、イエスのために夏休みの日々を過ごす。

讃美歌や鞭打ちの苦行、聖母マリア像を携えての布教活動、
それだけで休暇を過ごすにはありあまるほど。

敬虔で頑固なカトリック教徒の彼女にとって、パラダイスはイエスと供にあるのだ。
ところがある日、車椅子でエジプト人イスラム教徒の夫ナビルが2年ぶりに家に戻り、
彼女の日常は狂い始める。

イエスを理想の男のように慕い敬いながら、
夫には無慈悲な態度をとる妻にナビルは怒りをあらわにする。

アンナ・マリアのパラダイスは、宗教と結婚の両方に亀裂の入った夫婦の争いの場と化してしまう。

母・娘・叔母の3人の女性の歪んだ愛をユーモラスに描いたパラダイス3部作2作目。

今作もシリーズお決まりの美男美女が一人も出て来ない物語なのだが、
いったい観客の誰が見も知らぬ中年女性の悲喜劇に興味があるのかさっぱりわからなかった。

いきなり冒頭で十字架の前で裸になったのには笑った。
序盤に一度だけ彼女の職場が出て来るが、そこでも高血圧の肥満症の裸がたくさん出て来る 笑。

この映画の主人公はおそらく「強迫性障害」という心の病に冒されているのだが、
本人はそのことにまったく気付いていない。

本人が良かれと思ってやっていることでも、周りの人間からすればはた迷惑な行為である。
そういう他者と自分との感覚のずれを信仰心で埋めようとするのは土台無理なのだ。

仕事の無い休日に戸別訪問し、キリスト教を勧める場面は
全てフェイク・ドキュメンタリーの手法で撮影されているが、
この場面になると物語の強度が途端に弱まってしまう。

そもそももっともらしい演出それ自体にはまったく価値がない。
そんなものは幾らだって撮影可能だし、映画にしなくてもテレビにたくさん転がっている。

この手のフェイク・ドキュメンタリーをやらせるなら
ヨーロッパにはもっと狡猾なラース・フォン・トリアーやハネケがいるし、
日本にも『山田孝之の東京都北区赤羽』の山下敦弘がいる。

それよりはもっと家の中での宗教戦争にフォーカスしても良かったかもしれない。
足を悪くした夫の突然の帰宅の場面はもっと丁寧に演出したり、
夫婦の心の距離をもっとじっくり描いても良かったはず。

一番興醒めしたのは、仕事の帰宅時に公園で
フリーセックスに興じる若者の集団を目撃する場面。あれには呆れた 笑。

フィクションを如何様にも引き延ばすことが出来るのが映画の素晴らしさであるが、
偽善的なもっともらしい作りもののショットを挟めば、場がしらける。

相変わらずカメラワークは美しく、どのシーンも背景がきちんと絵になるように
納得の行くまでフレームを覗いたことが伺える。

ただそれもあくまで物語の良さと役者の素晴らしい演技が引き出せてこそである。
それが引き出せていなければ映画としての魅力は半減してしまう。

主人公のマリア・ホーフスタッターは
ご存知ハネケ『タイム・オフ・ザ・ウルフ』のあの女性なのだが、
言い方は悪いが、こんな年寄り夫婦の宗教対立によるケンカに
いったい観客のどれくらいの人間が興味があるのだろうか 笑?

オーストリアの人には身近なテーマなのかもしれないが、
日本人の私にはまったくピンと来なかった。

○○系○○人というルーツの複雑な家系の多いヨーロッパにおいては
キリスト教徒とイスラム教徒の夫婦なんて、おそらく星の数ほどいるに違いない。

そもそもキリストをそこまで愛しているなら、イスラム教徒とは絶対に結婚しないだろう 笑。
結婚よりも宗教を重んじたならば、互いの宗教観の違いで即離婚でもおかしくない。
大体この夫婦は、夫ではなく妻が社会に出て働いているのだ。
なぜ家庭内宗教対立が突然、あの歳になって急に出て来たのか理解に苦しむ。

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