【第360回】『神々のたそがれ』(アレクセイ・ゲルマン/2013)


 地球とは違う辺境の惑星の都アルカナル。そこは地球より800年ほど文明が遅れており、いまだ中世暗黒時代のような泥と糞尿にまみれた暮らしぶりだった。ある時、このアルカナルに地球から30人の学者たちが派遣され、調査を開始する。彼らは観察者に徹しながらも、より良き発展の道への誘導を模索し、いつしか神様のように崇められていく。しかし何年経っても明確な進歩は見られず、やがてルネサンス的解放に対する反動か、知識人たちへの粛清が横行していく。そんな中、調査団の一人ルマータ(レオニド・ヤルモルニク)は、知識人たちの一部を匿い、その逃亡を支援すべく奔走するが…。

凍てつく寒さ、激しい雨、鼻をつく強烈な臭気がフィルムからむせ返るように匂い立つあまりにも強烈なモノクロ映画である。ロシアのSF作家ストルガツキー兄弟の『神様はつらい』を映画化した今作は、ゲルマンがデビュー作として想起しながら、旧ソ連の検閲の圧力を嫌い、これまで映画化することが叶わなかった。800年後の世界から人類が自分たちの歴史を俯瞰し、神に代わって正しい行いを施そうとするが、それがやがてクライマックスでは血と泥にまみれた狂乱の地獄絵図となる。これまで寡作ながら、旧ソ連の関わった戦争映画を4本撮ってきた伝説の作家の遺作となってしまった今作は、人類の戦争に至る歴史や暴力・無秩序・不寛容の歴史を我々に追体験させるかのようである。そこはルネッサンス初期の空気を讃えているが、民衆たちは何かに怯えている。物語を追うのは難解を極めるが、学問の集積地である大学が破壊され、知識人たちが処刑され、首をくくられている。その異様な光景を地球から送られてきた男が眺めている。彼は第17代貴族ドン・ルマータと名乗っており、彼の祖先が異教神ゴランの非嫡出子であるという言説にアルカナルと住民は恐れ慄くのである。

弾圧を逃れた知識人たちの一部は隣国イルカンへ逃亡する。主人公は彼らを追いつつアルカナルに潜入し、知識人たちを匿うべく努めていた。ある日、ルマータは皇太子のいる寝室で当直の任務に就く。だがその直後に、彼は寝室に押しかけた灰色隊とされる一団に取り囲まれ、逮捕を告げられる。ルマータは抵抗するが、結局捕まって連行・投獄される。灰色隊の隊長クシス大佐がルマータに絞首刑を宣言するが、その直後にドン・レバ率いる神聖軍団の修道僧たちが現れ、大佐を撲殺する。やがて街に“神聖軍団”が集結する。ドン・レバは彼らに“灰色隊”を殲滅させ、自らの主導による新たな政権を確立しようとしていた。神に最も近い男の目で、アルカナルという街の圧政、殺戮、知的財産の抹殺という三大悪にまみれた環境を進む際のイメージが、糞尿の垂れ流しと人間の死体の腐敗臭と同義であるということが何とも悩ましい。権力闘争に遠く地球から放り込まれた男の姿に、人々は神のような神々しさと畏怖の念を感じるものの、汚物と糞尿と泥山を抜けて辿り着いたのは、図らずもホロコーストや2つの世界大戦を生んだ地球の人類の醜い状況と大差ない小競り合いというのは、ゲルマンらしいしシニカルなユーモアであろう。800年前であろうが、現代であろうが男が集まるところには必ず果てなき権力闘争が生まれ、人間たちは醜悪な姿を晒すのは自明である。

独特という言葉では済まされない圧倒的なカメラの機動力は、被写体のすぐそばを据えて離さない。ハリウッド映画であればエスタブリッシング・ショット1つで済ませてしまう建物の内部の描写にも、前進・後退という基本的な動きにとどまらず、前後左右360°こだわった長回しの映像の魅力は、アレクセイ・ゲルマンの専売特許であろう。老齢の監督がしばしば絵画的な2Dの構図にこだわるのとは逆に、綿密な計算の範疇をいとも簡単に突き破っているかに見える、計算しきれない脇役のフレーム・インとフレーム・アウトはこの監督の画力の圧倒的な存在感を伝え、観客の目を串刺しにする。この映画の3時間が退屈だったか夢中だったかがシネフィルとしての踏み絵となるようなものであると断言するくらいの、圧倒的な画力が備わっている。今作は2000年にクランク・インしたものの、この圧倒的な世界観ゆえか、その後完成までに実に10年以上もの歳月を要することになる。その間に出演した俳優の一部は老齢で死に、遂に監督であるアレクセイ・ゲルマンまでもが74年の生涯を終えてしまった。しかし映画は編集段階に差し掛かっており、もう十分なマテリアルが残り、あとは編集だけだったものを、妻と息子が仕上げたいわくつきの素晴らしい力作である。

【第83回】『フルス­タリョフ、車を!』 (アレクセイ・ゲルマン/1998)

アレクセイ・ゲルマン史上最も難解かつ掴みどころのない作品。
あのスコシージが「何が何だかさっぱりわからないが凄い」と
あまりにも腑に落ちる賛辞を残した衝撃作。

思えばよくわからないが終わってみたら凄いとしか言いようがない映画が
アレクセイ・ゲルマンのフィルモグラフィに通底する感触だった。

私も東京国際映画祭で初めて観たときは、
あまりのわかのわからなさに観劇後、仲間と顔を見合わせで笑ってしまった。

一応あらすじを最初に述べておきたい。

この映画はスターリン死去直前の1950年代の旧ソ連を舞台にしている。

主人公は首都モスクワの大病院に勤務する腕利きの名医で
1930年代の粛清を辛くも逃れた赤軍の将軍である。

人間的にはかなりのトラブル・メイカーで家族と愛人の間を自由気ままに行き来している。

自分の替え玉が現れ、KGBのスパイ絡みのジャーナリストにつけられたことから
男は危険を察知して逃げるが、すぐに将校たちに捕まってしまう。

拷問を受け、死の恐怖が迫る中、彼は突然解放される。
その裏には、瀕死のスターリンを何とか手術して治そうという政治的思惑がうずまいていた。

ゲルマンは最初の2作で、第二次世界大戦に伴う1940年代の独ソ戦の時代を描いた。
そして前作『我が友イワン・ラプシン』ではスターリンの大粛清前の平和だった時代を描く。
それを受けて、16年のインターバルを経て完成した今作では、
そのスターリンの時代が終わり、来たるべき次の時代の足音を描いているのである。

ゲルマンはあえて本丸を描かずに、その出来事の周辺に漂う普通の人々の人間模様を描いて来たが
今作もその基本的テイストはまったく変わらない。

スターリンと執行部の政治やユダヤ人の虐待そのものを描こうとはしていない。
あくまで社会や政治に翻弄された一般人の目から見た旧ソ連を何の誇張もなしに描いている。
それが今作ではたまたまスキンヘッドの名医だったに過ぎない。

今作が一度観ただけではなかなか理解し難いのは、
シークエンスごとに登場するサブ・キャラクターたちをそれぞれ理解しようとするからである。

『我が友イワン・ラプシン』のエントリでも書いたが、
たった一つのシークエンスにしか出演のないエキストラがそれこそ無数にいる。

主人公とその半径数mのところにいる登場人物だけを追っていれば良いのである。
そこで様々なキャラクターに脱線すれば、それこそキリがない。
底なし沼のようなゲルマンのトリックにはまってしまう。

前作『我が友イワン・ラプシン』でも室内のシーンでP.O.V.による執拗な長回しがあったが、
今作ではそれを更にスケール・アップさせ室内でも室外でもお構いなしにやっている。

このカメラの前を忙しなく動き回る主要な登場人物やエキストラをカメラに収めようとすれば、
当然、事前に緻密なリハーサルによる計算が要る。

こういう終始動き回る演出というのは、当然プロの役者でも難しいはずだが、
ゲルマンの映画はエキストラの端役さえも計算通りに動いているように見える。

前作はカメラを意識せざるを得ないがゆえに、度々演者たちはカメラの方に目線を向けた。
それでもゲルマンはお構いなしに芝居を続けた。

それが16年を経た今作では、演者がカメラを見る場面が一度も出て来ない。
より完璧により緻密に、人物の動線やカメラの動きには用意周到な計算をしている。

そのルールが例外的に破られる場面が一つだけある。
ユダヤ人の少年が高らかに歌を歌う場面である。

この映画の数年後に同じロシアのソクーロフで
『エルミタージュ幻想』という素晴らしい作品があったが
明らかに今作のシークエンスごとの長回しに触発されてのものだろう。

今作でも狭い空間に侵入するカメラや市電と並走する車や楽隊の演奏のパン撮影など
ゲルマン作品に通底するイメージが至る所に出て来る。

愛する女の住居への侵入は、ゲルマン作品の醍醐味でもある。
第一部のクライマックス前の主人公の愛の告白からは目が離せない。
ゲルマン作品ではいつだって男が気障で、女は情に厚い。

第二部の冒頭、生け捕られた主人公は口笛を吹く。
その後、拷問の末辛くも釈放された主人公は、遠くの陸橋を走る汽車を眺める。

クライマックスでも、この列車の到着と次の場所への移動が再び出て来る。
ゲルマンの映画では、この列車の移動が旧ソ連の歴史を横断するかのように執拗に描かれるのである。

前作までは1時間30分程度にまとめられていたフィルモグラフィが
今作で一気に2時間を越える長尺になる。

これはペレストロイカ以降の映画だということが一番大きい。
政府に抑圧され、弾圧されたゲルマンのフラストレーションが
映画の中で一気に噴出し、大きなうねりとなって溢れ出した。

この傾向は遺作となった『神々のたそがれ』まで続く。
これまで旧ソ連の歴史に執拗に拘泥し続けたゲルマンが、
時代や場所という概念から解き放たれ、観たこともないSFを練り上げてしまった。

その事実に、我々シネフィルはただただひれ伏すのみである。

【第82回】『わが友イワン・ラプシン』(アレクセイ・ゲルマン/1984)


処女作『道中の点検』と同じように
実父ユーリー・ゲルマンの短編小説を元にした作品でありながら、
これまでの2本の戦争映画と違うのは、
この映画が猟奇殺人犯を追ういわゆる刑事ものであり、犯罪映画だということである。

それもいわゆるハリウッド映画の紋切り型の刑事ものや犯罪映画とは一線を画す
画期的な手法を用いている。

今作もまた非常に物語が難解なので 笑、まずはあらすじを説明したい。

物語はある男の少年時代の回想で幕を開ける。
少年の父親は刑事で、アコーシキンとイワン・ラプシンという同僚刑事たちと
警察の宿舎で生活していた。

その頃、街では死刑判決をうけた脱獄囚ソロビヨフが
度々殺人事件を引き起こしており、
ラプシンたちは彼を捕らえようと必死だった。

やがて新進女優のナターシャと出会い、
ハーニンというラプシンの友人の記者も混じり、
ラプシンとハーニンとナターシャの奇妙な三角関係が始まり、
脱獄囚ソロビヨフの捕物も徐々に展開を見せるという物語である。

冒頭、カラーで始まったこの映画は、
すっかり老人となってしまった語り手の老人の姿を映し出す時、急にモノクロになる。

パート・カラーがどういう意図で用いられたのかはわからないが、
冒頭、カラーからモノクロに転じた後、
しばらくモノクロ映像が続くが、ナターシャとの出会いの場面で急にカラーになる。

室内をカットを割らず、手持ちカメラのP.O.V.撮影で描いたタイトルバックが素晴らしい。
大衆演劇の身振り手振りで始まるタイトルバックは、両サイドをぼやかし、
あえて光量を鈍らせて撮ることで、戦前の映画のような視覚効果を及ぼしている。

1930年代を描いた物語は、第二次世界大戦の時期を題材とした前2作とは
まったく別の空間になっている。

歴史的に見るとそこはロシアの空白期にあたり、
スターリンの大粛清の前の平和な時代とされている。

この映画の登場人物たちには、
連続殺人犯を追いかけながらも、どこか楽天的な雰囲気が漂う。
密告するよと冗談を言ったり、次に来る大粛正の時代にまったく気付いていない。

それが一番端的に現れているのは、食卓での大合唱と口笛である。
今作は陰鬱な題材を扱いながら、陽気な口笛映画とも言えるのである。

冒頭の少年の回想には
「今では考えられない貧しい暮らし。通りはいつも冷たい風が吹いていた。
そんな環境でも私たちは不自由を感じることもなく、助け合って生きていた」とある。

これはスターリンの大粛正により、
彼らの自由な暮らしが、一転して不自由になってしまったことを明示している。

実父の書いた原作小説は、今でいうところの
ヒーローが悪を裁くような典型的な刑事ものとしてシリーズ化された人気小説だったが
ゲルマンの描き方はイワン・ラプシンを典型的な2枚目としては描いていない。

典型的な犯罪映画ならば、彼がいかに優秀な刑事であるかを描写し、
恋愛や友情など全ての出来事が成就するような万能な人物として描かなければならないはず。

しかしゲルマンは、ナターシャへの愛に対しても、脱獄囚ソロビヨフの捕物に対しても
常に苦悩し続ける実にリアリティのある人物像を築き上げている。

カメラの動きは前2作を遥かに凌ぐ機動性と有り得ないショットの連続である。

おそらく室内の人物の移動に関しては、相当念入りにリハーサルを行ったものと考えられる。
今作もまた主要キャストのほとんどは皆素人で、
演技指導も大変な上に、人物の移動に関しても完璧さを求める。

ほとんどの画面の中に、その場限りの人物が映っているのだが、
そのエキストラの1人1人の動きに関しても、指示を送っているような
絵画的なショットを携えた完璧なシークエンスの連続には驚きを覚える。

特に素晴らしいのは、ハーニンがピストルで自決しようとしたものの、
なかなか死に切れず、そこから様々な人物が入れ替わり立ち替わり現れる場面である。

アメリカ映画のようにショットとショットを手早く積み上げていくようなことは一切せず。
その空間にいる人間のそれぞれ別個の生理をもれなく捉えようと、
カメラが忙しなく動き回るのである。

今作でも印象的な列車が出て来る場面がある。
ナターシャとの再会の場面、ラプしンがバイクで市電と並走し、
ナターシャの到着を待つ。
ラスト・シーンも窓を開けると、楽隊を乗せた電車がやって来る。
ゲルマンの映画では列車の到着や帰還が強い意味を持つ。

クライマックス前、舞台が滑って傷心のナターシャに
ラプシンが住居の外壁をよじのぼり、会いに行くシーンが素晴らしい。

ここでハッピー・エンドになるのかと思いきや、現実は世知辛い。
前作では成就した恋愛が、ここではものの見事に散ってしまっている。

今作は犯罪映画でありながら、犯人を対峙するのは
クライマックスのほんの一瞬のみで、
それ以外はほとんどイワン・ラプシンの人間関係が描かれる。

忙しない大胆さが頂点に向かうのはクライマックスの大捕物の場面である。
ある一つの施設を包囲するためにラプシン以下刑事たちが
住居を取り囲むようにして、徐々に犯人を追いつめるのだが、
そこでのカメラの動きが通常の劇映画としては有り得ない動きを見せる。

カメラがもともと撮影していた人間を追い抜いて、施設の奥へと向かうのである。
そして今度は施設から人間を捕まえて、外に連れ出す瞬間を回転して撮影する。
実にユニークでドキュメンタリーのような撮影方法である。

またソロビヨフの凶行シーンも、一瞬何が起こったのかほとんど判別出来ない。
ここはカットを割らなければアクションとしての厚みは生まれないが、
ゲルマンはあえてワン・シーンの長回しで凶行の現場も撮るのである。

ラプシンは、脱獄囚ソロビヨフを逮捕することが、
自分たちを楽園に向かわせる行為だと信じてやまない。

しかしスターリンの粛清により、犯人逮捕に沸く現場には暗い未来が待っている。
そのことを暗示しながら、あえて本丸は描かないゲルマンの反骨精神が息づいている。

初めて観た時は、その圧倒的迫力とカメラワークに度肝を抜かれた。
観終わる頃には、素人役者のイワン・ラプシンにすっかり心を奪われていた。
管理人のオールタイム・ベストの1本であり、ゲルマンと言えば真っ先に今作を推す。

【第81回】『戦争のない20日間』(アレクセイ・ゲルマン/1976)

従軍記者ロパーチンの目から見た独ソ戦の様子を
あえて戦争のない20日間に説いたゲルマンの戦争のない戦争映画の傑作

今作もまた非常に物語が難解を極めるのだが、おおよその展開をここに記したい。

独ソ戦の激戦もさめやらぬ42年~43年の20日間、
従軍記者であるロパーチンは戦線から遠く離れたタシケントを訪れる。

女優である彼の妻には既に別の男がおり、
その男と生活をする妻に会うことを目的としての旅だった。

次に自らの従軍記が映画化される現場を訪ねると、
そこで繰り広げられる映像のリアリティの無さにガッカリしてしまう。

タシケントの道中で、ロパーチンは偶然列車で一緒だった女と再会する。
彼女にはまだ幼い子供と年老いた母親がいて、劇団の衣装係として懸命に頑張っている。

女との触れ合いの中で、束の間の安息の日々を得たロパーチンだったが
再び戦地に戻らなければならない日がやって来るのだった。

冒頭の10分とクライマックスの10分間のみ戦地の激烈な様子が伝えられ、
あとの1時間10分は休暇に向かう兵士達の様子と
それを向かい入れる家族や一般市民の様子を丁寧に描いた作品である。

列車の中では、大佐が妻の浮気の愚痴を延々と話し、
それを少し嫌そうな表情で聞く従軍記者ロパーチンだったが
実は自分も妻との離婚が避けられない状況に追い込まれている。

独ソ戦の過酷な状況の中、戦争から帰っても決してハッピーエンドではない。
そのことを幾分皮肉まじりにゲルマンは描いている。

自分の語りが映像になるという何とも幸せな現場を訪れても
スターリングラードの過酷な環境との隔たりに再度落胆してしまう。

兵器製造工場のプロパガンダのためにスピーチを買って出るが、
劣勢に立たされるスターリングラードの過酷な環境を思うとカラ元気しか出て来ない。

人を殺すときの気持ちを聞いて来る老婆がいたり、
兵士ではない一般市民はあまりにも兵士に対する尊敬の念がない。

これらの描写は第二次世界大戦中というのは、
国民は実際の戦場の力関係を知る術がなかったということを証明している。

一説によれば、旧ソ連では最終的に2000~3000万人もの人間が死んだという。
これは第二次世界大戦の一国の死亡者の数では最高であり、いかに悲惨な戦争だったかがわかる。

『アメリカン・スナイパー』のように
この頃はまだPTSDなどの精神疾患の症状は表に出て来ない時代だった。

けれどこの従軍記者の失望感は、PTSDに類推された症状のように描かれていく。
後半、家族が写真を撮る幸せな姿を目撃した時、ドイツ軍の砲弾のイメージが一気に襲いかかる。

顔中、血が流れるロパーチンだったが、それは全て戦地のフラッシュ・バックなのである。

やがて運命的な再会を果たした女に主人公は恋をする。
女といい仲になりかけるが、4ヶ月間戦地から便りが来ないという母親に阻まれる。

彼女と初めて抱き合う場面のカメラの動きが実に素晴らしい。
マーチング・バンドと横の構図で並走しながら、曲がり角で縦の構図でゆっくり進行し
女と抱き合うロパーチンの姿をロング・ショットで捉える。

休暇は20日間でも、スターリングラードからタシケントに来るまでは
実際に行きの列車に7日間、帰りの列車に7日間かかる。

賞味6日間しかない濃密な時間の中で、女と会う最後の1日の濃厚さが素晴らしい。
目覚めてふと女の部屋に行くと、軍服にアイロンがかけられている。
ニキータ・ミハルコフの『五つの夜に』でも悲劇のヒロインを演じた女の気丈な表情が素晴らしい。

男は精一杯の気障で、女は精一杯の愛情でそれに応える。
別れの瞬間の美しさが彼女の息子の声かけであっけなく終わるが、
その別れのシーンの美しさは筆舌に尽くし難い。

戦場に戻れば、また生と死の紙一重のところで生きていかなければならない。
クライマックスのドイツ軍の砲撃のシーンが過酷な現状を伝える。
あと3発で終わればという主人公の言葉に、ゲルマンのユーモアが滲む。

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