【第934回】『揺れる大地』(ルキノ・ヴィスコンティ/1948)


 シチリア島にある小さな漁村アーチ・トレッツァの朝は早い。漁師たちは日の出前、朝4時頃に海へ出て行く。漁師の男たちの生活のリズムに巻き込まれ、女たちの朝も必然的に早くなる。ヴァラストロ家の長男のアントーニ(アントニオ・アルチディアコノ)は兵役帰りで、父親の船に同乗し、大海原へ出て行く。大漁だろうが不漁だろうが、魚を獲る網や船を直すのは全て漁師の責任で、仲買人たちが売り上げの大半を持って行く。アントーニは漁師たちが仲買人の不当な搾取に遭い、貧しい暮らしに甘んじているのが我慢出来ず、独立を考えていた。アントーニは恋人のネッダ(ローザ・コンスタンツォ)との愛を育む一方、左官職人のニコラ(ニコラ・カストリーノ)は、アントーニの妹で長女のマーラ(ネッルッチャ・ジャムモーナ)に好意を持っている。次女ルチア(アニェーゼ・ジャムモーナ)はヴァラストロ家のはにかみ屋で、ムードメイカーだった。ある日、漁から大量の魚を持ち帰ったアントーニたちは、仲買人たちに足元を見られ、安く買い叩かれたのを契機に、家を抵当に入れ銀行の融資を受け、個人事業主として独り立ちする。ビギナーズ・ラックの大量のイワシ、一躍アーチ・トレッツァの村の成功者に成り上がったかに見えたアントーニは、大シケの朝、無理矢理に漁に出たことで全てを失う。

 今作が描くのは、搾取する者とされる者の関係性に他ならない。戦後、村社会の封建的なムードを維持したまま、鎖国的に生きる島国シシリーに、兵役で他所者と交わり、外部から故郷を見つめたアントーニの自我が目覚める。兵役帰りのアントーニの決断は、『若者のすべて』における三男ロッコ(アラン・ドロン)の決断にも呼応する。同じ日の繰り返しのような封建的な漁村の暮らし、搾取されるがままに考えもなく生きることも出来るのだが、アントーニは自身が搾取され続けるのを良しとは思わない。貴族出身のヴィスコンティは単身渡ったフランスでジャン・ルノワールの薫陶を受け、左翼思想に感化されイタリアに戻る。処女作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』から『若者のすべて』に至る初期のフィルモグラフィは、搾取する者とされる者の構造や階級闘争、権力闘争を労働者階級の立場から描いている。男たちのクローズ・アップも印象に残るが、それ以上に鮮明になるのは男たちの運命に翻弄される長女のマーラや次女ルチア、そして恋人のネッダの姿であろう。女たちは結婚という人生のゴールを夢見ながら、堕落する男たちの歩みに翻弄される。今作はロケーション主体の撮影スタイル、非職業俳優の大胆な起用、6ヶ月に及んだ撮影期間、シシリー訛りの起用により、物語的ではない根源的なリアリズムを突き詰める。ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』や『戦火のかなた』、ヴィットリオ・デ・シーカの『靴みがき』や『自転車泥棒』と比肩し得るネオレアリズモの歴史的作品である。

【第932回】『若者のすべて』(ルキノ・ヴィスコンティ/1960)


 ミラノ駅に降り立つ列車を格子越しに捉えたロング・ショット、1955年のある晩、パロンディ家の当主である母親ロザリア(カティナ・パクシヌー)は、次男シモーネ(レナート・サルヴァトーリ)、三男ロッコ(アラン・ドロン)、四男チーロ(マックス・カルティエ)、末っ子のルーカ(ロッコ・ヴィドラッツィ)を連れてこの地へやって来る。南部のバジリカータ州ルカニアから、遠い北部の都市ミラノへ。一家は長男ヴィンチェンツォ(スピロス・フォーカス)を頼りにこの地へやって来ていた。だが長男の迎えはなく、終点ランブラーテへ向かうバスからの景色を不安げに見つめる兄弟たちの姿。一方その頃ヴィンチェンツォは恋人ジネッタ(クラウディア・カルディナーレ)との婚約祝いのパーティの真っ最中だった。寄る辺なきまま、息子たちとそこへ転がり込んだロザリアたちは、ジネッタの母親と大喧嘩を繰り広げ、部屋を追い出される。ヴィンチェンツォも追い出されたことによる久しぶりの兄弟5人揃っての生活、5人兄弟はそれぞれの生き方を模索しながら、ミラノでの新生活をスタートさせる。ボクサーとしての素質を買われたシモーネは、退廃的な娼婦ナディア(アニー・ジラルド)と恋に落ちる。それから数ヶ月後、ロッコに徴兵の声が掛かる。

 田舎町からミラノへやって来たパロンディ家は、大黒柱となる父性の不在を抱えている。肝っ玉母さんであるロザリアは5人の男の子を生みながら、男系家族の長として振る舞うが、平和な日々は長くは続かない。長男の拳闘の夢にたまたまついていった次男と三男も同じくボクシングの門を叩くが、2人の拳闘への姿勢は実に対照的だ。シモーネはその腕を見込まれ、すぐに娼婦の彼女が出来るが、暴力が苦手なロッコはボクシングとは一定の距離を置きながら、女だらけのクリーニング屋で、店主のルイーザ(シュジー・ドレール)に鍛えられている。だが露悪的で堕落したシモーネにより、ロッコは働き口を追われる。やがて兵役の時が来たロッコと、ケガにより兵役を免れながら、人を殴る職業を選択したシモーネとの強烈な対比。それから1年2ヵ月後、堕落したカップルの片割れナディアはロッコの正義感に駆られた寂しげな瞳に恋をする。英国ホテルに泊まるという淡い夢、クリーニング屋の店主ルイーザから奪い取ったシルバーのブローチ、シモーネがこしらえた40万リラの借金とサングラスを外すナディアの左目を伝う涙。いつかオリーブの国に戻るというロッコの勇ましい宣言により、パロンディ家は一旦は再生したかに見えるものの、堕落したシモーネの蛮行が全てを黒く塗り潰す。イタリア国内の都市部と田舎との経済格差、崩壊した偽りの家族制度を鋭くえぐった今作は、『太陽がいっぱい』と並ぶアラン・ドロン絶頂期の傑作であり、ヴェネツィア国際映画祭で見事、審査員特別賞を受賞した。

【第931回】『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(ルキノ・ヴィスコンティ/1942)


 イタリア北部を横断するトラックの車中、道はまだまだ整備されず、段差のある凸凹道をトラックは走る。ポー川沿いのレストラン「ドガナ」の前で停まると、運転手は「ガソリンをくれ」と喚き散らす。ガソリン・スタンド兼軽食堂の店主ブラガーナ(ファン・デ・ランダ)はゆっくりと外に出て来る。猛烈な喉の渇きを潤し、トラックの後ろ側に回った運転手は、干し草を積んだ荷台の上にジーノ(マッシモ・ジロッティ)を見つける。サスペンダーに白いTシャツを着た放浪者じみた男は悪びれもせず、軽食堂の中へ入り、ただ飯にありつこうとする。無人の店内、キッチンの奥からは美しい歌声が聞こえ、ジーノは吸い込まれるように中へ入る。そこにはブラガーナの歳の離れた美しい妻ジョヴァンナ(クララ・カラマイ)が厨房の上に腰掛け、マニキュアを塗っていた。その艶めいた姿にジーノは心奪われる。ただ飯をくらい、言いなりで働くジーノは狡猾にブラガーナを1時間外に連れ出し、ジョヴァンナにアプローチする。女は満たされた表情を浮かべながら、脂ぎった店主のブラガーナとの結婚を悔いる。数週間後、ジョヴァンナと駆け落ちを決意したジーノだったが、女は途中でへたり込み、地べたに座る。大声で名前を呼ぶジョヴァンナだが、ジーノの背中は徐々に遠くなって行く。

 フランスの巨匠ジャン・ルノワールの弟子として映画の世界へ入ったイタリアの貴族の三男ルキノ・ヴィスコンティの記念すべき長編処女作。当初イタリア人の作家ジョヴァンニ・ヴェルガの『グラミニヤの恋人』の映画化を模索していた若き日のヴィスコンティだったが、文化省の検閲により断念。今作はアメリカの小説家ジェームズ・M・ケインの同名小説をルノワールがヴィスコンティに猛烈に推薦したことから処女作となる。偶然ポー川付近の街にやって来た流れ者の男と、つまらない男との結婚に後悔の念を抱く若女将との激しい恋は燃え上がり、やがて一つの悪魔的な結論に達するのだが、後味の悪い結末に男は途端に精気を無くす。ひと1人死んでもまったく悪びれない悪女ジョヴァンナとは対照的に、前途洋洋だったはずの放浪者の神経症的な病巣が滲み、ただひたすら病む。死人の目に恐怖感すら感じる男に対し、女は大金を手にするまではこの街に留まろうと嘯く。同じく放浪者であるスペイン(エリオ・マルクッツォ)とのシンパシーと友情、そして裏切り。黒衣に身を染めたファム・ファタール然としたジョヴァンナに対し、白い衣装を纏ったコーラス・ガールのアニータ(ディーア・クリスティアーニ)の姿だけがジーノの唯一の逃げ場所となる。ファシスト体制下のイタリアにおいて、堕落した男女の犯罪映画を撮ったヴィスコンティは当局にもムッソリーニにも睨まれるが、全編ロケーション撮影を施した撮影スタイル、三角関係を巡る愛欲と官能のドラマは「ネオリアリズモ」誕生のきっかけとなり、後のヌーヴェルヴァーグに多大なる影響を与えた。

【第89回】『若者のすべて』(ルキノ・ヴィスコンティ/1960)


父の死を期に、南部から一番上の兄貴を頼って
大都会ミラノに移住して来たとある家族の物語を
徹底したリアリズムで描いた3時間の壮大な叙事詩。

貧乏で住むところもないが、5人兄弟全て男の子という家系で
母親は典型的な肝っ玉母さんなのだが、
その実気性が粗く、情緒不安定な女性像として描かれる。

長男ヴィンチェンツォは先にミラノに出稼ぎで暮らしており、
家族に内緒で恋人との結婚パーティで婚約を結んでいた。

次男シモーネはそのヴィンチェンツォの付き添いで訪れたボクシング・ジムで
そのボクシング・センスを買われ地元の有力者に引き抜かれる。

三男ロッコはクリーニング店でバイトをしているが、
程なくしてバイトを辞め、兵役に向かう。心優しい男で兄弟の中では一番繊細である。

四男はイタリアの自動車製造会社アルファ・ロメオの技師としてエリート・コースを歩んでいる。
そして五男はまだ学業も終わらない子供である。

映画はこの5人兄弟のそれぞれの生き様を通して、
当時イタリアが抱えていた様々な問題をあぶり出していく。

決して甘っちょろい青春群像劇ではない。
おそらくビスコンティにとっても最後のネオレアリスモであり、
この後ブルジョワに舵を切る前の若者の苦悩と成長とが
圧倒的リアリティで観る者に迫って来る。

主演を務めたのはフランスの名優アラン・ドロンで
同時期に撮影されたルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』と共に
ドロンの初期代表作とされるナイーブかつ繊細な演技を披露している。

5人兄弟の真ん中で、議論やケンカを好まない穏やかな人間だった彼は、
女だらけのクリーニング屋では子供としてあしらわれる。

それに対して次男のシモーネはすすんでボクシングにいそしむが、
まったく努力をしようとしない。

娼婦の女に入れあげ、自分が金持ちになった気でいる典型的な勘違い野郎で
5人の兄弟の中で唯一、破滅的な人間として描かれている。

結局、その三男のクリーニング屋の仕事も、
次男が引き起こしたトラブルが原因で、クビ同然で放り出される。

この時兄に注意をしておけば、その後の転落は無かったのかもしれない。

ここから三男が兵役に向かうのだが、物語の省略の仕方が実に素晴らしい。
母親からの便りを港で読み上げるドロンの姿が映し出されながら、
刻々と時間が進んでいくのである。

2年に及んだ兵役生活から帰還後、偶然にも三男ロッコの女だった娼婦と再会を果たす。
BARで簡単に語り合う2人だったが、ロッコの言葉に娼婦は一粒の涙を流す。

サングラスごしにしかわからないほんの些細な描写の中に
愛の始まりや再起を賭ける女の決意が現れた実に活き活きとしたショットである。

2年前に別れた娼婦が、自分の弟と付き合っていると知った時の
次男の狼狽ぶりと嫉妬に駆られた男の怖さを綴ったレイプのシークエンスは
イタリア映画史上最も野蛮で最も悲しい場面である。

モノクロで綴られたショットの一つ一つが、夜の闇の中でより一層悲しみを増す。
1960年に撮られた映画としては、圧倒的にショッキングな場面になっている。

悲しみに暮れる女の後ろ姿とその後の兄弟の彷徨うような歩き方に
ビスコンティのリアリティを追求する厳しい姿勢が見える。

その後の次男の転落ぶりは、三男のボクシングでの活躍と対比して描かれる。
北野武が『キッズ・リターン』でオマージュを捧げた名シーンで
心と身体、静と動、愛と憎しみのクロス・カッティングが
まるで天使と悪魔のように善悪という二面性を描写するように提示される素晴らしい場面である。

映画は冒頭部分で、婚約パーティの会場で落ち込む母親の姿を描いたいたが、
クライマックスでも三男ロッコの祝勝パーティの現場に、疲弊した次男という異物を持ち込む。

喜怒哀楽の目まぐるしい動きや、
感情の揺れをありのままに表現するビスコンティの表現の説得力にはただただ驚嘆する。

そして次男の娼婦殺害シーンには
後のジャーロ・ブームを予感させるような
目を覆いたくなるような残酷な描写がされていることにも注目せねばならない。

何よりもアラン・ドロンのストレートな繊細さを堪能する映画であり、
イタリアン・ネアリスモ最後期の作品としても目を通すべきヴィスコンティの傑作である。

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