【第89回】『若者のすべて』(ルキノ・ヴィスコンティ/1960)


父の死を期に、南部から一番上の兄貴を頼って
大都会ミラノに移住して来たとある家族の物語を
徹底したリアリズムで描いた3時間の壮大な叙事詩。

貧乏で住むところもないが、5人兄弟全て男の子という家系で
母親は典型的な肝っ玉母さんなのだが、
その実気性が粗く、情緒不安定な女性像として描かれる。

長男ヴィンチェンツォは先にミラノに出稼ぎで暮らしており、
家族に内緒で恋人との結婚パーティで婚約を結んでいた。

次男シモーネはそのヴィンチェンツォの付き添いで訪れたボクシング・ジムで
そのボクシング・センスを買われ地元の有力者に引き抜かれる。

三男ロッコはクリーニング店でバイトをしているが、
程なくしてバイトを辞め、兵役に向かう。心優しい男で兄弟の中では一番繊細である。

四男はイタリアの自動車製造会社アルファ・ロメオの技師としてエリート・コースを歩んでいる。
そして五男はまだ学業も終わらない子供である。

映画はこの5人兄弟のそれぞれの生き様を通して、
当時イタリアが抱えていた様々な問題をあぶり出していく。

決して甘っちょろい青春群像劇ではない。
おそらくビスコンティにとっても最後のネオレアリスモであり、
この後ブルジョワに舵を切る前の若者の苦悩と成長とが
圧倒的リアリティで観る者に迫って来る。

主演を務めたのはフランスの名優アラン・ドロンで
同時期に撮影されたルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』と共に
ドロンの初期代表作とされるナイーブかつ繊細な演技を披露している。

5人兄弟の真ん中で、議論やケンカを好まない穏やかな人間だった彼は、
女だらけのクリーニング屋では子供としてあしらわれる。

それに対して次男のシモーネはすすんでボクシングにいそしむが、
まったく努力をしようとしない。

娼婦の女に入れあげ、自分が金持ちになった気でいる典型的な勘違い野郎で
5人の兄弟の中で唯一、破滅的な人間として描かれている。

結局、その三男のクリーニング屋の仕事も、
次男が引き起こしたトラブルが原因で、クビ同然で放り出される。

この時兄に注意をしておけば、その後の転落は無かったのかもしれない。

ここから三男が兵役に向かうのだが、物語の省略の仕方が実に素晴らしい。
母親からの便りを港で読み上げるドロンの姿が映し出されながら、
刻々と時間が進んでいくのである。

2年に及んだ兵役生活から帰還後、偶然にも三男ロッコの女だった娼婦と再会を果たす。
BARで簡単に語り合う2人だったが、ロッコの言葉に娼婦は一粒の涙を流す。

サングラスごしにしかわからないほんの些細な描写の中に
愛の始まりや再起を賭ける女の決意が現れた実に活き活きとしたショットである。

2年前に別れた娼婦が、自分の弟と付き合っていると知った時の
次男の狼狽ぶりと嫉妬に駆られた男の怖さを綴ったレイプのシークエンスは
イタリア映画史上最も野蛮で最も悲しい場面である。

モノクロで綴られたショットの一つ一つが、夜の闇の中でより一層悲しみを増す。
1960年に撮られた映画としては、圧倒的にショッキングな場面になっている。

悲しみに暮れる女の後ろ姿とその後の兄弟の彷徨うような歩き方に
ビスコンティのリアリティを追求する厳しい姿勢が見える。

その後の次男の転落ぶりは、三男のボクシングでの活躍と対比して描かれる。
北野武が『キッズ・リターン』でオマージュを捧げた名シーンで
心と身体、静と動、愛と憎しみのクロス・カッティングが
まるで天使と悪魔のように善悪という二面性を描写するように提示される素晴らしい場面である。

映画は冒頭部分で、婚約パーティの会場で落ち込む母親の姿を描いたいたが、
クライマックスでも三男ロッコの祝勝パーティの現場に、疲弊した次男という異物を持ち込む。

喜怒哀楽の目まぐるしい動きや、
感情の揺れをありのままに表現するビスコンティの表現の説得力にはただただ驚嘆する。

そして次男の娼婦殺害シーンには
後のジャーロ・ブームを予感させるような
目を覆いたくなるような残酷な描写がされていることにも注目せねばならない。

何よりもアラン・ドロンのストレートな繊細さを堪能する映画であり、
イタリアン・ネアリスモ最後期の作品としても目を通すべきヴィスコンティの傑作である。

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