【第203回】『狂気の愛』(アンジェイ・ズラウスキ/1985)


つい先日、ロカルノ国際映画祭でのアンジェイ・ズラウスキーの監督賞受賞のニュースを聞き、何だかとても嬉しくて懐かしい気持ちになった。今年75歳になる監督が、ホン・サンスや我らが濱口監督と同じ土俵に立ち、そこで15年ぶりの新作を上映し、見事なカム・バックを果たす。21世紀においてはもはや誰も名前を出さないものの、アンジェイ・ズラウスキーの名前や映像は忘れた頃に思い出す強烈なインパクトがあった。少なくとも80年代には神格的な響きを放っていた。数年前に我々は同じような現場を目撃している。スコリモフスキのカム・バックである。『Ferdydurke』からおよそ17年ぶりの新作となった『アンナと過ごした4日間』で東京国際映画祭に帰ってきた時、私は同じように興奮し、スコリモ兄貴のカムバックを祝った。スコリモフスキと同じようにポーランドという国に生まれ、様々な検閲に遭い他国に亡命し、近年は寡作となり10数年ぶりの新作を完成させたという意味でも、75歳のズラウスキーと77歳になるスコリモフスキには驚くほど共通点がある。ヨーロッパ映画特有の狂気じみた過激さもこの2人の作家の特徴であろう。社会通念を超えたところにある人間の狂気じみた世界を描かせたら、ズラウスキーとスコリモフスキの右に出るものはいないと断言したくなるくらい2人の先鋭的な姿勢にはいつも心打たれている。

アンジェイ・ズラウスキーの代表作と言えば、かつてこの連載でも取り上げた『ポゼッション』だろう。自らの自伝的体験を強烈なイメージに落とし込んだこの映画はイザベル・アジャーニにとっても代表作であり、いまだに大きな存在感を放っている。ズラウスキーは傑作『ポゼッション』の後、ロシアの文豪ドストエフスキー原作で2本の映画を立て続けに撮っている。一つはに『悪霊』を原作に用いた84年の『私生活のない女』であり、もう一つが『白痴』を映像化した85年の今作である。1986年、パリ。ハンガリーからやって来た一文無しのプリンス、レオン(フランシス・ユステール)と、その親友で強盗を働いてきた与太者ミッキー(チェッキー・カリョ)。ミッキーの目的は二つ。七年間の刑期を終えて出所した父親に出所祝いを用意することと、愛する女マリー(ソフィー・マルソー)を手に入れること。だが、マリーはパリの暗黒街を仕切っているヴナン兄弟に囲われている身である。ミッキーとレオンはヴナン兄弟のアパルトマンを襲撃しマリーを奪還した。そして、ジルベール、エドガーとヴナン兄弟を殺し、兄弟の頂点に君臨するシモンを探す。

とにかく映画は冒頭からクライマックスまで登場人物たちの感情は常に高ぶり、少しも落ち着くことがない。タイトル・バックでディズニー・キャラクターのお面を被った主人公たちが意気揚々と銀行を襲った後、街をはしゃぎながら列車でハンガリーからフランスへ渡る様子が描かれるのだが、この時の高揚感のまま映画はクライマックスまで全速力で走っていく。ここまでテンションが持続する映画は、私の記憶ではヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』くらいしか思い浮かばない。あの映画と今作は退廃的な雰囲気や映画全体の肌触りが非常によく似ているところがある。通常のハリウッド映画であれば、喜怒哀楽の感情を上手くコントロールしながら役者たちは自分の思いや感情を乗せていくが今作では最初から最後まで最高のテンションでがなり続け、互いの意思を行動で示し合う。

ある種ショットの積み重ね方とか、手持ちカメラの忙しないテンションも、役者の演技に呼応し、それに同調しかねない異様なテンションの高さを生んでいる。監督が役者に求めるテンションは明らかに常軌を逸しており、これにはソフィー・マルソーを始め、ユステールもカリョも脇役たちもかなり無理をしてテンションを高めたのは容易に想像がつく。

思えばドストエフスキーの『白痴』ではムイシュキン公爵だけが、純真さと対照的な異常さを纏う人物として描かれていたが、今作では出て来る人物全員が異様な人物だから主人公の異様さは際立って見えない 笑。ミッキーもマリーもレオンと同じようにタガが外れた人物でしかないし、タイトルにもあるように狂気の愛を貫こうともがき続ける三角関係の物語に無理矢理ドストエフスキーの『白痴』の設定を加えた感は否めない。そもそも今作を一度観ただけで、登場人物たちの関係や物語の進行がしっかり見えた人はかなりの映画上級者であり、シネフィルの中のシネフィルだと断言する。彼らが映画の中で起こすアクションの動機や必然性などさっぱりわからないまま、物語は矢継ぎ早なショットと共に性急に提示されるのみで、感慨や余韻に浸る余裕はどこにもない。けれどそれこそがアンジェイ・ズラウスキー映画の大きな魅力であり、旨味となっている。

わかのわからない銃撃戦や、いつ心に植え付けられたのかわからない復讐戦がそこかしこで繰り広げられ、分裂症気味な物語と登場人物たちの行動は姿形を目まぐるしく変えていく。今作はその異様なエネルギーを体感すべきであり、あらすじがわからなかったとかぶぅたれるのはまったくのナンセンスであろう。

当時はアンジェイ・ズラウスキーの名前などわからずに、多くの日本人がソフィー・マルソーのヌード目当てで観に行ったし、配給会社にもビデオ・メーカーにもそこまでしてアンジェイ・ズラウスキーの作品を見せなければならないという使命感はなかったはずだが結果的にはソフィー・マルソーの力を借り、DVDはいまだに絶版にならずに供給され続けていることに映画の持つ特有の運命を思わずにはいられない。ズラウスキーの1番のオススメはと聞かれたら今作ではなく『ポゼッション』 をオススメするが今作も偏愛映画の一つとしてラインナップには是非とも加えたい一本である。個人的にはこの後のフィルモグラフィはホラーというジャンル映画に収まってしまい、そこまで強烈な感触を得ることはなかったが、『ポゼッション』と今作はぶっ飛び具合が突き抜けている。

【第90回】『ポゼッション』(アンジェイ・ズラウスキー/1981)


国家機密の潜入捜査官として単身赴任していた夫が
久方ぶりに妻と幼い息子の待つアパートに帰ると、妻に突然別れを切り出される。

ストーリーとしては大雑把に言えば大体そんな感じなのだが、
この映画はそんなに単純な映画ではない。

冒頭、薄曇りでどんよりとした無人のショットで映画は幕を開ける。
東西分裂の象徴となったベルリンの壁を夫が車の中から眺めるという
非常に重厚かつ不穏なタイトルバックが流れた後、
久方ぶりの再会の喜びもないまま、言い争う夫婦の姿が描かれる。

夫は妻の帰りを待つが、妻は帰って来ない。
前半部分は夫が積極的に電話でコンタクトを取る様子が執拗に描かれる。

妻への疑念から探偵を雇い、不倫相手を見つけるまでは
古今東西の「不倫」を題材にした作品とまったく同じであるが、
この映画はその先に驚くべき展開が待っているのである。

後にこの映画の主演を務めたフランスを代表する女優イザベル・アジャーニと
不倫関係の末、息子を1人もうけたブリュノ・ニュイッテンのカメラワークが素晴らしい。

ズラウスキーの中にあるショットの意識を、見事なまでに具現化したショット群。
部屋の中でのケンカという心理的葛藤を常に忙しなく前進したり後退することで
その喜怒哀楽を余すところ無く伝えている。

まるでイザベル・アジャーニとサム・ニールという2つの人格に対して
もう一つの人格があるような錯覚を起こすカメラワークの烈しさがそこにある。

特に前半部分のレストランの場面のカメラワークの素晴らしさには心底圧倒された。
同じテーブルに向かい合う形で座らず、角のところに背を向けるように座り合う2人が
互いにヒートアップしながらいつしか立ち上がり、椅子を投げつける。

用意周到に計算された人物の動線をしっかり把握した上で、
あえて長回しには頼らず、細切れに撮られた独特のカメラワークを堪能した。

また通常ならば据え置かれたカメラが、
夫婦の葛藤を伝える場面になると、急に手持ちカメラで躍動し出すのも凄い。
一つのケンカのシークエンスがあるとしたら、
最終的にカメラはその罵り合う人物の表情をクローズ・アップで追うのだ。

夫婦の亀裂が決定的になった後、
傷心の夫の前に妻そっくりな息子の小学校の担任が現れるのだが、
これはイザベル・アジャーニの中の善と悪の二面性をつかさどっている。

そしてやがて具体的に提示される魂と肉体は、
ズラウスキーが生涯一貫して追い求めたモチーフとも言える。

中盤までは妻側であるイザベル・アジャーニの狂気にのみ焦点があたっていたが、
屋敷の部屋であるものを見てから、夫の側にも狂気が宿る。

この辺りから物語は通常ならざる異常な展開を見せ始め、
そのリズムに夫と妻の狂気じみた行動が呼応していく。

映画の中で役者はその役柄に極限までなりきり、全身全霊で表現するものだが
それにしてもこの映画の夫婦の演技はあまりにも生身で痛々しい。

特にイザベル・アジャーニが無人の地下鉄のコンコーズで半狂乱に陥る
あまりにも有名な場面には、何度観てもアジャーニの役者魂と底力を感じてしまう。

あの場面は観る側も生半可な気持ちで鑑賞しようものならば
強烈なしっぺ返しを食らうようなそんな烈しさに満ち満ちている。

またもう一つの有名なシーンと言えば、化け物との性交だろう。
一説によると、葛飾北斎の浮世絵の中のタコの絵に感化され
ズラウスキーが想像した空想上の化け物らしいが、
あんなものとまぐわう瞬間を拒否しなかったアジャーニの女優魂に天晴れである。
清純派女優が惜しげも無く脱いでいる点でも画期的だが、
あの化け物とベッドの上で抱き合っている絵を撮らせた彼女の勇気に唖然とさせられた。

ある意味どのホラー映画よりも気持ち悪い悪夢のような2つの象徴的な場面である。

究極のドッペルゲンガー映画とも評される今作が、
最後に見せる10分間の活劇的場面は、何度観ても息を呑む。

部屋の中での自傷行為やトイレの中での殺人の場面もダイレクトに胸に響くが
ラスト10分間のカタルシスはそれらとまた次元を異にする。
月並みな言い方になるが、あまりにも素晴らしいラスト・シーンである。

アンジェイ・ワイダの助監督として映画界に入ったズラウスキーは
その後ポーランドの政治的・思想的弾圧からフランスへ逃れる。
スコリモフスキやポランスキーと似たような運命に翻弄されていく。

この映画はズラウスキーにとって最後のポーランド時代となった
1970年代後半の彼自身の現実を投影している。

処女作『夜の第三部分』のミューズだったマウゴジャータ・ブラウネックと結婚し
幸せな人生を送るかに見えた夫婦の生活は、妻の宗教への傾倒から亀裂が生じる。

程なくして最愛の妻と離婚し、本国ポーランドでの活動も制限され、
絶望したズラウスキーはフランスへと活動の拠点を移す。

ロマン・ポランスキーの映画が彼の私生活や当時の政治状況を映し出した映画であるように
(彼の映画は常に主人公が第三国で酷い目に合うというモチーフを一貫して用いている)
ズラウスキーにとっても今作は自伝的な要素を十分に孕んでいる。

映画の中の混乱は、そのまま当時の彼の引き裂かれた精神状況を物語っているのかもしれない。
まさに映画の狂気、狂気の映画、管理人のオールタイム・フェイバリットな1本である。

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