【第156回】『翔んだカップル』(相米慎二/1980)


私の記憶が正しければ、確かこの映画はアニメ映画『まことちゃん』と併映だった。
東宝の夏休み子供向け映画の1本として今は亡きキティ・フィルムによって企画された。
当時代表を務めた多賀英典は設立から7年後の79年に映画界に進出。
その際、日活から引き抜かれたのが若き日の伊地智啓であり、長谷川和彦であり、
長谷川の背中を追って来た相米慎二だった。

もし当時『太陽を盗んだ男』がヒットしていれば、
相米の処女作がこのようなアイドル映画になっていたかどうかはわからない。
村上龍『限りなく透明に近いブルー』とゴジの『太陽を盗んだ男』の歴史的不入りで
選択肢の狭まった相米は、漫画原作を映画化しようと決意する。
それは当然のように後の相米にとって良い部分と悪い部分を両方含んでいたはずである。

かつて『夏の庭 The Friends』のエントリにも書いたが、
相米は成瀬巳喜男が大好きで、成瀬のような映画を志向していた。
日活時代、主に曽根中生監督に助監督として付きながら彼が思い描いた監督への道の理想形は
成瀬巳喜男のような男女の細やかな機微を淡々と描写した映画だったはずであり、
メロドラマの後継者としての自分だったはずである。
当時の大スターだった薬師丸ひろ子を主演に据えたアイドル映画なんて
まさに想定外の有り得ない企画だったに違いないのである。

今この映画を振り返ると、これは高校1年生を題材にした映画でありながら、
ここで流れている時間や登場人物たちの行動はとても高校1年生の映画ではない。
まさに大人顔負けの恋愛模様が主人公たちの喜怒哀楽と共に描かれた大人の恋愛映画である。

田代勇介(鶴見辰吾)は弁護士になることを夢見て、九州から東京の名門校である北条学園高校に入学する。
海外に赴任している大金持ちの叔父の邸宅に住むことになった勇介は
その家を現代で言うところのシェアハウスとしての登録を希望するが、
そこに名乗り出たのは同じクラスの山葉圭(薬師丸ひろ子)という女性だった。

この映画があまりにも異様なのは、勇介にも圭にも両親や兄弟が一度も出て来ないことである。
通常の高校1年生であれば親兄弟、時にはその上のお爺さんやお婆さんまでが出て来るが、
この映画にはそういう血族の片鱗さえ見えて来ない。

田代勇介と山葉圭はただ単に場をシェアするだけではなく、
ある種の疑似家族としての父性と母性を演じようとしている。
これは後の傑作『お引越し』と比較して考えるとあまりにも興味深い。
『お引越し』は両親の父性と母性の放棄が半ば誇張して演じられることで
子供である漆場ナズナは否応なしに大人への成長を強いられる。

今作は漫画原作ということで、ある意味現実的な人間関係を最初から放棄しているシナリオながら
この2人の高校1年生が互いの恋愛感情を抜きにして、
疑似家族を必死で維持しようとする光景が印象に残るのである。

田代勇介(鶴見辰吾)には同じクラスに山葉圭とは別の杉村秋美(石原真理子)というヒロインがおり、
同じく山葉圭(薬師丸ひろ子)にも中山わたる(尾美としのり)という彼女を熱烈に愛する同級生がいる。
それどころか夏休みに帰省した先で出会った星田という大学生(真田広之)にも圭は淡い恋心を抱きながら
疑似家族としての形を愚直なまでに維持しようとするのである。

映画は既に序盤から、この2人が両想いであることを明らかにするが、
どういうわけか疑似家族としての形を守り続け、最終的に一線を越えることがない。
この頑なまでの監督の勇介と圭への想いが、尋常ならざる熱量で放たれ続けていることも
実に異様で他に例がないように思える。

今作でカメラマンを担当した水野尾信正とはこれっきりの作業になったが
師匠である曽根中生組の名カメラマンだった水野尾信正と
師匠譲りの長回しを処女作から展開していることにも注目しておきたい。
相米にとって、登場人物たちを据えるカメラの動きとは、
最初から彼ら彼女らの生身の動きを捉えるための運動だったに違いないのである。

海辺で天地が逆になるユニークなカメラの動き、
筏の転覆シーンから急な坂道の全速力での自転車のシーンに至るまで
主人公たちのあらゆる「運動」に寄り添い、カメラは彼らの動きに激しく呼応するのである。

クライマックスのボクシングの場面では、勇介が2度のダウンの後、
立ち上がった山葉圭の姿を追う場面で、有り得ないズームが用いられる。

あとは後半、圭が「私ってキレイ」と勇介に聞く場面も凄い。
明かりの付いていない部屋で勇介の視点で圭を探すショットは
まるでジョン・カーペンターの『ハロウィン』のP.O.V.ショットを思い起こさせる。

今作では勇介と圭だけが、相米作品の中では自分たちの想いを100%表現する存在として
例外的に出て来るが、やはり中山わたる(尾美としのり)に至っては
彼自身の感情をまったくコントロール出来ない存在として描かれている。

ラスト30分の密告からのわたるの行動は
まさに臨界点に達した自暴自棄な少年の浅はかな行動に過ぎないが
それが結局、疑似家族を崩壊させる動機となり、2人の蜜月はあっけなく終わりを告げる。

ラスト10分の勇介の自暴自棄の行動は、
いかにも日活ロマンポルノ出身の監督らしい諦念に溢れている。
ただ相米慎二は、この日活ロマンポルノ出身者の諦念をこの数分で払拭したと言ってもいい。
彼のその後のフィルモグラフィを見れば、この諦念の感情が噴出したことはほとんどない。
ただ一つ例外的に『ラヴホテル』だけがこのうじうじした日活らしさを帯びているのである。

まだまだ甘い演出ながら、
その後勢い良く『セーラー服と機関銃』と『ションベン・ライダー』で沸点を迎えた
アバンギャルドなフレームワークや人物の動きへのあくなき探求はこの処女作にも十分に感じられる。

薬師丸ひろ子に関しても、『野性の証明』での華々しいデビューから
『翔んだカップル』や『ねらわれた学園』を経て、
『セーラー服と機関銃』で沸点を迎えるまでに今作への影響はあまりにも大きい。
彼女の女優としての原点は、今作と続く『セーラー服と機関銃』にあると言っても過言ではない。

【第106回】『ションベン・ライダー』(相米慎二/1983)


『セーラー服と機関銃』の記録的ヒットにより
一躍売れっ子監督となった相米慎二の第三作目。

『翔んだカップル』と『セーラー服と機関銃』で
相米の代名詞となったワンシーン・ワンショットは更に強調され、
7分30秒の長回しで撮ったファースト・シーンが何度観ても素晴らしい。

ジョジョ(永瀬正敏)、辞書(坂上忍)、ブルース(河合美智子)の三人組は
今日こそいじめっ子のデブナガを倒そうと学校のプールに追いつめるが
そこでデブナガはチンピラ2人組に誘拐されてしまう。

たったそれだけのことを監督はカットを割らずに強引に撮る。
最初はチンピラ2人組を映していたカメラがゆっくりと左へパンし、
道を挟んだ学校のプールへと動いていく。
そこでジョジョと辞書はデブナガにいじめられており、
彼らを救出しようとブルースがプールに飛び込む。
カメラが一度戻り左にパンすると今度は広い校庭が見え、
そこから180度回転したところでデブナガはチンピラ2人組に拉致される。

この7分半の場面をワンシーン・ワンショットで撮るために
撮影を担当したたむらまさきはクレーンを三度乗り換えながらこの場面に挑んだらしい 笑。
相米監督の映画はファースト・シーンから才気がほとばしっている作品が多いけれど、
その中でもトップ・クラスに狂った冒頭7分半である。

やがてデブナガの誘拐には覚せい剤の密売が絡んでいることがわかり、
彼の両親が水死体で見つかり、警察だけではなくヤクザが介入して来る。

映画は永瀬正敏ら主人公の3人組が、
2人のチンピラからデブナガを救出しようとするロード・ムービーなのだが
そうシンプルに言えるほど物事は簡単ではない。

彼らの行く手にはヤクザの親分の厳兵(藤竜也)や悪徳警官(伊武雅刀)が立ちはだかり、
なかなか容易に事は進んでいかない。

私はかつてある目的に向かって物語が走り出しながら、
そこには何度も脱線や小休止が起こり、無限に引き延ばされ、
結局当初の目的が何だったのかわからなくなるという幻視のような映画をかつて挙げた。

アッバス・キアロスタミの映画である。
今作はそのアッバス・キアロスタミの映画同様にシンプルなストーリーを持ちながら
迂回や寄り道を経て、なかなか目的が成し遂げられないロード・ムービーである。

まず3人組は横浜へ飛び、悪徳警官の紹介でヤクザの厳兵に会う。
紆余曲折の末、厳兵を仲間にした3人は横浜から熱海へ飛び、
熱海で研修中だった担任のアラレ先生(原日出子)も巻き込み、
貯木場で最初の決戦の幕が上がる。

この貯木場のロケーションがまた非常に素晴らしい。
ロング・ショットで足場の悪い中をカメラはドリーで右に移動しながら、壮絶な銃撃戦を追う。
日本映画でこれ程のカタルシスは早々ない。
実際打ち込まれた弾数はごくわずかだが、あまりにも不意に活劇が登場する。

話は前後するが、巨大な橋のシーンもやはり素晴らしい。
10数mあった足場の不安定な桟橋からまず河合美智子が飛び込み、
その後を追うように原日出子も飛び込む。

なんの躊躇いもなく飛び込んでいるように見えるが、
実際は10mの高さから川に飛び込んだ瞬間、2人とも気を失っていたらしい 笑。
あまりの恐怖からリハーサルなしのぶっつけ本番で挑んだアクション・シーンであり
大変な撮影現場であったことは想像に難くない。

そんなに大変な思いをしてデブナガを救出しようと試みるが
彼はあっさり熱海から名古屋へと移送される。

意気消沈の主人公たちの元に島田組が助太刀を申し出る。
この島田組の頭領の財津一郎と部下の村上弘明のやりとりがまた滑稽である。
彼らがトンネルで右往左往する様子は、まるで戦争映画を観ているようである。

舞妓さんも呼びながら、料亭で呑めや歌えやの接待を受けるのだが、
厳兵は島田組の助太刀をあっさり断ってしまう。

この最中にも、既にデブナガは名古屋から大阪へと運ばれている。
担任のアラレ先生も人質に捕られ、彼らは2人の救出に大阪へと向かうのだった。

彼らのデブナガ救出計画は徹底して未遂に終わり、
本州全土を通過しそうなところで不意に解決へと向かう。

それにしても全編有り得ないショットの連続である。
トイレから船に飛び乗り、悪徳警官の追跡を交わす場面では
船の甲板を空撮で撮っている。

中盤、ジョジョと辞書&ブルース組がそれぞれ単独行動を迎える場面では、
早朝、河合美智子が海へと分け入っていく印象的なシーンがある。

これは後の『お引越し』の田畑智子の「おめでとうございます」と酷似している。
形式的な演出なども一切無くわかりにくい場面だが、
管理人はこの場面で河合美智子が初潮を迎えたのだと解釈している。
『お引越し』のちょうど10年前に、あの場面の草稿が出来上がっていたのだと感心する。

特に中盤以降、縦の構図を意識した場面が続くが、
クライマックスでは籠城シーンから突然3人が近藤真彦を歌い出したり、
わかのわからない印象的な喜怒哀楽が続いていく。

ラスト・シーンの水攻めは
ただただ河合美智子の乳首が見たかった大人だけに許されたギリギリの表現だと思うが 笑、
今なら絶対に児童ポルノに引っ掛かって出来ないはず。

こんな映画を2015年現在撮ろうと思う人はいないし、思っても出来ないだろう。
あまりにも過酷な現場は時に伝説となる。
この映画の主要キャストに選ばれた今をときめく坂上忍は、
いまだに当時の撮影現場の過酷さを思い出すという。

水攻めと少年少女の成長は『台風クラブ』へと引き継がれ、
大人たちの冷め切った愛は『ラブホテル』に昇華される。
度を超した長回しは『雪の断章』でより先鋭化していく。

この映画を観ると、相米慎二の全てが刻印されている。
何度観ても新しい発見があるし、物語に対する挑発をひしひしと感じる。

まったくの余談になるが、
黒沢清がトーク・ショーや相米批評でことあるごとに言う文言がある。

ゴジの『太陽を盗んだ男』の撮影がクランク・アップしても終わらず、
主演の沢田研二も含め、次々に現場を去る中、
ゴジさんと助監督だった黒沢清と相米慎二だけが過酷な現場に残り続けた。

そんなある日、黒沢清は相米に
「おい黒沢、最近面白かった映画はないか?」と聞かれ、
若かった黒沢清は「最近観て面白かったのは
ギリシャのアンゲロプロースの『旅芸人の記録』です」と答えたらしい。

その時の相米慎二の顔が満更でもなかったために、
黒沢清はあの時絶対に相米はアンゲロプロスを観て、長回しを思いついたのだと断言している。

真相は天国にいる相米しか知らないが、
あまりにもシネフィル好みのエピソードには違いない。

私が聞いている話はそれとは少し違う。
今作の撮影の時、相米は成瀬巳喜男の『乱れる』をひたすら観ながら
自分を奮い立たせていたらしい 笑。

そして『ションベン・ライダー』の公開から数年後、
ジョン・カサヴェテスの遺作『ラヴ・ストリームス』を観た相米はえらく感動し、
助監督だった榎戸先生に「これこそが映画に違いないが、
この監督の描写は少々行き過ぎじゃないか?」と言ったらしい 笑。

『ションベン・ライダー』のようなトンデモ映画を作っておきながら
いったいどの口がカサヴェテスを糾弾するのかと言った支離滅裂なエピソードである。

当時のキネ旬を紐解くと、日本映画では成瀬巳喜男に傾倒しながらも
同時にアメリカ映画ではイーストウッドとカサヴェテスとスピルバーグに傾倒していたこともわかる。

要するに天才監督の嗅覚は来るべき21世紀を正確に着実に見据えていたのである。
その審美眼の確かさにおののきながら、80年代の相米慎二のフィルモグラフィに触れれば
ある種の驚きと新鮮さを感じ取ることが出来るのである。

【第105回】『お引越し』(相米慎二/1993)


冒頭、部屋に置かれた奇抜な三角形の形をしたテーブルで
漆場家の3人はご飯を食べている。
外は暴風雨が吹き荒れ、母親と父親は一切目を合わせようとしない。

この才気溢れる3分間の長回しのファースト・シーンに象徴的なように
親の別居が小学6年生の娘にはなかなか現実として理解出来ない。

学校のお昼休みには父親が横になる川辺に全速力で駆けつけ、
母親と父親に何とか昔のような仲の良い生活をさせようとする
田畑智子演じるレンコの姿が実にいじらしい。

仲の悪いクラスメイトの女子や自分に好意を寄せる男子の姿や
弟とそのフィアンセの姿を見ながら客観視しようと努力するもののどうしても理解出来ない。

田畑智子は自分の感情の喜怒哀楽を、常に行動で表現する。
走ること、タンスに隠れること、引っ叩くこと、パンチすること、逆立ちすること
それらの表現は全て彼女の内面から自然に沸き上がってくる言葉である。

母親は「2になるための契約書」という契約を娘につきつけながら、
それを仕事という理由であっさり破る。
父親もお調子者で威厳がなく、自分の内面をまったく理解しようとしない。

そのことに我慢出来なくなったレンコは
自分に好意を寄せる男子の入れ知恵で家にバリケードを築く。
中盤の核となるこの場面も相米監督の真骨頂である長回しが冴え渡る。

父親はそれでも彼女の気持ちをわかろうとするが、
彼女が昔大切にしていたキリンのぬいぐるみをキャッチし損ねる。
相米映画では常に高低差のあるショットが緊迫感のある画面を形作る。

例えば川辺から道路を仰ぎ見る場面だったり、同級生と坂を昇る場面だったり、
父親の会社へ電話ボックスから電話をする場面だったり
この高低差のあるショットがより立体的に画面を占めるのである。

やがて自分の中でどうしようもなくなった気持ちに整理をつけるため、
母ナズナを琵琶湖へ誘い出すが、そこでも復縁計画は失敗に終わる。
父親に怒りをぶつけ、自暴自棄になったレンコは町を彷徨ううちにある老人に出会う。

この場面は90年代の映画としてはいささか古い描写で
相米監督は本当はこういう日本の良心のような
古い日本家屋で行われる家族の物語が描きたかったのではと思ってしまった。

ラスト30分のレンコの彷徨場面は、90年代映画でも屈指の映像詩である。
燃え上がる松明を振り回す幻想的な場面と男の子たちとの不和は
まるでドキュメンタリーなのではと錯覚を起こすほど圧巻の映像である。

その後、満月の夜に何かが降りて来たようなレンコの彷徨が素晴らしい。
森の中に分け入り、やがて海辺へと辿り着く。
まるでフェリーニのような祝祭を帯びた日本映画史上に残る名場面で何度観ても圧倒される。

ここからは私の個人的見解になるが、
相米慎二は山本政史の『ロビンソンの庭』が強烈に頭の中にあったのではないか?
この『お引越し』のクライマックスの彷徨シーンは
『ロビンソンの庭』のクライマックスの彷徨シーンに実によく似ているし
『お引越し』に続いた『夏の庭 The Friends』では草の生い茂った住居をキレイにし、
ペンキを塗るところまで『ロビンソンの庭』に似通っている。

何度かサブリミナル・ショットに近い形で登場した揺れる木々のアップや入道雲のアップは
アジア映画以外の何者でもない大陸的な雰囲気を放っている。

またクライマックスでレンコと母ナズナが輪唱する童謡『森のくまさん』は
この数年後に黒沢清が『勝手にしやがれ』の中でオマージュを捧げている。

初公開から22年、折に触れて観たくなる大好きな作品である。

【第104回】『夏の庭 The Friends』(相米慎二/1994)


全ての監督においてフィルモグラフィとは常に変化して行くものであり、
ある一定のところにとどまって生涯を終える監督はいない。
多かれ少なかれ、常に人は変化する生き物で監督も例外ではない。

それを前提としても、
当時私は相米慎二の作風の変化には驚きと戸惑いを禁じ得なかった。

2001年に亡くなるまでの53年の生涯の中で、
僅か13本の映画しか作らなかった相米慎二だが
その映像は90年代に入ったあたりから急速に変化して行く。

今作は人間の死について考え始めたガリ・デブ・メガネの3人が
近所に住む余命いくばくもない老人との交流の中で成長して行く物語である。

映画は冒頭、烈しい雨の中でサッカーの試合にいそしむ少年たちの様子を捉える。
豪快にファウルし、セット・プレーになったところで
突然急な坂を下る登校シーンにショットがモンタージュされ
次のショットでは夕焼けに染まる乗り物の中に不意につながれる。
時制・場所などをすっ飛ばしたあまりにも才気溢れるファースト・シーンだが、
80年代の長回しの映像を見慣れているだけに戸惑いを禁じ得ない。

この老人の住む平屋のロケーションが絶妙で、
道路を挟んだ真ん前の高台にブランコがあり、庭に面した右側に階段がある。
神戸のどこにこんな建物が残っていたのか知らないが、非常に情緒のある古い建物である。

子供たち3人は最初、老人の存在を不気味に思っている。
テレビはついているが、まったく動かない老人のシルエットを見て、
死んでいるんじゃないかと思ってしまう。

老人の3日に1度の買い出しについていく3人の姿を
ドリーで捉えた動きのあるシークエンスが素晴らしい。
監督は追いかけっこする姿にある種の遊戯性を感じている。

やがて老人を見失い、荒れ果てた病院の地下室で
柄本明を発見するシーンなんて完全にホラーの様相を呈している。
『ラブホテル』から2度目のコンビとなる篠田昇カメラマンの
高さを理解したカメラワークが素晴らしい。
薄暗い廊下、風に揺れる白い布、開け放たれたドア、仰ぎ見る階段
ここには相米監督ならではのホラー演出が息づいている。

今作はもともと児童文学を映画化した作品である。
かいつまんで言えば、老人の死を通して3人の少年の心の成長を見つめた物語なのだが、
そこに絡む伏線を相米監督は器用に引き延ばす。

中盤のプールでの25m走の途中でデブが溺れるところなんて完全に監督の遊び心だろう。
水面がキラキラと輝くところで3人と先生は浮かび続ける。
『台風クラブ』でも大事な場面に出て来た豪雨、台風、プールの水といったイメージが
ここでも繰り返される。

映画がこれまでと別の局面を迎えるのは、
白い傘を持った担任の先生が老人の前に現れたところからである。
キレイになった庭先で水を撒いたところにふと現れたキレイな先生の姿に老人は何かを直感する。
物語の転機となる場面を三国連太郎は実に見事に目の表情と身振りで伝える。

少年たちと老人が徐々に心を通わせていった前半部分に対して、
老人がある人に会いに行くことを決心する後半部分はやや唐突な印象は否めない。
監督自身も、あまりイメージが湧かなかったのではないか?

また『ションベン・ライダー』や『台風クラブ』の子供たちの演技の追い込み方は
ここではあまり感じなかった。
3人ともお世辞にもあまり演技が上手いとは言えないのだが、
クライマックスまでそのまんま演じさせている。
何時間も何日も出来るまでしごいた鬼監督・相米慎二の面影がない。

3人の担任の先生を演じた戸田菜穂の演技も
いま観直すとお世辞にも上手くいっているとは言えない。
特に三国連太郎とのやりとりが今観るとびっくりするくらい駄目だと思う。

監督の80年代の作品というのは撮影日数や制作費という制限の中で
どれだけ内側に秘めた情熱を1人1人が放射するかに全精力を注いでいたが
バブル崩壊後、演出という点では妥協せずに作るのが困難になった気がして仕方ない。

撮影所が崩壊し、日本映画の質が根本的に変容してしまったと言われているが、
斜陽化の流れの中である程度自由に映画を撮れる時代は昔のものになってしまった。

そもそも、3人の主人公たちの性格や葛藤があまり伝わって来なかった。
メガネだけは父親のいない母子家庭に育ち、虚言癖があることがわかるが、
ガリの性格や境遇が観ている観客には伝わりづらい。

長回しもまったく使用していないわけではない。
サッカー部の悪友2人が、家を覗く3人を冷やかす場面ではある程度の長回しが使われているし、
クライマックス・シーンのP.O.V.カメラによるやりとりなんて
長回しでなければ表現出来ない役者たちの味のある演技を引き出している。
ただそれも粘る必要のある場面だけの使用で
他の場面は細かなショットをモンタージュし、映画の効率化をはかっているように思える。

これは有名な話だが、監督はクランク・インする前に
いつも成瀬巳喜男の映画を観ていたという。

アイドル映画や子供映画ばかりではなく、
実は成瀬巳喜男のような映画が作りたかったのではないか?
それは今作のクライマックスの三国連太郎と淡島千景のやりとりの中に一瞬だけ垣間見えた。

寺田農、笑福亭鶴瓶、柄本明の相米組常連俳優のスポット出演も申し分ない。
初めて観る人は、彼らの役柄にも注目して観て欲しい。普遍的な魅力を持った傑作である。

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