【第1020回】『ションベン・ライダー』(相米慎二/1983)


 ジョジョ(永瀬正敏)、辞書(坂上忍)、ブルース(河合美智子)の三人組は今日こそいじめっ子のデブナガを倒そうと学校のプールに追いつめるが、デブナガはチンピラ2人組に誘拐されてしまう。たったそれだけのことを監督はカットを割らずに強引に撮る。最初はチンピラ2人組を映していたカメラがゆっくりと左へパンし、道を挟んだ学校のプールへと動いていく。そこでジョジョと辞書はデブナガにいじめられており、彼らを救出しようとブルースがプールに飛び込む。カメラが一度戻り左にパンすると今度は広い校庭が見え、そこから180度回転したところでデブナガはチンピラ2人組に拉致される。この7分半の場面をワンシーン・ワンショットで撮るために、撮影を担当したたむらまさきはクレーンを三度乗り換えながらこの場面に挑んだ 笑。相米監督の映画はファースト・シーンから才気がほとばしっている作品が多いけれど、その中でもトップ・クラスに狂った冒頭7分半である。やがてデブナガの誘拐には覚せい剤の密売が絡んでいることがわかり、彼の両親が水死体で見つかり、警察だけではなくヤクザが介入して来る。映画は永瀬正敏ら主人公の3人組が、2人のチンピラからデブナガを救出しようとするロード・ムービーなのだが物語は単純ではない。彼らの行く手にはヤクザの親分の厳兵(藤竜也)や悪徳警官(伊武雅刀)が立ちはだかり、なかなか容易に事は進んでいかない。

 紆余曲折の末、厳兵を仲間にした3人は横浜から熱海へ飛び、研修中だった担任のアラレ先生(原日出子)も巻き込み貯木場の場面が始まるのだが、そのロケーションが絶妙に素晴らしい。ロング・ショットで足場の悪い中をカメラはドリーで右に移動しながら、壮絶な銃撃戦を追う。実際打ち込まれた弾数はごくわずかだが、あまりにも不意に活劇が登場する。巨大な橋のシーンも出色の出来で、10数mあった足場の不安定な桟橋からまず河合美智子が飛び込み、その後を追うように原日出子も飛び込む。そんなに大変な思いをしてデブナガを救出しようと試みるが、彼はあっさり熱海から名古屋へと移送される。島田組の頭領の財津一郎と部下の村上弘明がトンネルで右往左往する様子は、まるで戦争映画を観ているようである。中盤、ジョジョと辞書&ブルース組がそれぞれ単独行動を迎える場面では、早朝、河合美智子が海へと分け入っていく印象的なシーンがある。これは後の『お引越し』の田畑智子の「おめでとうございます」と酷似している。水攻めと少年少女の成長は『台風クラブ』へと引き継がれ、大人たちの冷め切った愛は『ラブホテル』に昇華される。度を超した長回しは『雪の断章』でより先鋭化していく。

【第1017回】『翔んだカップル 』(相米慎二/1980)


 田代勇介(鶴見辰吾)は弁護士になることを夢見て、九州から東京の名門校である北条学園高校に入学する。海外に赴任している大金持ちの叔父の邸宅に住むことになった勇介はその家を現代で言うところのシェアハウスとしての使用を希望するが、そこに名乗り出たのは同じクラスの山葉圭(薬師丸ひろ子)という女性だった。映画があまりにも異様なのは、勇介にも圭にも両親や兄弟が一度も出て来ないことである。通常の高校1年生であれば親兄弟、時にはその上のお爺さんやお婆さんまでが出て来るが、この映画にはそういう血族の片鱗さえ見えて来ない。田代勇介と山葉圭はただ単に場をシェアするだけではなく、ある種の疑似家族としての父性と母性を演じようとしている。これは後の傑作『お引越し』と比するとあまりにも興味深い。『お引越し』は両親の父性と母性の放棄が半ば誇張して演じられることで、子供である漆場ナズナは否応なしに大人への成長を強いられる。今作は漫画原作ということで、ある意味現実的な人間関係を最初から放棄しているシナリオながらこの2人の高校1年生が互いの恋愛感情を抜きにして、疑似家族を必死で維持しようとする光景が印象に残るのである。

 勇介には同じクラスに山葉圭とは別の杉村秋美(石原真理子)というヒロインがおり、同じく山葉圭にも中山わたる(尾美としのり)という彼女を熱烈に愛する同級生がいる。それどころか夏休みに帰省した先で出会った星田という大学生(真田広之)にも圭は淡い恋心を抱きながら、疑似家族としての形を愚直なまでに維持する。映画は既に序盤から、この2人が両想いであることを明らかにするが一線を越えることがない。この頑なまでの監督の勇介と圭への想いが、尋常ならざる熱量で放たれ続けていることも実に異様で他に例がないように思える。海辺で天地が逆になるユニークなカメラの動き、筏の転覆シーンから急な坂道の全速力での自転車のシーンに至るまで主人公たちのあらゆる「運動」に寄り添い、カメラは彼らの動きに激しく呼応する。クライマックスのボクシングの場面では、勇介が2度のダウンの後、立ち上がった山葉圭の姿を追う場面で、有り得ないズームが用いられる。後半、圭が「私ってキレイ」と勇介に聞く場面も凄い。明かりの付いていない部屋で勇介の視点で圭を探すショットはまるでホラー映画のような意匠を纏う。ラスト30分の密告からのわたるの行動は、まさに臨界点に達した自暴自棄な少年の浅はかな行動に過ぎないがそれが結局、疑似家族を崩壊させる動機となり、2人の蜜月はあっけなく終わりを告げる。ラスト10分の勇介の自暴自棄の行動は、いかにも日活ロマンポルノ出身の監督らしい諦念に溢れている。

【第990回】『夏の庭 The Friends』(相米慎二/1994)


 映画は冒頭、烈しい雨の中でサッカーの試合にいそしむ少年たちの様子を捉える。豪快にファウルし、セット・プレーになったところで突然急な坂を下る登校シーンにショットがモンタージュされ、次のショットでは夕焼けに染まる乗り物の中に不意につながれる。時制・場所などをすっ飛ばしたあまりにも才気溢れるファースト・シーンだが、80年代の相米の長回しの映像を見慣れているだけに戸惑いを禁じ得ない。この老人の住む平屋のロケーションが絶妙で、道路を挟んだ真ん前の高台にブランコがあり、庭に面した右側に階段がある。神戸のどこにこんな建物が残っていたのか知らないが、非常に情緒のある古い建物である。子供たち3人は最初、老人の存在を不気味に思っている。テレビはついているが、まったく動かない老人のシルエットを見て、死んでいるんじゃないかと思ってしまう。老人の3日に1度の買い出しについていく3人の姿をドリーで捉えた動きのあるシークエンスが素晴らしい。監督は追いかけっこする姿にある種の遊戯性を感じている。

 やがて老人を見失い、荒れ果てた病院の地下室で柄本明を発見するシーンなんて完全にホラーの様相を呈している。
『ラブホテル』から2度目のコンビとなる篠田昇カメラマンの高さを理解したカメラワークが素晴らしい。薄暗い廊下、風に揺れる白い布、開け放たれたドア、仰ぎ見る階段、ここには相米監督ならではのホラー演出が息づいている。今作はもともと児童文学を映画化した作品である。かいつまんで言えば、老人の死を通して3人の少年の心の成長を見つめた物語なのだが、そこに絡む伏線を相米監督は器用に引き延ばす。中盤のプールでの25m走の途中でデブが溺れるところなんて完全に監督の遊び心だろう。水面がキラキラと輝くところで3人と先生は浮かび続ける。『台風クラブ』でも大事な場面に出て来た豪雨、台風、プールの水といったイメージがここでも執拗に繰り返される。映画がこれまでと別の局面を迎えるのは、白い傘を持った担任の先生が老人の前に現れたところからである。キレイになった庭先で水を撒いたところにふと現れたキレイな先生の姿に老人は何かを直感する。物語の転機となる場面を三国連太郎は実に見事に目の表情と身振りで伝える。かつて『ションベン・ライダー』や『台風クラブ』に見られたような子供たちの演技の追い込み方はここではあまり感じない。だが寺田農、笑福亭鶴瓶、柄本明の相米組常連俳優のスポット出演も申し分ない普遍性を帯びた相米後期の名作である。

【第989回】『お引越し 』(相米慎二/1993)


 冒頭、部屋に置かれた奇抜な三角形の形をしたテーブルで漆場家の3人はご飯を食べている。外は暴風雨が吹き荒れ、母親と父親は一切目を合わせようとしない。この才気溢れる3分間の長回しのファースト・シーンに象徴的なように
親の別居が小学6年生の娘にはなかなか現実として理解出来ない。学校のお昼休みには父親が横になる川辺に全速力で駆けつけ、母親と父親に何とか昔のような仲の良い生活をさせようとする田畑智子演じるレンコの姿が実にいじらしい。仲の悪いクラスメイトの女子や自分に好意を寄せる男子の姿や、母親の弟とそのフィアンセの姿を見ながら客観視しようと努力するもののどうしても理解出来ない。

 田畑智子は自分の感情の喜怒哀楽を、常に行動で表現する。走ること、タンスに隠れること、引っ叩くこと、パンチすること、逆立ちすること、それらの表現は全て彼女の内面から自然に沸き上がってくる言葉である。母親は「2になるための契約書」という契約を娘につきつけながら、それを仕事という理由であっさり破る。父親もお調子者で威厳がなく、自分の内面をまったく理解しようとしない。そのことに我慢出来なくなったレンコは自分に好意を寄せる男子の入れ知恵で家にバリケードを築く。中盤の核となるこの場面も相米監督の真骨頂である長回しが冴え渡る。父親はそれでも彼女の気持ちをわかろうとするが、彼女が昔大切にしていたキリンのぬいぐるみをキャッチし損ねる。相米映画では常に高低差のあるショットが緊迫感のある画面を形作る。例えば川辺から道路を仰ぎ見る場面だったり、同級生と坂を昇る場面だったり、父親の会社へ電話ボックスから電話をする場面だったりこの高低差のあるショットがより立体的に画面を占めるのである。

 ラスト30分のレンコの彷徨場面は、90年代映画でも屈指の映像詩である。燃え上がる松明を振り回す幻想的な場面と男の子たちとの不和はまるでドキュメンタリーなのではと錯覚を起こすほど圧巻の映像である。その後、満月の夜に何かが降りて来たようなレンコの彷徨が素晴らしい。森の中に分け入り、やがて海辺へと辿り着く。まるでフェリーニのような祝祭を帯びた日本映画史上に残る名場面で何度観ても圧倒される。クライマックスでレンコと母ナズナが輪唱する童謡『森のくまさん』は、この数年後に黒沢清が『勝手にしやがれ』の中でオマージュを捧げている。

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