【第155回】『毛皮のヴィーナス』(ロマン・ポランスキー/2013)


ポランスキーの作品群には常に「幽閉」と「第三国への逃避」が垣間見える。
それはポランスキー自身の生い立ちと関係していることは
かつて『テナント/恐怖を借りた男』のエントリでも述べた。
幼少期の強制収容やユダヤ人狩りの心的トラウマが、彼の作品には色濃く反映しており
登場人物たちは常に「幽閉」と「第三国への逃避」の中でもがき続けて来た。

「幽閉」をテーマにした代表的な作品としては
初期で言えば『反撥』や『袋小路』がそうだろうし、
代表作である『ローズマリーの赤ちゃん』や『テナント/恐怖を借りた男』も
ある限定された空間の中で起きる恐怖を描いている。

「第三国への逃避」はハリソン・フォードを起用した異色のサスペンス『フランティック』を筆頭に
『ナインスゲート』や『ゴーストライター』など近年の作品に頻繁に見られる。
彼らは決まって、勝手のわからない第三国に行き、そこで何らかの事件や陰謀に巻き込まれていく。

それと共に、彼のフィルモグラフィの中には
80年代後半以降、例外的に奥方エマニュエル・セニエをヒロインに起用した
現代的なファム・ファタールものが存在する。
ポランスキーがセニエと知り合った『フランティック』を筆頭に、
『赤い航路』『ナインスゲート』などがここに分類される。
その際、エマニュエル・セニエの役柄は典型的なファム・ファタールとして描かれ、
大抵はしっかりした地位のある男性を破滅に追いやる人物として存在感を発揮するのである。

今作はポランスキーの根底にある「幽閉」と
89年の結婚以降のエマニュエル・セニエをヒロインに起用した
ファム・ファタールものを上手く織り交ぜた作品であろう。

舞台に向けオーディションを開いていた演出家のトマ(マチュー・アマルリック)のもとに、
女優ワンダ(エマニュエル・セニエ)が遅刻してやってくる。
トマは彼女の到着を待っていたはずもなく、その場を足早に立ち去ろうとするが、
ワンダはなかなか聞き入れてくれない。
渋々ワンダのオーディションを受け入れたトマだったが、やがて彼女の魅力に翻弄されていくのだった。

前作『おとなのけんか』同様、
今作はマチュー・アマルリックとエマニュエル・セニエだけを起用したミニマムな作品である。
どこか本当の演劇を観ているような錯覚に陥るのは、彼らの身体表現や台詞運びが
実際の舞台で行われているからだろう。

ただのオーディションにも関わらず、どういうわけか一語一句完璧に台本を覚えてきているワンダに対し
トマは畏敬の念を持って接している。
トマ自身の迷いを見透かすかのごとく、臨機応変に振る舞うワンダの姿勢は並の女優の力量ではなく
トマはあっという間に彼女との倒錯した世界の中に引きずり込まれていく。

思えば『赤い航路』では地中海を航海する豪華客船の中で
ピーター・コヨーテがエマニュエル・セニエにヒュー・グラントを誘惑するようにけしかけた。
今作のポランスキーはまるであの時のピーター・コヨーテのように
エマニュエル・セニエにマチュー・アマルリックを誘惑させる。

題材的にはオーストリアの1800年代のSM物語を扱っているが
それ自体もポランスキーとセリエの間にある倒錯したSM的世界を
補完するために用いられたようにしか思えない。
最初はオーディションする側される側だった主従関係が
実際に舞台で本読みをしている内にいつしか逆転してしまう。
男性側は途中まで理性的に接しようと努力するが、やがて性愛の中に溺れていく。

しかも今回は男性が生粋のイギリス人であるヒュー・グラントではなく、
若い頃のロマン・ポランスキーの生き写しのようなマチュー・アマルリックだけに根が深い。
アマルリックが若かりし日のポランスキーにどれだけ似ているのかは
『テナント/恐怖を借りた男』を観て頂きたい。ある意味三上博史よりもソックリである。

冒頭の無人の移動ショットからも明らかなように、
この映画は明らかにポランスキーのお遊びのようである。
彼の作品では決まって、雷や大雨や強風がもっともらしいサスペンスのための気象装置として存在するが
今作も所詮はある雷雨の日に脚本家が見た一種の妄想的な閃きに過ぎない。

クライマックスの「ちょっとだけよ、あんたも好きね」の裸踊りには
劇場で失笑が漏れたことも追記しておかなければならない。
あの脱力感と言ったらちょっと近年の作品ではあまり例がないレベルである。
間違っても『戦場のピアニスト』や『オリバー・ツイスト』に感動した人たちは観ては行けない 笑。
ただ近年のウディ・アレン映画の陰鬱さにモヤモヤしている人や、
晩年のアラン・レネの振り切れっぷりに馬鹿笑いした人には絶対にお薦めする。

【第101回】『テナント/恐怖を借りた男』(ロマン・ポランスキー/1976)


国内盤がようやくDVD化ということで早々にゲットした1本。

ロマン・ポランスキーという監督ほど
自らの人間不信・被害妄想癖を物語に盛り込んだ監督はいない。

幼少期に第二次世界大戦を体験し、
母親はアウシュビッツでドイツ軍に処刑され、父親も強制労働させられる。
フランスに逃れてからも「ユダヤ人狩り」を恐れ、
国を転々としながら、アメリカのヒューストンに居を構える。

そのアメリカでの生活の最中、
二度目の結婚で妊娠8ヶ月目だった最愛の妻シャロン・テートを
チャールズ・マンソン率いるカルト宗教信者にめった刺しの末殺される。

そういう監督自身の暗い境遇が、作品の中には色濃く投影されている。

今作はシャロン・テート刺殺事件の影響が強いとされているが、私はそうは思わない。
確かに彼自身の強烈な人間不信・隣人への被害妄想癖は爆発しているが、
彼の映画はシャロン・テート刺殺事件の後から作風が変わったわけではない。

『反撥』では神経質で潔癖性のヒロインが
男性不信からやがて薄暗いアパートで精神を病んで行く様子を描いた。

『ローズマリーの赤ちゃん』では隣人たちによって
生まれて来る赤ん坊を悪魔の子にさせられてしまうヒロインの恐怖を描いた。

つまりこれは彼の中に元々あった作風が、
シャロン・テート刺殺事件で更に症状が悪化したと思って間違いない。
これまでは女性ヒロインだったが、主人公は男性になり、
その役を自分自身が演じることである種の倒錯的な世界観を作っている。

ロマン・ポランスキー演じるトレルコフスキーという男が、
名優メルヴィン・ダグラス扮する管理人に部屋を借りに行くところから物語は始まる。

当時、パリ13区の中ではなかなか良い空き物件はなく、
事故物件だが、なかなか良いマンションを見つける。

そこで起きた事故とは、住んでいた女の飛び降り自殺だった。
瀕死の重傷を負った彼女がもし亡くなれば、その家に住めるという条件が付き、
彼は病院に飛び降りた女を見舞いに行く。

その女の様子がある意味怖い。
片目と口以外は包帯でがんじがらめにされ、突然発狂した叫び声をあげる。

もうこの時点で怖い人ならアウトだろうが、
どういうわけか主人公は部屋を借りるという意思を曲げない。

ほどなく彼女が死に、マンションの住人になったポランスキーだが
このマンションの隣近所に住む人間たちの異様さがどこか怖い。

メルヴィン・ダグラスもシェリー・ウィンタースも
ジョー・ヴァン・フリートも一癖も二癖もある偏屈なフランス人を誇張して演じている。

またポランスキーの悪意溢れるフランスの風景描写も面白い。
ヌーヴェルヴァーグ映画で観た瑞々しい観光都市はここにはない。
どんより曇った空、どこか寒々しい人々、
まるでヒッチコックの『めまい』のような螺旋階段をカメラに収めるのは
ベルイマン作品で常連のスヴェン・ニクヴィストである。

おどろおどろしい建物、おどろおどろしい人々、
日本映画であれば、死んだ女が化けて出るシチュエーションであるが、
西洋では化けて出るのではなく、同化してしまうらしい。

後半のポランスキーの女装シーンは、
本気の趣味なのかと疑ってしまうくらい堂々としている。
前半部分では淡々としていた描写が徐々に独特のユーモアを帯び始め、
主人公の妄想が振り切れて行く。

彼が見ているのは妄想なのか?狂気なのか?それとも幻なのか?
ホラー映画の範疇を飛び越えるポランスキーの被害妄想癖を存分に楽しみたい。

クライマックスがあえて一度ではなく、
二度ふりかかってくるところは何度観ても笑ってしまう。

イザベル・アジャーニも唯一の主人公の味方として魅力的に出て来る。

しかし若い頃のポランスキーの姿は
彼の最新作『毛皮のヴィーナス』で主演を務めたマチュー・アマルリックにそっくりだった 笑。

年の離れた妻であるエマニュエル・セニエと
自分そっくりなマチュー・アマルリックの二人芝居をカメラの向こうから覗き見るという
80歳の年寄りらしい倒錯した世界観がなかなか面白かった。

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