【第835回】『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』(ジャン=マルク・ヴァレ/2015)


 早朝のニューヨーク、職場のあるウォール街までの道を妻の運転で向かうデイヴィス・ミッチェル(ジェイク・ギレンホール)の姿。30代半ばで義父が社長を務める会社で順風満帆にエリート・コースを走るデイヴィスにとって、朝の通勤中は愛する妻との貴重な会話の時間のはずだが、2人の間に会話はない。それどころか、沈黙を嫌うかのように妻はスマフォで母親と話している。デイヴィスは外の風景と義母と話す妻の姿を交互に眺めながら、虚ろな表情を浮かべているが、次の瞬間、車のボディに対向車が突き刺さる。まるで『セッション』のような激しい衝突の後、義父のフィル・イーストマン(クリス・クーパー)に呼び起こされたデイヴィスのYシャツには鮮血が飛んでいたが、顔はキレイなままである。血だらけのベッドの上には寝ているはずの妻の姿はない。助手席に座っていた男はエア・バッグとシートベルトのおかげでほとんど無傷だったが、無残にも妻は天国へと旅立った。でもデイヴィスはどういうわけか妻の死が悲しくも何ともない。最愛の妻の死で取り乱すどころか、一歩引いたところで冷静さを保ってしまう主人公の心の内は、西川美和の『永い言い訳』の衣笠幸夫(本木雅弘)を真っ先に連想させる。死因は違うが、ほとんど同じ導入場面を持った物語は同じような構造で進行するかに見えるが、脚本家ブライアン・サイプの物語はその後、奇妙な逸脱を見せる。

 ダン・ギルロイの『ナイトクローラー』同様に、無機質で純粋無垢な痛みを抱えた主人公像をジェイク・ギレンホールが見事に演じ切る。20代でパーティで知り合った妻と結婚し、当然のごとく義父の会社に入り、彼の片腕として金融業界で凌ぎを削ってきた男は、人も羨むような上流階級のエリート・コースを歩き、それなりの人生の体積があるかのように見えるが、これまでの人生は全て結果オーライでたまたま人生のレールに乗っかったに過ぎないのである。子供もいない夫婦2人暮らしの生活は、妻を失ったことで主人公は自分の半生を初めて見つめ直す。デイヴィス・ミッチェルの突発的な暴力衝動は主人公の喪失感をロジカルに繋いだ『永い言い訳』よりも、 デヴィッド・フィンチャーの99年の『ファイト・クラブ』や真利子哲也の2016年の『ディストラクション・ベイビーズ』のどうしようもなく無軌道な男たちの破壊衝動に近い。男はその破壊活動の途中で、まるでポール・トーマス・アンダーソンの『パンチドランク・ラブ』のアダム・サンドラーのように、一方通行に思えたコミュニケーションの先に、自動販売機のお客様相談室のカレン・モルノ(ナオミ・ワッツ)と出会ってしまう。

 弱者を食い物にした『パンチドランク・ラブ』とは打って変わり、ここでは妻を亡くしたデイヴィスの真実の告白(病巣)に、一回り年上の女がスマフォ越しに触れる。思わずダイナーへフライング気味に到着した主人公に、駐車場の薄明かりの中、劣悪なマリファナを吸う女は安全圏から気の毒な男の姿を凝視する。年増女と主人公の滑稽なロマンスは、やがてカレンの息子クリス・モレノ(ジュダ・ルイス)を媒介にする形で、新しい家族像を浮き彫りにする。義父の提案が元で、家にある全ての機械を部品の全てをテーブルに並べるようなシンプルな形に分解しなければならない主人公の欲求に対し、物語構造は複雑さを極める。Heartの『Crazy on You』を悲しい歌と解釈するカレンとは趣を異にするデイヴィスは「FUCK」を連呼するクリスに苦言を呈しながらも、厨二病的なクリスへの共感を隠そうとしない。それは終始、上から目線のマウントを繰り返す義父のフィル・イーストマンとは明らかなレイヤーの違いが浮き彫りになる。防弾チョッキに突発的に浴びる銃弾で生きていることを初めて実感するデイヴィスの思いは、影絵を繰り出しながら、上司の愛人になったカレンの偽りの貞淑な姿をも浮き彫りにする。自身の歩んで来た道のりの全てを否定するようなデイヴィスの心の欠損は、カレンやクリスの欠損部分にも呼応し、トラウマを感じるトライアングルは互いに傷を舐め合う。『ダラス・バイヤーズクラブ』や『わたしに会うまでの1600キロ』のように行き場を失った主人公の再生の物語は、来たるべきラストに集約される。

【第131回】『わたしに会うまでの1600キロ』(ジャン=マルク・ヴァレ/2014)


昨年最も意外性があった作品は
ジャン=マルク・ヴァレの『ダラス・バイヤーズクラブ』ではなかったか。
HIVに感染した男が治療薬を求めて、製薬会社や政府と戦う姿を描いた映画は
久しぶりにアメリカ社会の病巣をあぶり出すリアルな筆致に好感を持った。
今でこそ治療薬が見つかり、HIVという病気への世間の認識も高まっているが
80年代後半の時代背景では今とはまったく違う偏見や差別があり、
多くの患者が死ななくてもいい命を落とした。

ただ『ダラス・バイヤーズクラブ』の良さは脚本の素晴らしさもさることながら
20kg以上の減量をして主人公を演じたマシュー・マコノヒーによるところが大きい。
ジャン=マルク・ヴァレの演出に対しても別段注文はないが、
監督の作家性というものがさっぱり見えて来なかったのも事実である。

だからこそジャン=マルク・ヴァレの『ダラス・バイヤーズクラブ』の次の映画である。
今作は『ダラス・バイヤーズクラブ』と同じくベストセラー小説の映画化で実話を元にしている。

最愛の母親(ローラ・ダーン)の死に耐えきれず、
優しい夫(トーマス・サドスキー)を裏切り、ヘロインや複数の男との不倫に走る主人公リース・ウィザースプーン。
結婚生活も破綻を迎え、自分自身を変えるために1600kmものトレイルを女性1人で踏破する旅に出る。

山登りの経験もなく、何のトレーニングもしていない主人公には幾多の困難が待ち構えている。
詰め込み過ぎたバックパックの45kgの重量、立ち上がるのも困難なところから山歩きを始めるのだが
コンロの燃料を間違えたり、テントが脹れず何度もやり直したり、主人公の行く手には様々な困難が起きてしまう。

ただこの旅の過酷さがイマイチ伝わって来ないのである。
ファースト・シーンこそ主人公が断崖絶壁の上で、靴下を脱ぎ、
血だらけの生爪を剥がすショッキングな場面があるのだが、
本当に危険な旅に見えたのはそのファースト・シーンくらいで
それ以外の場面は山ではなくむしろ平地を歩いていてただの無難な旅にしか見えない。

45kgの重さを担いで歩くのであれば、
山だろうが平地だろうがどちらでもしんどいのに変わりはないが
向かうべき場所の風景ショットや高低差をわからせるショットだったり
自然の中に佇む主人公の小ささをロングで据えたショットは絶対に必要であろう。
それがこの映画にはまったくと言っていい程描かれないのである。

そもそも山を登る主人公を据えたショットはどの方向からカメラを向けるのが適切だろうか?
ジャン=マルク・ヴァレはほとんどの場面で
リース・ウィザースプーンを前からクローズ・アップで据えている。
この判断が私には監督として正しい選択とは最後まで思えなかった。

大体、どんなに暑かろうがショート・パンツで山を歩いたりするだろうか 笑?
どんなに暑くても肌は露出するなは山歩きをする者にとって基本だろう。
まともに山を登ったことがある人間ならば、主人公の服装にまず違和感を覚えるはずである。

バックパックの45kgの重量も、衣服の匂いも観客に何らかの形で伝わらなければ意味がない。
その重量が裸になった時のアザでしか明示されておらず、
スクリーンからは彼女の衣服汚れや汗の強烈な匂いを最後まで感じることが出来なかった。

またこういう変化球であっても旅に出る映画はそこで出会う人たちとの出会いをどう描くかが肝心なのに
途中出て来る複数の人物との交流も実に凡庸で味がない。
食べ物がなく最初に会った農家のおじさんもただ食べ物を恵んでもらっただけにしか見えず、
主人公の成長につながる些細な話とか教訓とかがまるで滲み出て来ない。

それは旅先で会った青年やヘビメタ一家も同様である。
アレクサンダー・ペインの諸作やリンチ『ストレイト・ストーリー』
ジム・ジャームッシュ『ブロークン・フラワーズ』との明確な違いがここにはある。
ジャン=マルク・ヴァレは出会いは出来事ではなく、運命という発想をそもそもしていない。
出会いというのは、主人公が1600km踏破するためのツールでしかなくなっている。

クライマックスの4 non blondesを歌う若者には思わず笑ったが、
ジャン=マルク・ヴァレには山を登ることの過酷さがわかっていないのではないか。
人間にとって険しい山そのものが脅威であって、
アナコンダやレイプしようとする青年の登場はそれに付随する別の種類の怖さでしかない。

どうして2人組の若者の登場にあれだけ時間を割いたのか?
またあの2人組を危険だと判断した主人公が、
最終的にはグレイトフル・デッドの追悼パーティで出会った青年とSEXをしたのか?
結局彼女の判断というのは、普通に街を歩いている時の主観と同じでしかない。
だからこそカッコいい男と出会ったら、簡単に身を委ねてしまうのだと思う。

ラスト・シーンはイーストウッド『マディソン郡の橋』へのオマージュだろうか?
1600kmに及ぶ旅の過酷さも大変さも困難さも伝えることが出来ずに、
最後にあの橋の上でリース・ウィザースプーンがつぶやいた感動の台詞はないだろう。

『ダラス・バイヤーズクラブ』では判断保留としたジャン=マルク・ヴァレの作家性だが
申し訳ないが今作を観ると才能はないと断言出来る。
手持ちカメラでの室内シーンとか、あの不快なモスキート音のような音響効果とか
短いショットを連発しながら不安を煽るモンタージュとかギミックは面白いがあくまでギミックである。

『ダラス・バイヤーズクラブ』では死の瞬間という主人公の避け難い恐怖が画面を支配する中、
人間の本性や生きること生き続けることへの欲求が画面中に充満していた。
しかしこの映画には人間の心の底からの成長とか真に目的を達成した喜びが描かれていない。
自然という極限状態の中で、夏も冬も全ての季節を歩き続け、遂に1600km歩き切る葛藤が描かれていない。
そこをしっかり描けなければ映画としては残念ながら成立しないのである。

ジャン=マルク・ヴァレの監督としての才能には疑問を呈してしまったが、
リース・ウィザースプーンとローラ・ダーンの演技は文句なしに素晴らしかった。
特にデヴィッド・リンチ作品の常連俳優ローラ・ダーンの母親ぶりは相当味わい深い。
それだけでも十分に観る価値はある作品と言えるのではないか。

8/28(金)から全国ロードショー
http://www.foxmovies-jp.com/1600kilo/

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