【第438回】『レヴェナント 蘇えりし者』(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ/2015)

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【第133回】『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ/2014)


昨今の『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』や『セッション』に対する
シネフィルや映画ファンの酷評ぶりにはそれはもう目を覆いたくなる。
私の周りでもこの2作に対する評価は非常に悪く、
もし私が監督であれば、しばらく立ち上がれないほどの心の傷を負っていたに違いない。

そもそも最近のアメリカ映画の中から、特別秀でた作品を見つけようとするのは至難の業だろう。
私などはイーストウッド、スピルバーグ、ゼメキスらを除けば
最近のアメリカ映画には鼻っから期待していないし、
アカデミー賞受賞作だからといってまったく触手も伸びないのである。

『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』への酷評は
このアカデミー賞を最多4部門受賞していることへの反発も大きいのではないか?
国内では大人気のウェス・アンダーソンやリチャード・リンクレイターを退けたのは
いったいどのように素晴らしい映画だというのか?
お手並み拝見と行きたいところだが、拍子抜けしたファンが多かったのだろう。

この『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』と『セッション』は意外な程共通項が多い。
ドラム・ロールという明快な主題はもちろん、社会(コミュニティ)から隔絶された環境の中で
最後の一手に懸ける男たちの死に物狂いの物語である点も見逃せない。

『セッション』では、主人公はチャーリー・パーカーの生き様を崇拝し、
自分が楽団の正規ドラマーだと思い込むことでしか社会と自分との接点を見出すことが出来ない。
自分に自信を持つために始めたドラムという楽器が、やがて彼の人格を破綻させ、
周囲の人間との間に想像以上の壁を作ってしまう。

『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の主人公は
かつてスーパーヒーローを演じた『バードマン』で一世を風靡したものの、
その後の俳優人生は鳴かず飛ばずで、起死回生の策として
レイモンド・カーヴァーの小説『愛について語るときに我々の語ること』をブロードウェーで上演する。

主演であるマイケル・キートンは実際にかつてティム・バートン版『バットマン』で
主人公であるブルース・ウェインを実際に演じていた役者である。
つまりこれは実際の俳優と劇中の俳優はまったく同じ境遇であることを意味する。

彼は数十年前の栄光のイメージが忘れられず、
ブロードウェーで自らの脚色・演出・主演で舞台化しようともがき苦しむが
彼自身にはまったくその才能がなく、楽屋では恐怖におののいている。

『セッション』も『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』も
主人公は筋金入りのエゴイストで、周囲の迷惑などまったく顧みない。
またかつての栄光にしがみつき、もう一度再浮上のチャンスを伺っている。
ただ『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』では主人公が年を取っている分だけ
そのエゴの代償があらゆる形で露になっている。

いわゆるショービズ界の裏側を暴くような内幕ものであり、
彼の楽屋には元薬物依存症の娘で付き人のサマンサ(エマ・ストーン)や
キートンを越えるエゴイストで自惚れの強い人気役者のマイク(エドワード・ノートン)や
キートンの恋人で女優のローラ(アンドレア・ライズボロー)や元妻のシルヴィア(エイミー・ライアン)など
様々な人間が入れ替わり立ち替わり入って来る。

彼の立場は舞台で言えば完全なコンダクターであり、
『セッション』で言うところのマイルズ・テラーとJ・K・シモンズの両方の役をこなさなければばらない。
しかしまったくエドワード・ノートンやエマ・ストーンを動かし切れておらず、
ナオミ・ワッツやアンドレア・ライズボローのことなど頭にもない。

冒頭のブリーフ姿で空中浮遊している場面から明らかなように
彼は精神を病んでおり、時折神の声が耳に入って来る。
そしてその病み方は時を追うごとに酷くなり、遂には舞台上でまさかの瞬間を迎えるわけなのだが
観終わってこれはジョン・カサヴェテスの『オープニング・ナイト』じゃないかと思った。

というよりもジョン・カサヴェテスの『オープニング・ナイト』を多分に意識した
ダーレン・アロノフスキーの『ブラック・スワン』そのものじゃないかと感じた。
そう思いながら観ると、物語の構造自体はちっとも斬新でも奇抜でもないのである。

今作のもう一つの武器である長回しも、
相米慎二の『ションベン・ライダー』や『雪の断章』を通過した我々日本人からすれば別に新しくも何ともない。
はっきり言ってソクーロフ『エルミタージュ幻想』やアンゲロプロスの方が百倍凄いと言いたくなる。

確かに舞台の内幕を演じた前半部分のカメラの動線をギリギリまで突き詰めた動きは素晴らしいし、
後半、劇場の外に出たところでまた一つフレームの広がりが感じられるところも凄く良かった。
また舞台のちょうど真上でエマ・ストーンとエドワード・ノートンの高低差を意識した
ゆっくりとしたティルトの場面など随所に素晴らしいフレーミングさばきが見られる。

BARで批評家と口論をした後、酒場で安いウィスキーを一瓶買い、
それを呑んでいるうちに朝になる場面のさり気なさと流れの中での疎外感の描写も
実に滑らかでカメラマンの力量を感じる。CG書き足しのアクション・シーンも外さない。

ただいかんせん、エマニュエル・ルベツキのそのドヤ顔の技量勝負が鼻につくのも事実である。
かつてヌーヴェルヴァーグ時代のJLGは
「我々のやろうとしている表現は、ほぼ全て昔の誰かによってやり尽くされている」
という言葉を吐いたことがあった。

今作におけるエマニュエル・ルベツキのカメラ・ワークの数々は、
まるで自分が初めて実現させたように思っているかもしれないが、
そんなものは過去の相米やアンゲロプロスやソクーロフが既にやっているのだ。

近年のエマニュエル・ルベツキ作品はどれもそうだが、
監督以上にルベツキの手癖がスクリーンに氾濫しているように見えて仕方ない。
アルフォンソ・キュアロンの『ゼロ・グラビティ』然り、
テレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』や『トゥ・ザ・ワンダー』も然りなのだが
このルベツキの凄いことやってるんだ感がとんだ勘違いであり痛々しいのである。

『セッション』との比較に話を戻せば、あのマイルズ・テラーの狂気のラスト・シーンは
社会(コミュニティ)から隔絶された環境の中に放り込まれることになった男の錯乱した姿だったが、
『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』では最後の段階に来て、
彼は自らが社会(コミュニティ)から隔離された人間ではないことを実感しているはずであり、
だとすると最後の落とし前の付け方が私にはさっぱりわからなかった。

そもそもジョン・カサヴェテスの『オープニング・ナイト』と比較した場合、
舞台のシーンがあまりにも短く興醒めするし、
イニャリトゥが描いているのは舞台ではなく単なる舞台装置なのである。
役者が引き金を弾いて自ら命を絶つべき場所が舞台であるならば、
同じく鳥になるべき場所も舞台であって、病室の窓ではないだろう。

その点、『セッション』のラスト・シーンには最低限の仁義や思いが感じられるのである。

カサヴェテス以降のアメリカ映画の質の低下を嘆くと共に
人間の狂気とは何のための狂気なのか?この2本の映画で大いに考えさせられた次第である。

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