【第684回】『クリスマス・ストーリー』(アルノー・デプレシャン /2008)


 フランス北部の街ルーベ、家に飾られた数枚の絵画、90年代初頭のHIP HOPのレコード、そしてジョセフ・ヴァイヤールの墓跡。長年この地でおしどり夫婦として愛を育んで来たアベル(ジャン=ポール・ルシヨン)とジュノン(カトリーヌ・ドヌーヴ)のヴュイヤール夫婦が最初に授かった子供は、男の子ジョゼフ。その2年後には長女エリザベート(アンヌ・コンシニ )が誕生。だがジョゼフは幼稚園の時、白血病と診断される。治療法は骨髄移植だけであったが家族の誰も骨髄が不適合、長男を救うため夫婦は次男アンリ(マチュー・アマルリック)をもうける。ところが彼の骨髄も適合せず、ジョゼフは僅か6歳にして天に召される。それから数十年が経過した現代、ヴュイヤール夫婦は孫にも恵まれ、すでに初老にさしかかっていたが、ある日母親ジュノンにジョゼフと同じ病気が見つかる。血液の表現型が珍しいこの病気を治すには、同じ型の骨髄を移植しなければならない。5年前、放蕩息子のアンリは詐欺まがいの劇場買収で多額の借金を重ね、それを肩代わりした姉エリザベートに代償として家族からの追放を言い渡されていた。クリスマス。母の病気をきっかけに、疎遠になっていた子供たちが家に集まってきた。次男アンリも、恋人フォニア(エマニュエル・ドゥヴォス)を連れ立って久しぶりに家族のもとを訪れる。

 アルノー・デプレシャンは処女作『二十歳の死』において、猟銃自殺を図り危篤状態の従兄弟を巡って、家族が久々に一つ屋根の下で交流する様子を描いた。デプレシャン作品にとって家族とはかけがえのないファミリー・トゥリーであり、大きな幹の元に根を張りながら、枝葉の一つ一つまで丁寧に描いて来た。同時に今作はトリュフォーで言うところのアントワーヌ・ドワネルもののような感慨を我々に抱かせてくれる。『そして僕は恋をする』では、将来の自分と三角関係に揺れる若者たちの焦燥を描いた。続く『キングス&クイーン』ではシングル・マザーの葛藤と家族から他人になることの残酷さを一人の息子を介在させて描いていた。今作ではアマルリックとドゥヴォスの恋の行方がまたも違うバリエーションで描かれる。マチュー・アマルリック、そしてエマニュエル・ドゥヴォス、端役ではあるがキアラ・マストロヤンニ、デプレシャンと共に大きく成長し、今やフランス映画界にとって欠かせない存在に成長した俳優たちが再びデプレシャンの元に集い、家族の一員というそれぞれの役柄を演じる。いわば家族同然の仲間たちが、実際に家族を演じる。我々観客はスクリーンの外から実に贅沢な感慨を持って見つめる。ロケーション撮影の華やかさ、アイリスやポートレイト、フィルムに印字された文字列、登場人物たちの独白、家族の食卓、美術館、生と死、それら映画的記憶がショットとショットの間からこぼれ落ちる。

 前作『キングス&クイーン』では円満に見えた家族の中で、姉と弟だけがいがみ合う。今作では確執を更に引き延ばし、原因を丹念に追うことで、家族の関係性をより複雑化させている。次男アンリ(マチュー・アマルリック)は5年前、妻の死を境に自暴自棄になり、詐欺まがいの劇場買収で、多額の借金を重ねてしまう。アンリの借金を肩代わりした戯曲化の長女エリザベート(アンヌ・コンシニ)は疫病神な弟との絶縁を宣言し、二度と家の敷居を跨がせないと一方的に通告する。しかし非情なエリザベートにも悩みの種がある。長男ポールの存在である。彼は精神的な病を抱えており、黒い犬の幻視に悩まされている。ポールの精神的喪失を埋めるのは、一家の厄介者である次男アンリに他ならない。アンリとポールの男同士は母ジュノンと適合する骨髄を有し、合わせ鏡のような関係性で結ばれる。思えばデプレシャンの処女作『二十歳の死』では社交的でコミュニケーション能力に長けた親族の中で、たった1人20歳の青年だけが猟銃で頭を打ち抜いた。『そして僕は恋をする』では大嫌いな友人の猿の死骸を処分した主人公が原因不明の精神疾患に悩まされた。『エスター・カーン めざめの時』では女優の卵が嫉妬に狂い、舞台恐怖症になるまでを丹念に描いていた。前作『キングス&クイーン』では主人公が実姉に無理矢理精神病院に入院させられる恐怖を実に滑稽に描写していた。家族の中で例外的に精神疾患を抱える人間というのは、デプレシャンの作品の中で頻繁に登場している。

 5年間家族に拒絶され、孤独を極めた次男アンリの心の葛藤。一度は絶縁を言い渡しながら、母親の生を助けるかもしれない弟と息子の間で揺れる長女エリザベートの葛藤。そして手術をするのかしないのか?息子と孫のどちらに移植してもらうのか?ひたすら悩む母親の葛藤。その三者三様の葛藤や家族の苦悩を描いた前半部分のデプレシャンの描写は緻密で容赦ない。監督は姉弟の確執や病への恐怖の他に家族それぞれの葛藤さえも描いていくのである。中でも三男で末っ子のイヴァン(メルヴィル・プポー)とその妻シルヴィア(キアラ・マストロヤンニ)、そして従兄弟のシモン(ローラン・カペリュート)との三角関係の描写は何もそこまでと言う程、デプレシャンは丁寧に緻密に描く。家族というのは誰か1人が欠けただけで、家族全員に計り知れない影響を及ぼし、普段は一緒に生活していない者同士が、親戚や兄弟の何気ない一言や行動に救われる。そういうかけがえのない関係こそが家族であり、人間同士なんだと言わんばかりである。クライマックスに手術シーンが来る映画はあまり例を見ない。ラスト・シーンの雪の筆舌に尽くし難い美しさはデプレシャンと撮影監督であるエリック・ゴーティエの一つの到達点となる。

【第140回】『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』(アルノー・デプレシャン/2013)


デプレシャンのフィルモグラフィを俯瞰で眺めた時、
一番作風が似通っているのは『キングス&クイーン』と『クリスマス・ストーリー』であろう。
『キングス&クイーン』では父親が死に向かうことで、
ヒロインは初めて自らのファミリー・トゥリーの大切さに気付く。
『クリスマス・ストーリー』では母親が白血病から力強く生きようとすることで
姉弟たちがこれまでの自分たちのファミリー・トゥリーを振り返り、間違えを悔い改める。
両者に共通するのは、家族という家系図へのデプレシャンの尋常ならざる思いであった。
だからこそ『キングス&クイーン』のラスト・シーンでは
息子が幼いなりに自らの家族を絵に描く場面を結びに持って来た。

デプレシャンの監督としての性格や野望を考えれば、
『キングス&クイーン』、『クリスマス・ストーリー』と来て、
ここでまたもやフランスの中で物語を紡いでいくとは考えにくかった。
そうは言っても、まさかここまでアメリカ映画とストレートに向き合うとは思いもしなかった。
それも21世紀に生きるアメリカの映画監督が誰も成し遂げようとしない領域に
デプレシャンは無謀にも突入しようとしているのである。

第二次世界大戦で陸軍兵士だったインディアンのジミー(ベニチオ・デル・トロ)は
帰国後、原因不明の症状に悩まされ続けていた。
ある日目眩と共にその場に倒れ、カンザス州の軍病院に入院することになる。
しかし彼の症状が診断出来ない医者たちは
精神分析医で人類学者でもあるフランス人ジョルジュ(マチュー・アマルリック)を呼び寄せるのだった。

このかつてないほどシリアスな冒頭部分を、デプレシャンはいとも簡単に軽快に仕上げていく。
患者の焦燥感と好奇心旺盛な医師を平行描写しながら、
やがて雷と大雨の夜に列車が到着し、マチュー・アマルリックが出て来る。
このシリアスな描写を弛緩させるかのようなユーモア溢れる描写は『キングス&クイーン』であり、
列車の中でレントゲン写真を見る場面は『二十歳の死』の変奏だろう。
雷と大雨の夜のアマルリックの到着は真っ先に『クリスマス・ストーリー』を想起させる。

それ以外にもアイリスとかズーム・アップとかデプレシャンの刻印は随所に見られるのだが、
どこかこれまでの作品とは異なる雰囲気を放っている。
その確信は長年コンビを組んだ撮影監督エリック・ゴーティエとの決別であろう。
長年連れ添った監督とカメラマンの蜜月からの決別は珍しいことではない。
青山真治であればたむらまさきとの蜜月と決別から作風がガラッと変化したし、
デプレシャンもその変化の感情は持っていたのだろうが、
それにしてもあれ程一作毎に進化を遂げているように見えたゴーティエとの決別が与える影響は大きい。

会話劇というのはそこで話されている言葉選びのセンスもさることながら、
それ以上に重要なのはカメラの構図や位置ではないか。
会話劇というのは動きがないし、ついつい話している人間のクローズ・アップで繫ぎたくなるが、
ジャック・オーディアール組常連のステファーヌ・フォンテーヌは
カット割、構図、据え置きかハンディかの選択をしながら、様々なバリエーションを試している。
だからこそ心理的な会話劇でも間延びしないし、映画的興味もギリギリ繋いでいる。

ただやはりラストの30分はデプレシャン自身が複雑な脚本を捌き切れていない印象を受ける。
だからこそベニチオ・デル・トロもマチュー・アマルリックも
何も確信がないまま走り出してしまった感は拭えない。

それこそマドレーヌ役のジーナ・マッキーのドキュメンタリー風の独白から
手紙をたくさん書いて欲しいと願う手紙をテーブルに置くあたりは抜群に上手い描写なのだがその後が続かない。

私はこの原作を読んだことはないのだが、
そもそもこれは映画にすべき物語なのだろうかという単純な疑問は拭えない。
もしこれをアメリカ資本で撮るならば、まったく別の切り口・着地点になったろうし
フランス映画だからこそこの難解な心理劇であり、
そこにはアルノー・デプレシャンの強烈な作家性が全面に押し出されているからこその
価値があると言えはしないだろうか?

アルノー・デプレシャンという作家は私の見立てでは枝葉の部分を丁寧に着色する天才である。
だからこそ150分を越える長尺の中で、様々な登場人物が行き交うが、
それでも物語が決して破綻することなく、最後には大きな実を結ぶ。

『そして僕は恋をする』も『エスター・カーン めざめの時』も
『キングス&クイーン』も『クリスマス・ストーリー』も
その主人公の周りを行き交う様々な登場人物を生き生きと描写することにデプレシャンの巧さはあったし
それがデプレシャン独特の文体となって我々を魅了していた。

しかし今作では登場人物がシンプルに簡素になっているため、
肝心のデプレシャンの旨味がなくなってしまっている。

ハワード・ショアの音楽にも『エスター・カーン めざめの時』以来の大傑作を期待したのだが
残念ながらかつてのような高揚感はなかった。

とはいえこれを映画化したデプレシャンの志の高さこそを褒めるべきではないか。
広く世界を見渡しても、ここまで触れ幅のある脚本に
4,5年単位で挑戦している作家はあまり例がない。

【第139回】『クリスマス・ストーリー』(アルノー・デプレシャン/2008)


アルノー・デプレシャンは処女作『二十歳の死』において
猟銃自殺を図り危篤状態の従兄弟を巡って、家族が久々に一つ屋根の下で交流する物語を描いた。
デプレシャン作品にとって家族とはかけがえのないファミリー・トゥリーであり、
大きな幹の元に根を張りながら、枝葉の一つ一つまで大事に大切に描いて来たのである。

それと同時に今作は
トリュフォーで言うところのアントワーヌ・ドワネルもののような感慨を我々に抱かせてくれる。
最初の出会いとなった『そして僕は恋をする』では、将来の自分と三角関係に揺れる若者たちの焦燥を描いた。
続く『キングス&クイーン』ではシングル・マザーの葛藤と
家族から他人になることの残酷さを一人の息子を介在させて描いていた。
そして今作ではそのアマルリックとドゥヴォスの恋の行方がまたも違うバリエーションで描かれる。

マチュー・アマルリック、そしてエマニュエル・ドゥヴォス、端役ではあるがキアラ・マストロヤンニ、
デプレシャンと共に大きく成長し、今やフランス映画界にとって欠かせない存在に成長した俳優たちが
再びデプレシャンの元に集い、家族の一員というそれぞれの役柄を演じる。
デプレシャンにとっていわば家族同然の仲間たちが、実際に家族を演じる。
それを我々観客はスクリーンの外から実に贅沢な感慨を持って見つめているのである。

またこの映画を観た時、フランス映画が育んだ映画的記憶がふいに甦る。
ヌーヴェルヴァーグ映画のロケーション撮影の華やかさ、アイリスやポートレイト、
フィルムに印字された文字列、登場人物たちの独白、家族の食卓、美術館、生と死
それら映画的記憶がショットとショットの間からこぼれ落ち、物語と関係ないところで涙ぐんでしまう。

映画は冒頭、家族の系図や歴史を元にした父親の独白で幕を開ける。
アベル(ジャン=ポール・ルシヨン)とジュノン(カトリーヌ・ドヌーヴ)の間に
最初に生まれた男の子ジョゼフは幼稚園の時、白血病と診断される。
間に長女エリザベートが生まれたが、骨髄移植は家族全員が不適合。
何とか白血病のジョゼフを救おうと、次男アンリをもうけるが彼も不適合。
結局、長兄だったジョゼフは6歳で短い生涯を終えるのだった。

それから数十年後の現在、ある日ジュノンにジョゼフと同じ病気が見つかる。
彼女はガンに冒されており、すぐにでも骨髄移植をしなければ白血病を発症してしまう。

前作『キングス&クイーン』では円満に見えた家族の中で、姉と弟だけがいがみ合っていた。
今作はその姉と弟の確執を更に引き延ばし、この確執の原因を丹念に追うことで
家族の関係性をより複雑化させている。

次男アンリ(マチュー・アマルリック)は5年前、妻の死を境に自暴自棄になり、
詐欺まがいの劇場買収で、多額の借金を重ねてしまう。
アンリの借金を肩代わりした戯曲化の長女エリザベート(アンヌ・コンシニ)は
疫病神な弟との絶縁を宣言し、二度と家の敷居を跨がせないと一方的に通告する。

しかし非情なエリザベートにも悩みの種がある。長男ポールの存在である。
彼は精神的な病を抱えており、黒い犬の幻視に悩まされている。

思えばデプレシャンの処女作『二十歳の死』では社交的でコミュニケーション能力に長けた親族の中で、
たった1人20歳の青年だけが猟銃で頭を打ち抜いた。
『そして僕は恋をする』では大嫌いな友人の猿の死骸を処分した主人公が原因不明の精神疾患に悩まされた。
『エスター・カーン めざめの時』では女優の卵が嫉妬に狂い、舞台恐怖症になるまでを丹念に描いていた。
前作『キングス&クイーン』では主人公が実姉に無理矢理精神病院に入院させられる恐怖を
実に滑稽に描写していた。

家族の中で例外的に精神疾患を抱える人間というのは、デプレシャンの作品の中で頻繁に登場している。
そして今作では皮肉にも、頭のおかしい次男アンリと長女エリザベートの息子のポールだけが
母親ジュノンの骨髄移植の適合者として認識されるのである。

このあまりにも出鱈目で出来過ぎな脚本を、デプレシャンは実に真面目に真剣に描写していく。
5年間家族に拒絶され、孤独を極めた次男アンリの心の葛藤。
一度は絶縁を言い渡しながら、母親の生を助けるかもしれない弟と息子の間で揺れる長女エリザベートの葛藤。
そして手術をするのかしないのか?息子と孫のどちらに移植してもらうのか?ひたすら悩む母親の葛藤。
その三者三様の葛藤や家族の苦悩を描いた前半部分のデプレシャンの描写にぐっと引き込まれる。

次男アンリの訪問の場面は実にあっけなく訪れる。
大雨と雷の酷いある夜、アンリは現在の恋人(エマニュエル・ドゥヴォス)を連れ立って
ヴュイヤール夫婦の家を訪れるのである。

その突然の訪問に、姉や母親は複雑な表情を浮かべている。
喜んでいるのは男連中ばかりで、女たちの葛藤は根深い。

映画はこのクリスマスの数日前から、手術日となる翌年の1月1日までを
ロメールのような記録映画風の形式で順序立てて進行していく。
その中でデプレシャンは姉弟の確執や病への恐怖の他に家族それぞれの葛藤さえも描いていくのである。

中でも三男で末っ子のイヴァン(メルヴィル・プポー)とその妻シルヴィア(キアラ・マストロヤンニ)
そして従兄弟のシモン(ローラン・カペリュート)との三角関係の描写は
何もそこまでと言う程、デプレシャンは丁寧に緻密に描いている。
そういう枝葉の部分まで手を抜かない姿勢が、デプレシャンの代名詞となった150分映画を形作る。
家族というのは誰か1人が欠けただけで、家族全員に計り知れない影響を及ぼし、
普段は一緒に生活していない者同士が、親戚や兄弟の何気ない一言や行動に救われる。
そういうかけがえのない関係こそが家族であり、人間同士なんだと言わんばかりである。

母親であるジュノンと次男アンリの恋人が服を試着する場面は『二十歳の死』であり
次男アンリとエリザベートの息子ポールがジョギングをする場面を観た時、
真っ先に『そして僕は恋をする』を思い出した人はきっと多いはず。

エマニュエル・ドゥヴォスの登場シーンでは
従兄弟たちが「あんなブス」と言っていた『二十歳の死』から
兄弟たちが「あんな美人」と言っていて実に微笑ましい変奏ぶりである。

クライマックスに手術シーンが来る映画なんて、私の知る限り21世紀では本当に珍しい。
活劇の入る隙のない場面で、感動を呼び込むデプレシャンの禁欲的演出は冴えに冴え渡っている。
ラスト・シーンの雪の筆舌に尽くし難い美しさは
デプレシャンと撮影監督であるエリック・ゴーティエの一つの到達点であろう。

【第133回】『キングス&クイーン』(アルノー・デプレシャン/2004)


パリで画廊を経営し、順風満帆な生活を送るノラ(エマニュエル・ドゥヴォス)はシングル・マザーで
一人息子であるエリアス(ヴァランタン・ルロン=ダルモン)を父親(モーリス・ガレル)に預けている。
その父親の誕生祝いに2人の元を訪れたノラは、
父親が末期ガンで余命いくばくもないことを知り、心が乱れる。

パリの街並を車内からゆっくりと車窓からの景色を据えたカメラとその車の中から意気揚々と出て来た1人の女性。
画廊の仕事は順調で、私生活では求婚されるなどとても充実した生活を送っている。
しかしエマニュエル・ドゥボスが幸せなのはファースト・シーンくらいで
その後は死を目前にした父親を看病する女の焦燥感がこれでもかと胸に迫る。

前作『エスター・カーン めざめの時』では19世紀の英国を舞台に、
女優になる夢を持ったヒロインのシンデレラ・ストーリーをストレートに描いたデプレシャンだったが
今作『キングス&クイーン』では再びパリに戻り、
マチュー・アマルリックとエマニュエル・ドゥヴォスの2人を主人公に
またしても男と女の複雑な悲喜劇を描いている。

映画は大まかに言って二部構成になっている。
一部では父親に死期が迫っていることを知ったヒロインの悲しみや苛立ちから
現在の婚約者であるジャン=ジャックにプロポーズされるまでを描いており、
二部とエピローグはその後の展開を描く。

主人公であるエマニュエル・ドゥヴォスとマチュー・アマルリックは平行に描写され、
一部では現在の2人の生活と喜怒哀楽が克明に平行描写されていく。
エマニュエル・ドゥヴォスは前述のように順風満帆に見えた生活が一気に暗転するが
マチュー・アマルリックの方も同様に人生の転機を迎えることになる。その平行描写が実に緻密で上手い。

ヴィオラ奏者として楽団で活躍するイスマエル(マチュー・アマルリック)は
自堕落な生活を送っていた矢先、実姉の指令で精神病院に強制入院させられる。
病院には精神科の女医ヴァッセ(カトリーヌ・ドヌーヴ)がおり、なかなか退院させてくれない。

ここでイスマエルを助けようとする親友で弁護士の男のキャラクターが面白い。
まるでホームズとワトソンのように、2人は共謀しやがて病院を抜け出すことになるのだが
ここのシークエンスだけまるでミステリー映画のような様相を呈している。

またエマニュエル・ドゥヴォスが病院にいる間に、
亡き夫の霊(ジョアサン・サランジェ))が現れる場面も実に素晴らしい。
現実には絶対に有り得ないことだが、映画はそのフィクションと現実の境目をいとも簡単に乗り越える。
ここでは複数のジャンル映画の断片が、パズルのように複雑に絡み合い、
一つの映画を作っているのである。

女性の方は父の死期を悟り、男性の方は姉を激しく憎むことになるのだが、
映画を通してデプレシャンは『そして僕は恋をする』の時のように恋愛ではなく、
家族というものに目を向けている。
デプレシャンの映画では決まって、誰かが死を迎えようとしているところで
家族が再び集まり、様々な葛藤を引き起こしていくのだが、
今作も父の死を迎えようとしているエマニュエル・ドゥヴォスの元に
婚約者や離れて暮らす連絡の取れない妹やマチュー・アマルリックが徐々に引き寄せられていく。

今作ではマチュー・アマルリックとエマニュエル・ドゥヴォスには婚姻関係はない。
ただ一年前まで7年間息子エリアスと共に3人で暮らした記憶だけがそこには残っており、
エマニュエル・ドゥヴォスはエリアスとイスマエルに養子縁組を結ばせようとするのである。

まるで『そして僕は恋をする』のように女性側の願いは身勝手なものだが
マチュー・アマルリックはその気持ちを受け止めようと葛藤する。
この葛藤こそが第二部の肝であり、クライマックスのエリアスとイスマエルの対話は
2000年代屈指の名場面である。このクライマックスの演出にはリンクレイターも嫉妬したであろう。
実に洗練され尽くしたフランス映画の至宝の演出がそこには息づいている。

末期ガンで死を待つ父親を演じたフィリップ・ガレルの父モーリス・ガレルの寡黙な眼差しが素晴らしい。
娘を愛し、同時に憎んだ寡黙でどこかシリアスな作家の独白を
記録映画風にしたためた遺言のようなシーンが胸を締め付ける。

またマチュー・アマルリックと父親に突然訪れた活劇の場面にも心底驚かされた。
やはりデプレシャンという人間には
ヌーヴェルヴァーグへの敬意とアメリカ映画への憧憬が同時に溢れているのである。

この緻密に練り込んだ脚本の素晴らしさもさることながら、
カメラマンとしてデプレシャンと共犯関係を結んだエリック・ゴーティエの素晴らしさも特筆に値する。
ステディ・カムで時に本当に短いショットを幾重にも積み上げながら、
デプレシャン映画にかつてないほどのリズム感が備わったのは
エリック・ゴーティエの野心的なカメラワークに負うところが大きい。

前半のエマニュエル・ドゥヴォスが空港に向かい、その後駅へと急ぐ場面や
先ほど申し上げたアマルリックと父親に不意に訪れた活劇の場面などは
デプレシャン・ファンにとって新鮮な味わいを持っている。

処女作『二十歳の死』と最新作『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』は例外として
デプレシャン映画というのは常に2時間オーバーであり、時に3時間弱もの鑑賞時間を要するものもある。
フランス国内での厚い支持に対して、いつも批判的な層の言い分というのは
シンプルな物語構造ながら、枝葉の人物に至るまで緻密に人物設定まで書き込み過ぎるあまり、
物語がどんどん長尺化するということなのだろうが、その指摘は圧倒的に正しい。

私も出来れば何とか120分以内に収めて欲しいのだが、
そう出来ないところにアルノー・デプレシャン独特の文体がある。

しかし時に1本の映画に詰め込み過ぎとか過剰とか言われるデプレシャンの演出が
ここに来て初めてラストにシンプルな答えを提示する。その潔さが今作を引き締めている。

このカテゴリーに該当する記事はありません。