【第825回】『パーソナル・ショッパー』(オリヴィエ・アサイヤス/2016)

あらすじ・結末に触れていますので、これから観る方はクリックしないで下さい

【第152回】『アクトレス 彼女たちの舞台』(オリヴィエ・アサイヤス/2015)


今作を観終わった時に、私は真っ先にアンドレ・テシネの『ランデヴー』を思い出した。
かつてアサイヤスがテシネと共に共同で脚本を書き、ビノシュが主演した映画は
今作に非常に肌触りが近い女優モノと呼ばれるジャンルのうちの1本だった。
若手女優が彼女の前から姿を消した男の亡霊に悩まされながら、
『ロミオとジュリエット』のジュリエット役という大役をこなし、女優としての階段を一歩ずつ昇っていった。

今作はかつて一世を風靡した大女優の孤独と葛藤を描いた成長物語である。
様々な登場人物たちが主人公の前に現れるが、
アサイヤスはその中でも大女優を献身的に支えるマネージャーと
かつての自分の栄光のポジションに割って入ろうとする勢いのある女優との三角関係にフォーカスして描く。

冒頭、フランスからスイスへ向かう道中、様々な情報が大女優とマネージャーの元に舞い込む。
この携帯電話の電波が微弱な中での不毛なやりとりを、アサイヤスは幾分しつこく強調し観客に提示する。
我々が生きているのは紛れもない2015年であり、女優にとってもマネージャーにとってもそれは同じである。

そこでかつての恩師のような存在である演出家の突然の訃報を受け、ビノシュは狼狽する。
ここでの演出家の訃報はビノシュやアサイヤスにとって師であるアンドレ・テシネとダブって見える。
(もちろんテシネはご存命であるが・・・映画は10年以上撮っていない)
今作でもこれまでのアサイヤス作品のように、主人公はいとも簡単に国境を突破していくのだが
今作ではその国境越えの時間に思いの外時間を割いているのである。

映画自体は3つの章に分かれており、
第一章ではかつての恩師の訃報から舞台のオファーを受けるまでを克明に描写する。
この章ではビノシュの女優としての品格や美しさをこれでもかというほど描写する。
シャネルの衣装協力による胸元の開いた黒のドレス、
恩師の訃報に際し、スピーチの壇上に上がる彼女のまばゆいほどの輝きがスクリーンから放たれる。
『ランデヴー』の頃にはまだまだ初々しい存在だったビノシュの国際派女優としての輝きや
30年間の軌跡をアサイヤスは余すところなく描き切り、ビノシュもそれに応えている。
かつて『ランデヴー』ではロミオとジュリエットのオーディションの際、
ジュリエットの実年齢である14歳を超越する存在として彼女は合格し、主役の座を掴むが
今作ではかつてのイメージからはかけ離れたからと主人公ではなく、
その中年のパートナーに指名されるのも面白い。彼女は年齢を超越していないのである。

第二章ではそれとは一転して、中年のヘレナ役を引き受けたことへの後悔と葛藤が画面を覆い尽くす。
第一章での女優としての華やかなオーラとは一転し、かなり素っ気ないファッション、化粧っ気のない表情
率直で飾らないジュリエット・ビノシュの姿にかなり困惑するに違いない。
観客に見られることを常に意識した大女優然とした姿から、普通の50代の女性としての素の表情への変化。
若い女優への嫉妬の感情は頂点に達し、嘲笑と皮肉の入り交じった感情へとつながっていく。
負けず嫌いな女優の普段の鍛錬の様子がマネージャーとの台本読み合わせの中で詳らかにされていく。

この「女優モノ」というジャンルは、古今東西様々な名作が存在している。
ジョセフ・L・マンキーウィッツの『イヴの総て』であったり、ビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』
そして何と言ってもジョン・カサヴェテスの『オープニング・ナイト』を
20世紀の「女優モノ」の頂点として据えている映画ファンは多いのではなかろうか?

21世紀においても、デプレシャンの『エスター・カーン めざめの時』などはまさにこれに分類されるし、
『ブラック・スワン』や近年で言えば『バードマン』なども
女優モノではないが同じ構造の映画だと言ってもいい。
ハリウッドの内幕を描いた映画としては、クローネンバーグの『マップ・トゥ・ザ・スターズ』も
これに近いタイプの作品だと言えるが、やはり『オープニング・ナイト』には遠く及ばない。

しかし今作はそれら21世紀の「女優モノ」とはまったく異なる視点で描かれている点に感心した。
大抵この手の作品では、主人公の中に芽生えた狂気が徐々に膨らんでいき、
やがてクライマックスで臨界点に達する。
今作もジュリエット・ビノシュが闇を抱えていることはまったく間違いのないことなのだが、
ビノシュだけではなく、クリステン・スチュワートやクロエ・グレース・モレッツも
それぞれがそれぞれに心の闇や苦悩や葛藤を抱えているのである。

やがてそれらが頂点に達し、3人のうちの1人がある特殊な方法で映画からいなくなる。
アサイヤスの映画では時として、この大切な人物の不在が劇中で大きな影響を及ぼしていた。
『クリーン』や『夏時間の庭』ではその誰かの不在が逆に家族というものを考えさせる契機となり
『レディ・アサシン』や『カルロス』は作劇上の理由で、主人公の元から大切な存在が消えた。
『ランデヴー』では愛し合った男が交通事故の名目で自死し、
彼女の前に何度も幻視として現れ、ビノシュを悩ませ続けた。
今作では深い葛藤を抱えながら物語にのめり込んでいくうちに、その苦悩や葛藤を抱えきれずに女は去る。

この三角関係の崩壊・破綻からビノシュの大女優としての再起の瞬間までが実にドラマチックで目が離せない。
真に予測不能なストーリー展開、スイスの雄大な山々を背景に描かれる意表を突く展開に心奪われる。

主人公たちはスイスの山の頂上で、ヘビのような形をした雲を見るのだが、二回とも肝心の雲を見ていない。
一度目は稽古に夢中になっているため、その奇跡のような雲の出現を見逃し、
二度目は真に驚愕する展開を迎えたために奇跡を見逃してしまう。
映画はそういう謎や神秘性を帯びながら、ある種の高みへと昇っていくのである。

ラスト・シーンのジュリエット・ビノシュの表情は筆舌に尽くし難い美しさと自信を漲らせている。
是非皆さんもビノシュの女優としての輝きをご覧になって頂きたい。言葉に出ない程美しかった。
『ランデヴー』からちょうど30年間の監督と女優の成長と再会を思い、涙が止まらなかった。
それと共にようやくカサヴェテス『オープニング・ナイト』と並び立つ女優モノに出会った。
このアサイヤスの成長はまさに特筆に値する事件ではないか。

10/24(土)よりヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国で順次公開
http://unifrance.jp/festival/2015/films/film07

【第150回】『カルロス第三部』(オリヴィエ・アサイヤス/2010)


5時間30分にも及んだ革命家カルロスの物語の完結編。
第一部では70年代初頭〜中期の革命家としての序章を描き、
第二部ではまさに油の乗り切った栄光の時代を描いたが、
今作ではその栄光の歴史にも陰りが見え始めた79年から90年代までを一気に描いている。
KGBの圧力を受けたハンガリー政府の事実上の庇護の元、ブダペストに潜伏したところから
冷戦崩壊までをまさに駆け足で追いかけた彼の転落の歴史には、常に退廃の歴史がつきまとう。

OPEC襲撃から結局PFLPを除名され、
最初は大義名分のあった彼の革命の意思もあっという間に金に形を変えてしまう。
お金のために平気でテロを請け負うようになり、そこに崇高な精神や理念などはない。

ここでは第二部のOPEC襲撃事件のような極端なアクションの場は設けられていない。
ベイルート襲撃事件もキャピトル号爆破事件もあくまでこういう事件があったのだという記述に留まり、
アサイヤスはあえてこれらの事件を活劇的に据えることを拒否している。

その代わりにカルロスの没落を強調するのは、最初の妻マグダレーナとの関係性の変化であろう。
革命という大義のために、ドイツに一人娘を置き去りに、
最後までカルロスの同胞であり続けたヨハネスを振ってまでカルロスに執着したマクダレーナの心変わり
その気持ちの移ろいを心理的に描写することで、カルロスの没落を暗喩的に伝えている。

第二部と同様にこの第三部でも、マグダレーナの行動は
単なるバイ・プレイヤーとしての立場を越えて我々に提示される。
逮捕〜投獄〜釈放までの一部始終がカルロスの行動以上に克明に記録され、
娘が生まれたところから革命戦士よりも母親としての顔の方が徐々に強くなっていく。
彼女のカルロスを見限った場面の冷ややかな表情は、
これまでのアサイヤス映画の中で最も冷たいヒロインの表情である。
彼女を失ったことが、やがて悲劇のクライマックスへとつながっていく。

第三部で最も重要なのは、活劇を活劇として処理することではなく
移ろい行く時間を親しい人物との別離、歴史の変化で急速に時代遅れになるある革命家の悲哀を
これでもかと描写することだとアサイヤスは悟っていたに違いない。

悪名高いアラファト議長の寵愛を受け、ハンガリー政府の事実上の庇護を受けたカルロスも
冷戦集結を迎えた80年代〜90年代のヨーロッパ諸国の情勢の変化の中で
やがてゆっくりとソ連や東側諸国の手厚い支援を失っていく。
90年代半ばになると、アメリカの捜査が大詰めを迎え、徐々にカルロス包囲網が形成されていく。

そのことに薄々気付いていながら、持病からまったく動けない革命家の姿は
第一部や第二部の無敵を誇った反逆者の姿とは真逆に見えて仕方ない。
エドガー・ラミレスはこの哀れな革命家の姿を、ブヨブヨの巨体で表現する。

今回来日したアサイヤス監督自身の話によれば、
この5時間半に及ぶ革命家の叙事詩は非常に混迷を極め、
どこをどう表現していけばいいのか手探りのまま編集をこなしたらしい。

脚本家はアサイヤス監督とTV局側が用意したダン・フランクの名前がクレジットされているが、
アサイヤス監督の話では、ダン・フランクの用意した脚本のアイデアをほとんど使っておらず、
実質的にはアサイヤス監督が単独で脚本を仕上げたということである。

編集の段階では2人、またカメラマンもヨリック・ル・ソーとドニ・ルノワールの2人が務め、
長丁場の難局を乗り越えたのだが、脚本の整合性と演出だけは監督自身が一手に引き受けなければならない。
そのことが、アサイヤス監督にとって大きな成長につながった模様である。

確かに活劇的な方法論をかなぐり捨て、登場人物たちの内面の描写に必要以上に力を割きながら
役者たちとネクスト・レベルを目指したあがきの跡がしっかり垣間見える結びとなっている。

今作は2010年の製作になるが、シャルリー・エブド襲撃事件を経た現在のフランスでは
ここで描かれたテロリストたちの内面や動機は当時以上に我々の心に響く。
カルロスを捕まえても、やがて第二第三のテロリストは現れては消えていく。
アサイヤスのカルロスに対する描写は、決して彼をヒーロー視する描写にはなっていない。
その極めて冷静な眼差しから再びこの5時間30分の映画を観た時、確かに胸に響くものはある。

【第149回】『カルロス第二部』(オリヴィエ・アサイヤス/2010)


第二部は1975年のOPEC本部襲撃事件で幕を開ける。
路面電車を降りて、OPEC本部に侵入したカルロスご一行は
いきなり刑事を射殺しながら、アラブ各国の首脳を人質に取る。

この最初からクライマックスのような緊迫したアクションの現場となったOPEC本部は
21世紀の今はもう取り壊されていてウィーンにはない。
アサイヤスは当時の建物の見取り図を入手し、当時そのままにそこに建物をこしらえたのである。
エレベーターの場所、廊下の長さ、本部室の窓などを
本物そっくりに作ったからこその説得力がフレームの中に充満する。
籠城する者たちとそれを取り囲むウィーン警察のギリギリの駆け引き。
そしてアラブ各国の首脳との力関係に寄る政治的駆け引きが臨場感をもたらしている。

そして何と言っても左脇腹にヒットしたアンジーの傷がこのギリギリの攻防の核となる。
瀕死の重傷を負ったアンジーを連れて行くのか?警察に渡して病院に入れるのか?
刻一刻と体調が悪くなっていくアンジーの傷が緊迫感を高めていく。

路面電車、大型バンと来て飛行機での移動に移るこのOPEC本部襲撃事件の活劇性は
なかなかの冴えを見せている。
カルロスの判断ミスにより、徐々に形勢が悪くなっていくことへの仲間たちの苛立ち
国家間の微妙な駆け引きの中で、悠然と構える政治家のふてぶてしさ。
明らかにアサイヤスはカルロスよりも政治家の図太さに重きを置いてこの攻防を綴る。

中盤のお金のなのか大義なのか革命家の葛藤がまた素晴らしい。
第一部から右肩上がりだったカルロスの革命人生が暗礁に乗り上げたことを
観客に理解させるのに十分な描写であり、
彼自身のイデオロギーが徐々に組織にとっても厄介なものになり始めたことを明示している。

第二部ではカルロスの他に、実に印象深い女性が2名登場する。
1名は西独革命細胞の一員でテロの同志であるナーダ、
もう1人は後にカルロスの最初の妻になったテロの実践活動を夢見るマグダレーナ・コップである。
この2人の男勝りな活躍ぶりが、ある種カルロスの活動よりも鮮明に映るのである。
ナーダは純粋に理想を追い求める姿勢が、
やがてカルロスにとって目の上のたんこぶでしかなくなり、中盤悲劇的な結末を迎える。
その彼女と入れ違いにカルロスの元に現れたマグダレーナ・コップはカルロスの寵愛を一手に引き受ける。

思えばアサイヤス作品に出て来る女性というのは、男顔で無表情な少し冷たいヒロインばかりだった。
私生活での最初の奥方だったマギー・チャン然り、今の奥方であるミア・ハンセン=ラブ然り、
コニー・ニールセン然り、アーシア・アルジェント然り、ジュリエット・ビノシュ然りである。
彼女たちに共通するのは極端に冷たい表情で挑発的で男勝りな女性たちであり、
それは今作に登場するジュリア・フンマーもノラ・フォン・ヴァルトシュテッテンも無関係ではない。

あとはこの3部作にも共通する特徴としては、主人公の転落ぶりが挙げられる。
アサイヤスの映画では一見全てが上手く運んでいるつもりが、徐々に歯車が狂っていく。
一言で言うと彼の描く物語はどこか不穏であり、根底に大きな暗さが頭をもたげている。

今作で最も重要なのは、徐々に明らかになっていくカルロスの欺瞞である。
ナーダとの不和、アンジーとのクライマックスのやりとりからも
徐々にその政治的思想が経済活動へと変節していく様子が来るべき第三部を予感させるのである。

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