【第468回】『海よりもまだ深く』(是枝裕和/2016)

あらすじ・結末に触れていますので、これから観る方はクリックしないで下さい

【第221回】『今年の恋』(木下恵介/1962)


 この映画が製作された年、62年の松竹と言えば、巨匠であった小津安二郎が前年11月封切りの『秋刀魚の味』を最後に、60年の人生にピリオドを迎える手前のまさに時代の転換期、世代交代の波が押し寄せた年であった。大島渚は1960年の暮れ、『日本の夜と霧』が会社に4日で一方的に封切りを打ち切られたことに反発。翌61年に小山明子や石堂淑朗を連れ、松竹を退社し、「創造社」を設立する。

1950年代半ばから木下恵介の助監督であった吉田喜重は60年、当時松竹最年少の若さで監督へ昇進。偶然にもJLG『勝手にしやがれ』と同じ構造を持つ処女作『ろくでなし』を撮る。今でこそ60年代安保を背景にした若者たちの背徳感溢れる青春群像劇として正当に評価されているものの、当時の城戸四郎を中心とした上層部は、大島や吉田のあまりにも先鋭的な物語を快く思っていなかった。松竹では伝統的にファミリー・ドラマや大船調喜劇と相場は決まっており、彼らのスタイルは保守層にとって目に上のたんこぶとなったのである。『ろくでなし』を監督した翌年の61年、城戸は吉田喜重に助監督への降格を一方的に命じる。その失意の中で撮られたのが木下恵介の前作『永遠の人』である。この松竹ヌーヴェルヴァーグと上層部との決定的不和は、60年代初頭の転換点を象徴するあまりにも重要な出来事である。吉田は64年、『日本脱出』のラスト・シーンに上層部が勝手に検閲でハサミを入れたことに猛抗議、松竹を退社し「現代映画社」を設立する。

同じ頃、巨匠であった小津は最愛の母を失い、その失意の中で『秋刀魚の味』の次回作『大根と人参』の構想に取り掛かる。生涯独身を貫いた小津さんの傷心は想像に難くない。『秋刀魚の味』の中でおそらく最も有名なシーンであろう、加東大介の酒場での『軍艦マーチ』の熱唱の場面。あれ程自らの映画の中に過剰な表現を嫌った小津さんらしからぬ、幾つものショットを積み上げたあの加東大介の怪演に、小津は『秋刀魚の味』に自らのフィナーレを予感していたのではないかと考える人は多いはずである。しかしながら実際には次回作『大根と人参』はクランク・インを迎えるばかりだった。

小津は戦後、自らの映画に何度も同窓会や戦友会の場面を入れているが、今作はまさにその同窓生と自分との年老いた現在を見つめながら、主人公が同窓生が癌であることを告知するべきか否か悩む物語であった。彼らは老い、やがて寿命を迎えるが、娘は生涯の伴侶を迎え、幸せな結婚を果たす。やがて子供が生まれ、彼ら家族の系譜はこうして途絶えることなく、生と死を見つめるといった小津監督のフィナーレに相応しいストーリー・ラインだった。主人公は笠智衆、その妻に三宅邦子、息子に吉田輝雄。主人公の喧嘩相手となる親友に佐分利信、その妻に田中絹代、娘には岩下志麻という配役まで決まっていた。岡田茉莉子、有馬稲子、司葉子の3人が、岩下志麻の姉となる設定は小津の死後、この『大根と人参』を監督した渋谷実の選択である。小津の死後、このシナリオを元に姉役に岡田茉莉子、有馬稲子、司葉子らを加え、小津とは違う渋谷の映画は出来上がった。小津版ではクライマックスには吉田輝雄と岩下志麻の縁談の場面が来て、ラストは結婚式のシーンでフィナーレを迎えるはずだった。

しかしながらこの『大根と人参』は、遂に小津監督でクランクインすることはなかった。63年、癌で入院した小津はこの『大根と人参』のシナリオに修正を加えながら、来たるべきクランクインの瞬間を心待ちにしていた。その年の秋、岡田茉莉子と婚約したばかりの吉田喜重が、岡田と共に小津さんの病床を訪ねる。後に吉田喜重自身が自著やNHKのドキュメンタリーにおいて何度も述べているが、当時吉田喜重は週刊誌に小津批判の論陣を張った。それはただ単純に松竹の旧態依然とした在り方を非難するものだった。けれどもこれが直接の師匠である木下恵介に矛先を向けるのではなく、松竹の精神的支柱であった小津に向けられたのはあまりにも皮肉な出来事であり、後々振り返って若気の至りであったと吉田は供述する。この見舞いの時、バツが悪そうな吉田に対し、小津は朦朧とする頭で「映画はドラマだ、アクシデントではない」と二度繰り返したのだという。

このエピソードは18歳当時の私の心を深くえぐり、日本映画史に残る事件として深く刻み込まれ、今日まで忘れたことはない。部外者である私でさえ記憶が鮮明なのだから、当時癌の病床にあった小津さんに「映画はドラマだ、アクシデントではない」と二度繰り返された吉田喜重の胸中は察するに余りある。小津さんが死ぬまで務めた松竹を捨て、独立プロに走った吉田喜重のその後のフィルモグラフィを、天国の小津安二郎はどのように見守ったのであろうか?

ここまで長々と松竹の世代交代の話をしてきたが、今作『今年の恋』は小津安二郎の思いとも吉田喜重の思いともとても無関係とは思えない作品である。吉田輝雄と岩下志麻の縁談の場面がラストに来る『大根と人参』に対し、今作ではその吉田輝雄と吉田喜重の妻で、渋谷実版の『大根と人参』では長女役を演じた岡田茉莉子が情熱的な恋に落ちていくのである。木下恵介の前作『永遠の人』では、吉田喜重が一度助監督に降格するが、今作ではラインナップに加わっていない。降格はあくまで禊として一作だけの降格であり、その後は再び監督に昇格を果たしたものの、4作目にして吉田と松竹との関係は破談を迎えるのである。

この映画がユニークなのは、それぞれの家族の端っこにいる男子高校生が、姉と兄の恋のキューピット役を受け持つ点である。高校生の山田光(田村正和)と相川一郎(石川竜二)は非常に仲が良く、いつもくっついてばかりいた。成績は二人ともよくない。一郎の家は銀座の“愛川”という料理屋で、父の一作(三遊亭円遊)は職人気質でお人好しであり、母のお紋(浪花千栄子)も亭主と同じ。だから一郎の親代わりは姉の美加子(岡田茉莉子)だ。彼女は“愛川”の看板娘。ふるほどの縁談に耳もかさず、弟の世話に一生懸命だ。美加子は成績不良の原因は友達が悪いんだと思いこんでいる。横浜にある光の家でも同様である。

この2つの家族の描写は平行に描写される。山田光の家は典型的なブルジョワの家庭であり、母親代わりの東山千栄子の世話焼きぶりが非常にユーモラスに効いている。兄は大学院に通う優等生だが、弟は彼のようになかなか勉学に励もうとしない。阪東妻三郎一家を好む木下監督は、前作『永遠の人』同様に阪東妻三郎の三男である田村正和をここでも重要な役どころに起用しているが、その演技はどこか幼く、たどたどしい。

山田家と相川家を結びつける重要なツールとして、電話が繰り返し出て来る。電話が日本で一般家庭に普及したのは主に1970年代になってからであり、この物語の年号である1961年には、一部のブロジョワ家庭にしか出回っていなかった希少な家電であった。21世紀の今で言えば映画の中に映り込んだ携帯電話が非常に目障りに見えるように、この時代の電話も同様であったろう。彼らは執拗に電話機を駆使し、居留守や嘘やアリバイや罵り合いを展開する。時には家族の危機にこの電話の存在が欠かせない家電となり、物語を前へ進めていく原動力となる。

男同士の友情や裸の付き合いなど、やんわりとした男同士のふれあいを木下恵介は好んで描写した。白坂依志夫のエッセイにあったように彼がホモであったかどうかはあまり興味がない。しかしながら山田光と相川一郎は唐突な理由でボクシング部へ入部し、彼らをボコボコにした上級生に仕返しをしようとする。けれどその事件が結果どうなったのかは不親切にも棚上げにされ、我々観客が知る由もない。あくまで回収されない伏線としてのアイデアが、いつの間にかどこかに行ってしまう。それだけこの映画は吉田輝雄と岡田茉莉子の恋物語に時間を割いているのである。

痛快なのは、吉田輝雄と岡田茉莉子の出会いの場面である。料亭の二階、喧騒を抜けたところで彼らの出会いは女性を介して繰り広げられる。岡田茉莉子は山田の姓に疑問を持ちつつも、最初は間違いじゃないかとあまり気に留めていない。それが実は弟同士が無二の親友だったと知ったせいで、途端に2人は慌てふためくのである。たかだか大学院生の男が、背広にネクタイを締めて何をやっているんだと思う向きもあるだろうが 笑、ここではそういうディテイルにはあえて突っ込まない。予感はやがて真実へと変わり、現実を何らかの形で動かそうとする。この段階においては、当初主人公かと思われた高校生の男の子2人の友情も大人たち2人を結びつけるための装置でいかなかったんだと察するが、息子の家出から唐突に向かう熱海行きまでの道中を、車で追いかける吉田輝雄と岡田茉莉子の描写がいちいち素晴らしい。

料亭の時よりも率直に、それぞれの思いを伝えることになる2人は、様々な迂回や遠回りをしながら、やがて熱海へは行かないことを決断する。岡田茉莉子は最初、助手席ではなく後ろの席に座り、随分よそよそしい雰囲気を讃えているものの、やがて吉田輝雄の兄としての理性的な振る舞いにほだされ、助手席へと座る。カメラは車の前方に並列に座る2人のショットを撮るものの、肝心の2人の話し声は我々にはまったく聞こえてこない。ここに来て映画は、いきなりロード・ムーヴィーの様相を呈し、カメラは突然物語の性急なテンポに呼応し始める。

この性急なテンポというのは、今作のカメラマンである成島東一郎に負うところが大きい。初期の吉田喜重作品をはじめ、大島渚や篠田正浩など松竹ヌーヴェルヴァーグについた60年代の名カメラマンである成島東一郎が生み出した独特な構図とリズムは、木下恵介というあまりにもリズムを持たない監督の作品でも炸裂している。

今作の脚本はこれまでの木下作品とは異なり、木下恵介の単独で脚本が描かれ、撮影された。今作に一つケチをつけるとすれば、大映の増村保造の『最高殊勲夫人』の存在である。今作における吉田輝雄と岡田茉莉子の存在は、『最高殊勲夫人』の川口浩と若尾文子の関係と非常によく似ている。あちらは会社を巻き込んだ政略結婚の物語として、長男長女、次男次女が結婚した後、三男である川口浩と三女である若尾文子を何とかくっつけようと、丹阿弥谷津子扮する桃子姉さんが様々な入れ知恵を使い、二人を結びつける。あの映画も女性は気が強く、サバサバしているが実は心配性で世話焼きというキャラクター設定が見事だった。細かい描写の面で言えば、今作における父親の浮気の場面は、明らかに『最高殊勲夫人』における船越英二の鬼怒川温泉での密会の場面に呼応する。不倫しようとした男はその浮気の現場がバレ、バツが悪そうにするあたりもそっくりなのである。

当時、木下恵介が小津さんの『大根と人参』をどれだけ念頭に置いていたかはわからない。小津が吉田輝雄を使う前に、とりあえず自作を第一回主演作品にしてみよう軽い気持ちだったろうが、その軽さが良い方向に作用したのかもしれない。今作の設定がユニークなのは、男女の間には一切の恋敵が登場しないことである。最初の料亭の場面に吉田輝雄は女性を連れて行くが、嫉妬に狂い彼の顔にビールをかけたところからその後一度も出て来ない。2人は恋敵のいない中で右往左往しながら、やがて正月映画らしい希望あるラストへとつながっていくのである。例外的に木下がカメラマン成島東一郎を迎え、木下が何のしがらみも制約もなく作り上げた作品であり、松竹の世代交代の転換点に生まれ落ちた不思議な魅力を持った味わい深い小品。久しぶりに観たが素晴らしかった。

【第143回】『海街diary』(是枝裕和/2015)


小津安二郎は1950年代を通し、
後の核家族に枝分かれしていく日本の家族の未来を予測していた。
また小津映画の中で家族の不在は、戦争で引き裂かれた者を意味していた。
小津映画の中で家族の不在というのは、登場人物に1人も軍人を出さなかった小津の抵抗だった。

成瀬巳喜男は1960年の『娘・妻・母』の中で、長男の森雅之が加東大介に騙され、
住み慣れた我が家を手放さなければならなくなった家族のその後を描いた。
父親が死に、誰が母親の面倒を見るのかを思い悩んだ原節子は若き日の仲代達矢と別れ、
自分がブルジョワジーの家庭に嫁ぐことで母親を身を持って守ろうとした。

相米慎二は1993年の『お引越し』の中で、漆場の一人娘レンコが
母ナズナと父ケンイチの仲を何とか回復させようと懸命の努力を続けるが、
その努力も空しく、夏祭りの中のスピリチュアルな体験を経て成長していく少女の姿を描いた。

今作はそれら日本の伝統的な家族映画の系譜に属する一番新しい作品である。

ある夏の朝、幸田家の3姉妹(綾瀬はるか・長澤まさみ・夏帆)の元に届いた訃報は、
15年前女に走り、家を蒸発したままの父親だった。
母親(大竹しのぶ)も父の不倫からこの家が嫌になり、新しい夫の生活する札幌へと去った。
それ以来、鎌倉にある古い民家には3姉妹だけが暮らしていた。

父親の突然の訃報で、山形に向かった3姉妹はそこで腹違いの妹浅野すず(広瀬すず)に出会う。
別れ際の列車のホームでふいに寂しくなった長女幸(綾瀬はるか)は彼女に
一緒に住まないかと提案するのだった。

彼女たち3姉妹は父親の不在を15年受け入れて生活して来たが、少女の心境はそうではない。
この少女には母親が既におらず親戚も極僅かで、
たった今から身寄りのない生活を受け入れなければならない。
長女の幸はそんな少女すずの姿が実にいじらしく、声をかけずにいられないのである。

その4人が4姉妹になるきっかけを与える場面が非常に素晴らしい。
喪服姿で3人並んで手前にゆっくり歩いて来るところを、後ろから少女が全速力で追いかけて来る。
その姿が向かい角を曲がるところでうっすら見えてから、荒い息遣いが迫って来る。
そこで少女が手渡したのは、父が形見として持っていた長女の写真だった。

また彼女を鎌倉に誘うところから、列車が走り出す姿を全速力で追いかけるすずの姿が実に印象的である。
彼女たち3人を見送ったところから始まる身寄りのない生活を受け入れることの葛藤。
それを覆してみせた3姉妹の優しさに失意のどん底から立ち直った少女の躍動をエモーショナルに伝える。

鎌倉の古い民家、江ノ電の往来、古い線路、坂、急な階段、広い海岸線、花火
それらのイメージは決して新しいものではない。むしろ普遍的な家族の形を我々に思い起こさせる。
小津や成瀬や相米が綴った家族の風景、子供たちの成長物語は2015年という境界を実に曖昧にしてしまう。
テレビやインターネットはもちろんなく、携帯電話さえも一度だけの登場に留めている。
そういうテクノロジーは、今作においてはまったく必要とされていない。

この映画を最も印象づけているのは3度出て来る葬式の場面であろう。
最初の父親の葬式では、外に出て来た3姉妹が煙突から出る白い煙を見送る。
小津さんの映画にも出て来たあまりにも印象的な煙突の白い煙だが
この死というのは生と隣り合わせの出来事であり、彼女たちの今生きている生の瞬間を浮き彫りにする。

今作において生きることとは死んだ人に手を合わせることに他ならない。
3女の夏帆や長女の綾瀬はるかは何度も仏壇に手を合わせ、お祈りする。
時には母親である大竹しのぶまでもが仏壇に手を合わせる。
大雨の日、お婆ちゃんの墓を2人で墓参りする時も、困難な道中にも関わらず2人は何の躊躇もない。

そして今作において生きることを明確に示すのは食べること、話すこと、恋をすることであろう。

すずが鎌倉の家に着いて最初にしたことは、
4姉妹と3女夏帆の同僚のスポーツマックス店長の浜田(池田貴史)とご飯を食べることである。
それ以外にもちくわチーズカレー、梅酒、生シラス丼、シラス・トーストなど
食べ物を食べるシーンが何度も何度も反復されていく。
時にはすずがシラスの水揚げから天日干しの作業を行う姿を通して、亡き父親との思い出を振り返る。

話すことは4姉妹の関係性を示す最も重要な視点だろう。
いつもケンカが絶えないが、いざとなった時には結託する長女と次女。
長女はしっかり気質で面倒見が良いタイプ。次女は若干お調子者で口達者。
その長女と次女に挟まれ、少し抜けたところもある三女の様子をシンプルな会話劇で表現する。
小津さんの映画の女性ヒロインがいつも前髪を上げていたように、
今作でも唯一夏帆を除いて、綾瀬はるかや長澤まさみや広瀬すずが
全ての場面ではないが、前髪を上げていることに気付いた人がいるかもしれない。
この一見古風な髪型が、日本人女性特有の肌の美しさをスクリーンから放射するのである。

彼女たち4人はそれぞれ自立した自分の人生を生きている。
長女は病院で看護師として働いており、小児科医の彼氏(堤真一)がいる。
次女は銀行に勤めながら学生の藤井(坂口健太郎)と付き合っているが、
彼と別れたことでより銀行の仕事に真剣になって打ち込む。
三女は山登りの名手で共に働く店長(池田貴史)を尊敬しながら、友だちのような関係を築いている。
少女すずもクラスメイトでチームメイトの男の子と相思相愛である。

今作においてあまりにも重要なのは、男性側の主体性の欠如ではないだろうか。
亡くなった父親と同じように、彼らは現れては消えていく幽霊のような存在である。
自らの借金により突然次女の前から姿を消す藤井、突然アメリカ行きを宣言する小児科医の椎名
彼らは決して彼女たちを道連れにはしないし、自由意志に任せているのである。
そもそもこの映画の中では、亡くなった父親の遺影すら出て来ないほどの徹底ぶりである。
ただ1人、みんなが通う店のリリー・フランキーだけが消えない存在として映る。

21世紀の今、時代は確実に男兄弟ではなく女姉妹を求めている。
そこにあるのは男性のうじうじした諦念ではなく、自立した女の強さしたたかさなのかもしれない。

もう一つ言及しておかなければならないのは、
性の対象ではない広瀬すずに対しての、セクシュアルな語り手としての長澤まさみの存在価値であろう。
映画は冒頭、この長澤まさみの脚を舐めるように撮ったカメラの動きで幕を開ける。
それ以外にも今作では執拗に長澤まさみの脚があからさまに強調されている。
長女とケンカして風呂に籠城したときのクローズ・アップ・ショットのなまめかしさ。
決してあけすけに見せてはいないがどこかセクシュアルな表現の担い手として
長澤まさみが今作で負う役割は実に大きい。
この彼女のセクシュアルな所作の一つ一つが、
我々観客の広瀬すずへの性的な眼差しを巧妙にずらしていることを忘れてはならない。

だからこその中盤の桜のトンネルを好きな男の子の後ろで2人乗りする
広瀬すずのクローズ・アップの筆舌に尽くし難い素晴らしさではないだろうか。
決して動く人物をキレイに捉えていはいないが、そこには聖なる少女の成長の刻印が確かにあった。
後半の湯船で1人手相を見ながら考え込むあまりにも印象的な場面の前に、
聖が性に変換されてはあの場面は絶対に成立し得ない。
その揺るぎない監督としての確信が是枝裕和の生と聖と性の書き分けには感じられるのである。

はっきり申し上げて、今作に対してあまり期待していなかった。
ほとんど惰性でスクリーンに向かったのだが、その見事な演出にはただただ驚いた。

是非とも長澤まさみという女優の劇的な成長をスクリーンで見守って頂きたい。
そして広瀬すずという日本映画界に現れた新しいヒロインの躍動を是非その目に焼き付けて欲しい。

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