【第371回】『ディーパンの闘い』(ジャック・オーディアール/2015)

あらすじ・結末に触れていますので、これから観る方はクリックしないで下さい

【第167回】『君と歩く世界』(ジャック・オーディアール/2012)


ジャック・オーディアールの映画は
フランスの同世代の作家であるデプレシャンやアサイヤスの作品とは違い、
上流・中流・下流の中でいつも下流社会に生きる男たちを扱っている。
『リード・マイ・リップス』では刑務所を出て、保護観察中の男が
耳の不自由な女性と出会い、何とか仕事にありつく。
『預言者』では無学のアラブ系青年が、刑務所の中のカーストに怯えながら
コルシカ・マフィアのボスにすがって生きていく。
唯一例外的に『真夜中のピアニスト』では主人公の生い立ちはそれ程不幸な環境ではないものの、
彼は華やかなピアニストの世界に憧れる芸術家の世界では列記とした下流の人物として描かれる。

今作でもその下流社会に生きる男の圧倒的なリアリズムという根っこは変わらない。
シングル・ファザーとして生きる男(マティアス・スクナールツ)が、
たった一人の身寄りである姉を頼り息子と共に姉夫婦の家で居候している。
仕事を見つけなければいけない主人公は『預言者』同様に学がないのだろう。
ナイトクラブの用心棒として、自らの体を酷使して働き先を見つける。

ある日、彼はナイトクラブで男性が女性を殴るのを目撃する。
無残にも殴られ、病院送りになる寸前だった女性(マリオン・コティヤール)を家まで送り届け
部屋でアイシングまでしてあげるが、彼氏に出て行けと言われ電話番号を残していく。

今作が『リード・マイ・リップス』と趣を異にするのは、
主人公がある日突然、不慮の事故から両脚を失うのである。
『リード・マイ・リップス』では主人公は最初から耳が不自由という障害を持っており
エマニュエル・ドゥボスとヴァンサン・カッセルは職場で出会った。

今作では映画の冒頭では主人公は健常者として何不自由なく暮らしている。
むしろ男性側の貧困の方が強調され、
女性側はイルカの調教師としてそれなりの地位も名誉も得ているように見える。
だからこそ、両脚切断に至った主人公の苦悩と転落がドラマの中でこれでもかと胸に迫る。

出会いの場面に見られたように、女性はしばしストレートな物言いで異性を怒らせる。
ヒロインは男勝りであり、社会的に見れば男性顔負けの生活をし、男女の性差に一際敏感な人間である。
そんな彼女が生きる希望の全てを失い、一度だけしか会ったことのない男にすがる。
このスクナールツとコティヤールの再会までの描写のオーディアールの成長ぶりが心地良い。
男はナイトクラブの用心棒から夜の警備員に転職するも、どこか満たされない。
女は両脚を失い、病室のカーテンを閉め切って光に当たらない生活を送る。
その両者が女の電話から再会するところの淡々とした描写がまた良い。
男はマリファナを吸い、泳いでくると海へ向かう。
そんな男に引っ張られるように女も海へと向かっていく。
そこでのコティヤールの全裸で泳ぐ場面は文句なしに素晴らしい。
障害者に対して過保護ではない彼のさりげない行動や態度が、やがてヒロインの心を開いていく。

オーディアールの映画の特徴である「二重生活」は今作でも実に印象的にシーンを盛り上げる。
スクナールツは夜は警備員として働きながら、昼間は賭けの地下格闘技で闘っているのである。
己の身体のみで生きている彼にとって、闘うことしか生活を豊かにする術はない。
彼は常に身体を鍛え、新しい技を習得し、地下格闘技のために全てを捧げているのである。
コティヤールもそんな彼の姿を車の中から支えている。
最初は「男性の世界だから」と傍での観戦を断られた女だったが、後半ある事情の変化から劇的にその地を踏む。
まるで相米慎二の『翔んだカップル』のボクシングの場面のような視線の力である。

中盤のイルカと主人公の窓越しの再会シーンは実に印象的で見事だった。
こんなにもよく訓練されたイルカ君が、時には残酷さの象徴にもなる。
この場面一つ入れただけで、映画内に流れる時間が否応なしに輝き出す。
そういう細かい描写がオーディアールは随分と成長した。

オーディアールの脚本は男性側にも女性側にも当初の生活とは違う2人の成長を促すが、
そういう人間同士のつながりが実に密接に誠実に彼らの糸を絡ませたり解したりする。
今作においては、途中までまったく親としての息子への態度に納得していなかったが
オーディアールはクライマックスにしっかりと葛藤の場面を用意している。
むしろ物語の持続という点では、本当によく煮詰めてある。

携帯電話のたった4文字の描写にここまでグッと来たのは珍しい。
普段はソーシャル・ツールの登場にどちらかと言えば苛立ってしまう筆者が
ここでの携帯電話の使用には大いに唸らされた。

ラストのスクナールツとコティヤールの3度目の再会を描かなかったことはやや不満も残るが、
『リード・マイ・リップス』の頃には考えられなかった作家としての劇的な成長はあまりにも見事である。

ジェームズ・グレイと並び、世界中でいま最も硬派な作家として
ジャック・オーディアールの存在感は大きさを増してきている。

【第165回】『真夜中のピアニスト』(ジャック・オーディアール/2005)


非常に奇妙でどう形容したらいいのかわからない不思議な映画である。

ある夜、車で街を走っていた主人公の男は
偶然ピアニストだった母親のマネージャーをやっていた男性に出くわす。
彼がふと言い放った「オーディション」の言葉に、突然音楽への情熱が目覚めた彼は
その日から無我夢中でピアノのレッスンにのめり込んでいく。

不動産屋に勤める主人公は常日頃あくどい仲間や父親に嫌気が差しながら
そんな自分の生活を悔い改める事が出来ない。環境が変えられない。
父親の強引な頼みを断る事が出来ないし、会社の同僚の浮気のアリバイ作りにも渋々応じてしまう。
今作はそんな優柔不断で何事も断る事が出来ない男の抱いた淡い夢物語である。

夢への道と言えば非常に希望に満ちた言葉であるが、
この男は母親のマネージャーに会うまでは部屋に置いてあるピアノにも一切触れていない。
せいぜいヘッドフォンの中で流行のエレクトロを聴くのだけが彼の音楽生活であり、
プレイヤーとしての努力は一切していない。
そんな彼がふと言われた「オーディション」という言葉にどういうわけか魅了されてしまう。
母親の死のショックから一度は距離を置いた音楽家としての夢が再び顔を出し
なぜかそこからは寝ても醒めてもオーディションの課題曲のことが頭から離れない。
極端と言えば極端であり、単純と言えば単純なのが主人公の長所であり短所でもある。

思えばオーディアールの映画ではいつも主人公は二重生活をしていた。
『リード・マイ・リップス』では昼間は宅地会社でOLをしながら、
夜になると男性の頼みを渋々引き受け、夜通しある部屋の様子を伺っていた。
『預言者』では囚人として刑務所に入れられている男が、
昼間の時間帯だけ外出を許され、外出先でマフィアのボスの命令を代行する。
どちらも最初はあまり乗り気ではないのだが、嫌々やらされ徐々に犯罪に手を染めていった。

今作でも主人公は「オーディション」の言葉に夢への希望を見出すが
昼間は不動産屋の仕事をこれまでと変わりなく続けている。
また父親に借金を返さない男を懲らしめるために、時には脅しも辞さないのである。

この夢と現実の生活の二重生活の中に身を置く主人公の行動は、中途半端に見えても仕方ないだろう。
確かに彼は昼飯の時やちょっとした仕事の空き時間にも一生懸命想像の中で練習するが
圧倒的に練習時間が足りないように見える。
それどころか浮気のアリバイ作りがバレた途端、同僚の妻を口説き一夜を供にする。
父親に頼まれたわけでもないのに、父親が騙しとられた数十万円のお金の復讐のため、
ロシア人マフィアの元に行き、マフィアの愛人と関係を持つ。

普通はマフィアの愛人に手を出したことで彼はマフィアに追われる身となるはずだが
どういうわけか物語はそちらの方向には行かず、あくまで夢の行方を終着点に持って来る。

この主人公のピアニストになる夢をサポートする中国人ピアニストもまったく腑に落ちない。
彼女とは毎日、レッスン代金を払いピアノを教えてもらっているのだが、
ほとんどフランス語がわからず的確なアドバイスが出来る状態ではないのだ。
つまり彼が弾くピアノを彼女は見守っているだけで、現状大したサポートにはなっていないのである。

そんなレベルだからこそ、主人公の夢への意志にもその成長過程にもまったく感情移入出来ない。
『リード・マイ・リップス』や『預言者』での主人公の2重生活はある種逃げられない理由から
渋々引き受けたことで限界を超えた2重生活がスタートしていたが、今作ではそういう描写が見られない。

そもそもその「オーディション」に受かった場合、どれだけの見返りが来るのかが
我々観客にはいまいちよくわからないのである。
実際に映画の中でもその「オーディション」の詳しい概要が話されたところを我々は見れない。
亡き母親のマネージャーだった男は「オーディション」の名前は口にするが
そこで時間いっぱいになり、彼はコンサート・ホールへと戻っていってしまう。

だからこそ主人公の男がこの夢にどうしてここまで執着するのかも
どうして夢を持ったところでずるずると2重生活しているのかもどちらも不明瞭なまま
クライマックスへと進展していってしまうのである。

やがてクライマックスでは唐突に2年後へと時制が飛び、彼の新しいパートナーと仕事が提示されるのだが、
そこまでの2人の関係性をじっくり提示出来ずにいきなり放り投げられ、茫然自失のまま終わってしまった。

オーディアールはフランス映画界きっての脚本力に長けた監督だが、
今作はその肝心要の脚本がどうもあまり上手くいっていないため、いまひとつ感情移入出来ない。

【第163回】『リード・マイ・リップス』(ジャック・オーディアール/2001)


映画は冒頭、耳の不自由なヒロイン(エマニュエル・ドゥヴォス)がオフィスで悪戦苦闘する姿を描く。
鳴り止まない電話、デスクに散らばった飲み物、会社の見えないストレスの中で
誰にも手を差し伸べられることがないまま、主人公はその場で倒れてしまう。

社長はそんな秘書のために、2,3日の有給を提案するが彼女は乗り気ではなく、
逆にアシスタントを付けることを提案される。早速アシスタント探しに乗り出したヒロインは
そこで刑務所帰りの青年ポール(ヴァンサン・カッセル)と運命的な出会いを果たすのだった。

彼の素性を会社には内緒で、部屋まで用意してやったヒロインは
ポールに気があるのだと思われて押し倒されて逆上する。
1つ彼女に貸しを作ったポールは、オフィス内の彼女の敵を倒す作戦に協力するのだった。

ここまで観たところで、私は間違いなく2人の弱者は互いに心を惹かれ合い、
やがて運命的な恋に落ちるのだと思っていた。典型的な恋愛映画の1本だと高をくくっていたのである。
21世紀のヨーロッパ映画の持つ特徴として、社会的弱者がしばしばクローズ・アップされる。
貧困、差別、テロの可能性、LGBTの問題などは現代的なヨーロッパ映画の新しい切り口として
各国で様々な映画が作られている。

今作もそういうマイノリティを扱った恋愛映画なんだと思いきや、
後半部分はまったく別の様相を呈すると言っても過言ではない。
確かに2人は恋愛関係に至るのだが、肝心要の部分はそこではない。
前半部分と後半部分の脚本の触れ幅こそが本作の尽きぬ魅力だと言えよう。

ヴァンサン・カッセルは毎週決まった時間に
保護監察官のマッソン(オリヴィエ・ペリエ)に接見することが義務づけられている。
それを破れば元のブタ箱行きが確定なのだが、
その大切な接見日にヒロインはヴァンサン・カッセルを外回りに行かせてしまう。
その時の口論から、結局ヴァンサン・カッセルは土地開発会社の仕事を辞め、
夜のナイトクラブのボーイとして働き始めるのだった。

この土地開発会社の秘書のアシスタントからの転職が物語の重大な転換点となっている。
ナイトクラブに勤め始めてすぐにヤクザのボスであるマルシャン(オリヴィエ・グルメ)を見つけたカッセルは
彼の大金を奪う計画にヒロインを巻き込んでいく。
ここで今作は前半部分の通常の恋愛映画から一転、漆黒のフィルム・ノワールへと姿を変える。
もともとヴァンサン・カッセルという希代の名悪役を起用して、
純粋な恋愛映画などは土台有り得ない話だったかもしれないが、
ここに来て映画自体は俄然活き活きとした輝きを帯び始めるのである。

そこからの展開は真っ先にヒッチコックの『裏窓』を思い出した。
登場人物の設定はまったく違うが、事件現場をヒロインが覗き見するところなんて
『裏窓』のオマージュと言ってもいいだろう。
ここに来てヒロインの耳が不自由な設定自体が、更なるサスペンスを生むのである。

思えば今作は終始、視線の行き交いを利用したフィルム・ノワールだと言っても過言ではない。
ヒロインとヴァンサン・カッセルのオフィスでの視線の交換だったり
ナイトクラブでのヤクザのボスとヴァンサン・カッセルの視線の交換だったり、
視線が物語を進める上での重要なキーワードになっているのである。

クライマックスの展開はややご都合主義的な部分も垣間見えるが、
非ハリウッド作品でここまで王道のサスペンスを醸造したオーディアールの才気は真に賞賛されねばらない。
伝統的な恋愛映画の展開に、強引にフィルム・ノワールを挿入したことで
より2人の弱者の関係性が鮮明に胸を打つ。

真に鮮やかな物語の展開の妙をしばし堪能した。
ラスト・シーンの第三者の介入は賛否両論あるだろうが、
私は物語の決定的な不和には繋がっていないと思う。
いかにもフランス的なフィルム・ノワールを
シャブロルとはまったく違う切り口で成し得た稀有な作品と言ってもよいだろう。

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