【第161回】『オフサイド・ガールズ』(ジャファル・パナヒ/2006)


イラン映画の尽きせぬ魅力は、
79年のイスラム革命と引き離すことは不可避な出来事として今日まで続いている。
イスラム革命が隆盛と衰退の転換点に立ちはだかり、
その頃を境にいかなる欧米映画も反道徳的と見なされ、国内には一切流れて来ていない。
そのことが逆説的に国内の豊かな映画状況を支え、
79年以降の世代交代の流れを加速し、多くの世界的才能が現れるに至る。
その中でキアロスタミ、マフマルバフ、マジディらと共にイラン映画を支えるのが
ジャファル・パナヒであることは世界の映画人にとって定説であり、もはや疑うべくもない。

イラン映画における検閲の厳格さというのは、時の体制にとって有利か不利かの判断でしかない。
戦争孤児を描いた映画や直接戦争そのものを描いた映画は真っ先に公開中止の憂き目に遭う。
そうして体勢に不利な作品が出ることを今日までコントロールして来た体制下で
先ほど書いたような作家たちは自分たちのメッセージを巧妙に物語の中に忍ばせるようになる。
イラン映画の中に児童映画が多いのは、この検閲の甘さを巧みについているのだと見て間違いない。
少年たちの日々の暮らしぶりの中に、イランの置かれた悲惨な状況が垣間見える。
そのことが暗喩的に体制批判にもつながるといった具合で、少年たちの目を通して
現代イランの病巣をえぐり出す作品が多数生まれて来た。

それはそのまんまウェルメイドな作品を求める会社の意思に対し、
自分たちの作家性を忍び込ませた日本の職人監督たちの置かれた状況に非常に近い。
しかしイランという国では体制を批判することが、自分たちの身の危険をも意味してしまうのである。
日本社会のように言論の自由は保証されていないし、あらゆる法律が人間の自由を侵害している。

その生きることの不自由さに対して、ストレートに「NO」と言っているのが
ジャファル・パナヒの作家性であり、
世界中の映画ファンを魅了するパナヒの旨味にもつながっているのではないか。
パナヒは一貫してイラン国内における女性差別を通して、
この国に生きることの不自由さを世界中の観客に訴えかけているのである。

映画は2006年サッカーW杯に向けた最終予選を舞台にしている。
スタジアムに向かうサポーターを乗せたバスの中に、男装した女性が紛れ込んでいる。
イランという国では、サッカーに限らず全てのスタジアムで行われる運動競技の観戦は
法律で禁じられているのである。

そもそもイランという国に限らず、
イスラム教国家では女性の立場は低く、様々な制限が課されているのである。
学生だけは例外として、一般的な20歳以上の女性はとりあえず夫の許可が要るし、
人前で肌を見せるのは厳禁で、常に女性たちは正装を課されてしまう。

このことの不自由さと真っ向から向き合ったのが前々作『チャドルと生きる』だった。
チャドルとは人前で肌を見せないための正装であり、それ自体がドレスコードである。
彼女たちは警察の目から逃れるために常にチャドルを携帯し、
どこに行くにでもチャドルの携帯が不可避な事態に直面していた。

今作では、法律で禁じられているサッカー観戦禁止という信じられない悪法を、
女性たちが自力で突破しようとする姿を描いている。
男性に見えるように帽子を被り、イラン国旗の3色である赤・緑・白のペイントを施しながら
サッカーW杯最終予選最後の本戦に出場出来るかどうかの大一番を観戦しようとする。
10万人を越える大観衆の中で、彼女たちのようなアイデアで強行突破しようとした女の子たちはきっと多いが
不幸にも彼女たちはそれぞれの理由で警備員に見つかり、逮捕されスタジアム観戦寸前で拘留される。

物語は冒頭、シモ・モバラク・シャヒという1人の少女に付いていくが、
別段この少女が主人公だということではない。
男勝りでタバコを吸う少女や、途中小便を我慢出来なくなった少女や兵隊のコスプレをした少女まで
パナヒは誰が主人公で誰が脇役であると決めずに、均等に扱っている。
この事自体がパナヒの作家性であり、吟持なのである。
今作では前々作『チャドルと生きる』から更に居直り、女性たちは一切のチャドルを付けていない。
それどころか彼女たちは男性ソックリの出で立ちで、男性兵士に対して挑発的な態度を取り続ける。
このことがイランの現体制にとって、どれほどショッキングな事実であったかは想像に難くない。

兵隊の静止を無視してタバコを吸う少女や、男性トイレから兵隊の隙を付いて逃げ出す少女の姿は
『チャドルと生きる』において悲劇的な振る舞いを見せた少女たちとは随分違う
力強い少女たちの抵抗を高らかに宣言している。

確かに彼女たちはサッカー観戦寸前に絡めとられた逮捕者なのだが、
どの男性兵士よりも勇ましく、誰一人として自分たちの行動を悔いたり恥じたりしていない。
このことはクライマックスの護送車の中に至るまで終始一貫している。
映画の中で男性と女性の地位はあたかも逆転しているかのように
幾分ユーモラスな性質を持ちながらやがてあの美しいクライマックス・シーンへと向かっていく。

21世紀の映画の大きな傾向として、アメリカ映画においても、フランス映画においても、
ここ日本映画の状況においても男性よりも女性の方が元気で、映画における女性の役割はあまりにも大きい。
今作はそういう大きな世界映画の潮流に対して、検閲国家イランから放たれた少女たちの反乱である。
彼女たちが真に素晴らしいのは、決してサッカー原理主義に陥ることなく、
彼女たちのスタンスがイスラム教国家での生き難さに対する明快な答えになっていることであろう。

もはや世界は国家や国境で民衆を縛ることなど出来ず、国と国の境界線はより曖昧になる。
そのことに対して一番自覚的な監督が、最も世界の情勢に対して鈍感な国から発せられたことに対して
世界中の映画ファンはもっと感嘆の声をあげるべきではないか?

ジャファル・パナヒは映画は常に現実を越えたところにあるのだという当たり前の事実を
すっかり忘れた我々現代人の心に突きつけているのである。

【第160回】『チャドルと生きる』(ジャファル・パナヒ/2001)


この映画の面白さをどう形容すればいいのだろう?
冒頭、出産シーンの母親の苦痛の絶叫がタイトルバックに鳴り響き、
壁一面が白い空間から「おめでとうございます、女の子ですよ」という看護師の明るい報せがある。
ただその女性の母親は生まれて来る子供が男の子だと思っていたようで
男の子でないと離縁されてしまうと慌てふためいている。

ここで我々観客は、出産室の中でたった今子供を産んだお母さんとおばあちゃん
そしてお母さんの旦那さんの物語だと理解するのだが、
その病院を出たところで、まったく別の人物にカメラはついていくのである。

その2人の女性は何やら警察から逃れながら、何かをしようとしているらしい。
少し年下っぽい女性は何やら落ち着かない様子であたりを見回している。

このように今作は一向に主となる物語が我々の前に姿を現さないのである。
ある人物を中心に据えようとしたところで、また別の人物の時間に次から次に移っていく。
そういう円環構造の中で、出て来る登場人物たちは皆女性で社会に対して息苦しさを感じているのである。

冒頭の母親の産まれた瞬間からの嘆きが象徴しているように、
女性はイランという国では生まれながらにしてあらゆる不幸を背負っている。
今朝出所した3人の女性の行く末は明らかに幸福の道などなく、
彼女たちは行く先々でたった今子供を捨てようとしている母親や娼婦の女に出会う。

途中、3人の女性のうちの1人の女性の父親が玄関先で怒鳴りながら言う言葉がある。
「出所などせず中にいた方がマシだ」と。ある意味それは正しい物の見方と言えるのかもしれない。
刑務所の外に出ても、この国で生きる困難さは中と外でさほど違いはない。

映画のタイトルである『チャドルと生きる』のチャドルとは
イスラム教の女性にとっては一種のドレスコードであり、剥がすことの出来ない因習のことでもある。
全身黒ずくめの異様な出立ちは、冒頭の病院の白い壁との対比ではっきりと明示される。
病院に入るときも、彼女たちはチャドルなしでは入ることが出来ない。
今朝出所した2人の女性は警察から身を隠すために、チャドルを着用する。
このチャドルというのはイスラム圏においては、彼女たちの大きな重しになっているのである。
ラストに出て来た厚化粧でカラフルな衣装を来た真に現代的な女性は、
チャドルを身につけない存在として最後には投獄されてしまう。

映画の冒頭においてもラストにおいても遂に明らかにされない「ソルマズ・ゴラミ」という人物は
まさにイランの女性1人1人を現す人物として我々に提示される。
冒頭の女性が産まれたことを嘆く母親も女の子を捨てようとする母親も
身分証もないまま子供を堕胎しようとする女性も学生だと嘘を付き故郷に帰ろうとする女性も
皆女性として生まれて来ただけで、男性とは違う何倍何十倍ものハンディキャップを背負う。
ただパナヒはそういう登場人物たちに対して、あえて救いの手を差し伸べようとはしない。
子供の行く末はどうなったのか?果たして妊娠4ヶ月の女性は子供を生んだのか?とか
そういう細かい部分に答えを出さず、ラストにまた「ソルマズ・ゴラミ」という架空の人物の名前を呼ぶことで
この救いのない映画に強引に結び目を付ける。
分娩室の小窓から刑務所の小窓へ、円環構造は終わりなき苦しみの無限ループを際立たせる。

一つだけ難点を挙げるとすれば、女性に起きる幾つかの困難の描写自体が
アッバス・キアロスタミの類型を出ないことだろうか。
初期キアロスタミ組の助監督だった彼だからこそ仕方ない側面もあるが
誰かを探そうとするが見つからない。行ったと思ったらUターンを余儀なくされる。
行った先で出会った人物により、当初の目的が曖昧にされるところなどの1つ1つの描写が
キアロスタミによく似ていてあまりにもオリジナリティがない。

バフマン・ゴバディと同じように、今作も未だに本国イランでは上映禁止の憂き目に遭っているという。
2010年カンヌ国際映画祭の審査員の1人に選ばれながら、
当時の政権を非難したことがもとで彼は自宅拘束の憂き目に遭う。
ジュリエット・ビノシュを始めとする映画人たちは
イラン政府に彼の釈放を要求する運動を展開し、いまは無事に釈放されている。

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