【第742回】『トリプルX ネクスト・レベル』(リー・タマホリ/2005)


 アメリカ合衆国ヴァージニア州、緑溢れる牧草地、この地で酪農家を営む男は牛舎の奥に血まみれの死体の山を目撃する。恐怖のあまり絶叫した男の背中をナイフがえぐる。かくしてアメリカ国家安全保障局(NSA)の工作員であるアウグスト・ギボンズ(サミュエル・L・ジャクソン)の秘密基地がハイテク装備の部隊に襲撃され、16人もの優秀なエージェントが殺害される。辛くも難を逃れたギボンズはトビー・シェイヴァース(マイケル・ルーフ)を従えながら、追っ手から命からがら逃れるのだった。国防長官のジョージ・デッカート(ウィレム・デフォー)はアメリカ合衆国大統領ジェームズ・サンフォード(ピーター・ストラウス)に16人殺害の報を即座に知らせる。前作で「Xゲーム」のアスリートであるザンダー・ケイジ(ヴィン・ディーゼル)を救世主に指名したギボンズは、ザンダーの後継となる新「トリプルX」に服役中のかつての部下で、元大尉のダリアス・ストーン(アイス・キューブ)を指名する。母親が早くに死に、父親に育てられたダリアスはやがて海軍に入隊し、ヒットマンとして戦場で名を馳せる。だがレベル5の極秘任務を手掛けた彼をアメリカ国家権力が葬り去る。重罪犯罪軍刑務所の獄中、手錠で繋がれたダリアスの両手、両脇には2人の警備員がつく物々しい体制に自由を奪われた男は、裁判で懲役20年の判決を受ける。失意のどん底に落ちたダリアスの獄中生活9年目に、かつての上司であるアウグスト・ギボンズが顔を出す。

 前作ではチェコに舞台を置き、80年代後半〜90年代前半の冷戦構造を下敷きにしたアメリカvsロシアの代理戦争の構図が物語を駆動させたが、今作で敵となるのはアメリカの権力構造の内部に燻る不穏分子である。国防長官のジョージ・デッカート(ウィレム・デフォー)は大統領を巧みに操りながら、アメリカ国家安全保障局(NSA)に揺さぶりをかける。そこにかつての盟友だったアウグスト・ギボンズやダリアス・ストーンとの因縁めいたやりとりが繰り広げられるのである。しかしシリーズの核となったヴィン・ディーゼルが早々に退場し、アイス・キューブを主演にした今作は、『007』のようなスパイ映画の現代版ではなく、いわゆるB級ブラック・ムーヴィーの趣が強い。主演のダリアス・ストーンを筆頭に、かつての戦友で上司のアウグスト・ギボンズ、9年間ムショに入るダリウスを待ち焦がれたかつての恋人ローラ・ジャクソン(ノーナ・ゲイ)はあのマーヴィン・ゲイの娘をして知られている。自動車窃盗団のボスであるジーク(イグジビット)にも当時の人気ラッパーを配し、トビー・シェイヴァース以外はオール・ブラックで占められた構成が、因縁の敵ジョージ・デッカートで向かって行く展開は70年代の正調ブラックス・プロイテーション・ムーヴィーのような勧善懲悪の世界へと誘う。アメリカ国家権力のゴリゴリの内部構造を暴くリー・タマホリの手腕は前作よりスッキリとして見やすいが、90年代のアクション活劇を見守った層からすれば、遅れて来た二番煎じ感は否めない。

 そもそも『トリプルX』シリーズの一番の旨味は2000年代のアクション映画の新機軸として、エクストリーム・スポーツの要素を加えたことにあった。だがヴィン・ディーゼルとギャラの交渉に揉めたことで、映画は前時代的な活劇への退行を余儀なくされる。室内での戦車vs戦車のゴリゴリの謎過ぎるアクション 笑、クライマックスはさながらジェフ・マーフィー×スティーヴン・セガールの『沈黙シリーズ第3弾 暴走特急』を観ているような不思議な既視感に襲われる。『ワイルドスピード』シリーズへの対抗意識なのか、ヴィン・ディーゼルを起用出来なかったことへの後悔なのか、無理矢理CGで付け足した高速列車と音速車との音速のチェイスは確かに凄いのだが、スタントマン同士が実際にカー・チェイスを命懸けでこなした70年代〜80年代の傑作群には遠く及ばない。主演のアイス・キューブの決定的な線の細さも含め、全体的にB級感否めない今作だが、ただ一つウィレム・デフォーとサミュエル・L・ジャクソンが絡んだ前半のギボンズの自宅の場面とクライマックスの場面だけは役者としての凄みがフレームを支配する名場面である。すっかり悪役が似合うようになったウィレム・デフォーの残虐非道ぶり、今作のサミュエル・L・ジャクソンのステレオタイプな弾けっぶりは『マイティ・ソー』のニック・フューリーや『ジャンゴ 繋がれざる者』の執事スティーヴン、『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』のバロンへ見事に受け継がれて行く。

【第166回】『ペーパーボーイ 真夏の引力』(リー・ダニエルズ/2012)


アメリカ合衆国の最新の国勢調査(2010年時)では
白人が78.1%で黒人が13.1%、その他が8.8%となっている。
この結果から行くと、アメリカ人の道行く人のおよそ10人に8人が白人ということになるが
当然地域別によって白人と黒人の比率はまったく異なっている。
州ごとの調査を見ると、白人と黒人の比率が最も拮抗しているのはカリフォルニア州で
白人が39.7%に対し、黒人が38.1%で残りはアジア系が13.6%となっている。

この最新の国勢調査を2000年の調査と比べると、
黒人は12.3%、人口にして430万人増えている計算になる。
それに対して白人は5.7%で10年間に僅かに121万人しか増えていない。
そして黒人以上に増加の傾向を見せているのが我々と同じアジア系であり
何と44.4%、黒人の10年間を超えるおよそ440万人も増えているのである。

これはつまり、アメリカ国内の人種別分布に見れば白人の比率が下がっていることを意味する。
おそらく2020年の調査でも2030年の調査でもこの傾向は変わらないはずである。
カリフォルニア州における黒人と白人の比率の逆転はおそらく2020年の調査時には起こりうる事態だし
現時点でも既に逆転している可能性は高い。

このデータが意味するように、21世紀のアメリカでは黒人やアジア系などの
20世紀にはいわゆるマイノリティとされていたところにあらゆる成長の機会があるということだと思う。
しかしながらアメリカ映画においては、ヒップホップが爆発的に流行った90年代以降、
黒人の映画監督の地位は右肩下がりで落ちているような気がして仕方がない。
90年代はそれこそスパイク・リーとジョン・シングルトンという二代巨頭が
ヒップホップと足並みを揃えるようにして、新しいブラックスプロイテーションの波を作ったし
その源流となった1970年代前半にはゴードン・パークスやメルヴィン・ヴァン・ピープルズがいた。

2000年代以降、何とか思い出せる監督はアントワーン・フークアとリー・ダニエルズと
前述のスパイク・リーとジョン・シングルトンくらいしかいない。
これはどうしてなのかという理由については、黒人映画研究家の方にお任せするが
私の見立てでは、近年は黒人の監督よりも白人監督作品の方に
黒人の活躍が目立ってきているからではないかと考える。
タランティーノ、ハギス、トニー・スコット、ロバート・ゼメキスなど
今思い出せるだけでも黒人俳優の印象深い活躍や喜怒哀楽は
むしろ白人監督の方が的確にえぐり出していると言ってもいい。
中でも黒人監督の観た『ジャンゴ 繋がれざる者』の衝撃は計り知れないと推測する。
あの映画のクライマックスの激烈な銃撃戦は、我々アジア系をも魅了したと言ってもよく
黒人観客達のあまりにも痛快な反応が容易に想像出来る。

確かに90年代は黒人監督と黒人俳優たちが結集し、自分たちの文化を作るエネルギーが充満していたが
もはやアメリカ映画という表現形式それ自体の中に、
白人と黒人の垣根が非常に曖昧になって来ているというのが私の見立てである。

ここまで長々と前置きをしてきたが、
アメリカ映画において21世紀最も知名度のある黒人監督と言えばリー・ダニエルズである。
新しいと言っても今年で56歳になるダニエルズは特に若手ではない。
元々『チョコレート』のプロデューサーに名前を連ねていた彼は
フィルモグラフィにおいて最初に作られた『サイレンサー』で、
かつて父親の相棒だった女性と殺し屋稼業を継いだ黒人男性キューバ・グッディング・ジュニアを主役に据え、
彼の復讐劇と逃亡劇をサスペンス・タッチで描いていた。
相棒の女性は既にガンに冒されており、主人公の行く末を案じた女性は
マフィアのボスの妻である女とその子供を連れて組織から逃げる。
映画はこの逃亡と主人公の秘密と組織のボスとの対立を主軸に進んでいく。
組織のボス役は白人のスティーヴン・ドーフを起用し、黒人vs白人の戦いを中核に据え、
ラストには黒人であるキューバ・グッディング・ジュニアが白人のスティーヴン・ドーフを始末する。

続く『プレシャス』では貧しくて不幸な黒人女性を主役に据えながらも
彼女のメンターとなる重要な役割に白人女性であるポーラ・パットンとマライア・キャリーを起用し、
いわゆる黒人の黒人による黒人のための映画ではない映画作りを少しずつ模索していた。

そして今作『ペーパーボーイ 真夏の引力』では遂に白人の兄弟を主役に据え、
ヒロインにも相手側の人物にも白人を起用しているのである。

1969年、フロリダ州モート郡の小さな町。
大学を中退し、父親(スコット・グレン)の会社で新聞配達をしている
ジャック・ジャンセン(ザック・エフロン)は、鬱屈した日々を過ごしていた。
母親は幼い頃に家を出てしまい、父親の現在の恋人エレン(ニーラ・ゴードン)とはまったく馴染めない。
極度にオクテでガールフレンドもいないジャックが心を許せる話し相手は、
黒人メイドのアニタ(メイシー・グレイ)だけだった。
大手新聞社マイアミ・タイムズに勤める兄ウォード(マシュー・マコノヒー)が、
同僚の黒人記者ヤードリー(デヴィッド・オイェロウォ)を伴い、
4年前にモート郡で起きたある殺人事件の死刑囚の冤罪疑惑を再調査するために帰省する。
人種差別主義者の保安官が刃物でめった刺しにされたこの事件は、
ヒラリー・ヴァン・ウェッター(ジョン・キューザック)という貧しい白人男性が逮捕され、
既に死刑判決が確定していたが、ウォードは裁判が極めて不公正な状況で行われたため
冤罪の可能性があると睨んでいた。

今作はいわゆる『ゾディアック』タイプの猟奇ミステリーである。
主人公を含む敵と味方の四角関係に黒人が入り込む余地はないが、
ダニエルズは巧妙にヤードリー(デヴィッド・オイェロウォ)と
黒人メイドのアニタ(メイシー・グレイ)と黒人を重要なキャラクターとして配置している。

黒人としてのアイデンティティを保つ場面もしっかりある。
物語の中盤、地元の名士である初老の白人を前に黒人記者ヤードリーが対峙する場面である。

単なるハードボイルドに陥りそうな物語に、女が一人加わるのが本作の旨味となる。
典型的な金髪に派手めなメイクと派手なミニ・スカート。
1969年の田舎町にいたとすればとんでもなく綺麗な女性であるが
このニコール・キッドマンの浅はかで狂信的な愛がやがて大きな悲劇を迎える。
主人公は痛々しくも、この囚人に恋をしてしまった年増女を愚直なまでに愛する。
そんな気持ちを知ってか知らずか女はザック・エフロンに情けをかけ、一夜を共にする。

これら物語の本線に黒人たちはまったく入り込む余地がないまま物語は進んで行くが
監督であるリー・ダニエルズは黒人の作家として唯一の抵抗を忍ばせているのである。
それはエフロンの兄役であるマシュー・マコノヒーに対する黒人青年たちの暴行シーンである。
このモーテルで起こる突然の悲劇をダニエルズは物語の範疇から幾分誇張気味に伝えている。
足には手錠がかけられ、明らかにアナルは貫通し、顔は無残にも殴られ原形をとどめていない。
エフロンはモーテルのガラス窓を素手で蹴破り、痛々しい姿になった兄貴を救出する。

ここから物語は一気に凄惨さを深める。
ペーパーボーイ(新聞記者)たちは彼が無実だと信じ、ジョン・キューザックの釈放を勝ち取ったが
その裏で彼は堂々とニコール・キッドマンを奪い、沼地での幽閉生活を始める。

奇しくも『ゾディアック』やPTA最新作『インヒアレント・ヴァイス』とほぼ同じ時代を扱ってはいるが
この映画の60~70年代という重要な転換点の描き方はフィンチャーやPTAよりは幾分劣る。
そのことは特に室内で撮影された場面よりもロケーション撮影された場面で顕著である。
ザック・エフロンを筆頭に、マコノヒーやキッドマンやキューザックなど役者陣はそれでも善戦しているが
肝心要の監督の演出があまり活かされていない。

特に酷いのは中盤の主人公が海でクラゲにかまれて嫌な夢を見る場面と
同じく主人公がキッドマンへの淡い恋心を夢想した場面であろう。
あまりにも稚拙な自然光の入れ方とショットの編集、色味には率直に言って苦笑いを禁じ得なかった。
そうでなくてもダニエルズは回想シーンの入れ方があまりにも能がなさ過ぎる。

クライマックスの沼地での攻防に至っては、既に監督が69年の刻印を一切放棄していて笑える。
ここにはもはや2015年でも1969年でもどちらでも良いという監督の開き直りが
役者たちの1969年という最低限の整合性に対するプライドを越えて侵入してきてしまっている。
マコノヒーの凄惨さに対して、随分あっさりしたエフロンとキューザックの攻防も残念としか言いようがない。
真に69年的な活劇を目指すならば、沼地の攻防も視線の動きもあんな子供騙しではいけない。

とはいえ、これは『サイレンサー』よりも『プレシャス』よりも
リー・ダニエルズにとって大きな前進ではないだろうか?
黒人としてのアイデンティティの叫びが後退した分、
主要な人物たちの描写は近年のアメリカ映画としては決して悪くない。
『大統領の執事の涙』と比較しても、実はこの頃の塩梅が一番良いバランスとして記憶に残る。

監督の力量はまだまだだと言わざるを得ないが、
やはりマシュー・マコノヒーとジョン・キューザックがずば抜けて良い。
クローネンバーグ『マップ・トゥ・ザ・スターズ』のエントリにも書いたが、
このジョン・キューザックという人が居るだけでアメリカ映画としての質は間違いなく上がるだろう。
彼の名バイ・プレイヤーとしての才能は真に評価に値するものである。

ニコール・キッドマンの刑務所での何をそこまでというセクシー・ショットにも
大女優の殻を破らんとする彼女の並々ならぬ役者魂を感じた。

そして2012年以降突如開花したマシュー・マコノヒーの素晴らしさがかろうじて本編を支えている。
彼はリンクレイター組でデビューした冴えない役者だっただけに、
その後のフィルモグラフィの激変ぶりには正直言って驚いている。

【第162回】『プレシャス』(リー・ダニエルズ/2009)


アメリカにおける識字率の高さは日本とほぼ同水準(99%)と言われているものの、
一説によれば非識字率は21%という驚きのデータがある。
これは国民のうちの4200万人が単純に読み書きが出来ない計算になる。
アメリカという国はとにかく広い。
住む場所の環境によっては満足な勉強も出来ずに大人になり、
その後は仕事にありつくこともままならず、生活保護者になってしまう。

今作はNYのハーレムを舞台に、
父親によるレイプから妊娠、母親からの虐待など様々な困難を経てもなお
力強く生きようとする少女の物語である。

1987年、16歳の少女クレアリース・プレシャス・ジョーンズ(ガボレイ・シディベ)は
学校に通いながら、生活保護の母親の面倒を見ていた。
彼女はいま、自分の父親との子供を妊娠しており、12歳の時にも同じく父親との子供を生んでいる。
その12歳の時の子供は、知的障害を持って生まれていた。
学校に妊娠がばれ、フリー・スクールに送られた彼女は
そこで女性教師レイン(ポーラ・パットン)と運命的な出会いを果たすのだった。

あらすじを読めばわかるように、今作はあまりにもベタな黒人女性の自立を描いた物語である。
冒頭彼女の置かれた境遇はあまりにも酷く、何度も観るのを辞めようと思うほどだった。
学校では壮絶にいじめられ、家に帰れば虐待され、その挙げ句には実の父親にレイプされる。
典型的な駄目な両親の家庭に育ちながら、彼女は愚直なまでに生きる希望を捨てていない。
周りの大人がどれだけ絶望的な人間ばかりであろうが、どこかに救いがあるはずだともがき続ける。

そんな彼女の前に2人のメンターが現れる。
1人は彼女の通うフリー・スクールの先生であるポーラ・パットンであり、
もう1人はソーシャル・ワーカーとして働くマライア・キャリーであろう。
彼女たちは主人公の境遇に同情しながら、彼女に歩むべき道を教えてくれるのである。

また「プレシャス」と呼ばれる人間は前作から引き続き登場する。
前作『サイレンサー』では主人公を助ける闇医者の恋人の看護師として出てきたが
今作では見事に主人公の座を射止めている。

ただこの映画の致命的な欠点として、あまりにも全ての出来事が出来過ぎている点が挙げられる。
主人公とメンターとなる2人の女性の間に、あまりにも葛藤がない。
もちろんリー・ダニエルズは一応の葛藤らしき描写はしている。
ポーラ・パットンの場合は、彼女を席に着かせようとするのだが言うことを聞かないとか
自己紹介させようと促すが話さないとか所詮はその程度で、大きな心理的揺らぎが一向に見えないのである。

マライア・キャリーに対してもそれは同じことが言え、
最初は仕事として接していた彼女と主人公との軋轢や摩擦があまりにも少ない。
資料を盗んだことへの怒りなどの描写が一切出て来ないことも、この監督の演出の力量を疑ってしまう。

またこの映画の背景に流れる時間が1987年の出来事であるという点も、
緻密に再現出来ているとは言い難い。
87年当時のハーレムと言えば今とはケタ違いに治安が悪く、
NYの地下鉄や街角の至る所にはスプレー・アートが書かれており、年中人が死ぬような場所だった。
それが共和党のジュリアーニ市長の時代になり、街の落書きは一掃され治安も徐々に改善されていった。

この時代のハーレムの空気感を一番現す記号としては、
真っ先にヒップホップとスプレー・アート(エアロゾル・アート)があげられると思う。
逆に言えば黒人が描いた物語で、この辺りの要素が含まれないのは明らかに違和感がある。
スパイク・リーもジョン・シングルトンもアベル・フェラーラも
この辺りのニューヨークの時代の空気感を上手く吸い込んで映画を撮っていたが、
今作からはそういう87年の時代の空気が一切感じられないのである。
大体、1987年にあんなに小型なデスクトップPCがあっただろうか 笑?
あまりにも幼稚な時代考証には呆れてしまった。

あとはどうしてもこのアメリカ映画の凡庸なカメラワークに馴染むことが出来なかった。
クローズ・アップからクローズ・アップへの繫ぎも、
クローズ・アップ・ショットでの雑な数cmの微細な揺れも
果たしてこの映画にとって一番正しい選択なのだろうか?
この撮影監督はアルトマンの晩年の『ゴスフォード・パーク』や『バレエ・カンパニー』を撮った人なのだが
びっくりするほど凡庸で華もない。

思えば前作『サイレンサー』でも
唖然とするような森の中でのSEXシーンの光があったが
今作でも主人公の色彩感覚と自然光の取り入れ方には大いに疑問が残る。

特に前半部分の主人公の妄想のスター「プレシャス」の描写の陳腐さには呆れた。
現在から過去に遡る描写としてわかりやすさを狙ったのはわかるのだが、いかんせん能がない。
中盤部分の母娘のあまりにもとんちんかんなショットの繋ぎには絶望的な気分にさせられた。
階段の母娘の対立もびっくりするほど緊迫感が感じられない。

物語に重きを置き過ぎるあまり、
ショットがおざなりになってしまった典型的な現代アメリカ映画である。

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