【第174回】『ブルー・リベンジ』(ジェレミー・ソルニエ/2013)


90年代の映画はタランティーノ『レザボア・ドッグス』の出現で全てが変わった。
助監督経験もなければ、映画の現場にもいなかった彼ら映画ヲタクの世代は
処女作から完璧なスタイルとフォルムを既に持ち合わせていたのである。
処女作がいきなり映画祭で注目され、一躍時の人になるパターンまで
タランティーノは次の世代への模範を築き、今日に至る。

そのスタイルに違いはあれど、ジェームズ・グレイやニコラス・ウィンディング・レフン等は
カンヌやヴェネチア映画祭での受賞をもって、世界市場に打って出たと言っても過言ではない。
ニコラス・ウィンディング・レフンは既に本国デンマークで相当なキャリアを積みながら
ブレイクしたのはアメリカ資本で撮った『ドライヴ』からである。
そのたった1本の映画がカンヌ国際映画祭で監督賞に輝き、彼の名前は一躍世界に轟いた。

今作もタランティーノが築いた夢のようなシンデレラ・ストーリーを再び踏襲する。
監督であるジェレミー・ソルニエはインディペンデント映画の監督をしており、
TVドラマの撮影や企業のPRビデオの撮影をしながら、虎視眈々と長編デビューを伺っていた。
出来上がった作品はカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞し、一躍世界トップの新人として注目される。

とあるビーチで廃車同然の青いセダンにひっそりと暮らす、ホームレスのドワイト(メイコン・ブレア)。
ある日警察に呼び出された彼は、そこで衝撃の事実を告げられる。
彼の両親を殺害した犯人が司法取引に応じ、刑期満了を前に釈放されるというのだ。
あまりのショックに我を失ったドワイトは、オンボロの青いセダンを走らせると、
釈放された犯人のもとに向かう。
ただ一人、金も地位も理解者もないまま、「復讐を果たす」という唯一の目的のためだけに…。

今作は両親を殺された1人の男の復讐劇である。
男はおそらく事件のショックから自暴自棄になり、車上生活をしているのだろう。
その風貌はヒゲも髪もボサボサに伸び、山男のような風体である。
そんな彼が犯人釈放の知らせに、復讐を決意する。

映画は冒頭から15分であっさりと事が成し遂げられる。
犯人が釈放され、最初に向かったBARのトイレが惨劇の舞台になるが、
物語は残念ながらこの復讐だけでは終わらない。

最初は山男のような風貌で、暗殺のプロのように見えた主人公の姿だったが
復讐後には狼狽し、車のカギを殺人現場に落とすミスをしてしまう。
その後も万事が万事この調子で、プロの殺し屋一家を敵に回すには少々物足りない。

この復讐劇というジャンルには
我々の世代にはデ・パーマ『ファントム・オブ・パラダイス』が真っ先に思い出されるし
近年でもイーストウッド『グラン・トリノ』やフォン・トリアー『ドッグヴィル』等秀作が多々ある。
日本映画で振り返れば、黒沢清の『復讐 運命の訪問者』が何よりもまず思い出される。

今作の脚本はそれらと比較すると決して優れているわけではない。
ただ非力な主人公を助ける友人の銃マニアのデブの登場がなかなか面白い。
彼は久しぶりに会った友人から、大した理由も聞かないままに武器を無償で提供する。
しかも試し打ちの練習に付き添い、彼の命の危機までも救うのである。
主人公も決してヒーローっぽくないヒーローなら、
この「ラスト・ミニッツ・レスキュー」を行う男もデブでハードロックのTシャツを着た
冴えないヲタク野郎だというのがなかなかユニークではないか。

最初に殺した男が実は実行犯ではなく、真犯人は別にいるというのが
この手のフィルム・ノワールのお約束であり、主人公は真犯人を探しに再度旅に出るのだが、
あっと驚くような理由で2人目に目星をつけた男は死んでしまう。
この展開のあっけなさには随分拍子抜けした。

決定的な場面はしっかりと描かれているのは描かれているのだが、
活劇としてはいささか不十分だと言わざるを得ない。
それは銃に対する武器が銃でなかったり、
刀に対する武器が刀でないことに起因する不和と呼べばいいのだろうか?
正当な撃ち合いをするのは僅かにクライマックスのみで、
その場面も殺し屋側の1人が部屋を出た瞬間に起こるいわゆる『ソナチネ』スタイルであり、
肝心要のアクション・シーンの勘所がいまひとつ見えて来ないのである。
これもある程度意図的に隠したのかそれとも力量の無さゆえの隠蔽なのかは観客側の判断に委ねられるが
少なくとも黒沢清の『復讐 運命の訪問者』を観た我々としては非常に物足りない印象を受ける。

復讐劇を題材に扱っておきながら、この監督には決定的に活劇の才能がない。
ニコラス・ウィンディング・レフンの『ドライヴ』もまったく駄目であったが、この映画も同様ではないか?
アメリカ映画でさえもアクションへの拘泥があまり感じられなくなったことは非常に残念であり、
暴力の向こう側にある「暴力」が描けない限り、それを暴力とは呼ばないのである。

ペキンパーの『わらの犬』から40年経過し、いま暴力というものの価値が急速に揺らいでいる。

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