【第428回】『ボーダーライン』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ/2015)

あらすじ・結末に触れていますので、これから観る方はクリックしないで下さい

【第173回】『複製された男』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ/2013)


ヴィルヌーヴの映画では、主人公はしばしば危険を伴った自分探しのミステリー旅行に出る。
『灼熱の魂』ではレバノンに行き、自分たちの父親と兄を探す中で家族の衝撃の秘密を知る。
『プリズナーズ』では娘を誘拐された父親が、容疑者の男を監禁し拷問を加える。
刑事も刑事でこの誘拐事件を追ううちに、ある真犯人の目星をつける。
それは互いにとって危険な賭けであり、事件は解決するが被害者の父親は行方不明になる。

今作では前二作のように驚愕の人間関係を終盤に持ってくるのではなく、
あえてごく最初の方に随分あっさりと提示してしまう。

大学で歴史学を教える男(ジェイク・ギレンホール)が、
同僚に勧められて観た映画の中に自分そっくりの男アンソニー(ジェイク・ギレンホール2役)を見つける。
自分そっくりの男を見つけたら普通は率直に嬉しいことだと思うが、
主人公はどういうわけか最初からこの映画の中の自分そっくりの人物に恐怖を感じている。
最初は夢の中で彼の存在がデジャブのように現れ、翌朝DVDを再度観てこの男の姿を確認。
インターネットを駆使してこの男の素性を調べ上げ、刑事のように距離を置きながら接近を試みる。
彼を知った時から「人間の支配」について講義していた大学の職にもすっかり身が入らなくなる。
主人公にとって自分そっくりの男に会うことは、
これまでのヴィルヌーヴのフィルモグラフィと同様に、危険な賭けとなる。

やがて男はアンソニーの電話番号を突き止め、妻に電話をする。
顔だけでなく声までそっくりな主人公は、アンソニーの妻でも勘違いしてしまう。
彼は再三アンソニーと会おうと試みるが、売れない俳優でもあるアンソニーは最初は彼の誘いを断る。

だがアンソニーの方もその危険な賭けに乗り、結局2人は会うのだが
生まれつきのものではない腹の傷跡まで2人は酷似しており、
そのことに恐怖を感じた主人公は恐怖のあまり、すぐに部屋を飛び出す。

思えば自分そっくりの男に出会うというのは黒沢清の『ドッペルゲンガー』でもあった。
あの映画も真面目で内向的な主人公に対し、
欲望に忠実な快楽主義者としてのドッペルゲンガーが現れては消え、現れては消えを繰り返した。
もし自分そっくりの他者と出会った時、それが双子でも兄弟でもなく
まったくの赤の他人だったとするならばどうするだろうか?

今作も自分そっくりな男に会うまでのプロセス自体は悪くない。
ただその出会いがいったいどういう恐怖を含んでいるかの合理性がまったく理解不能だった。
物語は2人の出会いの場面まではそこそこの緊張感を持続するが恐怖の意図が見えないため
その後の展開自体が完全に無効化してしまっている。
自分そっくりの人間に会ってみたいという好奇心の先にある何かが
ヴィルヌーヴの映画には決定的に欠けている。

この映画の中で最終的に主人公とアンソニーの決断が、
妻を入れ替えSEXをすることというのは何かの間違いじゃないかと思う。
ここでもヴィルヌーヴが娯楽で行くのか?それとも芸術なのかが今ひとつはっきりしない。
そういう一通り思いつきそうな欲望は『ドッペルゲンガー』では序盤の小さな描写に留めている。
要は黒沢清とドゥニ・ヴィルヌーヴの脚本に対する力量の差と言えばいいのだろうか?
少なくとも黒沢清の『ドッペルゲンガー』では主人公の早崎は自分の仕事の名において
物事を先に進めようとするが、ヴィルヌーヴはもはや主人公が大学講師であろうが
アンソニーが俳優であろうが何ら関係なく横に放り出し、
たがいの妻への好奇心という人間の欲望のしょうもないところに簡単に押し流されてしまう。
そしてそのしょうもない欲望と恐怖心というのは水と油で上手くかみ合ってこない。

昨日の『プリズナーズ』のエントリでも申し上げたが、ドゥニ・ヴィルヌーヴの脚本は決定的に弱い。
あっと驚くアイデアもなければ、綿密に練られた緻密さもまったく見えてこない。
1時間30分というシンプルな枠組みの中で、この脚本ではラスト30分間が完全に弛緩している。
最後の女性の変身が主ならば、むしろその場面を中盤に持ってくるべきであり、オチにすべきではない。

あのイザベラ・ロッセリーニの無駄遣いも少々気に入らなかった。
優れた監督というのはその俳優からこれまでの映画的記憶というか
優れた映画的文脈を引っ張り出して来るものだが、
あの場面のイザベラ・ロッセリーニには大女優としての気品も美しさの欠片も感じない。

相変わらずエンドロールの無人ショットの数々は素晴らしい。
ヴィルヌーヴの映像からは近年稀に見るショットへの高い意識がありありと感じられる。
ただそれを物語の中に巧みに盛り込んでいくことが映画作家の務めであり
それが出来ないのであればM.V.監督や企業デザイン広告の監督の方が向いているのではないか?

この人の才気はどうもどこか別のところにある気がして仕方ない。
『灼熱の魂』における作家としての萌芽は悪くなかった。
『プリズナーズ』ほどの脚本上の稚拙さは感じなかったものの、やはりどこか的を外している。

【第172回】『プリズナーズ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ/2013)


前作『灼熱の魂』はレバノンの政争によりカナダへ移り住んだ女性の波乱に満ちた生涯を
彼女の双子の娘と息子が辿りながら、やがて1つの真実に気付くまでを描いた。
映画はほとんどレバノンで撮影され、戦争に揺れた当時のイスラムの人々の過酷さを重厚に描写し
現代においても非イスラムの人々が容易に近づくことが出来ないテロ組織の恐ろしさをきっちり描いていた。
カナダより現れたドゥニ・ヴィルヌーヴという監督の作家性を存分に堪能した。

そんな前作から一転して、今作『プリズナーズ』では
ある日忽然と姿を消した2人の少女の行方を追う2人の父親と刑事の様子を闊達に描写する。
家族や友人が集まり食事を楽しむ感謝祭の日、ある田舎町で幼い少女が行方不明になる事件が発生。
手がかりは乏しく捜査は難航する。
証拠不十分で釈放された第一容疑者(ポール・ダノ)の証言を聞いた父親(ヒュー・ジャックマン)は、
犯人がポール・ダノだと確信し、彼を監禁するのだった。

今作はいわゆる1990年代の『羊たちの沈黙』以降量産された
猟奇ミステリーというジャンルに分類される作品である。
この手の猟奇ミステリーに目がない私は何本観たかわからないくらい大量に観ているが、
ざっくばらんに言えば犯人はいわゆるサイコパスであり、ある種の劇場型犯罪を得意としており、
警察を無駄に挑発する。
彼ら彼女らは警察の裏をかく天才であり、IQがずば抜けて高い。
また一般人に紛れるのが異常に上手いという特徴を持っている。
このことはミステリー映画においては、作劇上そうであった方が都合が良いという面も同時に孕んでいる。

彼らに共通する要素として最も重要なのは、ほぼシリアルキラーであるという点である。
シリアルキラーとは日本語で言うところの連続殺人犯とほぼ同じ意味で、
彼らは映画に至るまでにまたは映画の中で何人もの人間を殺している。

古くは『冷血』のディックや『サイコ』のエド・ゲインであり、
『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターであり、
『ゾディアック』の中のゾディアック・キラー(未解決)が有名だろう。
『ゾディアック』で言えば、『ダーティハリー』の1作目の犯人は
このゾディアック・キラーをモチーフにしている。
彼らに共通するのはシリアルキラーでありサイコパスであり警察の手に負えない曲者だということである。

それと比較すると今作の犯人の犯した罪は随分と寂しい。
たった2名の少女の誘拐事件であり、
犯人はその後の犯行を匂わすこともしなければ警察を挑発しないのである。

ヴィルヌーヴは一応猟奇殺人もののセオリーは守ろうとしている。
まず事件当夜の激烈な雨、夜間に展開する事件のカギ、周辺に漂う不穏な空気など
サスペンスの下敷きとなる空気感だけは頑なに守ろうとしている。
この辺りはドゥニ・ヴィルヌーヴの映画的素地の高さであり、センスであろう。

しかし猟奇殺人映画を生かすも殺すも、重要な核となるのは脚本と設定に他ならない。
誤解を恐れずに言うならば、脚本上や物語の設定上のセオリーというのは、
それを忠実に守らなければならないわけではない。
ただこの映画は幾つか物語の構成上、致命的なミスを冒してしまっている。

まず1つ目のミスは、主人公である刑事(ジェイク・ギレンホール)が常に単独行動だという点である。
通常どんな田舎の片隅で起きた事件でも、テレビで放送されたり新聞の一面に載るような事件であれば
捜査員が1名だということは普通は有り得ない。
これは警察側から言っても、メリットを多く含んでいる。
大々的に報じられる事件というのは、検挙率や解決率だけがモノを言うのが警察である。
彼がいかに優秀な人間だとしても、あの若さで単独行動は有り得ない。
もし彼がジャックマンの妻が言うように、全ての未解決事件を解決してきた辣腕ならば
とっくの昔にサンフランシスコやニューヨークに異動の辞令が出ているはず。

つまりこの映画はそもそも主人公の造形というものがあまり理解出来ていないのである。
あえて例を出すまでもないが、『セブン』を思い出して欲しい。
あの映画の前半部分の面白さは、
ブラッド・ピットと老刑事であるモーガン・フリーマンの世代間格差でもあった。
そういう物語を円滑に進めるための基盤が今作の脚本には一切ない。

2つめのミスは犯人に限りなく近い男を、ヒュー・ジャックマンが監禁してしまったことである。
アイデアとしては実に意表をつくユーモアに富んだアイデアではあるものの、
あえてそれをしないことにこの手の猟奇殺人ものの魅力があったと言ってもいい。
彼らは警察の一手も二手も先へ行くために、自由の身で次の行動へと移すが
今作ではそれら一切の行動が制限されてしまっているため、この手のジャンルの最大の旨味が逃げ落ちた。

そもそも監禁に至るまでの必然性の部分も相当怪しい。
警察は証拠不十分で容疑者を外に出しても、必ず家の前に要員を配備するはずであり、
事件の後に被害者の家の前にいたワイドショー・スタッフたちが
みすみすヒュー・ジャックマンを夜の闇に逃すはずはなく、脚本は思いっきり破綻している。

警察にとって事件解決に最も重要なのは、
証拠不十分で釈放された容疑者の現在であり被害者家族の核となる父親の動向だろう。
その2人が同時にいなくなるような事態になっても、主人公も警察も見て見ぬ振りをする。
21世紀にここまで稚拙な脚本の映画を私は観たことがない。

この手の映画にとって最も重要なのは、主人公の推理の行き着く先をかいつまんで提示することである。
Aという出来事があって、その後Bという出来事があり、Cに当たりをつけるが外れ、Dに行くも外れる。
やがて事件を冷静に見直した時、Eという盲点だった事実に気付き駄目元でFの部屋に向かう。
猟奇殺人モノに限らず、この手の推理事件にはそういう刑事の足跡が最も重大なのだが、
今作におけるジェイク・ギレンホールはあえて
観客の見たい方向とは逆の方向へ向かっている気がしてならない。

例えば雨の中ヒュー・ジャックマンを尾行するシーンで、
最初は右方向に歩き出したヒュー・ジャックマンをなぜ丹念に調べないのか?
また別の局面では真犯人がアジトにいると直感したにもかかわらず、
翌日でも翌々日でもあらためて侵入し、調べられなかった部屋を調べなかったのか?
またもや別の局面では被害者の母親が窓が開いていたと聞いたにも関わらず、
その窓から飛び降りることのできる範囲を昼間に調べなかったのか?
他にも多々疑問点は浮かぶが、少なくともこの3点においてヴィルヌーヴは脚本の整合性を破棄している。

つまり今作はジャンルとしての「猟奇殺人モノ」を志向しながら、
ラストまで猟奇殺人ごっこをやってみただけに過ぎないのである。
同じように21世紀に産み落とされた『ゾディアック』や『ペーパーボーイ 真夏の引力』と比べても
その必然性や存在価値は著しく乏しいと言わざるを得ない。

2人の娘が誘拐された。それから数日が経過した。
それにも関わらず、被害者家族の妻はおろか夫までもが会社に復職することはない。
ヒュー・ジャックマンはどういう職業に就き、妻と2人の子供を養っているのか?
そういう単純な人物の背景描写も出来ずに、
復讐とか刑事の真似事とか幼稚な方向にばかり手を伸ばしてしまう。
この稚拙さは『インターステラー』や『チャッピー』の脚本と同等である。

思えば前作『灼熱の魂』では決してアメリカ映画の真似をすることなく
逆にキアロスタミやパナヒのようなイスラム圏の映画を模倣することもなく、
真にオリジナリティを持った筆致の大作を作ろうというドゥニ・ヴィルヌーヴの気概を感じたが
今作ではカナダ人がただ単に近年のアメリカ映画の模倣をやっているに過ぎない。

この全編ご都合主義に溢れたアメリカ映画の模倣をもって
ドゥニ・ヴィルヌーヴが向かうべき方向へ走り出したとは思えない。
あらためて前作『灼熱の魂』で観られた才気と作家性を監督は思い出すべきであり、
彼がやるべきことはこんなフィンチャーの安い模倣ではないと思うのは、私の早合点だろうか?

【第175回】『灼熱の魂』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ/2010)


映画は冒頭、ある廃墟の空間で複数の男の子たちが髪を剃られるシーンから始まる。
まるで戦争映画のワンシーンのように、1人の少年の悲しげな表情をクローズ・アップで据える。
そこからショットが変わり、2人の姉弟が母親の遺言状を受け取っている。
しかし姉弟にとってその遺言状は俄かに受け入れ難く、弟の方が席を立つ。
姉が裁判所を出て来ると弟が車の影で待っている。それを据え置かれたカメラがロング・ショットで捉える。

この尋常ならざる重厚なファースト・シーンを持つ映画は
カナダきっての実力派監督ドゥニ・ヴィルヌーヴによるものである。
映画は冒頭から尋常ならざる不穏さを辺り一面に漂わせている。

双子の姉弟ジャンヌ(メリッサ・デゾルモー=プーラン)とシモン(マキシム・ゴーデット)は
公証人ジャン・ルベル(レミー・ジラール)からもらった遺言状を見て初めて母親の生い立ちを知る。
シモンは深追いすることで母親のイメージが壊れるのを恐れるが、
姉のジャンヌは遺言にあった通り、父親と兄に会い母親からの手紙を渡そうとする。

この映画が特徴的なのは母親は全てを知っていて、
双子の姉妹には生前遂に真実を言わぬまま天国へと旅立ったということである。
遺言状には母親が知っている全ての真実を洗いざらい書けば良いと思うのだが
母親はどういうわけかそれをしない。
父親と兄に手紙を渡してくれと姉弟に託すのみで、彼女の謎多き半生にはまったく言及していないのだ。

ジャンヌはそのミステリーの秘密を解き明かそうと、母親の祖国を訪れる。
そこからは実の娘のまるで刑事ドラマのような推理と地道なフットワークにより
少しずつ母親の謎が明かされていく。
現実の描写と並んで過去の母親の行動が並行描写される。

母親は若い頃、家族の掟に逆らい子供を身籠る。
家族に隠れてその子を産み、やがて大学へ進学し子供とは離れた生活を送るが、
イスラム教とキリスト教の対立に端を発した政治情勢不安の時、1人息子の身を案じ
彼を預けていた施設を訪れるが、施設は既に爆破されていた。
この一連の描写の重厚感たるや本当に素晴らしい。
戦争映画ではないにも関わらず、あらゆるショットのリズムと構図が、
真にシリアスな雰囲気や緊迫感を生む。
久々に一つ一つのショットに説得力を持った才能の出現を目の当たりにする。

その後の母親の顛末は実際の映画を観て欲しいのだが、
ジャンヌから電話で逐一情報をもらい、現実から目を逸らすわけにはいかなくなった弟のシモンと
公証人ジャン・ルベルがジャンヌを追いかけてイスラムを訪れたところから物事は更に動いていく。
ここからは前半、刑事のように執念深く母親の秘密を追ったジャンヌからシモンへとバトンタッチし
まるでコンスタンタン=コスタ・ガヴラスの政治劇のように
イスラムにおけるキリスト右派との水面下でのネゴシエーションを経て、恐るべき真実へと辿り着く。

ラスト・シーンのあっと驚く衝撃の展開には呆気にとられたが
人物関係や年齢などの面であまり整合性が取れていないのも事実である。
母親は息子を息子だと認識するために、幼少期にある印を付けるのだが
そのことが見せる合理性も脚本を助ける手段としてしか認識されない。

ドゥニ・ヴィルヌーヴの映画はまず脚本ありきなのだが、そこに至る道筋はやや短絡的過ぎるきらいがある。
始めに結末ありきで逆算して走り出した物語には大きな破綻があってはいけないのだが
大きな破綻はない代わりに、小さな破綻は至る所で起こっているのである。

前半部分の母親が息子を探し求める場面の描写力など、
明らかに21世紀の映画監督の中では抜きん出た才能を感じるし
動きとか構図とかとにかくフレームへの意識の高さは目を見張るものがある。
ショットで言えば、明らかにジャームッシュ以降、
オリバー・ストーン以降の説得力や上手ささえ感じる。

思うにドゥニ・ヴィルヌーヴはジャームッシュがNY派の先駆者としてアート・スタイルを確立したように
オリバー・ストーンがアメリカ映画の社会派監督として戦争映画や歴史物を得意なものにしたように
まずは脚本ありきではなく、いち早く自分のスタイルを確立すべきである。

自分のフィルモグラフィは娯楽なのか?それとも芸術なのか?
それがしっかりと定まれば、ヴィルヌーヴの魅力は活きたものになるに違いない。
残念ながらその方向性がいまひとつはっきりしないため、作品1つ1つの芸術性も娯楽性も弱い。
私はドゥニ・ヴィルヌーヴにはこういうシリアスな政治劇の方が合っている気がするがどうだろうか?

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