【第1211回】『ハッピーエンド』(ミヒャエル・ハネケ/2017)


 スマートフォンの縦型のカメラに映された1本の動画、脱衣所で寝支度をする女性は無防備な背中を晒しているので、カメラを向けているのは、彼女の血縁家族に違いない。歯磨き、うがい、排泄、消灯という日頃のルーティン・ワークを覗き見るスマフォ・カメラの冷徹な視線は真っ先に、『ベニーズ・ビデオ』の主人公が夢中になった屠殺場面が大写しになったVHSや、『隠された記憶』で家の前から撮影された差出人不明のVHS映像の視点の延長線上にある。画面下のテキスト・メッセージとバルーンは、確かにそこで行われた母親の映像に、ほんの少しの不毛な色を付ける。彼女はSNS上の誰かの問いかけに、無邪気な言葉を返す。だがそこには生々しい生のやりとりなどなく、どこか寒々しいエスカレートしていく言葉の羅列だけが次々に書き込まれる。やがてその縦長のカメラは研究室のマウスに薬物を投与する。『ベニーズ・ビデオ』でスタンガンを打ち込まれた豚、『タイム・オブ・ザ・ウルフ』で人間の飢えを食い止めるために喉元を切り取られた馬のように、人間として動物を真に見下して来た少女の冷淡な眼差しによって死に至らしめられる。

 今作もこれまでのハネケ作品同様に、中産階級の緩やかな没落を描いている。ドーバー海峡に面したカレーの街に住む3世代の家族構成。建築業で一代で財を成した家長のジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は既に引退し、娘のアンヌ(イザベル・ユペール)を社長に、その息子ピエール(フランツ・ロゴウスキ)を専務とし、母親の元で働いている。アンヌの弟のトマ(マチュー・カソヴィッツ)は最近、再婚した美人妻アナイス(ローラ・ファーリンデン)との間に末息子のポールが生まれた。一見順風満帆に見える一家の暮らしぶりだが、その食卓はいつものハネケ作品の底冷えするようなディスコミュニケーションに包まれる。豊かな中産階級は、移民に対して身勝手な無知蒙昧を繰り返す。社会の不寛容と教養あるブルジョワジーの欺瞞、いま世界で起きていることに徹底して無関心で自閉症的な社会の闇を抱えた13歳の少女エヴ(ファンティーヌ・アルドゥアン)の登場がもたらす亀裂と波紋、突如崩れ落ちる工事現場の地滑り、事故で犠牲となった遺族を巡るロング・ショットの暴力、そしてこの家に引き取られたエヴと父親との不和。折り目正しいリバース・ショットで繰り広げられる緊張感のあるやりとりは、老人から少女へ伝播した死の欲望に他ならない。SNSの殻に閉じ籠った少女の自閉症的な病巣は、カレーの開かれた海を前にしてもただひたすら縦長の画面に帰結する。

【第1191回】『愛、アムール』(ミヒャエル・ハネケ/2012)


 警察と消防がある部屋のベルを押し、中の安否を確認している。メインとなるドアは施錠の上に更にトタン板で頑丈に目張りされており、警察官はそのトタン板を蹴破り中に侵入する。真っ暗な部屋は人の気配がなく、中に立ち込める尋常ならざる異臭に警察官は顔を少し歪める。各部屋を周った後、新鮮な空気を入れるため部屋の窓を開け放つ。ベッドの上には花で敷き詰められ弔われた年老いた老女の死体があった。高い天井と大きな窓、広い間取り、部屋の真ん中に置かれたグランド・ピアノ、ヨーロッパ調の家具、壁にかけられた無数の絵画や写真、整然と置かれた本棚、オーディオ、CDとレコード、この家に住んでいる夫婦のこれまでの歴史や職業、2人の馴れ初めに至るまで、全ての背景がわかる実に生活感のある空間で老夫婦は仲良く暮らしている。ジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)とアンヌ(エマニュエル・リヴァ)は、ともに音楽家の老夫婦でインテリ層として描かれる。その日、アレクサンドル(アレクサンドル・タロー)の演奏会へ赴き、夫婦は満ちたりた一夜を過ごす。だが施錠されていたはずの扉の鍵が壊されていたことが、老夫婦のその後に暗い影を落とす。

 突然、人形のように動きを止めた彼女の様子に気が動転した夫は着替えを持ってこようと衣装部屋へ足を運ぶ。その時妻の声が聞こえ、急いで居間に戻ると彼女は元通りになり、出しっ放しになった水道の蛇口を止めている。この決定的場面から、徐々に妻の老いが進み、病気は進行していく。上流階級であれば、死を迎えるための選択肢は複数ある。一番現実的なのは妻を老人ホームに入れることだろうが、どういうわけか妻は病院や老人ホームには行かない。妻にとって夫や娘と暮らしたこの家こそがかけがえのない空間であり、夫もそんな妻の気持ちを尊重し、自宅での老老介護を決断する。週に三回看護師とヘルパーと契約し、それ以外の介護は夫がしながらも、階下に住む知り合いの夫に買い物を手伝ってもらう。車椅子生活の妻を夫が支えながら、普段の生活に戻ったかのように見えた老夫婦だったが、徐々に妻の病状は進行していく。夫の負担は彼女の病気の進行により増し、精神的ストレスも増していく。一人娘のエヴァ(イザベル・ユペール)には夫のジョフや孫もいるが、ヨーロッパ各地をコンサートで回る彼女に無理もさせられない。妻はそんな夫に負担をかけまいと思うが、1人では何も出来ない妻は逆に2人を孤立させる。

 人間はいつかは必ず、彼らのように老いて死ぬ。この世に生を受けた時点から、誰一人として老いを避けて生きることは出来ない。この夫婦に起きた問題は誰にでも起こり得る問題であり、現実から目を背けることは出来ない。それにしても中盤からクライマックスにかけては直視出来ない描写が延々と続く。週3回、看護師に連れ添われオムツ交換や車椅子でのシャワーを浴びるアンヌの屈辱がどれ程のものであるかは想像に難くない。夫が介護生活に疲れ、いつしか病気の妻の頬を平手打ちする場面はハネケ映画に何度も登場する身振りだが、これ程胸に迫る場面もないだろう。芸術家でインテリの老夫婦にとって、生きることも死ぬことも尊厳にまつわる厳格な事態であり、自分たちなりの人生の閉じ方を模索する。だが老夫婦の意に反し、つらく厳しい現実が彼らの尊厳や崇高な精神すらも呑み込んでしまう。マノエル・ド・オリヴェイラの『夜顔』のような一話の鳩の侵入、シューベルトの即興曲を弾きこなす妻の幻、まるで処女作だった『セブンス・コンチネント』のような夫婦の心理的孤立、牧歌的な田舎の絵、切り落とされた白い花束。ジャン=ルイ・トランティニャンとエマニュエル・リヴァの名演に思わず涙腺が緩む。

【第1191回】『白いリボン』(ミヒャエル・ハネケ/2009)


 舞台は第二次世界大戦直前の北ドイツの小さな村で始まる。年老いた男の独白、1913年〜14年までの僅かな期間、診察帰りのドクター(ライナー・ボック)が自宅前に張られた針金のせいで落馬し、入院する。これまでのハネケの映画の中でも特に不穏さを掻き立てるオープニングである。そのドクターの落馬事故による入院から、小さな村の中で次々と悲惨な出来事が起こる。男爵(ウルリッヒ・トゥクール)の家の納屋の床が抜け、小作人(ブランコ・サマロフスキー)の妻が亡くなる。男爵家で行われた収穫祭の宴と同時刻に、小作人の長男マックスは、男爵家のキャベツ畑を荒らしていた。その夜、男爵家の長男ジギが行方不明になり、杖でぶたれ逆さ吊りの状態で見つかる。後日、男爵夫人は子供たちを連れ、実家のあるイタリアに一度家族を逃がす。これらのエピソードは明らかに何らかの因果関係を持っているかのように描かれる。目には目を歯には歯をのように、様々な憎悪が複雑に絡み合い憎しみの連鎖は起きる。小さな村はハネケ作品における「階級社会」を反映するコミュニティとして機能する。村を実質支配しているのは男爵であり、彼が小作人家族を抑圧している。
 
 ハネケ映画ではしばしばこの「階級闘争」や「人種差別」が元になり、世界は一つの球体として奇妙なバランスを持って描かれる。その絶妙なバランスに誰かがヒビを入れ、球体は割れていく。抑圧やストレス下に置かれたか弱き者が最後に球体のバランスそのものをぶち壊してしまう。今作において僅かに小作人の親子が出て来るものの、残りの大人たちは全て聖人のような職業に就く人物として描かれる。ドクター、牧師、男爵など本来聖人君主であるべき大人たちがみんな罪を犯し、心に闇を抱えている。ドクターは助産婦と不倫関係を続けており、牧師は子供達の抱える闇に薄々気付き、とりわけマルティンとクララに目を付ける。だが前作『隠された記憶』でも象徴的だったように、ミステリーは全てを未消化のままでそこに取り残される。ドクターの自宅前に針金を張った人間も、小作人の妻を不慮の死に見せかけて殺した人間も、ジギを宙づりにした人間も、ここで起きた事件の何もかもが、何一つ犯人が明かされない。ただカメラはやんわりと観客の興味を犯人と思われる被写体の元へ向ける。橋の欄干の上でバランスを取る歪んだ病巣、聖体拝領に向かう牧師の心理的葛藤、ハンディキャップを持った少年への更なる虐待、籠の中の鳥。厳格なプレてスタント教育への憎悪と復讐は、ナチス政権に導いてしまった世代の抑圧された少年期を憂う。

【第1190回】『隠された記憶』(ミヒャエル・ハネケ/2005)


 閑静な高級住宅街の一角に構えた一軒の邸宅。人気キャスターであるジョルジュ(ダニエル・オートゥイユ)と、作家で彼の妻アン(ジュリエット・ビノシュ)、一人息子のピエロ(レスター・マクドンスキ)は何不自由ない優雅な生活を送っていた。そんなある日、ジョルジュの元に送り主不明のビデオテープが届く。テープに映し出されたのは、ジョルジュの家の風景と家族の通勤・通学の様子で、やがてビデオテープの内容は回を追うごとに徐々にプライベートな領域へとエスカレートしてゆく。冒頭、3分強の固定カメラで撮影された映像が不穏な空気を醸し出す。外に出てどこから撮った映像なのか確認してみると、家の前の通りで撮影されたものであることがわかる。いったい誰が?何のために?姿の見えない送り主の姿に怯える日々が始まる。ヒッチコックのようなミスリードを強いる今作において、犯人は21世紀においてもはや珍しくなったVHSテープというメディアを通し、核家族に物言わぬ警告を発し続ける。最初は自宅にのみ発送されていたビデオテープがやがて主人公の勤めるTV局にも届き、不気味な血のついた何者かが書かれた絵ハガキは一人息子の通う学校にも届く。悪戯は徐々にエスカレートし始め、やがて主人公は子供時代のある苦い思い出に辿り着く。

 だが中盤、ジョルジュが犯人に当たりをつけた時点で、サスペンスとしての魅力は薄まる。我々人間は常に、誰かにしてあげたことはすっかり忘れているが、誰かにされたことは覚えている。主人公のジョルジュは嫉妬に駆られ、マジッドを孤児院に追いやったことはすっかり忘れているが、マジッドはその幼少期の苦い思い出をずっと覚えている。ここでもハネケ作品の共通の特徴である「人種差別」の問題が頭をもたげる。裕福な家に生まれ、それなりの教育を受け地位と名誉を得た主人公の生活に比べ、アルジェリアに生まれ、民族解放戦線のデモで両親を失ったマジッドは未だに団地の狭い部屋に押し込められている。先進国に生まれた人間は常に無意識下で誰かを差別しており、その見えない恐怖に怯えている。一人息子のピエロが母親の浮気を疑い、友達の家に泊まる展開は脚本上の辻褄合わせだろうが、ここに来て人間の憎悪は制御出来ないところにまで来ており、引くに引けない主人公の憎悪に対して、マジッドはあっと驚く結末を用意する。ここではハネケ作品の中で初めて殺人場面がワンショットで観客に公開されるが、それはむしろ残酷さではなく、事態のショッキングさを強調する。ラストのロング・ショットの位置取りも含め、釈然としないラスト。いったい誰がビデオを送り付けていたのかは今一つはっきりしない。

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