【第189回】『愛、アムール』(ミヒャエル・ハネケ/2012)


冒頭、警察と消防がある部屋のベルを押し、中の安否を確認している。
メインとなるドアは施錠の上に更にトタン板で頑丈に閉じられており、
警察官はそのトタン板を蹴破り中に侵入する。
真っ暗な部屋は人の気配がなく、中からの異臭に警察官は顔を少し歪める。
各部屋を周った後、新鮮な空気を入れるため部屋の窓を開け放つ。
ベッドの上には花で弔われた年老いた老女の死体があった。

ハネケ映画において家というのは常に平和な空間だった。
しかしこの無防備な空間である部屋は、警察や消防にいとも簡単に侵入を許している。
今作において、頑丈な部屋はかくもこうしてあっけなく他者の侵入を許す。

高い天井と大きな窓、広い間取り
部屋の真ん中に置かれたピアノ、ヨーロッパ調の家具、壁にかけられた無数の絵や写真
整然と置かれた本棚の本、オーディオ、CDとレコード、
この家に住んでいる夫婦のこれまでの歴史や職業、2人の馴れ初めに至るまで
全ての背景がわかる実に生活感のある空間で老夫婦は仲良く暮らしている。

ジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)とアンヌ(エマニュエル・リヴァ)は、ともに音楽家の老夫婦。
その日、アレクサンドル(アレクサンドル・タロー)の演奏会へ赴き、満ちたりた一夜を過ごす。
この導入部分の柔らかい展開の中に、『ピアニスト』との共通点を見出す人は多いのではないか?
音楽エリートの家庭で、常に芸術を大切にしてきた老夫婦は
たった今自分の最愛の弟子であるアレクサンドルの演奏を聴き、自分たちの歴史に思いを馳せる。
娘が『ピアニスト』で主人公を演じたイザベル・ユペールだということも偶然とは思えない。
『ピアニスト』とは別の音楽一家ながら、どこか共鳴する部分を内包している。

愛弟子の活躍の余韻に浸る翌朝、この老夫婦の未来に一抹の不安が起こる。
突然、人形のように動きを止めた彼女の様子に気が動転した夫は
着替えを持ってこようと衣装部屋へ足を運ぶ。
その時妻の声が聞こえ、急いで居間に戻ると彼女は元通りになり、
出しっ放しになった水道の蛇口を止めている。
この決定的場面から、徐々に妻の老いが進み、病気は進行していく。

このくらいの上流階級であれば、死を迎えるための選択肢は複数ある。
その中でも一番現実的なのは妻を老人ホームに入れることだろうが、
どういうわけか妻は病院や老人ホームには行かないと頑なに拒む。
妻にとって夫や娘と暮らしたこの家こそがかけがえのない空間であり、
夫もそんな妻の気持ちを尊重し、自宅での終末期看護を決断する。

週に三回、看護師とヘルパーと契約し、それ以外の介護は夫がしながらも
階下に住む知り合いの夫に買い物を手伝ってもらう。
車椅子生活の妻を夫が支えながら、普段の生活に戻ったかのように見えた老夫婦だったが
徐々に妻の病状は進行していく。

冷静に見ると、この老夫婦の決断はやはり間違っていたのではと思わざるを得ない。
夫の負担は彼女の病気の進行により増し、精神的ストレスも増していく。
妻はそんな夫に負担をかけまいと思うが、1人では何も出来ない妻は逆に夫に負担をかけてしまう。

人間はいつかは必ず、彼らのように老いていく。
人間として生まれた時点から、誰一人として老いを避けて生きることは出来ない。
この夫婦に起きた問題は誰にでも起こり得る問題であり、現実から目を背けることは出来ない。

それにしても中盤からクライマックスにかけては直視出来ない描写が延々と続く。
夫は介護生活に疲れ、いつしか病気の妻の頬を平手で叩いてしまう。
看護師が妻のシャワーを手伝う様子を見ながら、夫は段々とその絵を直視出来ずに目を逸らす。
ヘルパーの横暴な態度に怒り、失礼な彼女を追い払う。

芸術家でインテリの老夫婦にとって、生きることも死ぬことも尊厳にまつわる厳格な事態であり
彼らなりの幸せな死に方を模索している。
だからこその医者や老人ホームの拒絶であり、平和な空間での終末の迎え方なのだが
老夫婦の意に反して、つらく厳しい現実が彼らの尊厳や崇高な精神すらも呑み込んでしまう。

老夫婦は最初からこの「平和な空間への侵犯」を拒絶している。
愛弟子のアレクサンドルの急な来訪の時に登録してない電話には出ない
といった夫の言葉から明らかなように、夫婦はよそ者を拒絶している。
それは途中、夫が見た夢の中にも明らかである。
浴室で歯を磨く夫にはドアのチャイムの音が聞こえる。
口をゆすいで玄関のドアを開けるが、そこには誰もいない。
『隠された記憶』と同様の描写が繰り返されるが、
ベルを鳴らした人物を奥へ探しに行った夫は背後から何者かに首を絞められるところで夢だと気付く。

中盤からクライマックスにかけて二度現れる鳩は、
マノエル・ド・オリヴェイラの『夜顔』のニワトリを真っ先に想起させる。
おそらく何らかの意味を持って、有り得ない鳩の二度に渡る侵入が描写されるが
ここでも夫は鳩の侵入を頑なに拒み、二度とも中庭の窓から外へと放つ。

ただこの1回目と2回目の鳩の侵入がまったく別の意味を持っていることに、我々観客は無関心ではいられない。
二度目の侵入の時、布でくるんだ鳩を老人は自分の胸元に抱きしめる。

『隠された記憶』や『白いリボン』など近年の作品に象徴的だったように
ミステリーはミステリーとして棚上げされ、問題解決には至らない。
今作でも老い先短い老夫婦のその後は、巧妙にも二通りの見解で提示される。
一つ目は冒頭の警察と消防の侵入場面に明らかだろう。
もう一つの結論はクライマックスで提示されたあの美しい老夫婦の日常の場面であり
何てことない日常の描写に不覚にも涙が溢れた。

確かに今作のタッチは明らかにシリアスで重い。
それでもこれまでのハネケの陰湿なまでのバッド・エンドとは明らかに何かが違う。
愚直なまでに老夫婦が直面する現実と向き合った考えさせられる作品である。

【第188回】『白いリボン』(ミヒャエル・ハネケ/2009)


ハネケのフィルモグラフィにおいて初めてのモノクロ映画であり、
『71フラグメンツ』や『カフカの「城」』以来のアンサンブル・プレイによる群像劇である。

舞台は第二次世界大戦直前の北ドイツの小さな村で始まる。
映画は冒頭、診察帰りのドクター(ライナー・ボック)が自宅前に張られた針金のせいで落馬し、入院する。
これまでのハネケの映画の中でも最も不穏なオープニングでスタートする。

そのドクターの落馬事故による入院から、小さな村の中で次々と不思議な出来事が起こる。
男爵(ウルリッヒ・トゥクール)の家の納屋の床が抜け、小作人(ブランコ・サマロフスキー)の妻が亡くなる。
男爵家で行われた収穫祭の宴と同時刻に、小作人の長男マックスは、男爵家のキャベツ畑を荒らしていた。
その夜、男爵家の長男ジギが行方不明になり、杖でぶたれ逆さ吊りの状態で見つかる。
後日、男爵夫人は子供たちを連れ、実家のあるイタリアに一度家族を逃がす。

これらのエピソードは明らかに何らかの因果関係を持っているかのように描かれる。
目には目を歯には歯をのように、様々な憎悪が複雑に絡み合い憎しみの連鎖は起きる。
小さな村はハネケ作品における「階級社会」を反映するコミュニティとして機能する。
村を実質支配しているのは男爵であり、彼が小作人家族を抑圧している。
ハネケ映画ではしばしばこの「階級闘争」や「人種差別」が元になり、
世界は一つの球体として奇妙なバランスを持って描かれる。
その絶妙なバランスに誰かがヒビを入れ、球体は割れていく。
率直に言ってハネケの映画は常にこういう抑圧やストレス下に置かれた弱いものが
最後に球体のバランスそのものをぶち壊してしまう。

今作において僅かに小作人の親子が出て来るものの、
残りの大人たちは全て聖人のような職業に就く人物として描かれる。
ドクター、牧師、男爵など本来聖人君主であるべき大人たちがみんな罪を犯し、心に闇を抱えている。
ドクターは助産婦と不倫関係を続けており、
牧師は子供達の抱える闇に薄々気付いているが真相を暴こうとしない。
男爵は自分の家族をイタリアに帰省させ、その間に男爵家の納屋で火事が起こり
焼け跡から小作人の遺体が見つかる。
彼ら聖人君主であるべき人間たちが一様にダーティな部分を持っていると設定されているところも
この村の抑圧状態の不穏さや暗さを物語る。

前作『隠された記憶』でも象徴的だったように、ミステリーは全てを未消化のままでそこに残される。
『隠された記憶』では我々観客は最後まで誰がビデオテープを送った犯人なのかわからない。
当初の目的は、誰がどういう目的で自分たちを監視した映像を送りつけていたのかだったが
いつの間にか主人公はその犯人の姿に無頓着になり、
従来のミステリーとしては有り得ない犯人不明のまま物語は終わっていく。

今作も前作『隠された記憶』同様、ドクターの自宅前に針金を張った人間も
小作人の妻を不慮の死に見せかけて殺した人間も、ジギを宙づりにした人間も
ここで起きた事件の何もかもが、何一つ犯人が明かされないまま終わってしまう。

ただラストに一応の主人公であり、物語の語り部として現れた教師があたりをつけたように
おそらく幾つかの事件は子供達が犯人だと思って間違いないし、ハネケもそのように演出している。
それでもこれはあくまでミステリーではなく、抑圧が渦巻く一つのコニュニティの中で起きた
様々な出来事の断片を拾い集めたものなんだとハネケは嘯く。

ハネケにとって最も描きたかったのは、「階級関係」と「人種差別」こそが
全てのヨーロッパの問題の根底にあるということであり、
それは20世紀においても21世紀においてもさほど差はないのである。

この映画の登場人物達は、たった一人語り部である教師を除き、誰一人として真実を知ろうとしない。
あるいは真実を知っていても、それと向き合おうとはしないのである。
ラストも来るべき新しい時代に明るい希望を抱きながら、神様に感謝しながら結びを迎える。

しかしながらドイツはこの数年後、世界恐慌による経済破綻により、
一気にアドルフ・ヒトラーの極右政権が誕生し、ナチスドイツの抑圧を受けることになるのだった。
皮肉といえば皮肉だが、国民全体に漂うこの不穏な抑圧体制がこの数年後には現実のものとなる。
この国民全体が口ごもる空気というのは、どこかの国の現在の空気にも近い。

『71フラグメンツ』や『カフカの「城」』の頃に比べれば、ハネケのアンサンブル・プレイは随分成長し
ショットとショットの唐突なつなぎ目は滑らかさを感じさせるようになった。
ハネケ映画は現代劇ではなく時代物になると一気に宗教性を帯び始める。
ただ途中しんしんと降る雪の描写がびっくりするくらい安っぽい。
撮影監督はクリスティアン・ベルガーだが、モノクロ映画の光の入れ方もまるでなってない場面が多々あった。
あえてモノクロにせず、映画の特徴を考えてもカラーでも良かったのではないかと思う。

【第187回】『隠された記憶』(ミヒャエル・ハネケ/2005)


人気キャスターであるジョルジュ(ダニエル・オートゥイユ)と
作家で彼の妻アン(ジュリエット・ビノシュ)、一人息子のピエロ(レスター・マクドンスキ)は、
何不自由のない優雅な生活を送っていた。
そんなある日、ジョルジュの元に送り主不明のビデオテープが届く。
そのビデオテープに映し出されたのは、ジョルジュの家の風景と家族の通勤・通学の様子で
やがてビデオテープの内容は回を追うごとに徐々にプライベートな領域へとエスカレートしてゆく。

冒頭、3分強の固定カメラで撮影された映像が不穏な空気を醸し出している。
外に出てどこから撮った映像なのか確認してみると、家の前の通りで撮影されたものであることがわかる。
いったい誰が?何のために?姿の見えない送り主の姿に怯える日々が始まる。

昨日の『タイム・オブ・ザ・ウルフ』のエントリにおいて、
ハネケ映画における「平和な空間への侵犯」について書いたが、
今作においても何者かによって監視されている恐怖が「平和な空間への侵犯」を予感させる。
犯人は21世紀においてもはや珍しくなったVHSテープというメディアを通して
彼ら核家族に物言わぬ警告を発し続ける。
最初は自宅にのみ発送されていたビデオテープがやがて主人公の勤めるTV局にも届き、
不気味な血のついた何者かが書かれた絵ハガキは一人息子の通う学校にも届く。
悪戯は徐々にエスカレートし始め、やがて主人公は子供時代のある秘密を思い出すのだった。

前作『タイム・オブ・ザ・ウルフ』においても
目を離した隙にヤギを盗まれた男は真っ先に移民の家族を疑った。
我々に置き変えてもいいが、集団というのは何か事件が起きると真っ先に誰かに疑いの目を向ける。
その疑いの目というのは常に自分たちの外側の人間や貧しい人間に対して向けられるとは言えないだろうか?
主人公もいったい誰が犯人なのかと考えた時に、
日々の忙しさの中ですっかり忘れていたアルジェリア人の少年のことを真っ先に思い出す。

子供時代、両親の元で働くあるアルジェリア人の家族がいた。
彼らはよく働き、ジョルジュの一家を支えてくれたがある政変が元で両親が突然いなくなる。
孤児になった少年マジッドに両親は情けをかけ引き取るが、
彼を極端に嫌がった幼少時代の主人公はマジッドを無理矢理、孤児院に追いやってしまう。

我々人間は常に、誰かにしてあげたことはすっかり忘れているが、誰かにされたことは覚えている。
つまりここでも主人公のジョルジュはマジッドを孤児院に追いやったことはすっかり忘れているが
マジッドの方はその幼少期の苦い思い出をずっと覚えている。

ここでもハネケ作品の共通の特徴である「人種差別」の問題が頭をもたげる。
裕福な家に生まれ、それなりの教育を受け地位と名誉を得た主人公の生活に比べて
孤児でありアルジェリアに生まれたマジッドは未だに団地の狭い部屋に押し込められている。
これは前半部分の道路で主人公が自転車の黒人と接触しそうになり、口論になる場面にも象徴されている。
我々は常に無意識下で誰かを差別しており、差別される側は憎悪やストレスを抱えているのである。

一人息子のピエロが母親の浮気を疑い、友達の家に泊まる展開はやや唐突な気がしたものの
ここに来て人間の憎悪は制御出来ないところにまで来ており、
引くに引けない主人公の憎悪に対して、マジッドはあっと驚く結末を用意する。
ここではハネケ作品の中で初めて殺人場面が観客に公開されるが、
それはむしろ残酷さではなく、事態のショッキングさを強調している。

人間同士の心のわだかまりというのは、世代間を越えて伝播する。
また人間同士というのは皮肉なことに簡単には分かりあえない。
クライマックスの据え置きのロング・ショットの中で静かに起きる葛藤こそ、
そのことを示唆した現代社会の病理そのものなのである。

【第186回】『タイム・オブ・ザ・ウルフ』(ミヒャエル・ハネケ/2003)


ハネケの初期の作品『セブンス・コンチネント』や『ベニーズ・ビデオ 』では、
精神的に追い詰められた核家族が家の中に籠城し社会との一切の接点を拒絶していた。

中期の作品『ファニーゲーム』や『コード:アンノウン』や『ピアニスト』においては
部屋という空間は家族にとって幸せの象徴であり、ある種の聖域として描写されていた。
『ファニーゲーム』ではこの聖域への侵犯が家族の悲劇的崩壊をもたらし、
『コード:アンノウン』ではクライマックスで主人公の部屋のパスワードが開かないことが
何か不穏なラスト・シーンを我々観客に予感させ終わった。
『ピアニスト』では母親と結婚適齢期をとうに過ぎた主人公の2人暮らしの部屋に
教え子の男が押し入り、母親を監禁し主人公の女をレイプした。

一見それらの作品とは一線を画すように思える
カフカ文学を忠実に再現した『カフカの「城」 』においても
例えば中盤の学校に寝泊まりするところで、彼らの平和な空間に測量見習いの2人が入り込み
やがて朝を迎えた頃に生徒たちが侵入し、実にドラマチックな群像劇が繰り広げられる。
未完のクライマックスにおいても、Kはフリーダとヨリを戻そうと熱烈にアピールする場面で
フリーダの部屋への侵入を拒絶される。
奥行きのある廊下で部屋から漏れる光の中でKは強引に部屋への侵入を試みるが
実は測量見習いの片割れが彼女の支えとしてそこにいるのである。

このようにハネケ作品においては「平和な空間への侵犯」が様々な形で繰り返される。
『71フラグメンツ』の凄惨なラスト・シーンもこの「平和な空間への侵犯」に
強引に組み込んでもいいかもしれない。容疑者は一度自らの車に戻るが
そこで泣くだけでは彼の気持ちが収まらず、やがてあの凶行に及ぶ。

今作の冒頭、両親と姉弟の4人家族(核家族ではない)が自分たちの別荘へと向かう。
ただ『ファニー・ゲーム』のように裕福な家族のバカンス滞在ではなく、
何やら深刻な事情であると察せられる。
彼らは少ない食料や荷物を車に積み、自分の別荘に入るとそこには猟銃を振りかざす男がいた。
今作では平和な空間であるはずの部屋に、最初から別の人間が住んでいるのである。

猟銃を構えた男はやがて発砲し、父親は無残にも殺される。
備蓄のために持ってきた食料や車は全て奪われ、家族3人は野に放たれる。
3人は昼間はただひたすら歩き、夜になると暖を取れる木製の小屋で寝泊まりする。
ここで何とか3人で暮らす平和な空間を見つけ安堵する主人公だったが
なぜか息子が居なくなり、娘と2人で息子の姿を一晩中探し続ける。
そこで娘は焚き火を大きくし過ぎるあまり、木造の小屋を全焼させてしまう。

やがて朝になり日は鎮火したものの、平和な空間は跡形もなくなっており
その代わり少年に連れられて息子が戻って来る。
そこからは少年も連れた4人で線路沿いをただぢたすら歩いていく。
やがて貨物駅を見つけ、そこで集団疎開する1つの集団を迎え、彼らとの共同生活が始まる。
日本で言えば学校の体育館に作られた仮設の避難小屋のような粗末な空間で仕切りも何もない。
プライバシーは何もない3人の苦しい生活が幕を開ける。

少年は彼らとは別行動で、森の中で野宿生活をする。
彼にとってその共同生活は苦痛以外の何ものでもなく、
彼らの配給を受けない代わりに何の制限もないひとりぼっちの野宿生活を志向する。

やがて貨物駅には続々と人間が集まり、立派なコミュニティとなる。
そこでは常にいさかいが絶えず、およそ文明社会に育ったとは思えない人間のエゴが噴出する。
ここで別行動を取る少年に勝手な行動を取らせることで、ハネケはコミュニティに波風を立てる。

人間は極限状態に置かれた状態で罪を見つけた時、必ず最初に移民や自分より下層の人間を疑う。
そういう人間の悲しさや愚かさを娘の目線というフィルターを通してハネケは突きつける。
当たり前の倫理は時に当たり前の憎悪を生み、社会のバランスはゆっくりと歪んでいく。

後半の父親を殺した加害者家族と被害者家族の再会はそれ以上に容赦ない。
加害者家族は当然罪を否定するが、それと同時に罪の意識に苛まれる。
それでも人間は生きていかなければならない。
ある意味当たり前の生存本能を、戦争映画とはまったく別の形で提示して見せた
あまりにも美しく残酷なシーンである。

クライマックスには真に肝を冷やしたが、ハネケには珍しくバッド・エンドにはしない。
思えばハネケの映画ではバッド・エンドな作品でも決して殺人シーンを描写しようとはしなかった。
今作においても馬は猟銃で至近距離から撃たれ、咽喉を掻っ切られる場面があったが
父親の銃殺の場面もイザベル・ユペールが浴びた返り血だけで、
決して殺人を安易に描写しようとしていない。
ハネケ映画を拒絶する層というのは、ヴィム・ヴェンダースを筆頭として
彼の映画の暴力そのものを否定し、その一切の倫理観を拒絶してしまう。
今作においても馬を猟銃で至近距離から撃ち、咽喉を掻っ切る場面は、
馬を愛する人間にとっては到底掌握出来ない残酷な場面であり、私も不快感を覚えた。

しかし彼の映画が血が通っていないのかと言われたら、間違いなく「NO」と答える。
少なくとも『カフカの「城」』以降のハネケの映画は十分に血が通っており、
何らかの憎悪が噴出する場面においても、そこに至るまでの細部の描写に何らかの意図が見える。

彼の映画は一貫して「平和な空間への侵犯」と「階級闘争」と「人種差別」が垣間見える。
また映画は依然として全ての情報を提示する必要はないというハネケの見解を圧倒的に支持する。
今作でも主人公たちが備蓄できる食料を持って、急いで別荘に来た理由は最後までわからない。
おそらく世界は滅び、人類は絶滅の危機に陥っているらしいことは何となくわかる。
ミヒャエル・ハネケは丁寧に物語の概要や全体像を伝える作家ではなく、
あくまで断片を提示しているに過ぎないのである。

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