【第1089回】『未来よ こんにちは』(ミア・ハンセン=ラヴ/2016)


 甲板から海を眺める2人の子供を夫に任せ、ナタリー(イザベル・ユペール)は左側の2列目に座りながら、いそいそと添削を続ける。そこには「人は他者の立場に立てるか?」の文字が踊る。やがて夫のハインツ(アンドレ・マルコン)の手招きにナタリーはゆっくりと立ち上がり、家族と共に水平線を眺める。フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンの墓碑を見にこの地へやって来た4人家族は、最初から夫と妻の微妙なズレが印象に残る。墓碑を見た2人の子供はすぐに呆れ、そそくさと先へ急ぐ。ナタリーは夫の姿をギリギリまで待つのだが、2人の子供の足並みに痺れを切らして先に歩を進める。それから半年後、夜中に同じベッドで眠るナタリーとハインツの元へけたたましくベルが鳴る。夫は「取らないでいい」と寝ぼけながら告げるのだが、留守番電話に吹き込まれた実母イヴェット(エディット・スコブ)の声を聞いたナタリーはすぐに受話器を取る。6時起きの予定だったナタリーは母親を見舞いながら、1時限目の講義に向かう。彼女は50代の哲学教授であり、結婚25年目の夫との間には息子と娘がいる。エンツェンスベルガーの『過激な敗者』を立ったまま読みながら大学へ向かう彼女は、五月革命のようなでもの熱気で溢れる学生たちを横目に見ながら、教室へ向かう。授業ではジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』を題材にして、学生たちと活発な議論を繰り返す。

 家族での食卓の席でも、フランスの哲学家や思想家について意見を交わすナタリーとハインツとは、共に大学の教授同士である。だがその毎日の生活は、哲学書のようにそう簡単に答えを導き出さない。ワガママで少し認知症の気があり、狂言癖のある母親の介護に振り回され、自らが手掛けた哲学の教科書は現代の若者には少し窮屈だから、改訂したいと出版社にやんわりと告げられる。猫アレルギーにも関わらず、母親が大事にして来た猫だからと渋々面倒を見て、その将来に期待を寄せていた愛弟子からは思想と行動の矛盾を指摘される。しまいにはもう25年連れ添って、てっきり死ぬまで一緒にいると思っていた夫から突然、愛人の存在と別居を宣言される。一見、順風満帆に見えたナタリーには急に様々な困難が降りかかり、ふと思い出すと母親と同じような「おひとり様」の老後が待ち構えている。妻としての幸せよりも大事な女としての幸福。母の死と夫の裏切りで急に現実に打ちのめされた女は「幸せとは何か」を考え始める。母の死の帰り道、バスの中で涙が止まらないナタリーの目に飛び込んで来た夫と新しい彼女の仲睦まじい光景に女の涙は自虐的な笑いに変わる。夫の新しい女が生けた花が気に食わず、ゴミ箱に放り込もうとするがトゲでケガをする。映画館でキアロスタミの『トスカーナの贋作』を観ている横から、痴漢の手が太ももを弄る。女の身に降りかかる不幸は決してドラマチックで映画的ではないが、徐々にボディ・ブローのように効いてくる。ミア・ハンセン=ラヴは人生の小さな機微を繰り返すことで、イザベル・ユペールに女としての自立を促す。その落ち着き払ったような小さなさざなみのリズムは、ただただ豊潤で美しい余韻を残す。

【第189回】『愛、アムール』(ミヒャエル・ハネケ/2012)


冒頭、警察と消防がある部屋のベルを押し、中の安否を確認している。
メインとなるドアは施錠の上に更にトタン板で頑丈に閉じられており、
警察官はそのトタン板を蹴破り中に侵入する。
真っ暗な部屋は人の気配がなく、中からの異臭に警察官は顔を少し歪める。
各部屋を周った後、新鮮な空気を入れるため部屋の窓を開け放つ。
ベッドの上には花で弔われた年老いた老女の死体があった。

ハネケ映画において家というのは常に平和な空間だった。
しかしこの無防備な空間である部屋は、警察や消防にいとも簡単に侵入を許している。
今作において、頑丈な部屋はかくもこうしてあっけなく他者の侵入を許す。

高い天井と大きな窓、広い間取り
部屋の真ん中に置かれたピアノ、ヨーロッパ調の家具、壁にかけられた無数の絵や写真
整然と置かれた本棚の本、オーディオ、CDとレコード、
この家に住んでいる夫婦のこれまでの歴史や職業、2人の馴れ初めに至るまで
全ての背景がわかる実に生活感のある空間で老夫婦は仲良く暮らしている。

ジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)とアンヌ(エマニュエル・リヴァ)は、ともに音楽家の老夫婦。
その日、アレクサンドル(アレクサンドル・タロー)の演奏会へ赴き、満ちたりた一夜を過ごす。
この導入部分の柔らかい展開の中に、『ピアニスト』との共通点を見出す人は多いのではないか?
音楽エリートの家庭で、常に芸術を大切にしてきた老夫婦は
たった今自分の最愛の弟子であるアレクサンドルの演奏を聴き、自分たちの歴史に思いを馳せる。
娘が『ピアニスト』で主人公を演じたイザベル・ユペールだということも偶然とは思えない。
『ピアニスト』とは別の音楽一家ながら、どこか共鳴する部分を内包している。

愛弟子の活躍の余韻に浸る翌朝、この老夫婦の未来に一抹の不安が起こる。
突然、人形のように動きを止めた彼女の様子に気が動転した夫は
着替えを持ってこようと衣装部屋へ足を運ぶ。
その時妻の声が聞こえ、急いで居間に戻ると彼女は元通りになり、
出しっ放しになった水道の蛇口を止めている。
この決定的場面から、徐々に妻の老いが進み、病気は進行していく。

このくらいの上流階級であれば、死を迎えるための選択肢は複数ある。
その中でも一番現実的なのは妻を老人ホームに入れることだろうが、
どういうわけか妻は病院や老人ホームには行かないと頑なに拒む。
妻にとって夫や娘と暮らしたこの家こそがかけがえのない空間であり、
夫もそんな妻の気持ちを尊重し、自宅での終末期看護を決断する。

週に三回、看護師とヘルパーと契約し、それ以外の介護は夫がしながらも
階下に住む知り合いの夫に買い物を手伝ってもらう。
車椅子生活の妻を夫が支えながら、普段の生活に戻ったかのように見えた老夫婦だったが
徐々に妻の病状は進行していく。

冷静に見ると、この老夫婦の決断はやはり間違っていたのではと思わざるを得ない。
夫の負担は彼女の病気の進行により増し、精神的ストレスも増していく。
妻はそんな夫に負担をかけまいと思うが、1人では何も出来ない妻は逆に夫に負担をかけてしまう。

人間はいつかは必ず、彼らのように老いていく。
人間として生まれた時点から、誰一人として老いを避けて生きることは出来ない。
この夫婦に起きた問題は誰にでも起こり得る問題であり、現実から目を背けることは出来ない。

それにしても中盤からクライマックスにかけては直視出来ない描写が延々と続く。
夫は介護生活に疲れ、いつしか病気の妻の頬を平手で叩いてしまう。
看護師が妻のシャワーを手伝う様子を見ながら、夫は段々とその絵を直視出来ずに目を逸らす。
ヘルパーの横暴な態度に怒り、失礼な彼女を追い払う。

芸術家でインテリの老夫婦にとって、生きることも死ぬことも尊厳にまつわる厳格な事態であり
彼らなりの幸せな死に方を模索している。
だからこその医者や老人ホームの拒絶であり、平和な空間での終末の迎え方なのだが
老夫婦の意に反して、つらく厳しい現実が彼らの尊厳や崇高な精神すらも呑み込んでしまう。

老夫婦は最初からこの「平和な空間への侵犯」を拒絶している。
愛弟子のアレクサンドルの急な来訪の時に登録してない電話には出ない
といった夫の言葉から明らかなように、夫婦はよそ者を拒絶している。
それは途中、夫が見た夢の中にも明らかである。
浴室で歯を磨く夫にはドアのチャイムの音が聞こえる。
口をゆすいで玄関のドアを開けるが、そこには誰もいない。
『隠された記憶』と同様の描写が繰り返されるが、
ベルを鳴らした人物を奥へ探しに行った夫は背後から何者かに首を絞められるところで夢だと気付く。

中盤からクライマックスにかけて二度現れる鳩は、
マノエル・ド・オリヴェイラの『夜顔』のニワトリを真っ先に想起させる。
おそらく何らかの意味を持って、有り得ない鳩の二度に渡る侵入が描写されるが
ここでも夫は鳩の侵入を頑なに拒み、二度とも中庭の窓から外へと放つ。

ただこの1回目と2回目の鳩の侵入がまったく別の意味を持っていることに、我々観客は無関心ではいられない。
二度目の侵入の時、布でくるんだ鳩を老人は自分の胸元に抱きしめる。

『隠された記憶』や『白いリボン』など近年の作品に象徴的だったように
ミステリーはミステリーとして棚上げされ、問題解決には至らない。
今作でも老い先短い老夫婦のその後は、巧妙にも二通りの見解で提示される。
一つ目は冒頭の警察と消防の侵入場面に明らかだろう。
もう一つの結論はクライマックスで提示されたあの美しい老夫婦の日常の場面であり
何てことない日常の描写に不覚にも涙が溢れた。

確かに今作のタッチは明らかにシリアスで重い。
それでもこれまでのハネケの陰湿なまでのバッド・エンドとは明らかに何かが違う。
愚直なまでに老夫婦が直面する現実と向き合った考えさせられる作品である。

【第188回】『白いリボン』(ミヒャエル・ハネケ/2009)


ハネケのフィルモグラフィにおいて初めてのモノクロ映画であり、
『71フラグメンツ』や『カフカの「城」』以来のアンサンブル・プレイによる群像劇である。

舞台は第二次世界大戦直前の北ドイツの小さな村で始まる。
映画は冒頭、診察帰りのドクター(ライナー・ボック)が自宅前に張られた針金のせいで落馬し、入院する。
これまでのハネケの映画の中でも最も不穏なオープニングでスタートする。

そのドクターの落馬事故による入院から、小さな村の中で次々と不思議な出来事が起こる。
男爵(ウルリッヒ・トゥクール)の家の納屋の床が抜け、小作人(ブランコ・サマロフスキー)の妻が亡くなる。
男爵家で行われた収穫祭の宴と同時刻に、小作人の長男マックスは、男爵家のキャベツ畑を荒らしていた。
その夜、男爵家の長男ジギが行方不明になり、杖でぶたれ逆さ吊りの状態で見つかる。
後日、男爵夫人は子供たちを連れ、実家のあるイタリアに一度家族を逃がす。

これらのエピソードは明らかに何らかの因果関係を持っているかのように描かれる。
目には目を歯には歯をのように、様々な憎悪が複雑に絡み合い憎しみの連鎖は起きる。
小さな村はハネケ作品における「階級社会」を反映するコミュニティとして機能する。
村を実質支配しているのは男爵であり、彼が小作人家族を抑圧している。
ハネケ映画ではしばしばこの「階級闘争」や「人種差別」が元になり、
世界は一つの球体として奇妙なバランスを持って描かれる。
その絶妙なバランスに誰かがヒビを入れ、球体は割れていく。
率直に言ってハネケの映画は常にこういう抑圧やストレス下に置かれた弱いものが
最後に球体のバランスそのものをぶち壊してしまう。

今作において僅かに小作人の親子が出て来るものの、
残りの大人たちは全て聖人のような職業に就く人物として描かれる。
ドクター、牧師、男爵など本来聖人君主であるべき大人たちがみんな罪を犯し、心に闇を抱えている。
ドクターは助産婦と不倫関係を続けており、
牧師は子供達の抱える闇に薄々気付いているが真相を暴こうとしない。
男爵は自分の家族をイタリアに帰省させ、その間に男爵家の納屋で火事が起こり
焼け跡から小作人の遺体が見つかる。
彼ら聖人君主であるべき人間たちが一様にダーティな部分を持っていると設定されているところも
この村の抑圧状態の不穏さや暗さを物語る。

前作『隠された記憶』でも象徴的だったように、ミステリーは全てを未消化のままでそこに残される。
『隠された記憶』では我々観客は最後まで誰がビデオテープを送った犯人なのかわからない。
当初の目的は、誰がどういう目的で自分たちを監視した映像を送りつけていたのかだったが
いつの間にか主人公はその犯人の姿に無頓着になり、
従来のミステリーとしては有り得ない犯人不明のまま物語は終わっていく。

今作も前作『隠された記憶』同様、ドクターの自宅前に針金を張った人間も
小作人の妻を不慮の死に見せかけて殺した人間も、ジギを宙づりにした人間も
ここで起きた事件の何もかもが、何一つ犯人が明かされないまま終わってしまう。

ただラストに一応の主人公であり、物語の語り部として現れた教師があたりをつけたように
おそらく幾つかの事件は子供達が犯人だと思って間違いないし、ハネケもそのように演出している。
それでもこれはあくまでミステリーではなく、抑圧が渦巻く一つのコニュニティの中で起きた
様々な出来事の断片を拾い集めたものなんだとハネケは嘯く。

ハネケにとって最も描きたかったのは、「階級関係」と「人種差別」こそが
全てのヨーロッパの問題の根底にあるということであり、
それは20世紀においても21世紀においてもさほど差はないのである。

この映画の登場人物達は、たった一人語り部である教師を除き、誰一人として真実を知ろうとしない。
あるいは真実を知っていても、それと向き合おうとはしないのである。
ラストも来るべき新しい時代に明るい希望を抱きながら、神様に感謝しながら結びを迎える。

しかしながらドイツはこの数年後、世界恐慌による経済破綻により、
一気にアドルフ・ヒトラーの極右政権が誕生し、ナチスドイツの抑圧を受けることになるのだった。
皮肉といえば皮肉だが、国民全体に漂うこの不穏な抑圧体制がこの数年後には現実のものとなる。
この国民全体が口ごもる空気というのは、どこかの国の現在の空気にも近い。

『71フラグメンツ』や『カフカの「城」』の頃に比べれば、ハネケのアンサンブル・プレイは随分成長し
ショットとショットの唐突なつなぎ目は滑らかさを感じさせるようになった。
ハネケ映画は現代劇ではなく時代物になると一気に宗教性を帯び始める。
ただ途中しんしんと降る雪の描写がびっくりするくらい安っぽい。
撮影監督はクリスティアン・ベルガーだが、モノクロ映画の光の入れ方もまるでなってない場面が多々あった。
あえてモノクロにせず、映画の特徴を考えてもカラーでも良かったのではないかと思う。

【第187回】『隠された記憶』(ミヒャエル・ハネケ/2005)


人気キャスターであるジョルジュ(ダニエル・オートゥイユ)と
作家で彼の妻アン(ジュリエット・ビノシュ)、一人息子のピエロ(レスター・マクドンスキ)は、
何不自由のない優雅な生活を送っていた。
そんなある日、ジョルジュの元に送り主不明のビデオテープが届く。
そのビデオテープに映し出されたのは、ジョルジュの家の風景と家族の通勤・通学の様子で
やがてビデオテープの内容は回を追うごとに徐々にプライベートな領域へとエスカレートしてゆく。

冒頭、3分強の固定カメラで撮影された映像が不穏な空気を醸し出している。
外に出てどこから撮った映像なのか確認してみると、家の前の通りで撮影されたものであることがわかる。
いったい誰が?何のために?姿の見えない送り主の姿に怯える日々が始まる。

昨日の『タイム・オブ・ザ・ウルフ』のエントリにおいて、
ハネケ映画における「平和な空間への侵犯」について書いたが、
今作においても何者かによって監視されている恐怖が「平和な空間への侵犯」を予感させる。
犯人は21世紀においてもはや珍しくなったVHSテープというメディアを通して
彼ら核家族に物言わぬ警告を発し続ける。
最初は自宅にのみ発送されていたビデオテープがやがて主人公の勤めるTV局にも届き、
不気味な血のついた何者かが書かれた絵ハガキは一人息子の通う学校にも届く。
悪戯は徐々にエスカレートし始め、やがて主人公は子供時代のある秘密を思い出すのだった。

前作『タイム・オブ・ザ・ウルフ』においても
目を離した隙にヤギを盗まれた男は真っ先に移民の家族を疑った。
我々に置き変えてもいいが、集団というのは何か事件が起きると真っ先に誰かに疑いの目を向ける。
その疑いの目というのは常に自分たちの外側の人間や貧しい人間に対して向けられるとは言えないだろうか?
主人公もいったい誰が犯人なのかと考えた時に、
日々の忙しさの中ですっかり忘れていたアルジェリア人の少年のことを真っ先に思い出す。

子供時代、両親の元で働くあるアルジェリア人の家族がいた。
彼らはよく働き、ジョルジュの一家を支えてくれたがある政変が元で両親が突然いなくなる。
孤児になった少年マジッドに両親は情けをかけ引き取るが、
彼を極端に嫌がった幼少時代の主人公はマジッドを無理矢理、孤児院に追いやってしまう。

我々人間は常に、誰かにしてあげたことはすっかり忘れているが、誰かにされたことは覚えている。
つまりここでも主人公のジョルジュはマジッドを孤児院に追いやったことはすっかり忘れているが
マジッドの方はその幼少期の苦い思い出をずっと覚えている。

ここでもハネケ作品の共通の特徴である「人種差別」の問題が頭をもたげる。
裕福な家に生まれ、それなりの教育を受け地位と名誉を得た主人公の生活に比べて
孤児でありアルジェリアに生まれたマジッドは未だに団地の狭い部屋に押し込められている。
これは前半部分の道路で主人公が自転車の黒人と接触しそうになり、口論になる場面にも象徴されている。
我々は常に無意識下で誰かを差別しており、差別される側は憎悪やストレスを抱えているのである。

一人息子のピエロが母親の浮気を疑い、友達の家に泊まる展開はやや唐突な気がしたものの
ここに来て人間の憎悪は制御出来ないところにまで来ており、
引くに引けない主人公の憎悪に対して、マジッドはあっと驚く結末を用意する。
ここではハネケ作品の中で初めて殺人場面が観客に公開されるが、
それはむしろ残酷さではなく、事態のショッキングさを強調している。

人間同士の心のわだかまりというのは、世代間を越えて伝播する。
また人間同士というのは皮肉なことに簡単には分かりあえない。
クライマックスの据え置きのロング・ショットの中で静かに起きる葛藤こそ、
そのことを示唆した現代社会の病理そのものなのである。

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