【第633回】『山河ノスタルジア』(ジャ・ジャンクー/2015)


 1999年、山西省の都市・汾陽、カモメが寂しそうに鳴く寒空の下、フロアにはPET SHOP BOYSの『GO WEST』が大音量で流れていた。その多幸感に溢れたリズムに合わせ、龍の首のような動きを見せる若者たち。その中には小学校教師のタオ(チャオ・タオ)、彼女の後ろには幼馴染の炭鉱労働者リャンズー(リャン・ジンドン)と実業家ジンシェン(チャン・イー)がいる。3人は昔からの幼馴染で仲良しの関係で、生々しい青春時代の延長を謳歌していた。夜明けの薄明かりの中、家々の門の前で上がる花火。旧正月の日、人々は爆竹や花火で盛り上がり、無事に春節の日を迎えていた。白く煙った先から現れた朱色の獅子舞がうねるように顔を出す。リャンズーとタオが談笑する中、突然仕事で忙しいジンシェンが顔を出す。鏡を見ながら頬に触れるタオの顔を同時に2人の幼馴染が見つめている。まるでゴダールの『はなればなれに』やフランソワ・トリュフォーの『突然炎のごとく』、クロード・シャブロルの『いとこ同志』ような美しい三角関係を描いた冒頭部分。曖昧な未来への不安、過ぎ行く時代への焦燥感といった漠然とした悩みを抱えながら、1999年を順調に迎えたトライアングルは大きく崩れ始める。親友ジンシェンに、タオから身を引くように言われたリャンズーは、そう簡単にタオのことを諦めきれない。真っ赤なフォルクスワーゲン・サンタナを乗り回す新興成金のジンシェンは炭鉱を買収し、炭坑労働者だったリャンズーを追い出しに掛かる。

 少し煤けたような青色を見せる炭鉱町の空、道行く人々が黒っぽい服を着ている中、タオの着るコートの赤、獅子舞の赤、フォルクスワーゲン・サンタナの赤が極めて印象的に赤い色彩を反復する。もちろんジャ作品に通底する花火や爆竹に加え、ダイナマイトの光も重要な要素を形成する。男同士の取り合いの只中にいるタオは一触即発の事情など知る由もない。タオが父親の電気屋の店番をしている時に、男同士の不和は決定的になる。偶然立ち寄ったお客さんの父娘がカセットテープでかけたサリー・イップの『珍重』のメロディが、3人の心を否応なしに締め付ける。20世紀を迎えるにあたり、少しずつ余裕の出て来た人々の暮らし。5年遅れで流行するプログレッシブ・テクノが大音量で流れる中、ジンシェンの求愛を受けたタオは彼の胸に抱きつく。その様子に怒り心頭のリャンズーは、クラブのエントランスでジンシェンに殴りかかる。ホウ・シャオシェンの映画では都会と田舎の往来が物語とは不可分な要素として出て来たが、今作でも失意のどん底にあるリャンズーは山西省の田舎町・汾陽から河北省・邯鄲に引っ越し、上昇志向の強い実業家のジンシェンも石炭を売り払い、夢の国アメリカを目指す。タオとの間に生まれた息子は、米ドルを思わせる「ダオラー」と名付けられた。だが祖国を出た男たち2人とは対照的に、タオだけは山西省の都市・汾陽に留まる。第一部では2人の男たちのどちらかが必ず側にいたタオだが、父親の死の喪失感にやられる母親になったタオの側には息子の姿はない。天涯孤独なヒロインの姿が胸を締め付ける。

 これまでのジャ・ジャンクー作品同様に、登場人物3人の背景には、急速な経済成長を遂げようとする中国の現在がある。フォルクスワーゲン・サンタナのハンドルを握ったタオは運転を誤り、この地に遥か昔に埋められた石碑にぶつかり止まる。黄河の向こうには建設中の大型ビルが拡がり、炭鉱前の砂利道は今にも舗装されるのを待っている。生々しい手つかずの自然と人工的な建築物との対比が、物語の詩情を紡ぐ。街を離れる者がいれば、そこに留まり続ける者もいる。人々の青春模様、生と死、成功と挫折などを全て呑み込むように、広大な黄河は悠久の時を流れ続ける。1999年、2014年、2025年という3つに区分された物語を、ユー・リクゥアイのカメラはそれぞれ1999年をスタンダード・サイズ、2014年をアメリカン・ビスタ・サイズ、2025年をスコープ・サイズで切り取る。そして幸福だった第1部から順を追いながら、怖いもの無しだった彼らの野心はやがて虚空の中に飲み込まれる。タオもリャンズーもダオラーも、第3部ではダオラーの心を優しく包み込んだミア(シルビア・チャン)もみな、挫折や敗北感を噛み締めながら生きている。アメリカン・ドリームを追い求めた父親に親権を奪われたダオラーは、皮肉にも祖国の言葉を奪われている。カセットテープ、イヤフォン、アナログレコードで3度流れるサリー・イップの『珍重』の調べ、リャンズーが投げ捨てたカギとタオがダオラーに渡したカギ、文峰塔のロング・ショット、煤けた青色の空に上がるオレンジの花火、芝色の草むらの中に停まったクリーム色の車のロング・ショット、夕陽に彩られた煙突の煙など、幾つもの詩情溢れる印象的なショット群。タオが広東語で「波」の意味だと息子が初めて気付いた時、オーストラリアの波音は愛の喪失を抱えながら、さざ波のようにゆっくりと寄せては返す。

【第198回】『罪の手ざわり』(ジャ・ジャンクー/2013)


ジャ・ジャンクーは一貫して急激に成長を遂げる中国社会や中国経済の中で
もがき苦しみながらもひたむきに生きる中国の最底辺の人たちを描写してきた。
それぞれの映画の設定は山西省の都市、大同だったり、北京にある世界公園だったり
長江の谷底にある三峡だったり、四川だったり中国の様々な地域に目を向けながら
そこで生きた人々の暮らしを真摯に見守る眼差しの確かさこそがジャンクーのジャンクーたる所以である。

とはいえ今作を映画館で初めて観たときには、あまりの変貌ぶりに驚いてしまった。
その根底にある弱者への視点は変わらない。変わったのはその映画スタイルである。
冒頭、一人の無表情な男がバイクに乗ってどこかへ向かっている。
このオープニングは『青の稲妻』とよく似ているが、後ろから男を襲う若者たちが現れたとき、
いきなり男は彼らに向かって拳銃を発砲するのである。
男は何人かの人間を殺めるも、一人の男を取り逃がす。
その男を後ろから追い、背中に向けて一発の弾丸を発射する。
開巻直後、我々はジャ・ジャンクーの有り得ない暴力描写にしばし固まる。
これまで一発のガン・ショットもナイフによるアクションも登場しなかった作家の
突然の暴力の解禁にこそ、この映画の意外性が詰まっている。

映画は一人の主人公ではなく、四人の男女の罪をアンサンブル・プレイではなくオムニバス形式で描く。

一人目、ダーハイは山西省・烏金山(ウージンシャン)に暮らす炭鉱夫。
彼は村の共同所有だった炭鉱の利益が、同級生の実業家・ジャオによって独占され、
村長はその口止めに賄賂をもらっているのではないかと疑い、大きな怒りを抱いている。
「お前を訴えてやる」とジャオに伝えたダーハイは、ジャオの手下たちによって暴行され、大けがを負う。
街の広場で演じられていた古典演劇「水滸伝」の主人公、林冲(リン・チュウ)の「憤怒により、剣を抜き」
という言葉に自らの思いを重ねるダーハイ。帰宅したダーハイは猟銃を持って、役人たちのもとへと向かう。

ここで描かれる暴力は孤独な男の復讐劇である。
貧富の格差が広がり、賄賂が横行している中国では、こういう搾取が見えないところで行われている。
彼はその不公平さを是正しようと正義感で動くものの、ジャオの手下によって袋叩きにあう。
地面に突っ伏した姿をゴルフのスウィングのように豪快に殴られたダーハイは
たった一人で彼らを皆殺しにしようと猟銃を持ち出し、殺しのハントを始める。

この方法論は思いっきりアメリカ映画の復讐劇そのものである。
生きる尊厳を踏み躙られた男が、たった一人で敵のアジトへ向かう。
口封じのためにもらった賄賂も彼をなだめる証にはならない。
村長を殺し、村長の妻を殺し、ゴルフと揶揄う男を殺し、ジャオも躊躇なく殺す。
それも至近距離から猟銃で弾を打ち込む残虐さで彼は自らの復讐を成し遂げるのである。

ここで馬に鞭打つ農家の男まで殺すのがジャ・ジャンクー流であり、
皆殺しの現場に駆け付けたパトカーの一群と反対側へ歩いていく馬が暴力の余韻を伝える。

二人目、重慶に妻と子を残し出稼ぎのため村を出たチョウが、正月と母親の誕生祝いにあわせて帰省した。
「三男が帰ってきた!」という村人の声とともにチョウが帰ってくると、
チョウの妻と幼い息子は複雑な表情で彼を迎える。
「送金を受け取ったわ。13万人民元。最後のは山西からだった」
「武漢(ウーハン)で稼いで、山西から送ったんだ」
出稼ぎとはいえ、各地から大金を振り込んでくる夫を怪しむ妻は、そっと夫のデイパックを開き、
銃の弾倉を見つけてしまう。さらにそれぞれ行き先の違う切符を発見した妻は、
「広州に行くの? それとも宜昌? 南寧? この村にいたらいいじゃない」とつぶやく。
彼女は夫が何の仕事をして大金を送ってくるのか、ただの出稼ぎではないことに気づいていた。
翌日、身支度を済ませると、チョウは街へ向かう。

ここでオープニングを彩った無表情な男が再度登場する。
妻が夫が犯罪に手を染めているのではと疑うところなんてまるっきりアメリカ映画の類型を出ない。
男の暴力に怯える息子、妻と同じく三男の行動を疑う母親の描写もあり、男は知らずに罪を重ねていく。
後半の市民を背後から撃ち殺して財布を奪う様子は残忍そのものでありなかなか正視出来ない。
けれどジャンクーの対象の人物を真摯に見つめた目が、暴力そのものを肯定も否定もせず描いている。

三人目、夜行バスで湖北省・宜昌(イーチャン)に到着した男、ヨウリャンがカフェへ向かうと、
恋人のシャオユーが待っていた。二人はもう何年もの付き合いになるが、ヨウリャンには妻がいる。
「奥さんをとるなら、私と別れて。お互いに考えて決めましょう」
話し終えて再び別れると、シャオユーは勤め先の風俗サウナに戻る。彼女はここで受付係をして働いていた。
ある日シャオユーが勤務を終えて、勤め先の未使用ルームで洗濯をしていると、
二人の男が「マッサージしろ」と部屋に入ってくる。
自分は娼婦ではない、と断るシャオユーに男たちは執拗に迫り……。

このエピソードもありきたりな類型の域を出ない凡庸なものである。
不倫するカップルのドロドロの結末なんてありとあらゆる映画で散々使い古されてきた。
飛行機に乗る前の手荷物検査で、果物ナイフが見つかり彼女が持ち帰った時点で
その後の展開がどうなるかは容易に想像がつく。
案の定、その果物ナイフが彼女に罪を背負わせることになるが、
文字通りのありふれた事件にそれ程驚きはない。

四人目、シャオユーの恋人、ヨウリャンが工場長を務める広東省の縫製工場で働く青年シャオホイは、
勤務中に別部署のスタッフに怪我をさせてしまう。
スタッフ分の給料をお前が払えと言われたシャオホイは逃げ出すように仕事を辞めてしまう。
彼が向かったのは、東莞(トングァン)。より高給な仕事に就くために、
香港や台湾からの客を相手にしたナイトクラブ「中華娯楽城」で働くことにしたのだ。
この店でシャオホイは、東莞に向かう列車の中で偶然乗り合わせたしっかり者のホステス、リェンロンと出会う。
彼女と休憩時間に話をしたり、休日一緒に出かけたりして親交を深めるうちに、
リェンロンに恋をするシャオホイ。ついに彼女に思いを告げるが、彼女には誰にも告げていない秘密があった。

風俗で働く年上の女に恋をしたり、工場で仕事をサボるうちに同僚に致命的なケガを負わせてしまうことも
ごくありきたりなエピソードであり、どこにでも転がっているアイデアである。
稼ぎの良い仕事を探そうとするのはどの国の若者でも同じであるが、
稼ぎの良い仕事はそれなりの責任もリスクも伴う。
その中で起きた悲劇に多少は同情出来ても、シャオホイの取った行動はあまりにも理解出来ない。

このごくありきたりな4つのエピソードが所詮は「パルプ・フィクション」に過ぎないことは
監督であるジャ・ジャンクーは十分に理解していたはずである。
しかしそのありきたりな「パルプ・フィクション」こそが名作の元になっていることも
ジャ・ジャンクーはきっと織り込み済みだったろう。

だとすれば近年の中国で本当に起きたありふれた「パルプ・フィクション」を
4つではなく1つに絞らなかったのだろうか?
これまでの彼のフィルモグラフィを紐解いた時、
フィクションであれフェイク・ドキュメンタリーであれ、
一つないしは二つの物語に絞ったことで、激動する中国社会から取り残される人々を凝視する目が生まれた。
それこそがジャ・ジャンクーの旨味でもあったし、そこにこそ明確な主題が隠されていたと言ってもいい。

それが今作では4つの物語を纏めたことで、
対象となる人物それぞれがしっかりと人格設定出来ておらず、やや散漫な印象は否めない。
四つ目のストーリーだけはその暴力の行方が明らかになるが
一つ目二つ目三つ目のストーリーは明らかに消化不良の感が強い。
彼らはどのように罪を償ったのか?またその罪を償おうとしているのか?
それを描かずしてこれまでのジャ・ジャンクー作品のように
彼らを激動する中国経済で孤立する者たちだとは言い切れない。

極論を言えば、賄賂をもらったり汚職をしたり、女を脅迫して自分のものにすることが罪であるならば
猟銃で至近距離から撃ち殺したり、強盗をしたり、自分の身を守るために正当防衛で刺したり、
不慮の事故で友人に大ケガを負わせてしまったことも程度の差こそされ、罪には変わらない。
つまり悪というのは常に魔が差した瞬間から生まれてしまう。
10年間ずっと悪いことをしてきた人間も、先ほどまで良い行いをしてきた人間も
罪を犯した地点からは同じ犯罪者であり、悪者に姿を変えてしまう。

今作における4つのありきたりな犯罪の理由は人それぞれではないか?
山西省の男も重慶の男も湖北省の女も広東省の男もそれぞれ別の動機で罪を犯したはずである。
それを1つの映画に強引に結び付けようとすること自体、ジャ・ジャンクーの驕りではないだろうか?

ジャンクーが暴力そのものに目を向け、アジアン・ノワールの方向に舵を切ったのは喜ばしいことだが
そのことによって彼の重要な論点はぼやけ、一つ一つの挿話も非常に曖昧なものになった。
ある意味、この映画がカンヌ国際映画祭で脚本賞を取ったことは実に皮肉な事実である。

【第197回】『四川のうた』(ジャ・ジャンクー/2008)


ジャ・ジャンクーは前作『長江哀歌』の中で
三峡ダム建設により自分たちの住む場所がなくなる人々の苦悩を
2組の家族を探す男女のフィクションに暗喩的に忍ばせた。

彼の映画においてはいつも激動する中国経済の成長に対し、
孤立していく底辺の人間たちを対比して描くことで、現代中国の抱える問題に光をあてる。
そこで行われている物語はフィクションでありながら、
彼らのいる土地や背景に広がる風景は明らかに本物であり、
CGで書き足した風景やセット撮影による嘘くささはどこにもない。
『世界』で描かれた「世界公園」はいかにもミニチュアのような嘘くささがあったが
紛れもない本物のテーマパークであり、年間来場者数は150万人を超えているという。
『長江哀歌』で描かれた三峡ダムの建設風景も本物であり、
映画内で実際に水に浸かっていた部分は今は水かさを増し、かつての面影は残していない。

ジャンクー映画の尽きせぬ魅力というのは、
この「失われた風景」をフィルムの中に閉じ込めることにある。
移ろいゆく季節、移ろいゆく時代、移ろいゆく人々をジャンクーは闊達に描写し続ける。

2007年、中国四川省・成都。
巨大国営工場「420工場」の繁栄と共にあったこの街だが
工場は50年あまりにわたる歴史に幕を閉じようとしている。
工場内のホールでは、跡地を土地開発企業に引き渡す式典が行なわれていた。
かつてこの工場で働いていた労働者たちが、それぞれの思い出をゆっくりと語り始める。

50年にわたり中国の基幹工場として栄えた巨大国営工場の閉鎖が
この街に与える影響はあまりにも大きい。
3万人の労働者が失業し、その敷地内で暮らした10万人の家族たちの故郷が失われる。
まさにここでも「失われた風景」と「失われた生活」にカメラは向けられる。
『世界』で試みられたような手持ちカメラによる機動力を生かしたショットや
役者たちの動きに連動するような躍動するカメラの動きはここにはもうない。
冒頭、「成友集団」の巨大な赤字のエンブレムが固定カメラで据えられた後、
カメラはこの工場の内部をハイ・アングルでゆっくりと切り取っていく。

各人のエピソードの一つ一つが実に生々しい。
子供を養うために必死で働いていたのに、突然解雇されてしまった修理工の中年女性。
成都に向かう船の中で子供とはぐれてしまった中年女性。
過ぎ去った青春に思いを馳せる成発グループ社長室副主任の男。
職場の花として男性労働者に大人気だったが、初恋の同僚がテスト飛行時に事故死し
まだその思いを引きずっている中年女性。
彼女たちの年輪が、420工場を巡る時代の大きなうねりの中でゆっくりと炙り出される時、
激動の時代を生きる中国の人々の苦しみや悲しさ、残酷さがこれでもかと滲む。

ただこの実際に工場で働いていた労働者へのインタビューが曲者であり、
この中には『ラスト・エンペラー』や『ツイン・ピークス』でお馴染みのジョアン・チェンや
リュイ・リーピンやチェン・ジェンビン、ジャ・ジャンクー映画のミューズであるチャオ・タオが
素人の中に巧妙に交じり、役を演じているのである。

今作はドキュメンタリーの体裁を取っているものの、フィクションとドキュメンタリーはごちゃ混ぜになり、
これまでのジャ・ジャンクー作品とは違うまったく新しいスタイルを提示する。
思えばこれまでのジャ・ジャンクーのフィルモグラフィにおいては
ある中国の現実に対して、そこに出て来る役者たちが演じるのはもっともらしいフィクションであった。
彼ら彼女らの演じる物語は、ある図式化された物語に過ぎず、
それはその土地で過ごした人物たちの真にリアルな造形描写ではなかったのである。
この事実は当然、作品の評価や好き嫌いさえも決める要因になっただろうし、
激動の中国の経済成長という現実に対して、常にフィクショナルな物語がミスマッチだったという向きもあろう。

それが今作ではいわゆるフェイク・ドキュメンタリーの手法で、
ジャンクーは420工場を巡るおよそ50年にも及ぶ歴史を浮き彫りにしようと試みるのである。
この映画をクランク・アップするまでに、当然監督には綿密なリサーチがあり、
そのリサーチの過程で何十人何百人もの人間の証言を聞いたはずである。
ただその中の取捨選択や語り手のチョイスは監督であるジャ・ジャンクーの判断でしかない。

このことが今作を非常にユニークで面白いものにしているのである。
フィクションとドキュメンタリーの曖昧な領域の中で、
時に山口百恵の歌やイギリスの作家イェイツの詩や成都を詠う古典詩が引用されることで
映画は大胆にもフィクションとドキュメンタリーの垣根を越えていく。
ここにあるのはジャンルとしてのフェイク・ドキュメンタリーではなく、
スタイルとしてのフェイク・ドキュメンタリーであり、「失われた風景」をエディットする作業に他ならない。

【第196回】『長江哀歌(エレジー)』(ジャ・ジャンクー/2006)


映画における「人探し」がかくも魅力的なのはどうしてだろう?
キアロスタミの『そして人生はつづく』、相米慎二『ションベン・ライダー』
ジム・ジャームッシュ『パリ、テキサス』、リンチ『ストレイト・ストーリー』
ただどこかの場所にあてもなく旅に出るのではなく、ある対象を見つけるために旅に出る。
誰かを探すことというのは、本質的に自分探しの旅にもなる。
そこに言い尽くせないドラマが生まれ、物語が生まれる。

長江・三峡。山西省からやってきた炭鉱夫サンミン(ハン・サンミン)は港に降り立つ。
彼は16年前に生き別れた妻と子供を探しにこの地にやってきた。
長江に来てまもなく手品師に騙され、地元のバイクの少年に金を払いかつての住所の場所へ先導してもらうも
既にその場所は水で埋まっていた。

この場面のサンミンの狼狽は察するに余りある。
搾取された3元以上に彼にとって衝撃的だったのは、
そこにあるはずの土地が既に水没しなくなっていたことであろう。
生き別れた妻と子供が生活しているはずの場所が、既に水没し地形さえも留めていない。
この街は中国共産党による国家プロジェクトである三峡ダム建設により
跡形もなく消え去り、人々が生活した記憶も思い出も何もかもが失われているのである。

今作の舞台である三峡ダムは長江中流域の湖北省宜昌市三斗坪にあるダムで
このダムの建設には16年もの歳月を要し、2009年に完成した。
ダムの建設には幾つかのメリットがあり、電力不足の中国における水力発電の確保
重慶市中心部への10000t級の大型船舶まで航行可能にした。
しかし一番重要なポイントは長江の洪水の抑制である。
ダムが出来ることにより、この地で洪水が堰き止められ大掛かりな災害が起こりにくくなった。
この三峡ダムの建設は20世紀から21世紀へと跨る中国共産党の一大国家プロジェクトであり、
まさに21世紀の中国の経済成長の象徴として内外に知れ渡っている。

しかしこのダムの建設にも必ず功と罪の両方がある。
確かにダム建設により洪水の減少、水力発電の確保、大型船舶の航行可能により
甘い汁を吸った官僚も多かったに違いない。

しかしながら貯水池として全長660㎞にも及ぶ広大な土地を切り開き、
16年にも及ぶ大掛かりな建設作業を通して、もともとここにあった街や村は崩壊した。
一説によれば140万人もの人間が強制移住を余儀なくされ、
この土地にあった村の記憶や思い出もダムが呑み込んでしまったという。
中国ではこれらの強制移住させられた人たちを三峡移民と呼んでおり、
この三峡移民の貧困層への転落は、現代中国の大きな問題となっているのである。

映画はこの地に降り立った炭鉱夫サンミンと
シェン・ホン(チャオ・タオ)という女性の人探しを同時進行で描いている。
サンミンは、しばらく三峡の街・奉節(フォンジェ)に腰を落ち着け、妻子を探すことに決める。
宿の主人が、妻の兄の居場所を教えてくれた。サンミンは義兄を訪ねる。
義兄は、サンミンの妻ヤオメイはもっと南の街で船に乗って仕事をしているという。
翌日からサンミンは、住民が移住した建物の解体作業に精を出す。

この映画でもキアロスタミの人探しの映画のように、なかなかある対象には辿り着かない。
行く先々で空振りに合い、すれ違いの描写が延々と続く。
それでも辛抱強く待ちながら、主人公は人探しを実現しようとする。
その空振りの中でサンミンが出会う人々が実に興味深い。
金を騙し取ったバイクの少年、宿泊先のオーナー、解体作業の同僚たち、体を売る女、
彼らは皆三峡ダム建設に翻弄され、自分たちの生活を奪われる底辺の人々である。

山西省から来たよそ者のサンミンにも彼らは手厚く接する。
やがてこの村で生活しながら、16年前に生き別れた妻(マー・リーチェン)の船が戻るのを待つ。
今作が普通のロード・ムービーと一線を画すのは、サンミンには余計なお金などなく
ただひたすら待つことしか出来ないのである。

シェン・ホン(チャオ・タオ)も2年間音信不通の夫グォ・ビン(リー・チュウビン)を探しに山西省からやってきた。
彼女はサンミンよりも比較的裕福であり、夫の友人トンミン(ワン・ホンウェイ)を訪ねる。
携帯電話は依然として電源が切れており、彼の立ち回りそうな場所を全て回るも一向に会えない。

サンミンもシェン・ホンもお互いのパートナーを探しに三峡に来ているが
その目的や会わなかった時間の長さはあまりにも違う。
シェン・ホンはせいぜい2年前の出来事であり、
夫に愛想付かせて離婚届にサインをしてもらうために三峡に来ている。
電話連絡が途絶えたことから、彼女は夫の浮気を疑うが、
どうやらそれが真実らしいと夫の親友や部下から聞き出す。
そのことで彼女は離婚の意思を固め、彼に思い切って切り出す。

しかしながらサンミンの場合は、事情も会わなかった時間もまるで違う。
彼は警察に婚姻を引き裂かれてから、16年も電話連絡はおろか会いにも来ていなかった。
それが偶然にも三峡ダム建設のタイミングで、遠く山西省からやって来る。
16年前に生き別れた妻(マー・リーチェン)が
今も自分を想ってくれていると思いサンミンはこの地に来たのであろうか?
そうであればあまりにも無知で残酷な夫の再会への道のりは地形的にも心情的にもあまりにも深く険しい。

彼らが闊歩する場所は、当然ながら三峡ダムが完成した今は跡形もなく消え去っている。
瓦礫の山、廃墟になった建物、水の貯まった川の水深、サンミンの宿泊先、シェン・ホンが乗ったモノレール
それら全てが幻の中からフィルムによって思いがけなく顔を現す。

思えば『プラットホーム』も『青の稲妻』も『世界』も
ジャ・ジャンクーは多分に図式的な設定の中から国家に対する個人を浮き彫りにしてきた。
彼ら彼女らはこの中国の激動の時代に乗り遅れた人間であり、
その急速なスピードの変化に付いていけなくなった彼ら彼女らは真に悲劇的な結末を迎えた。

それが今作では今は失われた場所や思い出の視座に立って、
社会の底辺でもがく人間の視点から国家への眼差しを向けようとしている。
これまでの映画とは一転して上流と下流の対比構造は逆になり、
風刺的ではなく真にリアルな情景から物語を紡ごうとしている。

最初の「人探し」に話を戻せば、今作においては本来なら感動的に見える場面が
あまりにも淡々と何の感動もなく描写される。
それは2年のブランクがあるシェン・ホンよりも16年の月日が経ったサンミンの方が苦しい。
なぜ16年迎えに来なかったのかという妻の叫びはあまりにも痛い、痛過ぎる。

そして今作では初めて国家権力の中枢にいる人物を描写している。
シェン・ホンが夫の友人であるトンミンと夜の盛り場に繰り出した場面である。
ここで陸橋の夜間のライティングに文句をつけた男は、おそらくここの有力者に違いない。
これまで北京の住民はおろか、共産党の人間すら描いてこなかったジャ・ジャンクーが
初めて権力の中枢にいる人間を描いた。

それと共にジャンクーは三峡ダム建設という一大国家プロジェクトの影で
人知れず命を落とした名もない青年の姿もしっかりと描写している。
中国が急速な経済発展を遂げ、世界の中で存在感を発揮する中、
その影で多くの人間が使い捨てられ、多くの人間の物語が突然失われる。
ここには確かに中国経済の繁栄の功と罪が両方息づいているのである。

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