【第207回】『ある過去の行方』(アスガー・ファルハディ/2013)


アスガー・ファルハディの映画においては、集団の中に放り込まれた1人の人間が、その集団の崩壊を予見する。『彼女が消えた浜辺』では友人・知人が集まるヴァカンスにエリという名の1人の知らない女性が入ることで、集団に波風が立つ。『別離』ではある夫婦とその娘とアルツハイマーの父親の4人家族の妻が抜け、そこに家政婦を雇うことで家族の在り方は崩壊寸前の様相を呈する。今作でもその1人の人間が集団に入り込むことで、ゆっくりとバランスが崩壊していく。

フランス人のシングルマザー、マリー=アンヌ(ベレニス・ベジョ)は夫と別れて4年、正式な離婚手続きをとるため、今はテヘランで暮らすアーマド(アリ・モッサファ)をパリに呼びよせる。アーマドがかつて妻や娘と過ごした家を訪れると、そこではマリー=アンヌの新しい恋人サミール(タハール・ラヒム)親子との新生活が始まっていた。だが、マリー=アンヌとサミールが再婚する予定だと聞かされたアーマドは、彼らの間に不穏な空気を感じ取る。冒頭、アーマドがシャルル・ド・ゴール空港に降り立った時、マリー=アンヌが防音ガラス越しに一生懸命何かをアピールしている。その声は防音ガラスでまったく聞こえないが、元妻の身振り手振りのジェスチャーに気付いたアーマドはガラス越しに彼女に近づいていく。ジェスチャーは互いに言葉を発する形に変わるが、別れて4年経過した間柄でも元夫婦はしっかりとコミュニケーションを円滑に進めていく。何かを暗示するかのような導入部分である。

車で家まで向かう道中、彼は曲がる方向を間違えそうになる。この辺りの4年の経過の細かな描写が非常に気が利いている。かつて生活していたパリの思い出をなぞるように家に向かうとそこには見たことのない少年がいる。アーマドにとってテヘランでの4年間があり、マリー=アンヌにとってもパリでの4年間の歳月が経過したことを一瞬で伝える素晴らしい描写である。その男の子の背景にはアーマドの知らない4年間があり、優しく子煩悩な男はその事実をすぐには受け止められないでいる。これまでのファルハディの作品同様に、今作でも男はテヘランで生活することを望むが、女たちはイランの外での生活を望む。実際にマリー=アンヌはパリで生活しアーマドはイランのテヘランへと戻るのである。

マリー=アンヌの生活には既に新しい男がいるが、アーマドはそうとは知らずにこの家に転がり込む。そこからこの家には2人の父親が存在し、どちらもギクシャクとした生活がスタートする。やがて長女リュシー(ポリーヌ・ビュルレ)の本音を聞き出して欲しいと言われたアーマドはそこで衝撃的な秘密の告白を聞くことになり、その秘密が突如物語の中にサスペンスを立ちのぼらせる。ここからはファルハディの真骨頂とも言うべき引き締まった群像劇の妙が展開するわけだが、これまでの二作に比べるとやや心許ない。それはアーマドとサミールがそれぞれ別行動だからに他ならない。ファルハディの描くサスペンスは、各々が集合する地点にサスペンスが立ち込めることに一番の旨味があったと言える。それが今作では2つの力が別々に行動したため、摩擦も軋轢も苦悩も葛藤も全てが半分に割れてしまった印象がある。

あとは子供達の演出にも『別離』にあった細やかな演出が足りない。『別離』では雇用主と労働者それぞれの子供達が親とは違う円滑なコミュニケーションを取るが、ラストの冷たい視線にそれぞれの境遇の差が滲んでいた。今作にはそういう奇跡のような瞬間はない。とはいえラスト・シーンの命の尊厳にはやはり泣かされた。最後の最後まで妻の存在を隠し通したからこその再会の場面の美しさだった。よくよく考えれば愛する夫の不倫を知りながら、その落胆をひた隠しにし、最終的には生死の淵を彷徨う妻への謝罪としてはやや納得がいかない部分もあるものの、シリアスなドラマの中で唯一光が射すような結びとなった。

前二作のクオリティには及ばないものの、ファルハディは圧倒的に脚本が素晴らしい。イランの作家の見つめるイスラムという魅力を失いつつも、国際的な名声を勝ち得るためにはイラン国外に出て、海外資本でどんどん映画を撮るべきであろう。

【第206回】『別離』(アスガー・ファルハディ/2011)


 アスガー・ファルハディは前作『彼女が消えた浜辺』において、婚約者がいながら、ドイツ在住のイラン人男性と知り合う女性の不貞を描いた。今作ではある一組の家族が描かれるが、冒頭既に夫と妻は離婚調停中であり、妻は国外での生活を望んでいる。夫の仕事は順調であり、テヘランにある住居は明らかに裕福で、娘は学校で勉学に励み、一見何不自由のない生活に見えるが、妻は頑なに国外への移住を計画している。この2作に共通するのはファルハディ映画に登場する女性たちがしばしばイランから国外への逃亡を希望している点である。テヘランのような都心部に住んでいるわりと裕福な人間にとっても、この国で見られる景色は限られている。

これは日本に置き換えても同様であろう。田舎で生まれ育ったものは東京や名古屋や福岡などの大都市を目指す。しかしながら東京や神奈川で生まれ育った人たちは海外への留学を目標とする人が本当に多い。人は常にそこではないどこかに憧れている。ましてやイランに住む女性たちが、この国の将来に不安を感じ、抑圧されるイスラム社会から抜け出したいと考えていることは彼女たちにとってごくごく当たり前の願望なのである。

イスラム教の厳格な社会は日本とは違って離婚が少ないと考えるのは早計である。イランにおける離婚率はここ数10年で急増しており、2000年の約5万組から2010年には約15万組に達した。これはおよそ3倍のペースで増え続けており、社会問題として深刻化している。妻シミン(レイラ・ハタミ)と夫ナデル(ペイマン・モアディ)は結婚して14年、
11歳になる娘テルメー(サリナ・ファルハディ)とナデルの父の4人暮らしだが既に夫ナデルと妻シミンの関係は破綻を迎えている。関係の冷え切った夫婦と、その2人の関係を取り持とうと涙ぐましい努力をする娘の構図は相米慎二『お引越し』の関係性と大差ない。

娘の将来を案じたシミンは国外移住を計画し、1年半かけて許可を得たものの、ナデルの父がアルツハイマー病を患ったことが大きな誤算となる。介護の必要な父を残して国を出ることはできないと主張するナデルと、たとえ離婚してでも国外移住を希望するシミンは対立。話し合いは裁判所に持ち込まれるが、離婚は認めても娘の国外移住は認めないと、ナデルが譲らなかったため、協議は物別れに。これを機にシミンは、しばらく実家で過ごすこととなる。シミンが実家に帰ったことで、ナデルはお手伝いを雇う必要に迫られる。そこで、家の掃除と父の介護のために、ラジエー(サレー・バヤト)という女性を雇う。母親の不在を埋めるためにお金で雇った家政婦の女性が、やがてあっと驚く家族の不和に関わってくる。

この映画の脚本が真に見事なのは、家族の再生と崩壊の物語に、まったく別の角度から突如、別のレイヤーを物語の構造に斜めから入れている点である。夫と妻の不和や娘の関係修復のための涙ぐましい努力だけでは、所詮一つの家族の物語からは逸脱しない。だからこそファルハディは多少強引ではあるが、父親の介護のために人を雇った雇い主と労働者の間にあっと驚くような不和を仕掛けるのである。

ある日、ナデルとテルメーが帰宅するとラジエーの姿はなく、ベッドに手を縛りつけられた父が倒れ、気絶しているところを発見。ラジエーはほどなくして戻ってくるが、頭に血が上ったナデルは事情も聞かず、彼女を手荒く追い出す。その晩、ラジエーが病院に入院したことを知ったナデルは、シミンと一緒に様子を見に行き、彼女が流産したことを聞かされる。これにより、ナデルは19週目の胎児を殺した“殺人罪”で告訴されてしまう。

ここに来て主人公である夫ナデルは容疑者となり、家族の崩壊への可能性は一気に高まる。映画は実にシリアスなサスペンスの様相を呈し、そこで繰り広げられる強烈な言葉のボクシングが真に緊迫した場面を醸造する。ここで重要なのは誰がどこで「嘘」を付き、どんな「名誉」や「尊厳」を傷つけられたかである。前作同様に登場人物たちが軽はずみでついた嘘が相手側の逆鱗に触れ、簡単には覆せないところまでこじれていく。

これまでのイラン映画の傾向として昨日述べたような非職業俳優の起用やドキュメンタリーとフィクションの曖昧な境界線や寓話性の強い物語構造などが主な特徴として挙げられたが、今作はイランではなく、どこの国で起きてもおかしくない問題を扱っていることに注目すべきである。夫婦の離婚、介護や格差社会、信仰や倫理に関わる立場の相違、果ては司法の在り方まであえてイスラムだけに限定される問題ではなく、我々の身近で起きてもおかしくない問題を扱うことでアスガー・ファルハディの映画はイランという国境を悠々と越えていく。

しかしながらイラン映画らしい厳格なイスラム教の教えとその矛盾を提示する些細なディテイルの演出が本当に素晴らしい。例えば家政婦が粗相をした父親の服を着替えさせてもいいのか電話で確認を取る場面やナデルがテルメーのチップ払いを返してもらうように命令する場面などイランの生活に根ざした特異な場面を強調することで、イランという国の持つ問題を浮き彫りにする。

クライマックスなんて、まさにイラン映画らしい宗教観に彩られた衝撃的な場面が展開する。イスラムの人にとって「嘘」というのは何よりも重い罪であり、「嘘」で取り繕った言葉を発した瞬間に、自分の「名誉」や「尊厳」さえも傷つけてしまうのである。ラストのテルメーの涙は一体何を意味するのか?一体どちらを選択したのか?アスガー・ファルハディはあえて観客にそれを提示せず、観客一人一人に考えさせようとするのである。カメラのスタイルは前作以上に『ロゼッタ』スタイルで、ドキュメンタリー・タッチの手持ちカメラの臨場感が極めて重厚な脚本と絡み合う。

明らかにダルデンヌ兄弟以降の作家ながら、イランから世界に打って出た世界標準の傑作に違いない。

【第205回】『彼女が消えた浜辺』(アスガー・ファルハディ/2009)


これまで我々が観てきた多くのイラン映画に共通する特徴として、非職業俳優の起用、フィクションとドキュメンタリーの曖昧な境界線、寓話性の強いシンプルな物語などが挙げられると思う。それは時に子供達を主人公に据え、彼らに困難な状況設定を与えることでそれを乗り越えようとする子供達の葛藤をフィクションとドキュメンタリーの曖昧な境界線の中で描く。結果そのことで我々は現代イランが抱える様々な問題点を嗅ぎ取り、今日のイランと我々の生きる日本の現在との差異を感じ、その表現の根源的差異に魅了される。アッバス・キアロスタミを筆頭にして、イラン映画の大方の作品はそのような特色を持っていた。しかしながら今作は、それらかつてのイラン映画の持っていた特色とは別の魅力を帯びている。職業俳優による何回の台詞の多い群像劇は、むしろイラン映画が持っていたプリミティブな魅力に反する。

テヘランからほど近いカスピ海の沿岸のリゾート地。セピデー(ゴルシフテェ・ファラハニー)は大学時代の友人たちに声を掛け、3日間のヴァカンスを過ごしに来る。メンバーはドイツでドイツ女性と離婚したアーマド(シャハブ・ホセイニ)、その妹ナジーと夫マヌチュール、セピデーの友人ショーレ(メリッラ・ザレイ)と夫ペイマンと子供たち、セピデーの子供が通う保育園の先生エリ(タラネ・アリシュスティ)。セピデーはこの旅行を、エリとアーマドの出会いの場にしようと計画していた。セピデー以外のメンバーとは初対面のエリだったが、皆が彼女の美しさと聡明さに触れ、彼女を温かく迎え入れた。セピデーが予約していたヴィラは手違いで満室となっており、海辺の朽ちかけた別荘に案内される。別荘は何年も使われていなかったが、そのロケーションに誰もが夢中になり、休暇を楽しむ。

映画は冒頭、ヴァカンスに向かう車中の楽しそうな風景を切り取る。この設定だけならキアロスタミの諸作で見慣れた光景だが、ファルハディは短いショットを小刻みに積み重ねていく。物語に登場するのは全てイラン人であるが、これが白人や黒人ならば欧米映画と言われてもおかしくない。アメリカであれば、この導入部分は明らかにホラー映画の王道パターンである。避暑地に向かってヴァカンス旅行に出た複数のカップルがホテルに断られ、イレギュラーな洋館に泊まる。浮かれ気分の若者たちが一人ずつ犠牲になる絵が浮かぶが、今作はそういうありきたりな展開とは別の様相を呈し始める。

海辺の朽ちかけた別荘についても彼らの乱痴気騒ぎは収まる気配がない。正直、イスラムの人たちがここまで欧米人と遜色ないライフスタイルを持っているのかと多少驚いたが、彼らの雰囲気にただ一人エリだけは馴染むことが出来ない。皆で楽しく話している時彼女の顔は曇り、調味料を取りに行った先でしばらく動こうとしない。今作は群像劇でありながら、そこに安易に乗ろうとしないエリの異様な行動がピックアップされる。そんな彼女の様子をみんなが特異に思うも、あまり気に留めていない。

2日目の朝、エリは1泊の予定だったので帰りたいとセピデーに申し出る。アーマドとの関係がまだ深まっていないことに焦ったセピデーは、強引に彼女を引き止める。エリは思い詰めた様子で、海を見つめるのだった。男たちがビーチバレーに興じ、女たちが食事の支度をしていると、ショーレとペイマンの子アラーシュが海で溺れてしまう。アラーシュは助けられ、九死に一生を得るが、そのときエリが消えていることに気づく。海難救助隊が出動しても、エリの行方はわからなかった。彼女の痕跡はどこにも残っておらず、彼女の正式な名前すら誰も知らなかった。やがて明らかになる真実にセピデーと友人たちは苦悩し始める。

彼らの乱痴気騒ぎは一つの事件をきっかけにして収まる。まさに天国から地獄へ、楽しいはずのヴァカンスが重苦しい雰囲気に包まれていく。エリは海に向かったのか?それとも勝手に一人で家まで帰ったのか?最後のエリの姿を見なかった誰もが疑心暗鬼に陥り、互いが互いを責める。人間というのはこういう極限状態になった時、必ず自分ではない他者を責める。エリを誘ったのはセビデーであるが、それぞれが罪をなすり合い、一気に別荘の雰囲気は険悪になる。ファルハディはこういう人間の極限の描写が実に巧い。男女の違い、家族の違い、それぞれの立場の違いを明らかにしながら、一人一人の心の中に波風を立てる。彼らの狼狽の理由を暴きながら、エリは一体何者なのかを少しずつ明らかにしていく。

彼らの良好に見えた人間関係は、エリの失踪事件により音を立てて崩れていく。人間同士は簡単に疑心暗鬼に陥り、簡単に良好な関係が一瞬にして険悪な雰囲気になるということを、いとも簡単に描写してみせたファルハディの脚本に痺れる。ここには一発の銃声も大きな爆発もありはしない。それでも一人の人間の失踪から真に上質なサスペンスが取り出せることをアスガー・ファルハディは高らかに宣言する。思いがけずついてしまったたった一つの嘘が、思いもよらぬ現実に繋がってしまう。そんな当たり前の事実にファルハディは観客を巻き込んでいく。そこに登場するのはエリの兄貴を自称した彼女の婚約者であり、彼らが何気なくついてしまった軽い嘘が、やがて時限爆弾のように大きくなっていくのである。ちょっとしたボタンのかけ違いが、やがて収拾のつかない事件を巻き起こすというあまりにも秀逸な脚本の妙がそこにある。

クライマックスの婚約している事実をエリが開示してここへ来たのか?それとも秘密にしてここへ来たのか?の問いかけはイスラム人婚約者の度量の狭さでは判断出来ないイスラム社会の婚姻制度に対する厳格な視点が横たわっている。これまでのエントリでも述べて来たように、イスラム社会では常に女性軽視とも言うべきイスラムの戒律がそこにある。イスラム社会において「不貞」がどれ程罪の重い事態であるかを想像し、考えなければ、この映画をしっかりと理解することは出来ない。エリの持っていたあのカラフルなルイヴィトンのバッグも、婚約者がいながらドイツから出て来たバツイチの男性に対し、素性を隠してヴァカンスに参加したことも、エリにとっては女性としてよりよく生きるための欲望でしかないのである。欧米人と同じように女性としての自立を目指す彼女の精一杯の抵抗に違いない。そしてエリのそういう抵抗をセビデーも後押ししながら、彼女の判断は最悪な結果となって、彼女と周りの人間の元にブーメランのように跳ね返ってくるのである。

アスガー・ファルハディは我々が気づかなかったミニマムな物語構造の中に、イランの現状やイスラムの女性の悲劇を巧妙に忍ばせる。その卓越した群像劇の作法にはただただ舌を巻くばかりである。驚くべき処女作であり、イラン映画の新たな夜明けを高らかに宣言する傑作である。

このカテゴリーに該当する記事はありません。