【第393回】『メニルモンタン 2つの秋と3つの冬』(セバスチャン・ベベデール/2013)


 パリ20区のカルチェ・コードの一番末尾、郊外に程近い観光客もめったに訪れない高台に位置する町メニルモンタン。かつてはジャック・ベッケルの『肉体の冠』、アルベール・ラモリスの『赤い風船』の舞台にも設定されたこの町である朝、男は1つの決意を持ってジョギングへと繰り出す。それはまるで今までの足踏みだらけだった人生を、再び前に進めるための運動であり、見えない何かを掴むための助走のようなものとなる。主人公はボルドーの美大を卒業したものの、33歳にして定職にはついていない。日本でも文系軽視&理系重視の傾向があるが、フランスでも同様なのだ。30代という一番の働き盛りの年齢にも関わらず、暇を持て余した男は一念発起して3つの目標を立てる。「仕事を見つける」「運動を始める」「タバコをやめる」一見どれも簡単そうに見えるが、人生につまづいてしまった人間には極めて難しい課題である。まずは運動を始めようとフランスの町中を走り出したところに、運命の出会いが待っている。アルマンという男(ヴァンサン・マケーニュ)は出会い頭にぶつかりそうになったジョギング中の女性アメリ(モード・ウィラー)に恋をする。男は早くも運命の出会いを意識し、オレンジ色のTシャツにベージュのパーカーというコーディネートをやめ、翌日にはadidasの三本線のスポーツウェアを用意して朝のコースに立つ。明らかに運命の女性を物色しながらジョギングするが、残念ながら出会うことがない。翌々日も運命の人を意識し、NEW WAVEというよりもB-BOYを意識したファッションでまたしてもジョギングコースに現れるが、見つけることが出来ない。運命の恋と思ったのは自分だけの勘違いだったのかと思った矢先、あっと驚くようなシチュエーションで再会を果たす。朝の木漏れ日の下のジョギング・コースから一転し、オレンジ色の街灯と石畳に彩られた夜の街の静けさの中で女性の悲鳴のような声を聞いた主人公は、道幅の狭い暗い夜道を恐る恐る悲鳴の聞こえた方向へと進んで行く。こうして2人の再会の場面はほろ苦いものとなるが、それでも少しずつ2人の距離は縮まっていく。

映画は導入部分からアルマンとアメリの独白形式で物語が進んで行く。そのわかりやすい語りの形式からは、1つ1つのシークエンスがまるで日記のような柔らかい筆致に区切られた印象を受ける。ショットと台詞の主従関係で言えば、明らかに台詞の方が主であり、映像は台詞(独白)に付随したものにしか過ぎない。それを端的に現した場面こそが、夜の暗い裏路地に入る先ほどの場面である。何も説明が無ければ、一定以上のスリルを感じるような場面なのだが、アルマンの説明調の言葉がこれから続くショットを説明してしまうため、緊迫感を感じることはない。自分の情けない生き方を悔い改めようとジョギングをする。そこで綺麗な女性に目を奪われる。女に好かれるために毎日異なる服装でめかしこむ。これら些細な動機や欲求に彩られた当たり前の日常の描写や些細な行動の積み重ねは、率直に言ってあまり映画的ではない。映画にするにはもっと大それたミッションやドラマが必要だと誰しもが思うだろうが、その凡庸さこそが監督であるセバスチャン・ベベデールの意図であり、目指すポイントなのである。朴訥な語りの緩慢なリズム、寄せては返す波のようにあまり進展しない恋の行方、当初はアルマンとアメリのシンプルな2人の恋物語に見えた今作に、ゆっくりとアルマンの親友バンジャマン(バスティアン・ブイヨン)やその恋人カティア(オドレイ・バスティアン)が顔を出し、しまいにはカティアの自殺志願者の従兄弟の挿話までもが姿を現し、楽団のような不思議なアンサンブルを繰り広げるのである。運命の人を守るために暴漢に刺される。生まれてこのかた病気を患ったことのない男が突然意識を失い路上に倒れる。ゴシック・バンドのボーカルとして一見華やかな男が、恋人との関係を憂い、自死を試みる。この世界の中で誰よりも劣って見えた主人公だが、実は周りの人間も同じように些細なことに悩み、とんでもない事故や想定外の事態を抱えて苦しんでいる。そしてその苦しみの先にはまた、なんてことない日常が転がっているのだ。その平凡な無限ループの只中に若者たちはいるのである。

私はスクリーン鑑賞前に日本版予告編を観てしまっていたせいで、ロベール・ブレッソンの『白夜』のポスターが貼ってある部屋で、彼女に「ブレッソンを見ていたら君を思い出したんだ」と呟き、デートに誘う何ともロマンチックで印象的な場面から、ヌーヴェルヴァーグのようなもう少し動きのあるドラマチックな映画を想起していたが、残念ながらドラマ自体はずっと低体温のまま進んで行く。どちらかと言えば本家のフランス・ヌーヴェルヴァーグよりもアメリカ「マンブル・コア派」に表現形式としては近い。ヌーヴェルヴァーグと聞いて条件反射的にゴダールやジャック・ロジェのような瑞々しいショット群を想像するときっと肩透かしを食らうだろう。記述スタイルこそロメールに似ているが、エモーションに訴えかけてくるような人間の躍動する姿はほとんど見られない。それでも淡々とした語りの中に時折、人間の本質が垣間見えるような男と女のやりとりが心地よい。例えば4人でのチーズフォンデュを囲んだ何気ない食事会の場面。雪山登山で体力のある3人に置いていかれ、彼ら3人の背中を呆然と眺め、尻餅をつき泣き出すアメリの描写など、淡々とした中にも些細な波風が隠れており、単純な喜怒哀楽では済まされない感情の起伏を上手く表現している。思えばフランス映画において、ラブ・シーンやSEXシーンはおろか、ヒロインのヌードさえ出てこない作品をあまり観ることがない。

『わたしたちの宣戦布告』でも目立っていた感じの良い好青年のバスティアン・ブイヨンも素晴らしいが、何と言っても平凡過ぎるアルマンを演じたヴァンサン・マケーニュの存在感が素晴らしい。広がったおでこ、失礼ながらすっかり禿げ上がった頭、顎だけに留まらず頬までびっしり生えそろった不潔な無精髭、ぽっちゃりしたお腹。およそ主演とは思えない出で立ちの役者を一躍スターダムに押し上げたのは、フランスの新鋭ギヨーム・ブラックによる短編『遭難者』、『女っ気なし』、長編『やさしい人』である。いまフランスで冴えない男の役をやらせたら、ヴァンサン・マケーニュの右に出るものはいないだろう。それは昨年一部で話題となったミア・ハンセン=ラヴの『Eden』の主人公の友達役の圧倒的な存在感も例外ではない。彼にはルイ・ガレルのような美しさと気品、ヴァンサン・カッセルのような粗暴さ、マチュー・アマルリックのようなインテリジェンスもまるで持ちあわせていないが、だからこそ彼にしか出来ない役をしっかりとモノにしている印象がある。まるで70年代のジェラール・ドパルデュー登場時のような愛らしさと吸引力を持った、フランス映画界要注目の魅力的な役者である。そういうアルマンとバンジャマンの男優陣の多彩さに対して、モード・ウィラーとオドレイ・バスティアンら女性陣があまり魅力的な女性に見えないのは何とも残念だった。残念ながらギヨーム・ブラックのような突出した才能は感じないが、今後も追いかけたい監督ではある。

【第210回】『蜂蜜』(セミフ・カプランオール/2010)


 冒頭、森の中に据え置かれたカメラがラクダと共に森に入る一人の男性を映す。男はある木にあたりをつけ、ロープを地上からかなりの高さの枝に巻きつけ、ゆっくりと木を登るが、残酷にも木の枝はミシミシと音を立て落下する一瞬前を木の上から据える。この不穏なショットで始まる物語は、カプランオールの『ユスフ三部作』のフィナーレのファースト・シーンである。このあっけない事故による死がユスフの家族の運命を変え、人生さえも変えてしまう。大人期を綴った『卵』と思春期を綴った『ミルク』を経て、遂に映画はユスフの少年期の物語へと退行する。

幼いユスフ(ボラ・アルタシュ)は、手つかずの森林に囲まれた人里離れた山岳に両親と共に住んでいる。養蜂家の父、ヤクプ(エクダル・ベシクチオール)は、森深くにある高い木のてっぺんに仕掛けた特製の巣箱で黒蜂蜜の養蜂を行って生計を立てていた。ユスフにとって、森は神秘に満ちたおとぎの国で、父と森で過ごす時間が大好きだった。木漏れ日の眩しさで、目を伏せたくなるくらい高いところで仕事をしている父を、ユスフは憧憬にも似た眼差しで見つめる。

ユスフ少年にとって父親というのは最も偉大な人物であり、尊敬すべき人物としてそこにいる。『ミルク』でも明らかだったが、ユスフは幼い頃から母親よりも父親の方が好きだったのだ。父親の仕事についていき、その働きぶりを始終眺め、食卓でも父親とアイコンタクトで会話する。その際母親の姿はどういうわけかユスフの目には入らない。

幼少期からユスフ特有の感情がしっかりと芽生えていることに驚く。学校では友達に馴染めず、極度のアガリ症で吃音という病を発症し、学校に居場所がない。彼は文章の意味も発音もしっかり頭に入っているが、どういうわけか皆の前で言葉を発することが出来ない。それが父親の前では不思議とスラスラと物事を話すことが出来る。ユスフにとって父親とはこの世の中で唯一気兼ねなく話せる人間であり、彼の成長には必要不可欠な存在として描かれている。

にもかかわらず、ユスフ少年と父親との突然の別れが訪れる。蜂を探すために深い森の中に入った父親はいつまでたっても家に帰ってこない。父親の旅立ちからユスフ少年の言葉は失われ、まったく声を発さなくなる。何日も何日もユスフは父親の帰りを待ちわびるが、父は帰らない。母親の焦燥感と共に、父親にまとわりついた死のイメージを取り払おうとするユスフ少年の描写が素晴らしい。バケツに映った満月、窓から見る景色、風にたなびく森、うっすらと曖昧に聞こえる蜂の羽音ユスフは父親の夢は絶対に人に話してはならないという教えを頑なに守るが、母親が夢の話を聞かせようとしたことで、すぐに部屋を飛び出し走り去る。

クライマックスの祭りと大黒柱を失ったヤクプ家の対比がまた素晴らしい。祭りの喧騒と大人数の中を母親は必死にヤクプの姿を探そうとするがどこにも彼の姿はない。伏線に張られたよくできましたバッジの存在が真に慟哭する瞬間を否応なしに提示する。ヤクプの死により、ユスフ少年は言葉を取り戻すあまりにも霊的な名場面である。無邪気に躍動する幼年期の身体は、言いようもない悲しみの瞬間を目撃する。

今作はカプランオールの自伝的三部作として製作されながら、それぞれの印象はまるで別個の様相を呈している。三本連続で見れば、ユスフ少年を取り巻く個々の事情がわかるが、一本ごとの映画はしっかりとそれ一本で成立しうる世界観と力のあるショットを誇っている。ただこの三本を続けて観た時に純粋な疑問として感じたのは、なぜ退行する時間を描いたのかということである。私はストレートに『蜂蜜』から入り、『ミルク』を撮り、『卵』を撮るという正攻法の時間の流れの方が観客に伝わりやすかったのではないかと思う。

とはいえ2010年代に突入し、ヨーロッパから遂に突出した才能が現れたという部分には異論がない。ミヒャエル・ハネケ、ダルデンヌ兄弟、ラース・フォン・トリアー、アルノー・デプレシャン、これら21世紀のヨーロッパ映画の潮流のどこにも属さない、真にオリジナリティを持った作家の登場をようやく伝える「ユスフ三部作」の圧倒的クオリティにしばし驚嘆した。セミフ・カプランオールはヌリ・ビルゲ・ジェイランと共に、トルコ映画の新しい時代をいま高らかに宣言する。

【第209回】『ミルク』(セミフ・カプランオール/2008)


 友人連中に「ユセフ三部作」の甲乙を聞くと、見事にバラバラな答えが返って来る。それだけこの3本の映画の切り口や行き着く先は真に独創的であり、他のヨーロッパ映画の何物にも似ていない不思議な魅力を放っている。

高校を卒業したばかりのユスフは、何よりも詩を書くことが好きで、書いた詩のいくつかを文学雑誌で発表し始めている。しかし彼の書く詩も、母親のゼーラと共に営んでいる牛乳屋も二人の生活の足しにはなっていない。そんな中、母と町の駅長との親密な関係を目にしたユスフは当惑する。これがきっかけとなり、また幼少期の病気のせいで兵役に不適と判定されたこともあって、急に大人になることが不安になってしまうユスフ。果たして彼は、大人への一歩を踏み出すことができるのだろか……。

ユスフ三部作の二作目にして、既におっさんになりはてていた一作目のユスフから思春期まで退行した三部作の第二弾。冒頭、何やら物書きに夢中になる老人が視界の隅に3人の男女を見つける。3人に視線を合わせることなく蒔きを持たせた老人は、宙吊りにした女性の口から大蛇を取り出すことに成功する。セミフ・カプランオールの映画においては登場人物たちはみな寡黙で一人もおしゃべりが出て来ない。静か過ぎる静けさの中で、クローズ・アップで据えられたショットは何よりも強度を放つ。音楽も余計な演出もないシンプルな物語に一気に引き込まれていく。

ユスフ少年は奥手で自らの気持ちも上手く表現出来ず、思いを詩に込めることしか出来ない。彼は牛乳屋で僅かばかりの生計を立てながら、詩人になることを夢見ているのである。牛乳の配達はしっかりやるけれど、車のメンテナンスなどのこちら側の事情にはあまり興味を示さない。おそらく他の人たちは高校を卒業するタイミングで就職して夢を諦めるのだろうが、ユスフ青年は決して夢を諦めようとはしない。

今作の骨子となるエピソードは次作『蜂蜜』における幼少期の牛乳嫌いのエピソードが今作に呼応している。彼は牛乳屋という職業を天職だとは考えておらず、外の世界を夢見ている。生活のために茶摘みから牛乳屋に転身した母親とは、決して交わることはないビジョンの差異が来たるべき展開を予感させる。

彼の夢を後押しするように見えた母親が突然、母親の役割を放棄する。その瞬間に感づいてしまう思春期のユセフ少年が実にいじましく映る。ユスフ少年は真実を知ってしまった時、牛乳屋の配達の途中であるが、彼の牛乳配達は一向に進むことなく、最後には癲癇の発作による交通事故であっけなく終わりを告げる。そこからは母親の痕跡を追いかけるように、悲しみに繋がる無慈悲な追いかけっこが始まるのである。

癲癇の発作からスピリチュアルな瞬間に達する一連の流れはカプランオールの真骨頂である。ユスフ少年は自ら迷宮の中に押し入り、そこで現実とは違う霊的な体験をする。『お引越し』の田畑智子が両親の離婚で森の中を彷徨い歩くうちに無理矢理に成長の機会を迎えたように、今作でもユスフ少年は大人に対する一抹の不安と希望を抱えながら、徐々に大人へとなっていくのである。

それにしても映画の中で綴られる物語には毎回感心する。人間の記憶というのは本来こういう断片的なものであり、大きな物語には繋がらないものである。その時の温度や湿度や風向きは覚えていても、なかなか台詞までは覚えていない。自伝的物語を設定する際、普通は美談で物語を埋めようとするのだが、セミフ・カプランオールはあえてそれをしない。だからこそ断片と断片はしっかりとつながることなく、ぶっきらぼうにくっついていく。それこそがセミフ・カプランオールの強度であり、旨味につながっているのである。余談だがこのメリヒ・セルチュクという主人公、トルコ人ながらハリウッドの若手俳優ジェイク・ギレンホールに非常に容姿が似ている。

メリヒ・セルチュク
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【第208回】『卵』(セミフ・カプランオール/2007)


セミフ・カプランオールの映画を知ったのは『蜂蜜』がベルリン映画祭を制した時で、その『蜂蜜』の公開に併せて旧作2本が出揃い、「ユスフ三部作」として公開されたのは記憶に新しい。確か4年ほど前だったと思うが、友人たちが当時カプランオールの映画を凄いと騒ぎ始め、遅ればせながら劇場で3作を続けて観た時には相当ぶっ飛んだものである。

今やヌリ・ビルゲ・ジェイランと並び、現代ヨーロッパ映画を代表する監督として、21世紀のシネフィルの期待を一手に担う監督だがコピーライターから撮影助手を経て、映画の世界に入ったいわゆる叩き上げの監督として知られている。94年から『Şehnaz Tango』というテレビ・シリーズの全52話の監督・脚本を全て手掛けたというんだからとてつもない偉業である。テレビの仕事はスピルバーグだってコッポラだってキャメロンだって黒沢清だってやっているが多くの場合、製作総指揮のみや脚本のみであったり、ミニ・シリーズだったりでおよそ3年あまりの期間に52本もの作品を脚本・監督したことは、彼の世界観の構築にとってあまりにも大きな役割を果たしただろうことは容易に想像がつく。テレビの時代をアマチュア・ボクシングに例えるながら、映画界に進出した時点で52本ものキャリアを重ねてデビューしたいわゆるアマチュア・エリートの部類に属する恐るべき叩き上げの才能である。

今作『卵』はいわゆる「ユスフ三部作」のパート1として本国で封切られた。カプランオールの自伝的物語を描写した三部作は青年期から思春期へ、思春期から幼年期へと徐々に時間が退行していく不思議な物語である。イスタンブールで暮らす詩人のユスフは、母親の死の知らせを受け、何年も帰っていなかった故郷に帰る。古びた家に帰るとアイラという美しい少女が彼を待っていた。ユスフは、5年間、母の面倒を見てくれていたというアイラの存在を知らず、アイラは母の遺言をユスフに告げる。遺言を聞いたユスフは遺言を実行する為に旅に出る。失われていた記憶が甦ってくる。それは、ユスフ自身のルーツを辿る旅となった……。

退行する物語を遡って見れば明らかなのだが、この1作目を何の知識もなしに見たら、頭の中にたくさんのクエスチョン・マークが浮かぶかもしれない。それはユスフと母親とのギクシャクした関係の理由が今作ではまったく伝えられていないからである。牛乳屋として仕事に励みながら、詩人を目指していた思春期のユスフ少年は、愛する母親に男がいると知り、母親を否定し半ば無理矢理に大人への道筋をたどっていく。あの『ミルク』の物語の延長にこの物語があるならば、母親と距離を置くために、故郷から遠く離れたイスタンブールでの生活をユスフ少年が選択したことは容易に想像がつく。

けれど彼は詩人としてスランプ状態にあり、今はしがない古本屋の店主をしている。ファースト・シーンの電話のベルと知らない女性からの伝言という不穏な空気の中で、閉店した店内に一人の女性が祝いのためにとユスフに本を見繕わせる。母親の死という悲しい瞬間と祝いという楽しい瞬間を交差させた素晴らしいファースト・シーンである。このあたりはフィナーレとなった『蜂蜜』のクライマックスの祭りの場面にも呼応する。しばらくの間会っていなかった母親の死によって、ユスフは故郷へ帰る。そこには当然思春期の頃の甘酸っぱい思い出や友情や夢や希望が充満している。都会での暮らしに慣れたユスフでも、郷里の風景は自分の原体験を否応なしに思い起こさせる。

最初は頑なに母親の葬儀を拒み続けたユスフの心に様々な心象がフラッシュバックし、張り詰めていた心にある霊的な瞬間が訪れ、あちらの世界でユスフと母親は交信する。けれどそれはトンデモ映画の方法論ではなく、真に霊的な美しい瞬間として主人公を包み込むのである。あの場面の美しさは実際に映画に触れなければわからない。本来ならば『蜂蜜』を観た後でこのシーンを観れば、父親の死と母親の死が密接な関係を持っていることに気づく。だから私は『蜂蜜』から『ミルク』へ行き、最後にこの『卵』を観ることを推奨する。この後の2作目3作目でも主人公の癲癇の発作の場面は繰り返し出て来るが、その癲癇の発作こそが主人公に異界との交信をさせる契機となるのである。そして今作において最も重要なのはサーデット・アクソイの表情に他ならない。彼氏との会話の中で、イスタンブールで勉強したいと告げる彼女の存在は2作目『ミルク』の中の思春期のユスフ少年と少しダブって見える。

今作はトルコ社会における死の悲しみと生の喜びを同時に享受し、世代から世代へとゆっくりと確実に流れていく季節を的確に描写している。ショットの構図も印象的なロング・ショットからクローズ・アップへヨーロッパ映画らしからぬ粒子の粗い映像で淡々と綴られる物語は、奇跡のような連環を成す。

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