【第450回】『独裁者と小さな孫』(モフセン・マフマルバフ/2016)


 シャンデリアのような鮮やかな光がひときわ印象的な街、ここは架空の都市。ラジオからはまた多くの一般人の処刑のニュースが繰り返される。大統領府の豪華な広間、参謀が処刑されるうちの1人は未成年で、世論の反発が怖いと告げると、大統領は将来、その男がテロの首謀者になったらどうするんだと激昂する。ソファーに腰掛けた軍服姿の大統領(ミシャ・ゴミアシュウリ)の胸には、たくさんの勲章が掲げられている。その膝の上に乗った幼い孫息子(ダチ・オルウェラシュウィリ)の姿。彼はあらかじめ大統領になることを約束されているが、あまり乗り気ではない。ソファーの傍にあるのは年代物の台座と黄金の持ち手をした豪華な電話。この受話器がホットラインとなり、電話口に指示した言葉が全て大統領の命令となるのだ。「街中の電気を消せ」その命令は瞬く間に実行され、目の前に広がるネオンに彩られた都市は一瞬にして暗闇に姿を変える。その光景に大喜びする孫。得意げになった大統領は更なる命令を繰り返すが、闇を帯びた街にもう一度光が灯ることはない。ホットラインの向こうでは電話が途切れ、けたたましい砲撃の音と光が闇の中で不気味にうごめく。かくしてクーデターは突然起こり、人々を圧政と恐怖政治で苦しめた大統領は突如、居場所を失う。

取るものも取らず、リムジンに乗り、公邸を逃げ出す家族の姿。引き下かれる孫と幼馴染マリアの絆。孫はマリアの名前を何度も叫ぶが、大階段に並べられた人柱がその余韻をかき消す。数年間口を聞いていない姉妹の不仲、此の期に及んで大統領たらんとする権力者の見苦しい姿。あまりにも皮肉な光景が繰り広げられる中、大統領は孫に対し、建設中の大統領府を指差し、あそこがお前の居場所なんだと呟く。空港にたどり着くと、ヘリコプターに家族を乗せて国外逃亡しようとするが、孫はマリアとおもちゃに執着し、言うことを聞かない。仕方なく孫とここに残ることを決めた大統領は、しばし家族に別れを告げ、再び国に戻る。しかしその運命には皮肉な展開が待ち構える。焼かれる肖像画のポスター、民衆たちの怒りのシュプレヒコール、投げられる火炎瓶、制御出来ない警察隊、黒色のリムジンと白い羊たちの俯瞰ショット。リムジンの外で繰り広げられる光景は、みるみるうちに現実感を失う。その様子を呑み込めず、ただ呆然としながら見つめる孫の姿は、スピルバーグ『太陽の帝国』によく似ている。状況の悪化に空港への退去を余儀なくされた大統領御一行は、そこで兵士たちの手のひら返しに遭い、身内を殺された大統領は孫と2人だけの逃避行を繰り広げなければならない。

多くの勲章と誇りを纏った軍服を脱ぎ、髪を切りカツラを被り、子供からギターを奪い、旅芸人に扮する大統領の転落劇は随分滑稽で皮肉だが、この逃亡劇は根源的に流転するロード・ムーヴィーとしての性質を帯びる。5歳の孫息子の純粋無垢な表情は独裁者の合わせ鏡となり、何も知らない孫息子の問いかけが元大統領を苦しめる。悪臭漂う牛舎で、寒さのあまり段ボールに包まり、手と手を握り合う姿。物悲しいギターの響きとともに、孫息子が踊る円舞曲。白いドレスにさくら色の帯をまとったマリアとのかつての思い出が、マリアという同じ名前を持つ売春婦と交差し、聖なるマリアのイメージは一転し、俗にまみれる。白いドレスを纏った新婚妻の悲劇、最愛の妻のもとへ戻った帰還兵の挫折。ここで何度も繰り返されるのは、母性を求めて失墜する男たちの姿に他ならない。孫息子が追い求めた幼馴染の名前が、イエス・キリストの母である聖母マリアと同じ名前なのは何かの偶然だろうか?今作がイラクのフセイン政権やいわゆる「アラブの春」という名の民衆デモのメタファーであることは想像に難くない。クライマックスの命を懸けたディスカッションの描写が息を呑む。その間、主人公たる元大統領は一言も言葉を発さない。無言の主人公の姿、何も知らずにただ無邪気にワルツを踊る孫の姿に我々観客が何を感じ、何を考えるのか?マフバルバフはしばし我々に問いかける。彼は現在もイランを離れ、パリで亡命生活を送っている。アフマディネジャド大統領とイラン当局に睨まれ、何度も暗殺の憂き目に遭い、自国に戻る目処は今も立たない。

【第212回】『セックスと哲学』(モフセン・マフマルバフ/2005)


 モフセン・マフバルバフはジャファル・パナヒやバフマン・ゴバディのように、あからさまな体制批判はしない、したたかな映画作家である。そのしたたかさというのはおそらく思春期の投獄体験と政治への幻滅のトラウマが根底にあるのだろう。常に体制の裏をかくような表現行動がマフバルバフの映画にはあり、誰よりも早くから国際作家への道を歩み出した。『カンダハール』や『アフガン・アルファベット』で舞台となったのはあくまでカザフスタンであってイランではない。体制は隣国の紛争に対しては寛容であり、検閲の対象にはならない。ジャファル・パナヒやバフマン・ゴバディの映画が問題なのは、イラン人によるイラン国内での問題を直接的に描くからである。

今作でもそのしたたかさは随所に見られる。一番驚いたのは印象的な口づけと抱擁シーン、牛乳風呂に浸かる女などの大胆な描写であろう。これがイラン国内でイラン人の俳優を起用し撮影されたものならば、即公開禁止の憂き目に遭うのだろうが、そういう愛の描写の数々は全てイラン国外で、外国の俳優を起用し撮影されたものであるから、検閲に引っかかることはない。つまり今作はマフバルバフが検閲による表現の規制への恐れなしに、思いっきり愛というものと正面切って向き合った映画なのである。

冒頭、車内前方に40本の白いロウソクが並べられ、火が付いている。やがて自分の思い出を盛り上げてくれるような盲目の音楽家を道で拾い、彼の演奏を肴に男はゆっくりと独白を始める。詩人のジョーンは40歳の誕生日、4人の恋人たちを午後2時に教室へと呼び出す。鍵は秘密の場所に隠され、自分と男だけの秘密だと思っていた女性たちだが、既にそこには別の女がいた。

あまりにも大胆な導入部分に一気に惹きつけられる。なぜ合鍵が4本あったのかは我々は知る由もないが 笑、女たちはジョーンの誕生日を祝おうと純粋な気持ちで教室へと入るが、そこには既に別の女性がいて彼女たちは一瞬怯む。私たちはなぜ同時にこの場に呼ばれたのか想像出来ないが、恋が終わる予感は4人それぞれが同時に持つことになる。フィクションとドキュメンタリーの境界線が非常に曖昧で、演劇性の強い物語が展開していく。普通は女同士が4人鉢合わせになれば、敵意剥き出しの喧嘩が繰り広げられるが、女たちは一切そのような行動をしない。喜怒哀楽の「怒」の感情はどこかに捨て去られ、独特の哀しみだけが詩情としてそこへ残る。4人の女と1人の男の修羅場であるはずの空間では、既に午後のダンス・レッスンが始まっており、多数の生徒たちの中で先生を演じようとする男の姿はある種異様に映る。

その後4人それぞれに終わった愛の回想が始まる。少し前に紹介した井口奈己監督の『ニシノユキヒコの恋と冒険』ではそれぞれの女性とニシノユキヒコとの恋の始まりだけが異様に丁寧に描写されていたが、今作はそのスタンスとは真逆でたったいま終わる恋というものを丁寧に描写し、恋愛中のエピソードは断片的にしか語られない。1人目の女性はCAであり、空の旅の途中で2人は運命的な出会いを果たす。出会いのきっかけだけは申し訳程度に描写されるが、それ以外は記憶の中で散り散りになった断片のみであり、それは2人目の女性との挿話が象徴している。ロシア人の彼女とワインを呑んだ後、真に印象的な口づけが始まる。互いの口元だけがクローズ・アップで提示され、唇に触れるか触れないかその寸前までの口づけがセクシュアルで実に生々しい。

1人目2人目の描写を丁寧にし過ぎたせいで、3人目4人目の女性の描写がやや粗雑に描写されるのは残念だが、3人目の女性との別離の場面は、今作でもハイライトと言えるようなカメラの動きが印象的な名場面である。100mにも及ぶ2人の歩みを空から据えたカメラはいったいどうやって撮ったのかと思うような機動力を駆使する。男は最初傘を持ったまま、女とは別の方向に歩き出すが、やがて何を思ったのか突発的に引き返し、女に傘を届ける。

その傘の色にも明らかなように、今作はワイン・レッドの色味が印象的にスクリーンを彩る。ロング・コート、蓄音機、一輪の花、傘、グラスに注がれるワイン、それら全てがワイン・レッドで統一されることで、画面に張りが漲り、女性たちの喜怒哀楽を意気揚々と伝えるかのようである。今作は物語というよりはマフマルバフの想いを登場人物たちに語らせた寓話的フィクションであり、ポエトリーである。だからこそストーリー・ラインとしては弱いが、何よりも審美的ショットの数々に目を凝らして観れば、マフマルバフの意図が見えて来る。

【第211回】『カンダハール』(モフセン・マフマルバフ/2011)


イスラム国家においてはどこにいても身の安全は保証されない。特に国境の付近ではいつ何時どんな危険に遭うかもわからず、そこら中には地雷が埋められている。そんなところに主人公はたった一人で侵入し、生き別れた妹を探そうとする。

今作のタイトルにもなっている「カンダハール」はアフガニスタンの都市であり、アフガニスタン紛争の際には戦闘の舞台にもなった場所である。アフガニスタン人民民主党政権に対するムジャーヒディーンの蜂起から、1979年にソビエト連邦が軍事介入を行い、約10年間この地を占領下に置く。このアフガン侵攻とイラン・イラク戦争により、イスラムの地は今もなお紛争地帯として広く知られている。冷戦の時代では旧ソ連とアメリカ多国籍軍が相反する図式となり、アメリカのCIAはムジャーヒディーンを後方支援し、KGBが指揮する人民民主党政権と衝突した。この戦争は冷戦構造を下敷きにしたアメリカと旧ソ連の代理戦争の様相を呈し、死ななくてもいい現地のアフガニスタン人やムジャーヒディーンたちが命を落とした。その数は一説には3万人を越えるとも言われている。

1989年に旧ソ連軍が完全撤退してから、カンダハールの自治はアフガニスタンに委ねられる。しかしながら戦争の爪痕は至る所にあり、地雷を踏んで片足を失う者、あるいは両足を切断する者もいた。キアロスタミと並ぶイラン映画の巨匠であるモフセン・マフマルバフは若い時イスラム主義に傾倒し、15歳で当時の体制を打倒するための地下活動に参加し投獄される。彼はイランにおいて、カザフスタンにおけるムジャーヒディーンのような組織に属していた。もしイランがカザフスタンのような紛争を引き起こし、東西冷戦の代理戦争の様相を呈していたならば、彼はおそらく最前線で戦う兵士となっていたに違いないのである。マフマルバフが短期間で釈放されたのは、1979年のイラン革命が大きな理由として挙げられる。この時イランで起こったあらゆる物事の自由化にマフマルバフは助けられ、彼は政治の世界から足を洗い、映画監督へと転身するのである。

つまり今作においてマフマルバフが描きたかったのは、カザフスタンにおける彼なりのイスラム主義運動の総括に他ならない。この映画の中で主人公を重要な局面で助けることになる、かつて兵士として旧ソ連軍と対峙し、戦火をくぐって渋とく生きてきた闇医者は、当時のマフマルバフの思いを汲む人物として登場するのである。

アフガニスタンからカナダに亡命した女性ジャーナリストのナファス(ニルファー・パズィラ)は、ある日、地雷で片足を失ったため祖国に残した妹から、20世紀最後の皆既日食の前に自殺するつもりだという絶望の手紙を受け取った。日食まであと3日、ナファスはカンダハールの街に住む妹を救うため、イランからアフガニスタンの国境を越える。彼女はイラン国境のアフガン難民で神学校を放校された少年ハク(サドュー・ティモリー)、ソ連と戦うためにアフガンに来ながらも今は住民の診療を続けるブラック・ムスリムのアメリカ人サヒブ(ハッサン・タンタイ)らと交流しつつ旅を続け、タリバンの教育、女性差別に飢餓と貧困、地雷問題など、アフガニスタンの厳しい現実を目の当たりにしていく。

まずは冒頭の空撮シーンに凄さに目を奪われる。一面砂が拡がるアフガニスタンの国境沿いには丘陵な砂地が幾重にも連なっている。地上には片足あるいは両足を失った人たちが松葉杖を掲げてヘリに向かい、何やらアピールしている。この描写が後半部分の伏線として重要な意味を持って来る。主人公であるナファスは妹の自死するという報せを受け、妹に自死を思い留まらせようと、亡命したカナダからアフガンへと向かう。アフガニスタンの国境を越えるパスポートが取れず、かの地へ向かうには徒歩で砂漠地帯を越えるしかないのだが、ナファスの意思は固い。最初はイラン人の第四の妻を装い、アフガニスタンの国境へ向かうもイラン人一家は身の危険を感じ、イランへと逃げ帰る。

それでもハクという少年を介し、何とか砂漠を渡りカンダハールに近づこうと無謀な挑戦に出るナファスだが、途中見つけた人骨に怯え、井戸水で体調を崩し、闇医者の世話になる。ここで万事休すかに見えたロード・ムーヴィーであるが、
マフマルバフの思いを汲む人物であり、分身のような闇医者が彼女を国境線沿いに案内する。アメリカから旧ソ連との戦闘のために派遣されたいわゆる冷戦構造の犠牲者である兵士が、紛争後も神様に近づくためにアメリカには帰らず、イランに隠れ、今は町医者として腕をふるっている。

アフガニスタンにおいては、イランのチャドルよりも厳格なブルカという衣装を身に纏っている。女性たちは夫以外の男性に肌を見せることを許されないため、ブルカのような完全武装の衣服をつけることを課されているのである。まるで日本の虚無僧のような異様な風貌が目に焼き付いて離れない。それ以上に異様なのが、患者が医者にも直接かかれないことである。彼女たちは自分の子供や身近な男性を介してしか、男性医師と会話することを許されない。仕切りのように張られた真っ黒な布から、かろうじて目や口や耳が見えるくらいの穴が開いており、そこから医者は病気を判断するのである。この異様さに思わず息を呑む。

中盤に出てきた赤十字の義足引換所で起こるやりとりのシリアスな現実は遠く離れた先進国に住む我々にとって、真にセンセーショナルな場面となる。1年がかりで作ってもらった義足が金儲けのためだけにに彼らを騙す者の手に渡り、本当に必要な人の手には届かないという皮肉な状況をマフバルバフはセミ・ドキュメンタリー形式で描写する。クライマックスの花嫁を祝う隊列のブルカが異様な雰囲気を伝える。拘束されれば間違いなく射殺される緊迫の場面で、果たして彼女は無事脱出出来たのか否か?いずれにせよ、彼女がカンダハールに入るまでは、今後も幾多の困難が予想される。

おそらく今作のスタンスをイラン国内で踏襲すれば、時のイラン国家の検閲は免れなかったに違いない。しかしながらアフガニスタンという隣国の物語を扱った時には、イラン政府の検閲は弱まる。マフマルバフはそこに自分が描きたかった世界を強引にねじ込もうとしている。今作は21世紀初頭に生まれた最もシリアスなロード・ムーヴィーであり、現代イスラムの問題の本質とも密接にリンクする21世紀のイラン映画の傑作であることに異論はない。

現在もアフガニスタンから隣国イランには、毎年多くの難民が政情不安のため亡命しているのである。ヨーロッパに流入するシリアからの難民の問題も、根っこの部分はほぼ同じである。彼らは国に絶望し、生きるために海を渡り、無情にもその船の水難で命を落とす。あのむごたらしい現実は今作から14年を経てもまるで変わらない。そのことに対し、もはや我々も無関心ではいられないのである。

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