【第220回】『幻の薔薇』(アモス・ギタイ/2009)


 これまでのエントリで述べてきたように、アモス・ギタイのフィルモグラフィというのは、常に戦禍の影響を避けずにはいられなかった。それは直接的にはイスラエル建国の歴史から60年あまり経過しても、いがみ合う関係が残り続け、そのことが主人公の身に危機となって降りかかる。当初は戦争そのものを描いてきたが、やがて巧妙に戦争の爪跡を忍ばせるロード・ムーヴィーに帰結したことはこれまで何度も述べてきた。それこそがアモス・ギタイの唯一の武器であり、旨味であるかのように思われていた。

しかしながら今作は、イスラエルにおけるユダヤ人とパレスチナ人の憎悪も、レバノンにおけるフリー・ゾーンの中で起きる事件もそこにはない。舞台は戦争の影響を脱しようとするフランスのパリの華やかな世界に移り、フランスを離れ、異国を目指すことはまったくない。そこにあるのは貴族のような生活を夢見た女と、自分の研究のために慎ましく生きた金持ちの男の淡いメロドラマである。

戦争から開放され、マージョリー(レア・セドゥ)はパリに出て美容サロンで働き始める。バラ栽培の研究者ダニエル(グレゴワール・ルプランス=ランゲ)と出会い結婚、念願のアパルトマンを手に入れる。美しいものに囲まれた理想の結婚生活を求め、贅沢な家具や家電を買い漁り、真っ赤なスポーツカーを乗り回す。いつしか借金地獄にどっぷりとつかっていき、田舎での静かな生活を望む保守的なダニエルとの間に、決定的な亀裂を生じ始める。

今作を決定づけているのは、オリヴィエ・アサイヤス、アルノー・デプレシャン、2000年以降のアラン・レネとタッグを組んだエリック・ゴーティエのカメラであろう。彼の人物の動きを据えたカメラの瑞々しい動きが、マージョリーとダニエルの蜜月から破滅までをダイナミックに描き出す。その視点はまるでヌーヴェルヴァーグのような輝きに満ちているのである。動く対象をしっかりと把握しながら、空間の中の個を強烈に想起させる流麗なカメラワークはアモス・ギタイと組んだ今作でも変わらない。

その自由奔放で流麗なカメラの動きの中で、自由奔放に振る舞うレア・セドゥが非常に素晴らしい。彼女の表情からは独特の憂いが感じられ、影のある女を見事に好演している。ベッドに横たわる姿にはセドゥ独特の退廃する女の美しさがある。彼女の退廃感や背徳感は若手女優の中では圧倒的な熱量を誇っている。彼女の人物描写が男には走らず、ひたすら浪費一辺倒という設定もなかなか効いている。

思えばアモス・ギタイは、これまでのフィルモグラフィにおいても、歴史の断片を切り取り、そこにある種のリアリティとダイナミズムを刻み込むことにかけては非常に優れた作家だった。今作においてもドイツの圧政に苦しめられた混乱の時代から解放され、フランスの女性たちは皆一様に美に対して、貪欲になるだけの時間的余裕も経済的余裕も持っていた。そういう時代の些細な描写の積み重ねが非常に素晴らしい。日本における高度経済成長の時代のように、勤勉に働きさえすれば、誰もが国の成長を実感出来た時代の中で、見栄と虚飾の世界で上っ面だけで生きていこうとする女と、決して金持ちであることを誇ることなく、田舎での暮らしを夢見る男とではあまりにも価値観が違い過ぎる。そのことを克明に描写した中盤のキスのくだりが実に巧い。

彼らの婚姻生活は冒頭から不穏な空気を帯び、その空気を解消出来ないままやがて崩壊していく。この緩やかに崩壊していく様子を滑らかに描くことが、メロドラマの作家としての良し悪しを決める。メロドラマにおいては、常に物事は突発的に滑り台のように急角度で落ちていくのではなく、ガラスに入った一筋の日々が徐々に幾重にも重なり、崩壊へと向かう。ギタイはそのきっかけに、自分より仕事は出来ず、容姿がない1人息子を支える1人の年増の女性を持ってくる。職場における主人公と年増の女性の立ち位置をゆっくりと描写しながら、この女性がやがて夫婦の崩壊のきっかけになる。観客はこの女性の危険さを理解するものの、レア・セドゥだけは遂に気付かない。

気付かないといえば、夫の実家の薔薇園に一泊した翌朝、鏡の前でクリームを二の腕、豊満な乳房、腹部に塗り、軽くマッサージするシーン。バラ苗を買いに来た客が彼女の存在に気づき窓越しに見とれるが、義父が「息子の嫁ですよ。見るだけにしてくださいよ」と軽口をたたき、やんわりたしなめる。この場面にも明らかなように、レア・セドゥは常に無防備でどこかしら隙がある。彼女の存在はファム・ファタールにもなれず、良き妻にもなれず、もがき苦しむ。クライマックスの産婦人科での女性の自立を謳う女性医師に対して、一度は自立の道を歩むかに見えた彼女が、やはり同じところに戻り、苦しむクライマックスの描写が容赦ない。ロゼッタ・スタイルの延長とも言えるようなカメラの動きは、エリック・ゴーティエとしては決して本意ではなかったはずである。しかしながらその禁欲的な部屋でのカメラワークが、ラストの真に躍動するカメラワークに繋がるのである。

率直に言って、アモス・ギタイの女性描写の巧さには驚いた。ゴリゴリの戦争映画の作り手や政治的手法を前面に押し出した映画の作り手というのは、得てして女性の描写が凡庸になりがちであるが、ギタイの描写からは女性の生きることへの意識や愚かさが同時に滲む。イスラエル人とアラブ人、パレスチナ人の対立や入植者ともともと住んでいた現地人の対立をバックにしたギタイの対立構造が、ここに来て一気に庶民の生活へとトレースされる。思えばここ数作はナタリー・ポートマン、ジュリエット・ビノシュ、レア・セイドゥと国際派女優を主演に据えることで、バジェットの面でも出資国の面でもイスラエルから脱し、ヨーロッパの辺境から作品を制作することに活路を見出している。

もはやフランスの映画作家でも誰もなし得ない純粋なヌーヴェルヴァーグへの思いが全開なギタイのフィルムが、恥ずかしくもあり、純粋に羨ましくもある。イスラエルに突如現れた増村保造スタイルに苦笑いを禁じ得ない。けれそその苦笑いの矛先はすこぶる調子良い。今後アモス・ギタイのフィルモグラフィが元の鞘に収まるのか、それともヌーヴェルヴァーグのような小品にジャンプ・アップするのか?これからも目が離せない。

【第219回】『撤退』(アモス・ギタイ/2007)


 アモス・ギタイの映画は常に我々を物語の根底にあるイスラエルの悲しい歴史へと挑発する。今作は2005年に起こったイスラエルのガザ地区撤退を背景としている。ガザ地区は1967年の第3次中東戦争により、イスラエルの占領下となり、ユダヤ人入植地の永続化がなされてきた。これは我が国における北方領土の問題に置き換えてみるとわかりやすい。そこではイスラエル軍が常駐し、時にミサイルを落とすなどの手荒な行動を行っていた。しかし故シャロン首相の提言により、パレスチナへの強硬姿勢を示していたイスラエルが態度を軟化させた。この行動は当時のアメリカ大統領であったブッシュにも好意的に支持され、2005年のガザ地区撤退へ至る。ギタイの映画はある程度イスラエルの歴史への予備知識がないと、理解するのは難しい。今作もガザ地区撤退の流れを踏まえた上で観ることをオススメする。

冒頭、列車に乗った男がすれ違った女にタバコを1本ねだる。女はオランダ製の巻き紙が良いかフランス製の巻き紙が良いか尋ねる。このファースト・シーンに象徴的なように、国籍というのは複雑であり、自分の祖先を辿れば、ユダヤ人だったり、イスラエル人だったり、アラブ人がたくさんいるのがわかる。このことは『フリー・ゾーン』に登場する3人の女性の国籍の違いを思い出すとわかりやすい。1990年代にはイスラエルの歴史を描くために、イスラエルという国を出ることがなかったアモス・ギタイが『フリー・ゾーン』ではレバノンに飛び、今作ではフランスへ向かう列車に乗り、より広い行動範囲に及ぶ。監督は広い視野でこの国籍の問題に対してメスを入れる。オランダ国籍の女はそこでオランダ語を話すようにフランス人の車掌に強要され、言われなき詰問を受ける。それだけ本国の人間は他国から入ってくる人間の動向に敏感なのである。

やがてフランスのアビニョンで列車を降りた男ウリ(リロン・レヴォ)は、養子に迎えてくれた裕福な父の葬儀に参列するためにこの地を訪れる。フランスにあるブルジョワジーの屋敷には父を亡くしたばかりのアナ(ジュリエット・ビノシュ)がおり、彼女に優しく迎えられる。このアナとウリの再会の場面を起点とした前半部分は、大女優ジュリエット・ビノシュの独壇場といっても良い。父の死により、所在なき思いに駆られる場面に始まり、ウリとの再会の場面では少女のような喜びを見せる。この躁鬱病のようなかなり危なっかしい人物を天才ビノシュは熱演する。時には全裸になり、壁の陰からウリに豊満な裸体をチラチラ見せたり、葬儀に参列した人たちに余裕たっぷりの笑顔を見せるなど、喜怒哀楽のスイッチが縦横無尽に動き回る。挙げ句の果てには帰りのウリに高層階の窓から、「すぐ行くから待ってて」と二度絶叫する情緒不安定ささえ見せるのである。ジュリエット・ビノシュの独演会が見たければ、今作はかなりオススメ出来る。

このフランスからガザ地区への道程は、アモス・ギタイお得意の「ロード・ムーヴィー」の様相を呈する。ウリは軍隊でもなかなか偉い立場に就いているようだが、国境の警備はやはり『フリー・ゾーン』同様に非常に厳しく物々しい。それでも何とかガザ地区に入ることの出来たジュリエット・ビノシュはそこで生き別れた娘を探す。後半のシリアスな展開になると、ビノシュは途端に感情を押し殺し、シリアスな芝居に徹する。この辺りの緩急がビノシュの大女優たる所以だろう。彼女は焦燥感を抱えながら、やがて子供達と遊ぶ娘の姿を見つける。この再会の場面は、ウリとの再会とはまた違う感慨を我々観客に抱かせる。前半とは打って変わり、ビノシュの抑えた演技が非常に上手い。彼女は父親の遺言を伝えるためにこの地へやってきたと言う。しかし彼女にはそれ以上の娘への思いがあるはずであり、それを彼女は必死に押し殺しているのである。

ここからはアナとウリが平行描写され、ガザ地区撤退の意味合いは徐々に苛烈さを極める。アナの思い、娘の思いに対し、ウリの公人としての任務という矛盾した対立関係がドキュメンタリー風の長回しの中で繰り広げられる。『フリー・ゾーン』の前半10分間のナタリー・ポートマンのクローズ・アップ長回しに象徴的だったように、今作で繰り広げられるスペクタクルの良し悪しを判断するのは我々観客の裁量に他ならない。アモス・ギタイの作るフィクションは「もっともらしい嘘」であり、意図的に明確なアナ、娘、ウリの3人の対立ポジションを作り出そうとしているのは否めない。しかしながら今作の根底に流れている政治的背景はイスラエルをめぐる紛れもない事実であって、ギタイの作り出すフィクションではない。そのドキュメンタリーとフィクションの境界線の危うさこそがアモス・ギタイ映画の魅力なのである。

【第218回】『フリー・ゾーン』(アモス・ギタイ/2005)


 アモス・ギタイの映画はイスラエルに端を発する中東諸国の情勢不安と常に密接に関わっている。『キプールの記憶』ではシリアがイスラエルに侵攻し、第四次中東戦争が起こる様子を自らの青年期の実体験として描いた。『ケドマ 戦禍の起源』ではそのタイトル通り、イスラエルの建国の歴史に目を向ける。ヨーロッパでの重い迫害から逃れようとパレスチナの地に船でやって来たユダヤ人たちが、上陸しエルサレムを目指す。このことが今日まで続くイスラエルとパレスチナの紛争の火種となるのである。

この政治的メッセージとは裏腹に、アモス・ギタイの映画にはもう一つの特徴がある。それはジャンルとしての「ロード・ムーヴィー」の信奉者であり、記号論としての「ロード・ムーヴィー」の語り手としての側面である。『キプールの記憶』を例に挙げれば、冒頭2人の若者を乗せた車がシリアへの国境線上へ向かうも、危ないからUターンしろと兵士の命令を受ける。この時既にシリアやエジプトからの一団がイスラエルに奇襲をかけており、進路を断たれた2人の若者は仕方なしにイスラエル側に戻る。そこから先の輸送者としてのミッションも「ロード・ムーヴィー」とは無縁ではない。彼らの乗るヘリコプターは野戦病院から戦場へと駆り出され、そこで負傷兵を収容し再び帰路へ飛ぶ。

『ケドマ 戦禍の起源』では映画は冒頭、パレスチナへ向かう海の上の船上にいる。彼らはヨーロッパから迫害を逃れるために見知らぬ土地であるパレスチナを目指す。上陸早々、イギリス軍の銃撃にさらされるが、そこから逃れたユダヤ人たちはルートもない中を、それぞれの方法で徒歩でエルサレムを目指す。このように2つの映画では、主人公はある地点から様々な乗り物を使いながら移動し、ある地点を目指す。その物語は決して楽しい旅ではないが、楽しい物語ばかりが「ロード・ムーヴィー」とは限らないのである。

今作もその方法論からは外れない決して楽しくない「ロード・ムーヴィー」である。ユダヤ系アメリカ人のレベッカ(ナタリー・ポートマン)はエルサレムに数ヶ月住んでいたが、イスラエル人の恋人と婚約を破棄し、ユダヤ人女性のハンナ(ハンナ・ラズロ)のタクシーに乗り込む。ハンナは用があると言ってレベッカを降ろそうとするが彼女は降りず、やむなく共にヨルダンに向かうことになる。ハンナはパレスチナ軍のロケットで負傷した夫の代わりに、ヨルダン、イラク、サウジアラビアの国境にあるフリーゾーンへ、貸した金を返してもらいに行く用があった。フリーゾーンに到着すると彼女たちは、ハンナの夫が取引の交渉を行なっていたパレスチナ人女性のレイラ(ヒアム・アッバス)に出会う。しかしレイラはハンナに金はここにはないから返せないと断る。金は店主のアメリカ人の息子ワリッドが持って行ってしまったのだという。ハンナは彼女に彼の家に案内するように迫り、お金をめぐる3人の旅が始まる。

冒頭、主人公であるレベッカの10分にも及ぶ長回しのクローズ・アップ・シーンが素晴らしい。車の窓から外を眺めるレベッカは突然感極まり泣き出す。涙がアイシャドーを剥がし、黒い涙になり頬を伝う。普通これだけのクローズ・アップはなかなかフォトジェニックには成り得ないが、その冗長になりがちな場面にナタリー・ポートマンの演技が熱を入れる。彼女たちは最初ヨルダンの国境を目指す。国境にいた兵士に所在を疑われるものの何とかヨルダンに入った2人は、車でヨルダンとシリアとイラクの国境線上にあるフリーゾーンを目指し、車を走らせる。

このフリー・ゾーンというのはわかりやすく言うと、「自由貿易区」ということになる。この地域では関税が廃止され、ヨルダンとシリアとイラクの住民が自由に物の売り買いを行う場として機能しており、そこでは様々な中古車の売り買いが行われている。ハンナはパレスチナ軍のロケットで負傷した夫の代わりに、彼が受け取るはずだった大金を受け取るために危険な道を遠路はるばるやって来たが、時間が押してしまったために約朿のお金を受け取ることが出来ない。ここでは物語の設定上、アメリカの店主となっているが、アモス・ギタイはこの3人の女たちの間にもっと巧妙に政治世界への風刺を忍ばせている。

ここで物語は突然、大きな動きを見せ始める。ハンナはどうしてもお金を受け取らなければならず、今日はフリーゾーンから家に帰宅した店主のアメリカ人の息子ワリッドの家に向かうが、そこでは大火事の中、人々が逃げ惑っている。父を憎むワリッドが衝動的に彼らの家を放火し、再び姿をくらましたらしい。レベッカはレイラの夫から、彼らパレスチナ系アラブ人のむごたらしい過去を聞くのである。

この展開はいささか急過ぎるきらいもあるし、脚本としてもいまひとつ練れていない。確かにそこで語られる物語はイスラエルという国が抱えた光と闇への考察を我々第三者にもたらすものの、ワリッドなる人物のあまりにも突発的な行動は、アモス・ギタイ本人が作劇の都合上作り出したものである。ここで「もっともらしい嘘」の正体が急に露わになるが今作においてはそれが幸福な方向に作用したとはあまり思えない。

この映画においてレベッカ、ハンナ、レイラの3人の女性がそれぞれ、アメリカ、イスラエル、パレスチナの何らかの暗喩として存在するのは間違いない。ただその3人の出会いの必然性にはやや疑問が残るし、「ロード・ムーヴィー」の滑らかな進行にも疑問がある。クライマックスのレベッカのあの脱出場面も、心情が行動につながると考えるのであれば、あまりにも不自然であり心許ない。なるべく説明を抑え、記号的に処理したい監督の思いは十分伝わるが、それが映画としての幸福に繋がるかはまた別の話である。後味としてはいまひとつしっくり来なかったし、脚本上の整合性も欠いている。ただロゼッタ・スタイルのカメラワークとフェイク・ドキュメンタリー的な手法は今作でも一定の効果を上げている。遠くイスラエルの地にもダルデンヌ兄弟の後継者はいたのである。

【第217回】『キプールの記憶』(アモス・ギタイ/2000)


 冒頭、主人公の男が歩く様子を3つのロング・ショットでつなぐ。カメラは据え置かれ、街にはほとんど人がいない。今日は「ヨム・キプル」という名の贖罪の日であり、ユダヤ教徒は飲食、入浴、化粧などの一切の労働を禁じられる。アラブ系イスラエル人はともかく、ユダヤ系イスラエル人が居住している地域の公共交通機関や、あらゆる企業や商店などは閉店をしており全く機能していない。今作の主人公も恋人との濃厚なSEXに興じるが、再び街路に出た瞬間、けたたましいサイレンの音と共に、軍用車が狭い路地をかけていく。このファースト・シーンの不穏さがやがて今作を覆い尽くす。

我々日本人にはあまり馴染みがないが、言うまでもなくこの日1973年10月6日、イスラエルでは第四次中東戦争が勃発した。ユダヤ暦で最も神聖な日である「ヨム・キプール」の油断をついて、エジプト、シリア両軍はそれぞれスエズ運河、ゴラン高原においてイスラエルへの攻撃を開始した。奇襲は功を奏し、最初イスラエルは劣勢に立たされるが、やがて形勢を盛り返し最終的には両者痛み分けとなる。旧ソ連軍はエジプト、シリア両軍に対し武器・兵器の提供を行い、戦争を有利に進めるものの、後にアメリカ軍がイスラエルに武器・兵器の提供を行い、冷戦構造の代理戦争の様相を呈する。これはアラブによる初めてのイスラエル侵攻であり、合計約19,000人のエジプト人、シリア人、イラク人およびヨルダン人もこの紛争で死亡したと推測されている。

当時23歳だったアモス・ギタイは実際にこの戦争に兵士として駆り出された。今作は監督の自伝的物語であり、ここでの苦い思い出が映画監督としての出発点となった。おそらくギタイ自身を想起させるワインローブ(リオン・レヴォ)は、友人ルソ(トメル・ルソ)とゴラン高原を車で走っていると、エジプトとシリアの連合軍がイスラエルへの攻撃を開始したため非常事態が宣言されたことを知る。峠を越えようとしたところでイスラエル軍の停止命令を聞く。車外では砲撃音が鳴り、兵士は半ば強制的に彼らをUターンさせようとする。ドキュメンタリー・タッチの演出は一気に緊迫感を煽る。

二人はダマスカスへ進軍する部隊に出逢ったのち、ラマト・ダヴィドの航空基地に向かうクロイツナー空軍医(ウリ・ラン・クロイツナー)と出会う。突然の事態に車内で無言になった2人に空軍医であるクロイツナーが話しかけたことがきっかけとなり、彼らは負傷兵をヘリコプターで移送する部隊に配属される。その辺りの描写がやや不明瞭で不親切ではあるが、彼らは否応なしに戦場に駆り出される。

彼らの仕事は戦地へ赴き、イスラエル軍の負傷兵をヘリコプターで移送する役目であり、砲撃の合間を縫い、5人がかりでタンカーに乗せ、付近に停留しているヘリコプターまで運ぶことである。その戦場はコンクリートで舗装された道路など一つもなく、戦車が通ったことで土はぬかるみ、彼らの歩行を阻む。彼らの任務は死体を運ぶことではない。あくまで息をしている兵士を野戦病院に担ぎ込むことが義務であり、息をしていない自軍の兵士を何十人も見送りながら、極限の状況で作業を続ける。

今作において特徴的なのは、『ケドマ 戦禍の起源』同様に敵の姿は一切見えないことである。おそらくこれまでのような戦争映画を期待した層にはそこが物足りないはずである。そもそも彼らは兵士であるが、最前線に立つ兵士ではない。最前線で倒れた兵士を救助することが彼らの任務であり、エジプトやシリアの兵士と銃を持って対峙することはないのである。つまり今作ではこちら側から敵に対し、銃を構え、撃つことはない。例外的に戦車の砲弾の描写があるが、その砲撃の弾道がどうなったのかは明らかにされない。今作においては戦争映画における一切のスペクタル性は無視され、描写の対象から外される。

その代わりそこにあるのは、負傷者を起こしタンカに乗せ、5人で連携して持ち上げ、足元が悪い中をヘリコプターへ運ぶ作業の無限ループである。兵士たちは自分で歩くことが出来ず、這うことも出来ない。彼らは敵の銃撃を受け、おそらく骨折している。もっと酷い兵士は血液が流れ出たところが化膿し、壊死する危険性さえある。その場で処置する必要があるかの判断はクロイツナーに委ねられ、時には戦場の只中でそこに何分も止まらなければならない。最前線に立つ兵士とはまた違う極限状態がそこにはあり、ドキュメンタリー・タッチの長回しが永遠に続くかのような苦しみを我々観客に与えるのである。

しかしながら今作がサミュエル・フラー『最前線物語』やスタンリー・キューブリック『フルメタル・ジャケット』のような強度を持ち得ないのは、やはり敵を一切描かない奇抜な演出に負うところが大きい。ヘリから見る焼け野原のような風景は戦争の悲惨さ・愚かさを確かに我々に伝えるが、敵を描かないことが今作のディテイルや旨みを剥ぐ。確かに敵が見えないことで、どこから弾が飛んでくるかわからない緊迫感はあるが、アクション映画としても活劇としても一切成立していない。

イスラエル映画としては8億円という異例のバジェットで制作された今作の失敗を踏まえ、後の『ケドマ 戦禍の起源』では提示する映像の取捨選択がだいぶ向上したように思うが、それでも一切敵を描かないことはやはり映画としてはあまりにも危険が大きい。しかしながら今作の映画としての志の高さは納得するところである。確か2000年の東京フィルメックスでこの映画を初めて観たのだが、欧米映画とは一線を画す映画としてのルックに、21世紀の映画の可能性を大いに考えさせられた。

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