【第834回】『岸辺の旅』(黒沢清/2015)


 シネスコ・サイズのフレーム内で、少女がピアノを弾いている。その様子を右側からカメラは据えるが、ピアノの先生の横顔は髪で隠れて見えない。その後、少女の母親からデザートでもてなされ、母親の一方的な会話にうなづく女性の表情をカメラが回り込んでフレームに収めることはない。その寂しそうな後ろ姿をじっと撮影した後で、相槌を打つヒロインの様子が一瞬だけ映る。これは『トウキョウソナタ』の導入分の演出とほぼ同様である。冒頭、小泉今日子の家事をする様子が後ろ姿で示され、彼女は雨が吹き込んだ窓を急いで閉め、濡れてしまった床を拭いている。その後どういうわけか彼女は雨風の強い窓をもう一度開けるが、その理由は一切明示されることがない。今作ではその後、スーパーの買い出しの場面へショットは移り、深津絵里は夫が好きだった白玉団子を作ろうと咄嗟に思いつく。彼女のいる部屋の空間は極端に暗い。団子作りに夢中になるヒロインはふと人の気配に気付き、真っ暗な後ろを振り向くと、男が静かに立っている。しかしながら微妙な光の方向性により、男の顔はある程度目視出来るものの、足があるのかどうかははっきりしない。そう思った矢先、木の床をブーツで歩く男の鈍い足音が一歩二歩と近付いてくるのである。このあまりにも厳格で的確な導入場面に一気に引き込まれる。黒沢映画における幽霊というものは、段々と生身の人間と遜色のない段階にまで入っている。

 突然彼女の前に現れた夫・優介(浅野忠信)は誤って土足で侵入し、「俺、死んだよ」と実にあっけらかんと妻に話す。彼はここに戻ってくる旅の過酷さを淡々と妻に語りかける。その様子を妻もことさら驚いた様子を見せることもなく、一つの事実として咀嚼しているかに見える。この再会の場面だけで、2人の関係性がわかる見事な演出と、深津絵里と浅野忠信の静かに落ち着いた演技には舌を巻く。今作は一見ラブストーリーにもメロドラマにも見えるが、ロードムーヴィーとしての側面を持つ。夫は妻に「見せたい場所があるんだ」と言い、2人は東京を離れ、夫が死ぬ間際の3年間の足取りを歩いていく。2人は次々に旅をしていく。最初はひとりで新聞配達をする孤独な老人の島影(小松政夫)。夫は彼が死んでいるのだと言う。皮肉にも彼の生の活気は、来るべき消滅の瞬間を想起させる。彼の消失のシーンの筆舌に尽くしがたい美しさには何度観ても涙腺が緩む。公園でワンカップ大関を飲んでいる酩酊した島影を、浅野忠信がおぶって家へ連れて帰る。家に着くと2人掛かりで階段を昇り、島影をベッドに寝かすと、後ろの壁の明かりがゆっくりと照らし始め、一面に花の切り絵の光景が拡がるのである。この最初から明るいわけではない空間の描写と演出の作家としての地に足の着いた成長ぶりには目を見張るものがある。まるでヒッチコックの『めまい』のような音楽が急に流れて来た時、黒沢は途方もない段階に足を踏み入れたのだと実感する。

 今作において夫婦の発言の中に、「ここではないどこか」へ行こうという発言は遂に聞くことがない。むしろ深津絵里は浅野忠信に対し、「家へ帰ろうよ、一緒に帰ろうよ」とやんわりと帰還を促すのである。別れの季節は否応なく2人に訪れることを2人は知っている。夫は決して「あの世へ行こう」と妻を誘い込んだりはしない。深津絵里の今が一番幸せという言葉を夫は尊重し、今作では遂に夫の口から「ここではないどこか」へ行こうという言葉を聞くことはない。深津絵里のブラウスはモンペの中に入り、簡単に脱がすことは出来ない。そのブラウスのボタンを浅野忠信はゆっくりと一つ一つ外しながら、やがてゆっくりと彼女と肌を合わせる。よくよく考えれば幽霊とSEXが出来るのかとヒヤヒヤしたが、ここで夫婦は最後の愛を確かめ合うのである。たかが挿話の一つにしか過ぎないが、奥貫薫の夫のタカシの思いはわからなくもない。ここで黒沢映画特有の森が唐突に姿を見せ、木々の緑が厳格な態度を見せる。靄に包まれた森の中の光景はおそらくCGで霧を足したのだと思うが、まるでこれまでのホラー映画における半透明カーテンのように、こちら側の世界に対し、あちら側の世界があることを否応なしに想起させ、生と死の葛藤が始まる。浅野忠信はあくまで浅野忠信としてただそこにいる。便宜上切り取られた映像は2組の夫婦のスペクタルを告げるが、その出来事がより一層、瑞希と優介の離別の瞬間を予感させるのである。

【第827回】『ダゲレオタイプの女』(黒沢清/2016)


 田舎町の駅に降り立つ列車、仰ぎ見るような角度から据えられた架線、降客の少ない駅には最寄りの階段に一番近いドアを選ぶが、そこへ不慣れな男ジャン(タハール・ラヒム)が一番最後に階段を降りて行く。タギングされた壁を抜けて、郊外にある屋敷へ。門扉が2つある屋敷は豪邸と呼ぶにはいささか古く寂れている。お手伝いのルイ(ジャック・コラール)に屋敷へ通されたジャンはその内部に驚く。2階部分に連なる大きな吹き抜け、いきなり2階に繋がる螺旋階段のある雰囲気は、黒沢清が青春時代に愛したであろう怪奇映画の趣を見せる。ルイから少し待つように言われたジャンは螺旋階段を背にするようにして面接の瞬間を待つのだが、螺旋階段の反対側のドアが無風状態の中、半開きになる。古いドアは軋むような音がし、少しギョッとしたジャンはそのドアを閉めようと反対側へ行くのだが、中に拡がる空間に引き寄せられるかのように空いた部屋の奥へと歩み出す。再び現実の面接に戻ろうと部屋の外に出たジャンは、螺旋階段の上部に1人の女の背中を見つける。古い屋敷に不似合いな光沢のある青いドレス、立ち止まっていた女マリー(コンスタンス・ルソー)は男の視線を背中に感じ取り、足早に駆け上がる。面接の席、写真家ステファン(オリヴィエ・グルメ)は彼を見るなり即答で助手に指名する。見よう見まねで必死に覚えるファッション写真家の助手の仕事、ジャンは自分の背丈よりも大きい銅版のパネルを抜き、ステファンと一緒に運び込む。

 店員や皿洗いしかしてこなかった労働者階級出身のジャンは幸運にも給料の良い仕事にありつき、そこで自分の人生を変えるかもしれないチャンスと出会う。ここで彼のメンターとなるステファンと、ジャンの関係性は若き日の兄弟子・相米慎二との関係性を踏まえ、後書きされたものに違いない。ストップ・ウォッチを持ち、効率の良い方法で撮影をしようとするジャンに対し、ステファンは「お前にその資格はない」と激昂する。男は変人と呼ばれるほど頑固で、170年前に技法が頂点を迎えたダゲレオタイプの再現に固執する。ファッション・フォトを生業としていた男は妻の死から突然、170年前のダゲレオタイプに固執し、デジタル・カメラを否定するようになった。ヴァンサン(マチュー・アマルリック)やトマ(マリク・ジディ)の忠告にも激昂する男の病巣には、妻ドゥーニーズ(ヴァレリ・シビラ)の死が何らかのトラウマ(因果関係)として浮かび上がる。ステファンが亡き妻ドゥーニーズの身代わりとして固執する娘マリーは、屋敷の外で2軒の温室の中で大事に植物を育てている。下水に流せない水銀をタンクに流し込むジャンの後ろで、植物を愛するマリーは「ここの土は徐々に汚染されている」とのたまう。その姿は真っ先に1999年の『カリスマ』の風吹ジュンと洞口依子の神保姉妹を彷彿とさせる。「世界の法則を回復せよ」という謎めいたメッセージを受信した『カリスマ』の主人公薮池刑事(役所広司)はその木を伐採するか否かで悩み続ける。

 庭のタンクに有害物質の水銀を貯蔵する男と、辺鄙な田舎町の温室の生態系を守ろうとする女とは水と油だが、ある時2人は唐突に愛し合う。ジャンは120分間、ダゲレオタイプの前で無理やり起立させるべくマリーを拘束する。女は背中を固定され、頭を固定された時に微かに喘ぎ声が漏れる。男と女の距離は数10cm、互いに視線を横にやりつつも、声や匂いだけは隠そうにも隠せない。ミア・ハンセン=ラヴやギヨーム・ブラックの映画に出演したコンスタンス・ルソーをヒロインに起用したものの、失礼ながらフランス映画ファンにはこのマリー役がコンスタンス・ルソーではなく、レア・セドゥだったらと何度も思わされる。中盤から徐々に理性を失い、精神の不均衡に狂って行くオリヴィエ・グルメの演技も、ダルデンヌ兄弟のリアリズムとは違って明らかな戸惑いに満ち満ちているが、このステファンの描写は観れば観るほど、『DOOR III』の諏訪太朗そっくりであることに、古くからのクロサワ・フォロワーは真に驚嘆する。トビー・フーパー監督の『悪魔のいけにえ』のように大それたドアを構える恐怖の屋敷に、私立探偵の諏訪太朗は侵入し精力すらも吸い取られたが、今作においてもステファンは聞こえない声、見えない残像に徐々に生気を吸い取られて行く。おまけに『トウキョウソナタ』の井之脇海のような階段落ちが再び炸裂する様は天晴というより他ない。中盤、ステファンに迫るドゥーニーズの亡霊は両腕を前に出しながら、スロー・モーションでゆっくりと家の主人へ迫る。その様子はJホラー全盛期の貞子と比肩するよりも、2001年の『降霊』における少女の焼印を想起させる。前後不覚に陥った主人公はヒロインに対し「ここではないどこか」への逃避を促す。黒沢清のフィルモグラフィに共通するように、ここでもうっかり主人公は思ってもいない言葉をヒロインに発する。「結婚しよう、あの教会で・・・」その結末がバッド・エンドなのかハッピー・エンドなのかは相変わらず観客の判断に委ねられているのだ。

【第494回】『クリーピー 偽りの隣人』(黒沢清/2016)

あらすじ・結末に触れていますので、これから観る方はクリックしないで下さい

【第263回】『岸辺の旅』(黒沢清/2015)


 映画を観る前に、まずは何よりもタイトルの『岸辺の旅』に驚嘆した。思えばこれまで黒沢映画において、岸辺はあまりにも重大な要素として何度も登場してきた。『神田川淫乱戦争』まで遡れば、近親相姦の親子の住むアパートとこちら側のアパートの間には、川が境界線としてそこにあった。『ドレミファ娘の血は騒ぐ』においても、ほぼ大学内の様子で構成された映画が、後半ピクニックの場面になってから物語が加速し始め、最後に沼地で洞口依子は歌を歌い銃を構える。そこでも背景には海が広がっていた。『勝手にしやがれ!!』シリーズにおいても、最初の撮影の順番では『強奪計画』よりも前にシリーズの口火を切る形で『脱出計画』が撮影された。そこではオーストラリアへの移住を決めた雄次たち御一行が、諏訪太朗の闇船で日本と世界の境界線へ足へ踏み込むが、すんでのところで日本に戻ることを決める。

『大いなる幻影』では主人公はいつか「ここではないどこか」へ行きたいと願うが、ある日恋人とやって来た岸辺において、かつてのように激しい愛が繰り広げられる。だがその海に目を凝らすと、白骨化した死体がプカプカと浮かんでおり、主人公は平和に見えた海の向こうでも戦争が起きていることを知る。『アカルイミライ』では、家の床から誤って離してしまったクラゲがやがて増殖し、東京中の川で目撃されるに至る。クラゲは明らかに死んだ浅野忠信を想起させ、業者が駆除にあたるも、クラゲは川と海との境界線をゆっくりと越えようとする。『回路』では『強奪計画』のラスト・シーンを踏まえ、麻生久美子は忘れ物を取りに家へ戻る。急いでボートへ戻って来ると、加藤晴彦はぐったりしていた。彼に最後の選択を迫ると、加藤晴彦は力ない声で「行こう」と言うのである。ここで岸辺という境界線から2人は新しい世界へと出発する。

『ドッペルゲンガー』でも映像としては出て来ないものの、せっかく作ったロボットを役所広司は岸壁の上から海へと投げ捨てる。『LOFT』ではクライマックス、海の辺にある桟橋の上で、2人の幸福な未来が横転するあっけらかんとした惨劇が起こる。『叫』では自分に恨みを抱く幽霊に対し、役所広司は何かの間違いだと人違いであることを力説するが、やがて彼ら一連の犯人の共通点に、15年前の岸辺に建つある施設で起きた悲しい事件を思い出すのである。このように黒沢清のフィルモグラフィにおいては、岸辺はあまりにも重要な意味を持つ。森も同じくらい重要なモチーフには違いないが、黒沢の岸辺への執着ぶりは、遂に今作において作品タイトルにまでなってしまったのである。

冒頭、シネスコ・サイズのフレーム内で、少女がピアノを弾いている。その様子を右側からカメラは据えるが、ピアノの先生の横顔は髪で隠れて見えない。その後、少女の母親からデザートでもてなされ、母親の一方的な会話にうなづく女性の表情をカメラが回り込んでフレームに収めることはない。その寂しそうな後ろ姿をじっと撮影した後で、相槌を打つヒロインの様子が一瞬だけ映る。これは『トウキョウソナタ』の導入分の演出とほぼ同様である。『トウキョウソナタ』でも冒頭、小泉今日子の家事をする様子が後ろ姿で示され、彼女は雨が吹き込んだ窓を急いで閉め、濡れてしまった床を拭いている。その後どういうわけか彼女は雨風の強い窓をもう一度開けるが、その理由は一切明示されることがない。

今作ではその後、スーパーの買い出しの場面ショットは映り、深津絵里は夫が好きだった白玉団子を作ろうと咄嗟に思いつく。彼女のいる部屋の空間は極端に暗い。台所の明かりだけがそのほとんど唯一の光源となる。団子作りに夢中になる女性は、ふと人の気配に気付き、真っ暗な後ろを振り向くと、そこには1人の男が静かに立っている。しかしながらこの微妙な光の方向性により、男の顔はある程度目視出来るものの、足があるのかどうかははっきりしない。そう思った矢先、木の床をブーツで歩く男の鈍い足音が一歩二歩と近付いてくるのである。このあまりにも厳格で的確な導入場面に一気に引き込まれる。かつて『花子さん』のエントリでも述べたが、黒沢映画における幽霊というものは、段々と生身の人間と遜色のない段階にまで入っている。

彼は3年前に妻の前から行方不明になった夫・優介(浅野忠信)である。突然彼女の前に現れた夫は、誤って土足で侵入し、「俺、死んだよ」と実にあっけらかんと妻に話すのだった。彼はここに戻ってくる旅の過酷さを淡々と妻に語りかける。その様子を妻もことさら驚いた様子を見せることもなく、一つの事実として咀嚼しているかに見える。この再会の場面だけで、2人の関係性がわかる見事な演出と、深津絵里と浅野忠信の静かに落ち着いた演技には舌を巻く。

今作は一見ラブストーリーにもメロドラマにも見えるが、ロードムーヴィーとしての側面を持つ。夫は妻に「見せたい場所があるんだ」と言い、2人は東京を離れ、夫が死ぬ間際の3年間の足取りを歩いていく。2人は次々に旅をしていく。最初はひとりで新聞配達をする孤独な老人の島影(小松政夫)。夫は彼が死んでいるのだと言う。妻に合わせると、「まったく似ていない、ガッカリした」という島影の妻は失踪し、宛先不明の妻は彼の死の知らせを受けていない。最初、深津絵里に対して冷たい態度を取った島影だったが、3人で生活をスタートさせていくと徐々に人間として活気を取り戻していく。

しかし皮肉にも彼の生の活気は、来るべき消滅の瞬間を想起させる。彼の消失のシーンの筆舌に尽くしがたい美しさには何度観ても涙がこぼれる。公園でワンカップ大関を飲んでいる酩酊した島影を、浅野忠信がおぶって家へ連れて帰る。家に着くと2人掛かりで階段を昇り、島影をベッドに寝かすと、後ろの壁の明かりがゆっくりと照らし始め、一面に花の切り絵の光景が拡がるのである。この最初から明るいわけではない空間の描写と演出には、黒沢の奇跡のような成長を感じずにはいられない。この作家としての地に足の着いた成長ぶりには目を見張るものがある。

また1件目の訪問ではとても印象深い場面がある。近所の商店でその日の夕食の材料を買った深津絵里が、商店の軒先を出てくると、いつものように島影が黙々と新聞配達をしている。彼に至近距離から声を掛ける深津だったが、返事はない。そのことが彼女を不安に陥れ、浅野忠信の元へと走って駆けつける場面に、小刻みに揺れるショットが挿入されたいたのを忘れるわけにはいかない。亡きトニスコの面影を感じずにはいられなかった。けれどそれ以上に島影との別れの場面はあまりにも雄大でただただ美しい。花の切り抜きに囲まれた部屋の光量が徐々にアップしていき、あまりにも壮観な光景がシネマスコープ・サイズのフレームの中に拡がる。しかしそれは島影のこの世への離別の挨拶だったことが明らかになる翌朝の光景が胸に迫る。そこで鳴り響く音楽と共に、我々は黒沢の死をめぐる不思議な哲学に導かれていくのである。まるでヒッチコックの『めまい』のような音楽が急に流れて来た時、黒沢は途方もない段階に足を踏み入れたのだと実感する。

2つ目に訪れた小さな食堂では、夫は餃子を包む器用なところを見せる。家では料理なんてしたことないのにと妻は言うが、この場所が気に入り、定住したいと妻は言い出す。そんな妻の様子に対し、近い将来あちらの世界からお呼びがかかる夫はYESともNOとも決して言わない。黙って妻の意思を見守っているのである。やがてこの家にあるピアノが物語の重要な要素になるが、この場面は涙なしでは観られない。試写で観た時も劇場で観た時もこの場面には激しく泣いた。映画の冒頭部分の深津絵里の姿がこの場面にかかっているのである。ここでは1つめの訪問の場面とは打って変わり、明るかった部屋は妹の登場からゆっくりと照明が落ちていく。その光量の増減の素晴らしさと光と影の織りなすドラマが今作を支えているのである。村岡希美扮する妻のフジエの横座りはまるで小津安二郎の映画のように我々の感情に迫る。この場面はあの導入部分のピアノの先生としての深津絵里の態度や理念さえ感じさせる。

3つ目の場所に向う途中、何やら突発的にバスの車内で夫婦の感情は高ぶり、軋轢を迎えることになる。夫のとっくに終わっていることだという言葉に対し、妻の反応はいかにも過剰で冷たい。原作も読んだが、原作では東京での物語は3年前の過去の物語として展開するが、この回想の叙述スタイルに黒沢は難色を示し、無事に回避したと言ってもいい。これまでも何度も述べてきたように、小説における過去の描写が映画の話法にはない。映画は現在から未来に向う物語にしか、観客をひきつける術を持たない特殊なメディアである。それは黒沢自身がかつての自作の欠点から導き出した答えであり、映画の決定的な真理である。『回路』の叙述形式の失敗や『贖罪』での経験を踏まえ、黒沢は今作を語る上で過去の叙述を徹底的に嫌った。だが一つ例外的に深津絵里は蒼井優と決着をつけるために、前へ前へと向かう推進力とは真逆の方向へと向う。浅野忠信がかつて勤めていた東京の大学病院に戻るのである。ここでの場面はまるで成瀬巳喜男のような緊迫したやり取りを生む。深津絵里と蒼井優の静かな対立は、『贖罪』以来のどろどろした女たちの世界にフォーカスしていく。

最後に訪れた山奥の農村は、明らかに『勝手にしやがれ!!英雄計画』での退去報道に揺れる町の空気を想起させる。彼は死の直前、科学と宇宙の真理を紐解く話し手として町の信頼を一手に集め、この町の救世主として居座ることになる。彼の講話の場面でも、またしても光の拡散が観るものを惹きつけてやまない。2回目の講話の際にオレンジ色の電球が一番後ろの人がスイッチを入れた瞬間、奥から手前に向けて1列の電球がゆっくりとついていく。しかしながらこのことが浅野忠信の残り僅かな瞬間を強烈に連想させるのである。

タカシに弁当を届けようと、山に入った深津絵里は思いもかけずにダムを目撃する。タカシの聞いた町の噂によれば、ここはこちらの世界とあちらの世界の境界線として存在することが説明される。まるで『回路』における開かずの間のように、この世とあの世の境界線を分ける部分が、滝の向こう側にあると知らされた深津絵里は、一度はそのラインを越えようとするも躊躇う。やがてそこで思いがけない人物と出会い、彼女がこちら側の世界にいる意味を考えさせられ、思い留まらせる。ピントが合ってない人物のアップは、まるでデヴィッド・リンチのようで大変困惑した。あの場面だけはアフレコだったのも実に憎い演出である。彼は夫を憎んでいるが、あえて迫害しようとはしない。その不可思議な警告が、クライマックスへと向かう彼女の気持ちにどう作用したのかは、私があえて言うまでもない。

奥貫薫の夫のタカシの葛藤と出現はあまりにも突拍子もない展開だと言えるが、タカシの思いはわからなくもない。ここで黒沢映画特有の唐突な森が姿を見せ、木々の緑が厳格な態度を見せる。靄に包まれた森の中の光景はおそらくCGで霧を足しているのだと思うが、まるでこれまでのホラー映画における半透明カーテンのように、こちら側の世界に対し、あちら側の世界があることを否応なしに想起させ、生と死の葛藤が始まる。浅野忠信はあくまで浅野忠信としてそこにいる。便宜上切り取られた映像は2組の夫婦のスペクタルを告げるが、その出来事がより一層、瑞希と優介の離別の瞬間を予感させる。

今作における夫婦の発言の中に、「ここではないどこか」へ行こうという発言は遂に聞くことがない。むしろ深津絵里は浅野忠信に対し、「家へ帰ろうよ、一緒に帰ろうよ」とやんわりと帰還を促すのである。別れの季節は否応なく2人に訪れることを2人は知っている。夫は決して「あの世へ行こう」と妻を誘い込んだりはしない。深津絵里の今が一番幸せという言葉を夫は尊重し、今作では遂に夫の口から「ここではないどこか」へ行こうという言葉を聞くことはない。そのことに黒沢清の踏み出した新しい可能性への萌芽はしっかりと見て取れる。『トウキョウソナタ』同様に、ここには黒沢の普遍的な物語への思いがありありと感じられるのである。

クライマックス前のラブ・シーンには驚いたと同時に、40年近く回避していた愛情表現に黒沢映画が遂に到達したのだと感慨深い思いで見つめていた。深津絵里のブラウスはモンペの中に入り、簡単に脱がすことは出来ない。そのブラウスのボタンを浅野忠信はゆっくりと一つ一つ外しながら、やがてゆっくりと彼女と肌を合わせる。よくよく考えれば幽霊とSEXが出来るのかとヒヤヒヤしたが、ここで夫婦は最後の愛を確かめ合うのである。

90年代以降、2000年代の黒沢の映画音楽とは、足し算よりも引き算が好まれた。その音楽はベタ敷きではなく、むしろ極端に簡素な音であり、ノイズでもあった。特に2000年代以降のホラー映画においては、音楽以前の原始的ノイズがその場の空気に作用していた。『スウィートホーム』や『地獄の警備員』の頃のハリウッド映画への無邪気な模倣は90年代後半以降、ほとんど見られなくなったが、今作ではあえてその流れに逆行するかのように、オーケストラを交えた優雅な音楽が展開している。黒沢の意図はメロディ+ドラマのメロドラマに正しく向かっているのである。音楽はもちろん、撮影や照明、脚本に至るまで、これまでの黒沢映画の要素はしっかりと散りばめつつも、より普遍的な夫婦の物語へ足を踏み入れた黒沢の落ち着き払った才気を、成熟と呼ばずに何と呼べば良いのだろうか?

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