【第945回】『散歩する侵略者』(黒沢清 /2017)


 映画は冒頭、斜めから住居を映し、庭に咲いた草木が風に揺れてたなびく。どうやらここは日本海に面した小さな港町らしいが、どこか北欧を思わせる冷たいライティングと色味に象徴される。ドアから逃げ出した母親が地面にズルズルと引っ張られる様子は「学校の怪談G」シリーズの第二話『木霊』を彷彿とさせ、あるいはトビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスのように、殺風景な密室の中にターゲットを閉じ込める。一家惨殺事件の影響はこの街にも静かに忍び寄る。一方、不仲だった夫・加瀬真治(松田龍平)が数日間の蒸発の後、ひょっこり加瀬鳴海(長澤まさみ)のもとに帰って来る。交通事故による10年間の記憶喪失から目覚めた『ニンゲン合格』の吉井豊(西島秀俊)、ピアノ教師で白玉団子を作る薮内瑞希(深津絵里)の元へ、天国から突然現れた『岸辺の旅』の優介(浅野忠信)同様のタッチで、まるで別人のように穏やかで優しくなって戻って来る。この猟奇殺人と静かで無口な男の来訪は、黒沢清の代表作である97年の『CURE』とも同工異曲の様相を呈す。突然記憶が途切れ、不思議なムードを醸し出した真治は会社を辞め、何事もなかったかのように毎日散歩に出かけていく。人差し指をそっと差し出し、人間の持っている概念をまんまと乗っ取る真治の姿は、『CURE』の間宮邦彦(萩原聖人)のライターの火同様の恐怖の伝播のオマージュに他ならない。

 『トウキョウソナタ』など一部の例外を除く黒沢清のこれまでのフィルモグラフィのように、今作にも子供のいない夫婦が登場する。会社勤めの真治とデザイナーの鳴海の関係は当初は上手く行っていたものの、今ではその関係はすっかり冷え切っている。黒沢映画特有のパーテーションのない居住空間、しきりのない空間に後付けされたカーテン、心なしか『リアル〜完全なる首長竜の日〜』のような田中幸子と黒沢清の共同脚本は、背中を見つめる生気を無くした真治の姿にフォーカスする。それと同時に加瀬姉妹の位相は舞台版と正反対になり、飄々とした桜井(長谷川博己)、天野(高杉真宙)、立花あきら(恒松祐里)にも夫婦の物語と同じだけの強度を加える。『回路』のように川島亮介(加藤晴彦)と工藤ミチ(麻生久美子)が合流した一本の線、やがて普通だと思われていた社会は突如変異し、何でもない日常の中に異様なものが侵入して来る。世紀末を意識した夫婦は一転して「ここではないどこか」への脱出を試みる。『岸辺の旅』同様の夫婦再生の物語は、真治と鳴海、桜井と天野を緊密な相克関係で結ぶ。ステディカムの次世代の最新テクノロジーを駆使したOSMOで撮影された導入部分のあきらの活劇、後半のVFXを足した桜井の全力疾走場面の素晴らしさ、それに比べて相対した厚労省の刺客との撃ち合いの粗さにはやや拍子抜けしたが、クライマックスの半透明カーテンならぬ磨りガラス状の光の羅列は世界の終わりを観客に想起させる。黒沢組にとって初登場だった主要キャストのラインナップとは対照的に、それぞれのシークエンスには紛れもない黒沢組のキャストが並ぶ。『回路』以降の自由奔放さの集大成に満ちた自由奔放なSF映画である。

【第834回】『岸辺の旅』(黒沢清/2015)


 シネスコ・サイズのフレーム内で、少女がピアノを弾いている。その様子を右側からカメラは据えるが、ピアノの先生の横顔は髪で隠れて見えない。その後、少女の母親からデザートでもてなされ、母親の一方的な会話にうなづく女性の表情をカメラが回り込んでフレームに収めることはない。その寂しそうな後ろ姿をじっと撮影した後で、相槌を打つヒロインの様子が一瞬だけ映る。これは『トウキョウソナタ』の導入分の演出とほぼ同様である。冒頭、小泉今日子の家事をする様子が後ろ姿で示され、彼女は雨が吹き込んだ窓を急いで閉め、濡れてしまった床を拭いている。その後どういうわけか彼女は雨風の強い窓をもう一度開けるが、その理由は一切明示されることがない。今作ではその後、スーパーの買い出しの場面へショットは移り、深津絵里は夫が好きだった白玉団子を作ろうと咄嗟に思いつく。彼女のいる部屋の空間は極端に暗い。団子作りに夢中になるヒロインはふと人の気配に気付き、真っ暗な後ろを振り向くと、男が静かに立っている。しかしながら微妙な光の方向性により、男の顔はある程度目視出来るものの、足があるのかどうかははっきりしない。そう思った矢先、木の床をブーツで歩く男の鈍い足音が一歩二歩と近付いてくるのである。このあまりにも厳格で的確な導入場面に一気に引き込まれる。黒沢映画における幽霊というものは、段々と生身の人間と遜色のない段階にまで入っている。

 突然彼女の前に現れた夫・優介(浅野忠信)は誤って土足で侵入し、「俺、死んだよ」と実にあっけらかんと妻に話す。彼はここに戻ってくる旅の過酷さを淡々と妻に語りかける。その様子を妻もことさら驚いた様子を見せることもなく、一つの事実として咀嚼しているかに見える。この再会の場面だけで、2人の関係性がわかる見事な演出と、深津絵里と浅野忠信の静かに落ち着いた演技には舌を巻く。今作は一見ラブストーリーにもメロドラマにも見えるが、ロードムーヴィーとしての側面を持つ。夫は妻に「見せたい場所があるんだ」と言い、2人は東京を離れ、夫が死ぬ間際の3年間の足取りを歩いていく。2人は次々に旅をしていく。最初はひとりで新聞配達をする孤独な老人の島影(小松政夫)。夫は彼が死んでいるのだと言う。皮肉にも彼の生の活気は、来るべき消滅の瞬間を想起させる。彼の消失のシーンの筆舌に尽くしがたい美しさには何度観ても涙腺が緩む。公園でワンカップ大関を飲んでいる酩酊した島影を、浅野忠信がおぶって家へ連れて帰る。家に着くと2人掛かりで階段を昇り、島影をベッドに寝かすと、後ろの壁の明かりがゆっくりと照らし始め、一面に花の切り絵の光景が拡がるのである。この最初から明るいわけではない空間の描写と演出の作家としての地に足の着いた成長ぶりには目を見張るものがある。まるでヒッチコックの『めまい』のような音楽が急に流れて来た時、黒沢は途方もない段階に足を踏み入れたのだと実感する。

 今作において夫婦の発言の中に、「ここではないどこか」へ行こうという発言は遂に聞くことがない。むしろ深津絵里は浅野忠信に対し、「家へ帰ろうよ、一緒に帰ろうよ」とやんわりと帰還を促すのである。別れの季節は否応なく2人に訪れることを2人は知っている。夫は決して「あの世へ行こう」と妻を誘い込んだりはしない。深津絵里の今が一番幸せという言葉を夫は尊重し、今作では遂に夫の口から「ここではないどこか」へ行こうという言葉を聞くことはない。深津絵里のブラウスはモンペの中に入り、簡単に脱がすことは出来ない。そのブラウスのボタンを浅野忠信はゆっくりと一つ一つ外しながら、やがてゆっくりと彼女と肌を合わせる。よくよく考えれば幽霊とSEXが出来るのかとヒヤヒヤしたが、ここで夫婦は最後の愛を確かめ合うのである。たかが挿話の一つにしか過ぎないが、奥貫薫の夫のタカシの思いはわからなくもない。ここで黒沢映画特有の森が唐突に姿を見せ、木々の緑が厳格な態度を見せる。靄に包まれた森の中の光景はおそらくCGで霧を足したのだと思うが、まるでこれまでのホラー映画における半透明カーテンのように、こちら側の世界に対し、あちら側の世界があることを否応なしに想起させ、生と死の葛藤が始まる。浅野忠信はあくまで浅野忠信としてただそこにいる。便宜上切り取られた映像は2組の夫婦のスペクタルを告げるが、その出来事がより一層、瑞希と優介の離別の瞬間を予感させるのである。

【第827回】『ダゲレオタイプの女』(黒沢清/2016)


 田舎町の駅に降り立つ列車、仰ぎ見るような角度から据えられた架線、降客の少ない駅には最寄りの階段に一番近いドアを選ぶが、そこへ不慣れな男ジャン(タハール・ラヒム)が一番最後に階段を降りて行く。タギングされた壁を抜けて、郊外にある屋敷へ。門扉が2つある屋敷は豪邸と呼ぶにはいささか古く寂れている。お手伝いのルイ(ジャック・コラール)に屋敷へ通されたジャンはその内部に驚く。2階部分に連なる大きな吹き抜け、いきなり2階に繋がる螺旋階段のある雰囲気は、黒沢清が青春時代に愛したであろう怪奇映画の趣を見せる。ルイから少し待つように言われたジャンは螺旋階段を背にするようにして面接の瞬間を待つのだが、螺旋階段の反対側のドアが無風状態の中、半開きになる。古いドアは軋むような音がし、少しギョッとしたジャンはそのドアを閉めようと反対側へ行くのだが、中に拡がる空間に引き寄せられるかのように空いた部屋の奥へと歩み出す。再び現実の面接に戻ろうと部屋の外に出たジャンは、螺旋階段の上部に1人の女の背中を見つける。古い屋敷に不似合いな光沢のある青いドレス、立ち止まっていた女マリー(コンスタンス・ルソー)は男の視線を背中に感じ取り、足早に駆け上がる。面接の席、写真家ステファン(オリヴィエ・グルメ)は彼を見るなり即答で助手に指名する。見よう見まねで必死に覚えるファッション写真家の助手の仕事、ジャンは自分の背丈よりも大きい銅版のパネルを抜き、ステファンと一緒に運び込む。

 店員や皿洗いしかしてこなかった労働者階級出身のジャンは幸運にも給料の良い仕事にありつき、そこで自分の人生を変えるかもしれないチャンスと出会う。ここで彼のメンターとなるステファンと、ジャンの関係性は若き日の兄弟子・相米慎二との関係性を踏まえ、後書きされたものに違いない。ストップ・ウォッチを持ち、効率の良い方法で撮影をしようとするジャンに対し、ステファンは「お前にその資格はない」と激昂する。男は変人と呼ばれるほど頑固で、170年前に技法が頂点を迎えたダゲレオタイプの再現に固執する。ファッション・フォトを生業としていた男は妻の死から突然、170年前のダゲレオタイプに固執し、デジタル・カメラを否定するようになった。ヴァンサン(マチュー・アマルリック)やトマ(マリク・ジディ)の忠告にも激昂する男の病巣には、妻ドゥーニーズ(ヴァレリ・シビラ)の死が何らかのトラウマ(因果関係)として浮かび上がる。ステファンが亡き妻ドゥーニーズの身代わりとして固執する娘マリーは、屋敷の外で2軒の温室の中で大事に植物を育てている。下水に流せない水銀をタンクに流し込むジャンの後ろで、植物を愛するマリーは「ここの土は徐々に汚染されている」とのたまう。その姿は真っ先に1999年の『カリスマ』の風吹ジュンと洞口依子の神保姉妹を彷彿とさせる。「世界の法則を回復せよ」という謎めいたメッセージを受信した『カリスマ』の主人公薮池刑事(役所広司)はその木を伐採するか否かで悩み続ける。

 庭のタンクに有害物質の水銀を貯蔵する男と、辺鄙な田舎町の温室の生態系を守ろうとする女とは水と油だが、ある時2人は唐突に愛し合う。ジャンは120分間、ダゲレオタイプの前で無理やり起立させるべくマリーを拘束する。女は背中を固定され、頭を固定された時に微かに喘ぎ声が漏れる。男と女の距離は数10cm、互いに視線を横にやりつつも、声や匂いだけは隠そうにも隠せない。ミア・ハンセン=ラヴやギヨーム・ブラックの映画に出演したコンスタンス・ルソーをヒロインに起用したものの、失礼ながらフランス映画ファンにはこのマリー役がコンスタンス・ルソーではなく、レア・セドゥだったらと何度も思わされる。中盤から徐々に理性を失い、精神の不均衡に狂って行くオリヴィエ・グルメの演技も、ダルデンヌ兄弟のリアリズムとは違って明らかな戸惑いに満ち満ちているが、このステファンの描写は観れば観るほど、『DOOR III』の諏訪太朗そっくりであることに、古くからのクロサワ・フォロワーは真に驚嘆する。トビー・フーパー監督の『悪魔のいけにえ』のように大それたドアを構える恐怖の屋敷に、私立探偵の諏訪太朗は侵入し精力すらも吸い取られたが、今作においてもステファンは聞こえない声、見えない残像に徐々に生気を吸い取られて行く。おまけに『トウキョウソナタ』の井之脇海のような階段落ちが再び炸裂する様は天晴というより他ない。中盤、ステファンに迫るドゥーニーズの亡霊は両腕を前に出しながら、スロー・モーションでゆっくりと家の主人へ迫る。その様子はJホラー全盛期の貞子と比肩するよりも、2001年の『降霊』における少女の焼印を想起させる。前後不覚に陥った主人公はヒロインに対し「ここではないどこか」への逃避を促す。黒沢清のフィルモグラフィに共通するように、ここでもうっかり主人公は思ってもいない言葉をヒロインに発する。「結婚しよう、あの教会で・・・」その結末がバッド・エンドなのかハッピー・エンドなのかは相変わらず観客の判断に委ねられているのだ。

【第494回】『クリーピー 偽りの隣人』(黒沢清/2016)

あらすじ・結末に触れていますので、これから観る方はクリックしないで下さい

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