【第494回】『クリーピー 偽りの隣人』(黒沢清/2016)

あらすじ・結末に触れていますので、これから観る方はクリックしないで下さい

【第263回】『岸辺の旅』(黒沢清/2015)


 映画を観る前に、まずは何よりもタイトルの『岸辺の旅』に驚嘆した。思えばこれまで黒沢映画において、岸辺はあまりにも重大な要素として何度も登場してきた。『神田川淫乱戦争』まで遡れば、近親相姦の親子の住むアパートとこちら側のアパートの間には、川が境界線としてそこにあった。『ドレミファ娘の血は騒ぐ』においても、ほぼ大学内の様子で構成された映画が、後半ピクニックの場面になってから物語が加速し始め、最後に沼地で洞口依子は歌を歌い銃を構える。そこでも背景には海が広がっていた。『勝手にしやがれ!!』シリーズにおいても、最初の撮影の順番では『強奪計画』よりも前にシリーズの口火を切る形で『脱出計画』が撮影された。そこではオーストラリアへの移住を決めた雄次たち御一行が、諏訪太朗の闇船で日本と世界の境界線へ足へ踏み込むが、すんでのところで日本に戻ることを決める。

『大いなる幻影』では主人公はいつか「ここではないどこか」へ行きたいと願うが、ある日恋人とやって来た岸辺において、かつてのように激しい愛が繰り広げられる。だがその海に目を凝らすと、白骨化した死体がプカプカと浮かんでおり、主人公は平和に見えた海の向こうでも戦争が起きていることを知る。『アカルイミライ』では、家の床から誤って離してしまったクラゲがやがて増殖し、東京中の川で目撃されるに至る。クラゲは明らかに死んだ浅野忠信を想起させ、業者が駆除にあたるも、クラゲは川と海との境界線をゆっくりと越えようとする。『回路』では『強奪計画』のラスト・シーンを踏まえ、麻生久美子は忘れ物を取りに家へ戻る。急いでボートへ戻って来ると、加藤晴彦はぐったりしていた。彼に最後の選択を迫ると、加藤晴彦は力ない声で「行こう」と言うのである。ここで岸辺という境界線から2人は新しい世界へと出発する。

『ドッペルゲンガー』でも映像としては出て来ないものの、せっかく作ったロボットを役所広司は岸壁の上から海へと投げ捨てる。『LOFT』ではクライマックス、海の辺にある桟橋の上で、2人の幸福な未来が横転するあっけらかんとした惨劇が起こる。『叫』では自分に恨みを抱く幽霊に対し、役所広司は何かの間違いだと人違いであることを力説するが、やがて彼ら一連の犯人の共通点に、15年前の岸辺に建つある施設で起きた悲しい事件を思い出すのである。このように黒沢清のフィルモグラフィにおいては、岸辺はあまりにも重要な意味を持つ。森も同じくらい重要なモチーフには違いないが、黒沢の岸辺への執着ぶりは、遂に今作において作品タイトルにまでなってしまったのである。

冒頭、シネスコ・サイズのフレーム内で、少女がピアノを弾いている。その様子を右側からカメラは据えるが、ピアノの先生の横顔は髪で隠れて見えない。その後、少女の母親からデザートでもてなされ、母親の一方的な会話にうなづく女性の表情をカメラが回り込んでフレームに収めることはない。その寂しそうな後ろ姿をじっと撮影した後で、相槌を打つヒロインの様子が一瞬だけ映る。これは『トウキョウソナタ』の導入分の演出とほぼ同様である。『トウキョウソナタ』でも冒頭、小泉今日子の家事をする様子が後ろ姿で示され、彼女は雨が吹き込んだ窓を急いで閉め、濡れてしまった床を拭いている。その後どういうわけか彼女は雨風の強い窓をもう一度開けるが、その理由は一切明示されることがない。

今作ではその後、スーパーの買い出しの場面ショットは映り、深津絵里は夫が好きだった白玉団子を作ろうと咄嗟に思いつく。彼女のいる部屋の空間は極端に暗い。台所の明かりだけがそのほとんど唯一の光源となる。団子作りに夢中になる女性は、ふと人の気配に気付き、真っ暗な後ろを振り向くと、そこには1人の男が静かに立っている。しかしながらこの微妙な光の方向性により、男の顔はある程度目視出来るものの、足があるのかどうかははっきりしない。そう思った矢先、木の床をブーツで歩く男の鈍い足音が一歩二歩と近付いてくるのである。このあまりにも厳格で的確な導入場面に一気に引き込まれる。かつて『花子さん』のエントリでも述べたが、黒沢映画における幽霊というものは、段々と生身の人間と遜色のない段階にまで入っている。

彼は3年前に妻の前から行方不明になった夫・優介(浅野忠信)である。突然彼女の前に現れた夫は、誤って土足で侵入し、「俺、死んだよ」と実にあっけらかんと妻に話すのだった。彼はここに戻ってくる旅の過酷さを淡々と妻に語りかける。その様子を妻もことさら驚いた様子を見せることもなく、一つの事実として咀嚼しているかに見える。この再会の場面だけで、2人の関係性がわかる見事な演出と、深津絵里と浅野忠信の静かに落ち着いた演技には舌を巻く。

今作は一見ラブストーリーにもメロドラマにも見えるが、ロードムーヴィーとしての側面を持つ。夫は妻に「見せたい場所があるんだ」と言い、2人は東京を離れ、夫が死ぬ間際の3年間の足取りを歩いていく。2人は次々に旅をしていく。最初はひとりで新聞配達をする孤独な老人の島影(小松政夫)。夫は彼が死んでいるのだと言う。妻に合わせると、「まったく似ていない、ガッカリした」という島影の妻は失踪し、宛先不明の妻は彼の死の知らせを受けていない。最初、深津絵里に対して冷たい態度を取った島影だったが、3人で生活をスタートさせていくと徐々に人間として活気を取り戻していく。

しかし皮肉にも彼の生の活気は、来るべき消滅の瞬間を想起させる。彼の消失のシーンの筆舌に尽くしがたい美しさには何度観ても涙がこぼれる。公園でワンカップ大関を飲んでいる酩酊した島影を、浅野忠信がおぶって家へ連れて帰る。家に着くと2人掛かりで階段を昇り、島影をベッドに寝かすと、後ろの壁の明かりがゆっくりと照らし始め、一面に花の切り絵の光景が拡がるのである。この最初から明るいわけではない空間の描写と演出には、黒沢の奇跡のような成長を感じずにはいられない。この作家としての地に足の着いた成長ぶりには目を見張るものがある。

また1件目の訪問ではとても印象深い場面がある。近所の商店でその日の夕食の材料を買った深津絵里が、商店の軒先を出てくると、いつものように島影が黙々と新聞配達をしている。彼に至近距離から声を掛ける深津だったが、返事はない。そのことが彼女を不安に陥れ、浅野忠信の元へと走って駆けつける場面に、小刻みに揺れるショットが挿入されたいたのを忘れるわけにはいかない。亡きトニスコの面影を感じずにはいられなかった。けれどそれ以上に島影との別れの場面はあまりにも雄大でただただ美しい。花の切り抜きに囲まれた部屋の光量が徐々にアップしていき、あまりにも壮観な光景がシネマスコープ・サイズのフレームの中に拡がる。しかしそれは島影のこの世への離別の挨拶だったことが明らかになる翌朝の光景が胸に迫る。そこで鳴り響く音楽と共に、我々は黒沢の死をめぐる不思議な哲学に導かれていくのである。まるでヒッチコックの『めまい』のような音楽が急に流れて来た時、黒沢は途方もない段階に足を踏み入れたのだと実感する。

2つ目に訪れた小さな食堂では、夫は餃子を包む器用なところを見せる。家では料理なんてしたことないのにと妻は言うが、この場所が気に入り、定住したいと妻は言い出す。そんな妻の様子に対し、近い将来あちらの世界からお呼びがかかる夫はYESともNOとも決して言わない。黙って妻の意思を見守っているのである。やがてこの家にあるピアノが物語の重要な要素になるが、この場面は涙なしでは観られない。試写で観た時も劇場で観た時もこの場面には激しく泣いた。映画の冒頭部分の深津絵里の姿がこの場面にかかっているのである。ここでは1つめの訪問の場面とは打って変わり、明るかった部屋は妹の登場からゆっくりと照明が落ちていく。その光量の増減の素晴らしさと光と影の織りなすドラマが今作を支えているのである。村岡希美扮する妻のフジエの横座りはまるで小津安二郎の映画のように我々の感情に迫る。この場面はあの導入部分のピアノの先生としての深津絵里の態度や理念さえ感じさせる。

3つ目の場所に向う途中、何やら突発的にバスの車内で夫婦の感情は高ぶり、軋轢を迎えることになる。夫のとっくに終わっていることだという言葉に対し、妻の反応はいかにも過剰で冷たい。原作も読んだが、原作では東京での物語は3年前の過去の物語として展開するが、この回想の叙述スタイルに黒沢は難色を示し、無事に回避したと言ってもいい。これまでも何度も述べてきたように、小説における過去の描写が映画の話法にはない。映画は現在から未来に向う物語にしか、観客をひきつける術を持たない特殊なメディアである。それは黒沢自身がかつての自作の欠点から導き出した答えであり、映画の決定的な真理である。『回路』の叙述形式の失敗や『贖罪』での経験を踏まえ、黒沢は今作を語る上で過去の叙述を徹底的に嫌った。だが一つ例外的に深津絵里は蒼井優と決着をつけるために、前へ前へと向かう推進力とは真逆の方向へと向う。浅野忠信がかつて勤めていた東京の大学病院に戻るのである。ここでの場面はまるで成瀬巳喜男のような緊迫したやり取りを生む。深津絵里と蒼井優の静かな対立は、『贖罪』以来のどろどろした女たちの世界にフォーカスしていく。

最後に訪れた山奥の農村は、明らかに『勝手にしやがれ!!英雄計画』での退去報道に揺れる町の空気を想起させる。彼は死の直前、科学と宇宙の真理を紐解く話し手として町の信頼を一手に集め、この町の救世主として居座ることになる。彼の講話の場面でも、またしても光の拡散が観るものを惹きつけてやまない。2回目の講話の際にオレンジ色の電球が一番後ろの人がスイッチを入れた瞬間、奥から手前に向けて1列の電球がゆっくりとついていく。しかしながらこのことが浅野忠信の残り僅かな瞬間を強烈に連想させるのである。

タカシに弁当を届けようと、山に入った深津絵里は思いもかけずにダムを目撃する。タカシの聞いた町の噂によれば、ここはこちらの世界とあちらの世界の境界線として存在することが説明される。まるで『回路』における開かずの間のように、この世とあの世の境界線を分ける部分が、滝の向こう側にあると知らされた深津絵里は、一度はそのラインを越えようとするも躊躇う。やがてそこで思いがけない人物と出会い、彼女がこちら側の世界にいる意味を考えさせられ、思い留まらせる。ピントが合ってない人物のアップは、まるでデヴィッド・リンチのようで大変困惑した。あの場面だけはアフレコだったのも実に憎い演出である。彼は夫を憎んでいるが、あえて迫害しようとはしない。その不可思議な警告が、クライマックスへと向かう彼女の気持ちにどう作用したのかは、私があえて言うまでもない。

奥貫薫の夫のタカシの葛藤と出現はあまりにも突拍子もない展開だと言えるが、タカシの思いはわからなくもない。ここで黒沢映画特有の唐突な森が姿を見せ、木々の緑が厳格な態度を見せる。靄に包まれた森の中の光景はおそらくCGで霧を足しているのだと思うが、まるでこれまでのホラー映画における半透明カーテンのように、こちら側の世界に対し、あちら側の世界があることを否応なしに想起させ、生と死の葛藤が始まる。浅野忠信はあくまで浅野忠信としてそこにいる。便宜上切り取られた映像は2組の夫婦のスペクタルを告げるが、その出来事がより一層、瑞希と優介の離別の瞬間を予感させる。

今作における夫婦の発言の中に、「ここではないどこか」へ行こうという発言は遂に聞くことがない。むしろ深津絵里は浅野忠信に対し、「家へ帰ろうよ、一緒に帰ろうよ」とやんわりと帰還を促すのである。別れの季節は否応なく2人に訪れることを2人は知っている。夫は決して「あの世へ行こう」と妻を誘い込んだりはしない。深津絵里の今が一番幸せという言葉を夫は尊重し、今作では遂に夫の口から「ここではないどこか」へ行こうという言葉を聞くことはない。そのことに黒沢清の踏み出した新しい可能性への萌芽はしっかりと見て取れる。『トウキョウソナタ』同様に、ここには黒沢の普遍的な物語への思いがありありと感じられるのである。

クライマックス前のラブ・シーンには驚いたと同時に、40年近く回避していた愛情表現に黒沢映画が遂に到達したのだと感慨深い思いで見つめていた。深津絵里のブラウスはモンペの中に入り、簡単に脱がすことは出来ない。そのブラウスのボタンを浅野忠信はゆっくりと一つ一つ外しながら、やがてゆっくりと彼女と肌を合わせる。よくよく考えれば幽霊とSEXが出来るのかとヒヤヒヤしたが、ここで夫婦は最後の愛を確かめ合うのである。

90年代以降、2000年代の黒沢の映画音楽とは、足し算よりも引き算が好まれた。その音楽はベタ敷きではなく、むしろ極端に簡素な音であり、ノイズでもあった。特に2000年代以降のホラー映画においては、音楽以前の原始的ノイズがその場の空気に作用していた。『スウィートホーム』や『地獄の警備員』の頃のハリウッド映画への無邪気な模倣は90年代後半以降、ほとんど見られなくなったが、今作ではあえてその流れに逆行するかのように、オーケストラを交えた優雅な音楽が展開している。黒沢の意図はメロディ+ドラマのメロドラマに正しく向かっているのである。音楽はもちろん、撮影や照明、脚本に至るまで、これまでの黒沢映画の要素はしっかりと散りばめつつも、より普遍的な夫婦の物語へ足を踏み入れた黒沢の落ち着き払った才気を、成熟と呼ばずに何と呼べば良いのだろうか?

【第262回】『Seventh Code』(黒沢清/2014)


 黒沢は前作である短編『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』とほぼ同時期に今作をロシアで撮る。おそらくこちらの方が撮影は先だったが、公開は『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』の後になった。もともと前田敦子とは黒沢清監督で1本M.V.を撮る約束があり、それを果たす形で今作は撮られた。2000年代の黒沢は2度の空白期間を経験し、映画監督としては決して恵まれている状況とは言えなかった。『トウキョウソナタ』も日本だけでは製作資金が工面出来ず、オランダや香港に出資を求めた。黒沢のような名のある監督であろうが、それだけ日本映画界の状況は厳しさを増していた。もともと前田敦子は、製作中止となった『一九〇五』でも主要な役柄でキャスティングされていた。今作はそのリベンジとして、日本から遠く離れたロシアで撮影された。

秋子(前田敦子)はある男を追い求め、ロシアのウラジオストクまでやって来る。再会した松永(鈴木亮平)は、秋子を覚えていなかったが、外国では絶対に人を信じてはいけないと言い残し、姿を消す。秋子はお金に困り、日本人の斉藤(山本浩司)が営む食堂で働きながら、松永を探し続ける。ある日、マフィアたちの出入りがあるこの街の廃工場に松永と思しき人物が出入りしていると、斉藤から情報が入る。斉藤からこれ以上松永に近寄らない方がいいと忠告されるが、秋子は松永が出入りしている廃工場へ向かう……。

今作では導入部分で一組の男女が車に揺られてどこかへ向かう描写がない。秋子は既にロシアに入国し、トランク1個ぶら下げて街の中を彷徨っている。やがてこの広い街の中で松永という男を見つけ話しかけるが、男ははっきりとは覚えていない。この場面を観て真っ先に思い出したのが、『蜘蛛の瞳』の導入部分である。復讐を終えて抜け殻のようになった新島の元に岩松という名の男が親しげに話しかける。新島は何とか記憶の糸をたどり、岩松を思い出そうとするが出て来ない。今作においても松永は秋子に覚えがあるのかどうかはっきりしない。彼は明らかに裏のシンジケートに精通する闇の男であるが、秋子に対しては優しく忠告するのである。

映画は秋子がどうして松永に執着するのかを明らかにしない。腹が減った秋子は、日本人レストランで無銭飲食をし、ちゃっかり雇ってもらうことになる。まるで入れ子構造のように、秋子が現れるとほぼ同時に、斉藤と付き合い、この店を1年間盛り立てていたシャオイェンはこの店と街を捨てる覚悟を決める。ここでもシャオイェンの言動はあまりにも哲学的で意味ありげで、実に深い含蓄ある言葉を観客に残し去っていく。「力が欲しいからお金を稼ぐんじゃないの?」という言葉を残して、女は更に先へ先へと歩みを進めるのである。

思えばここ数作における男女のあり方は完全に逆転してしまっている。90年代の黒沢映画においては、男性の主人公の力が絶対であり、女性はそれに従属する形で家庭にいることが多かった。それが2000年代になる前、端的に言えば『大いなる幻影』あたりから、男性が主人公である場合も、主人公に連れ沿うパートナーの方が主人公よりも聡明で、今を生きていこうと必死でもがいていた。『大いなる幻影』のミチもそうだし、『回路』におけるミチも同様である。『LOFT』ではクライマックス、愛を誓い合った橋の突端から男だけが消えてしまった。『トウキョウソナタ』では会社をリストラされた父親の威厳ばかりを気にする姿が妻の失望を買い、彼に冷笑の末、心底投げやりな言葉を投げかけていた。

それは『贖罪』になる頃にはもっと顕著になっている。第1話ではフランス人形しか愛せないペドフィリアの男性が最終的に殺され、第2話では生徒からの信頼も厚い男性教師が、プールを逃げ惑い女教師の助けを借りたことで謹慎を命じられる。第3話では家族の不均衡を一手に引き受けることになった妹が、最愛の兄の首を絞めて殺してしまう。第4話では幼い頃から姉を憎み続けた妹が、姉の旦那を誘惑し、子供を授かるのだが、その知らせを受けて冷淡になった男を、階段から突き飛ばして死なせてしまう。このように2000年代の黒沢映画では女性が男性を殺したり、不幸に落とす描写が目につくのである。半ば例外的なホラー映画である『叫』においても、赤い服を着た女の幽霊は伊原剛史を残酷に殺してしまう。

今作においてもその「女性上位」の流れは踏襲されている。秋子と松永の関係性の中に、最初は何の因果関係もなかった斉藤が触発されてしまう。彼は「1億円を稼ぐ」とシャオイェンを口説き落とし、小さなレストランを開業するが店内の状況はさっぱりで、毎日閑古鳥が泣いている。男は全てを失いかけているのだ。そこに降ってわいた松永の登場に、人生の一発逆転を掛けるが無残にも散って行く。まさに「無駄死に」の人生だった斉藤の死を秋子が看取る。

クライマックス、道路をとぼとぼ歩いていたのも計算だったとしたらかなりやり手だが、松永は秋子を心配し、部屋に招き入れる。スタンガンを仕込み、絶対に有利だと思われた松永がまさかの展開に持って行かれる。ここでは『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』の三田真央同様に、ガン・ショットではない武術に長けた女の強さが光る。明らかに黒沢は『勝手にしやがれ!!』シリーズの終盤のように、アクションをやりたい願望がかなり高まっているのがわかる。秋子とはいったい何者なのか?クライトロンの行方にはある大物クライアントが関与していることがわかり、遂に秋子の正体が明らかになる。

アイドル映画としてはここで結びでもまったく問題ないが、黒沢は最後の最後に自分の刻印を残している。前作では初めてのシネスコに挑戦し、今回は勝手も分からないロシアで今作をスケジュール通りに仕上げた黒沢は、明らかに来るべき次のステップを見据えていた。前作の短編と今作の中編で、『岸辺の旅』に引き続き、フランスで撮られた『銀盤の女』と久しぶりの本格サスペンスとなる『クリーピー』を見据えた予行演習は、既に黒沢の頭の中で出来上がっていたのかもしれない。

【第261回】『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』(黒沢清/2013)

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 2012年の夏、黒沢は『リアル 完全なる首長竜の日』をクランク・アップしてから別のプロジェクトへ取り掛かる。それが例の『一九〇五』である。『トウキョウソナタ』でオランダや香港から出資者を募り、映画を製作した経験から、黒沢は国際マーケットを強く意識した活動へとシフトしていく。この『一九〇五』は日本・中国合作映画として製作されるはずだった。主演はトニー・レオン、日本からは松田翔太と前田敦子の出演も決定しており、2012年末からのクランク・インを予定していた。松田翔太は既に中国語の特訓に入っており、前田敦子にも中国語の演技指導がついた。黒沢とトニー・レオンも2009年、『トウキョウソナタ』がアジア映画祭で大賞を受賞した際、初めて言葉を交わし、足掛け3年で企画・構想をゆっくりと練っていったという。

物語は1905年を舞台にしており、帝国主義というグローバリズムが世界を覆い、人々が革命に熱狂した激動の時代。西欧諸国の脅威にさらされていた日本と中国。清朝が革命前夜にあるなか、日本の近代化を学ぶために多くの中国人が留学生として来日し、日本人と深い交流を持っていた時代でもあった。そんな歴史的背景が絡み合うなか、トニー扮する高利貸しの楊雲龍(ヤン・ユンロン)は、5人の男に貸した金を取り立てるため日本へやってくる。時期を同じくして、松田演じる国粋主義者のグループ「報国会」のメンバーである加藤保は、香港育ちで中国語が話せるため、国家の命を受け5人の中国人革命家の強制送還任務を言い渡される。運命に吸い寄せられるかのように出会った楊と加藤は、目的こそ違うものの利害が一致し、協力して5人を追うようになるという物語だった。

しかしながら当時の日本と中国の関係は尖閣諸島問題の影響を受けて急速に冷え込んでおり、企画・製作を行うプレノン・アッシュは思うように中国から資金が調達出来ず、資金繰りが悪化。遂には破産手続きに入り、事実上の倒産となる。こうして台湾と日本での大規模ロケの計画もあった『一九〇五』は製作中止となる。反日感情の高まりにトニー・レオンは『一九〇五』の企画を受けた覚えはないと公式に否定。黒沢清とトニー・レオンの夢のプロジェクトは幻と消えた。

次いで香港映画祭から黒沢に映画祭用の短編作品を撮らないかというオファーがあり、ちょうど東京藝大の7期生の終了作品を作る時期で、黒沢の監督・脚本に学生スタッフを起用し、30分の短編として作られたのがこの『ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト』である。

湾岸地帯の再開発を目論む「ビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクト」の企画・立案もする新進気鋭の若手社長・天野宏(柄本祐)は視察に訪れた埠頭で、美しい湾岸労働者の谷川高子(三田真央)に一目惚れしてしまう。以来、高子にあの手この手で猛アプローチをする天野だったが、高子にとって天野の存在は眼中にない。しびれを切らした天野は高子のネームプレートを奪い逃走、会社に立て籠もり、高子の侵入を阻止しようとするのだが・・・。

冒頭、汽笛が鳴り、一人の男が車に乗っている。湾岸エリアに降り立った男は助手の男性の話を聞きながら、双眼鏡を覗き込む。するとそこには作業着姿の労働者に混じり、美しい女性が黙々と作業を続けている。男は思わず「あっ」と声を上げ、その勢いで前方にある黄色い線を飛び越えようとするが、助手の男性の制止に遭うのだった。今作も「領域」に関する物語が頭をもたげる。埠頭の床に便宜上設けられた黄色い線は、その先では新型のノロ・ウイルスが猛威を振るっていることの警告を意味する。その黄色い線がこちらの世界とあちらの世界の境目としてふいに立ち現れる。天野はその黄色い線を躊躇なく飛び越え、相手のフィールドへと踏み込むのである。

何もかも自由に出来る二代目社長として、地位も名誉も手に入れた天野は高子に猛烈な愛を伝えるが、高子は「私に近づくと危険だ、ケガするぞ」と静かな警告を発する。その後の高子の独白の場面は黒沢らしからぬ堂々とした外し方である。キラキラと光る海を背景に、クローズ・アップ・ショットで据えられた高子はカメラ目線でこちらに向かって話しかける。まるで神話の女神のような三田真央の佇まいに、黒沢の正気を疑う呆気にとられる名場面である。「わたしは海の底で生まれた。そこは弱肉強食の世界・・・」彼女の口から語られる新しい世界の秩序に魅了されると共に、更なるミステリーへと引き込まれる。

やがて天野は更なる猛アプローチをかける。「ここではないどこか」へ行こうという問いかけが天野の口から発せられた時、やはり今作も領域の映画なのだと悟る。何の気なしに彼の口から発せられた行き先はまたもやアメリカである。しかしその男の猛アプローチにも、ここを気に入っているからと高子は彼の口車に乗せられることはない。まるで『勝手にしやがれ!!英雄計画』の寺島進と黒谷友香の兄妹のように、権力を行使する者と労働者のどうしようもない階級の壁(領域)が立ちはだかっていることを自覚した時、天野はついに最終手段に打って出るのだった。

クライマックスのアクション・シーンは三田真央の身体性もさることながら、遂に黒沢がシネスコ・サイズでアクションを撮ったことに感嘆を禁じ得ない。しかも藝大の学生による修了作品でシネスコをしれっと選択するあたり、流石に黒沢は凄い。逃げまどうビューティフル・ニュー・ベイエリア・プロジェクトの人々、彼女に挑みかかる警備員、ロング・ショットによるアクションの攻防はなかなか大胆で目が離せない。その後オフィスの階層を上がり、大男との1対1の対決が待つのだが、スタローンやシュワルツェネッガーのマッチョな肉弾戦に対し、三田真央のしなやかな肉体は時に躍動し、締め技さえも決めようとする。暴力警備員がガラスに突っ込むところなどやはり黒沢はアクション・シーンにも長けている。ここでは地獄の警備員でさえも彼女の前では歯が立たない。

階段での攻防を終え、ラストの社長室での攻防から、追いかけっこがまた始まるが、随分あっさりと袋小路へと追い詰められる天野。ここでも水辺が攻防の舞台となる。ラストの変態的な舌には初めて映画館で観た際、腹を抱えて笑った。黒沢が時折見せる筒井康隆的なナンセンスな世界が垣間見える場面である。ある程度のバジェットもあり、ヒット作を出すことを課されていた『リアル 完全なる首長竜の日』のプレッシャーから解き放たれ、今作では黒沢のやりたい放題が久しぶりに爆発した感がある。またここでのシネスコ・サイズの選択は、今後の新しい黒沢映画を占う意味でも大変興味深い。

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