【第384回】『ヘイトフル・エイト』(クエンティン・タランティーノ/2015)

結末・あらすじに触れていますので、これから観る方はクリックしないでください

【第292回】『ジャンゴ 繋がれざる者』(クエンティン・タランティーノ/2012)


 タランティーノは前作『イングロリアス・バスターズ』において、ヨーロッパではタブーとされるナチスのホロコーストの歴史に焦点を当てた。家族を皆殺しにされ、改名しフランス人として生きる主人公の前に、ふいに家族の仇であるヒトラーとゲッペルスが現われる。史実から言えばまったく有り得ない話なのだが、映画は嘘が許されるのだと言わんばかりのタランティーノの演出に、半ば呆れながらも、最高のエンターテイメントとして大いに楽しませてもらった。

そこに来て目下のところ最新作は、黒人奴隷問題である。奴隷制度をめぐる対立が色濃くなる1859年のアメリカ南部において、富裕層の白人が黒人を奴隷とし、これでもかと痛めつける様子が随所に出て来る。これに烈火のごとくキレたのが、90年代に黒人映画ブームを巻き起こしたスパイク・リーであった。彼曰く「この映画は私の先祖を愚弄している。アメリカの奴隷制はセルジオ・レオーネのマカロニ・ウエスタンではない。ホロコーストだ。私の先祖は奴隷だ。アフリカから盗まれた。彼らに敬意を払う」と述べ、絶対にこの映画を観ないとまで語っていた。このスパイク・リーの発言は十分に理解出来るものの、一方ではある矛盾も孕んでいる。どうしてリーは、今作がセルジオ・レオーネのマカロニ・ウエスタンだと認識出来たのだろうか?

南北戦争勃発前夜のアメリカ南部。賞金稼ぎのドイツ人歯科医キング・シュルツ(クリストフ・ヴァルツ)は、お尋ね者三兄弟の顔を知る黒人奴隷ジャンゴ(ジェイミー・フォックス)を見つけると、彼を奴隷から買い上げ、お供に連れて三兄弟の追跡に繰り出す。その後、ジャンゴの腕を見込んだシュルツは、彼を賞金稼ぎの相棒にして2人で旅を続けることに。しかし、そんなジャンゴが真に目指す先は、奴隷市場で生き別れた最愛の妻ブルームヒルダ(ケリー・ワシントン)を探すことだった。やがて、彼女が極悪非道な農園領主カルビン・キャンディ(レオナルド・ディカプリオ)に売り飛ばされたことを突き止めたジャンゴとシュルツ。2人はキャンディに近づくため、ある周到な作戦を準備する。

冒頭、『ジャッキー・ブラウン』以来、久方ぶりの最高に格好良いタイトルバックに痺れる。ゴツゴツした岩場をカメラはゆっくり後退しながらパンしていくと、足を鎖で繋がれた黒人たちがゆっくりと歩いている。その背中には何回も何十回もムチで打たれて爛れた皮膚が映し出され、BGMにはセルジオ・コルブッチの『続・荒野の用心棒』のメイン・テーマが流れている。心なしか赤色のタイトル文字もセルジオ・コルブッチが手がけたマカロニ・ウエスタンによく似ている。そう、今作はスパイク・リーが言うようなセルジオ・レオーネの真似ではなく、その亜流と呼ばれたセルジオ・コルブッチの諸作である『続・荒野の用心棒』や『殺しが静かにやって来る』にオマージュを捧げているのである。

確かに今作は、19世紀の白人による黒人奴隷たちへの差別意識を題材にしているが、その実タランティーノに正当な西部劇など作る気はさらさらなかったと思っていい。これまでのタランティーノ作品では、「裏切りと復讐」のモチーフが何度も登場したが、今作では最初からこの「復讐」が1本の線として明確に提示される。つまり今作はこれまで以上に単純明快な、主人公ジャンゴによるお姫様奪還劇なのである。

ドイツ人歯科医キング・シュルツによって、鉄の鎖を解かれたジャンゴは、白人と同じように正装し、馬に乗っている。その光景自体が南部の田舎町の人々にとっては好奇な光景にしか見えない。肌の色が黒い人間が、あたかも白人と同じように振る舞い、時にはブルジョワジーである白人にさえ盾突く。その異様な姿は、シュルツとジャンゴがカルヴィン・キャンディ(レオナルド・ディカプリオ)が営むキャンディランドという農園に着いた時に沸点を迎える。キャンディはスティーヴン(サミュエル・L・ジャクソン)という執事に客人を持て成すよう求めるが、彼は自分と同じ黒人であるジャンゴに対し、あからさまな不快感を露にする。

思えば『ジャッキー・ブラウン』においても、CAである主人公は、サミュエル・L・ジャクソン扮する武器商人の指示で麻薬を運んでいた。彼女は警察の世話になると同時に身の危険を感じ、サミュエル・L・ジャクソンのご機嫌を取ろうとする。ここには白人vs黒人の単純な図式には収まらないアメリカ合衆国の病巣が隠れていた。南北戦争勃発前夜のアメリカ南部において、白人が多くの黒人を奴隷のように扱っていたのは紛れもない事実であるが、その富裕層の白人たちに媚びて取り入っていた黒人も存在したのである。彼らは自分たちと同じ黒人をひたすら軽蔑し、白人オーナーのご機嫌を取ろうとする。彼らの姑息なご機嫌取りが、とんでもない事件へ誘い込む食卓の場面は実にスリリングで目が離せない。

前作『イングロリアス・バスターズ』のエントリの中で、タランティーノの専売特許だったテーブル上での過剰な馬鹿話が、サスペンスとしての重要性を帯び始めたことは昨日のエントリでも述べたが、今作も例外ではない。シュルツとジャンゴはマンディンゴ(久しぶりに聞いた言葉だ)を買う交渉をすると見せかけて、最初からドイツ語が話せる女性奴隷であるブルームヒルダを買うことが目的なのだ。そしてその計画は見事に成功しかけているかに見えた。しかしギリギリのところで、スティーヴン(サミュエル・L・ジャクソン)がジャンゴとブルームヒルダの間に漂うただならぬ関係性を見抜いてしまう。テーブルの下に握られたジャンゴの銃は、何度も手がかかるが、すんでのところで我慢する。この静かな交渉パートが、アクション・シーン並みに気の置けないサスペンスを生んでいる。スティーヴンは女の幸福と絶望に満ちたその瞳から何かを感じ取り、キャンディにシュルツとジャンゴが嘘をついているとはっきり進言するのである。

続くキャンディの独演会の場面は、恥をかかされた男の復讐の場面となる。真意の計りかねるなかなか先の見えない話術の中に、レオナルド・ディカプリオが受けた辱めと怒りが同時に見え隠れし、勝者と敗者はあっさりと形を変える。前作『イングロリアス・バスターズ』におけるユダヤ人を探し出すクリストフ・ヴァルツのしたたかな交渉術を、今度は逆にクリストフ・ヴァルツがディカプリオから受ける格好になり、やがて静かなネゴシエーションが一発の銃声からなだらかに残酷なアクションへと舵を切るのである。

このアクション場面は、潤沢な資金を持ったタランティーノがいよいよ自らの刀を抜いた感がある。ジョン・ウーやジョニー・トーのようなスピーディな銃撃戦の中に、ペキンパーのような様式化されたスロー・モーションが入る活劇は、これまでの映画とは破格のテンポを帯びている。ジョニー・トーと言えば、今作のアクションは彼の2000年代では幾分かレベルが高い『エグザイル/絆』の銃撃戦によく似ている。結果、再び鎖につながれ逆さ吊りにされたジャンゴが猿轡を嵌められ、悶え苦しむ場面を見て、『パルプ・フィクション』のヴィング・レイムスとブルース・ウィリスの猿轡を真っ先に思い出した人も多いはずだ。これは「裏切りと復讐」並みにタランティーノが何度も繰り返している「拷問」場面に他ならない。絶体絶命の危険な状態に置かれたジャンゴは、やがて起死回生の交渉術に打って出る。

クライマックスの活劇の問答無用の痛快さは、まさにタランティーノの真骨頂であろう。前半部分に複雑な心理戦を突き詰めて描き、クライマックスでは一発の銃声から一気に痛快な活劇へとなだれ込む。この実に明快な物語の必勝パターンを築き上げたタランティーノの近年の姿からは、もはや『ジャッキー・ブラウン』や『キル・ビル』の頃の石橋を叩いて渡る慎重さは見るべくもない。ある種タランティーノの自信と開き直りこそが、21世紀のQTの快進撃を支えているのである。

タランティーノは来年公開予定の70mmフィルムの上映のために、既に廃業した映写技師を200人再雇用し、アメリカでの上映に万全の体制で臨むという。その溢れるフィルム愛には感心する。だが単なる一過性の動きに留まらず、これからフィルムでの上映体制を維持するために、タランティーノやPTA以外にも多くの作家が声を挙げてほしいものである。

【第291回】『イングロリアス・バスターズ』(クエンティン・タランティーノ/2009)


 クエンティン・タランティーノの25年にも及ぶフィルモグラフィを俯瞰で眺めた時、一番危なっかしく思うのは間違いなく『キル・ビル』前後編であろう。デビューから順風満帆に見えた彼のキャリアが『ジャッキー・ブラウン』で思うように立ち行かなくなり、数年の停滞の後、21世紀に入って『キル・ビル』を撮る。その間彼が何をしていたかと言えば、世界のシネフィルとしての立派なプロパガンダと、盟友ロバート・ロドリゲスの補佐としてのプロデュース・ワークである。

アメリカには監督もプロデューサーもするスティーヴン・スピルバーグという物凄い偉人がいる。この人のメーターがプロデューサーか監督かどちらか一方に振り切れることはまずない。スピルバーグの凄いところは、もはや映画なんか撮らなくても大丈夫なほどの億万長者でありながら、数年に一度、映画監督として自らのフィルモグラフィの豊かさを維持し続けていることである。それとは対照的にフランスには自分の才能の限界に早々と見切りをつけ、プロデューサーとして辣腕を振るうリュック・ベッソンという男もいる。

『ジャッキー・ブラウン』以降のタランティーノも、このプロデューサと監督の狭で揺れていたに違いない。デビュー作『レザボア・ドッグス』の世界の批評家筋の絶賛があり、2作目『パルプ・フィクション』でパルムドールを採り、脚本を務めた『トゥルー・ロマンス』や『ナチュラル・ボーン・キラーズ』や『クリムゾン・タイド』は大ヒットし、90年代中盤まではまさに向かうところ敵なしの快進撃が続いていた。そこに来て自信満々で挑んだ『ジャッキー・ブラウン』が商業的にも批評家筋にもコケ、初めて大きな挫折を味わったはずである。

その挫折の後の大きく揺らいだ自信というものが、『キル・ビル』の画面からはありありと感じ取れる。観客に対して、批評家に対して、日本映画や香港映画に無邪気にオマージュを捧げているように見えるが、実はアメリカ映画に真正面から向き合っていない。どこかちぐはぐな印象を特に前編である『キル・ビル』から感じるのである。vol.2ではその精神的トラウマからのリバビリがある程度上手くいって、徐々にタランティーノらしさが見られたものの、彼の長所でも短所でもある冗長な台詞回しはすっかりなりを潜めてしまった。

だが結果的に、恐る恐る撮った『キル・ビル』前後編が、自信満々で撮った『ジャッキー・ブラウン』よりも興行的に遥かにヒットを収めたことで、タランティーノはこれでいいんだと息を吹き返すことになる。もしあの時『キル・ビル』が興行的に惨敗していたら、間違いなくタランティーノのキャリアは今とは別の方向に向かったはずである。その後の『デス・プルーフ in グラインドハウス』の肩に力の入っていない真に痛快な面白さは、明らかに『キル・ビル』大ヒットの余波に乗って製作されたものである。それから2年後、今作の登場である。

『イングロリアス・バスターズ』は監督8作目にして、エンツォ・カステラッリのイタリア映画である『地獄のバスターズ』のリメイク作品である。1941年、フランスの田舎町ナンシー。ナチスのハンス・ランダ大佐(クリストフ・ヴァルツ)が、ある農場主の家を訪れる。“ユダヤ・ハンター”の異名を持つ冷血漢ランダは、巧妙な話術で農場主を追い込み、床下にユダヤ人一家を匿っていることを白状させる。ランダの部下たちは床下に向けて一斉に射撃を開始。だが、一家の少女・ショシャナ(メラニー・ロラン)だけは銃弾を逃れ、逃げ去る。

冒頭、畑仕事をしている農場主の後ろに、2台の車がゆっくりと近づいてくる。その気配を感じた農場主は、女たちに家の中に入るよう命令する。男は不安を隠すために、一人の女に水を汲んでくれと伝える。女は水を汲んで農場主に渡すと、お前も中に入っていなさいとたしなめるようにつぶやくのである。やがて明らかに農場主の家の前の道に停まった車から、1人の男が出て来て、農場主に親しげに語りかける。農場主は屋敷に入れることなく、その場で立ち話で帰す腹づもりだったが、その希望はあっさりと大佐の巧妙な話術によって覆される。屋敷に入ると、大佐の口ぶりは一層巧妙になり、レア・セドゥらユダヤ人たちの目は明らかに怯えている。おそらくこの農場では、主人が女たちを一手に匿い、男手がない中、何とか生活してきたはずである。だがそんな大黒柱の逞しさよりも、遥かに力のある大佐の悪知恵は、やがて農場主を追い詰め、一切を白状させることになる。

第1章と題されたこのシークエンスのシリアスさには、文字通り目を見張る。時に軽妙なやりとりに逃げていたタランティーノの映画が、ここに来て明らかにシリアスな雰囲気を讃えていることに誰もが驚くはずである。農場主の靴から、やがて屋敷の地面の底には二重に敷かれた空間があることを観客に開示する。そこには先ほどの女たちが、農場主の弁論の勝利を信じて、祈るような気持ちで隠れている。ここでも『キル・ビルvol.2』同様に、横になる女性のイメージが浮かび上がるのである。だがその願いも空しく、彼女たちは無残にも殺されてしまう。そこで1人残ったショシャナ(メラニー・ロラン)という少女を、ランダ大佐(クリストフ・ヴァルツ)は無理に殺そうとしない。そのことが後に決定的な災いをもたらす羽目になるのである。

今作はジャンル映画としては「戦争映画」に違いない。ナチス占領下のフランスを舞台に、バスターズと呼ばれる連合軍側の秘密部隊と、“ユダヤ・ハンター”の異名を持つ冷血漢ランダ、そしてランダ大佐に幼少時代、家族を皆殺しにされたことで、ナチスへの復讐に燃える若いユダヤ人シャシャナの三つ巴の攻防を描いている。しかしながらここで描かれているのは、ナチスvsフランス軍の戦争そのものではないし、史実としての第二次世界大戦でもない。これまでのクエンティン・タランティーノのフィルモグラフィと同様に、実は何てことない「裏切りと復讐」の主題が繰り返されているのである。

若いユダヤ人であるショシャナ(メラニー・ロラン)は、フランス人ミミューに改名し、映画館主としてユダヤ人であることを隠しながら生活する。彼女はドイツ軍の迫害のトラウマを常に抱えて生きているが、あろうことか250人もの連合軍兵士を殺したドイツ軍の若い兵士で英雄であるフレデリック(ダニエル・ブリュール)という兵士に惚れられたことで、若き日の傷が再び疼くのである。このシャシャナとフレデリックの出会いの場面が何とも言えず素晴らしい。彼女はレニー・リーフェンシュタールの山岳映画を上映し、ドイツ映画特集の看板を付け替えているところに、フレデリックに声をかけられる。意図しない出会い、残念な出会いと言えばいいのだろうか?しかしその出会いがやがて彼女に復讐の機会を与えることになる。

タイトルでもある“イングロリアス・バスターズ”はシャシャナの復讐とは別に、ナチス総統ヒトラー(マルティン・ヴトケ)を苛立たせる。ユダヤ系アメリカ人を中心にしたこの組織を率いるのはアルド・レイン中尉(ブラッド・ピット)。カリスマ的な指導力を持つ彼はナチスの皆殺しを指示、ドニー(イーライ・ロス)やヒューゴ(ティル・シュヴァイガー)といった血気さかんな部下たちと共にドイツ軍に恐れられていた。彼らは時に「拷問」も厭わない残忍さで、ナチスの青年将校たちを次々に殺していた。ここでのブラッド・ピットと仲間たちの振る舞いは明らかに狂気じみている。ここでも『レザボア・ドッグス』のマイケル・マドセンの警官への拷問の場面からタランティーノが繰り返し描いてきた直視出来ない拷問のモチーフが登場する。

今作を最も特徴づけているのは、何気ない無駄話の質的変化であろう。流石に第1章の荘厳なショットの並びと役者たちの緊迫したやりとりほどではないが、今作では卓を囲む人間たちのやりとりが、そのまま生死に関わる重要な問題に直結する。例えば、英国の二重スパイでドイツの人気女優ブリジット(ダイアン・クルーガー)にバーで接触する場面、ここでは卓を囲む男女がゲームに興じるが、一人のドイツ人の疑惑によって、一触即発の雰囲気を醸し出しているのである。彼が気付いたのは、独特のイントネーション(訛り)であり、それはその土地に生活する者にとっては、本物と偽物を分かつリトマス試験紙にもなり得る。彼女たちは一見、馬鹿話をしているように見えるが、実際にはその質はある意味、銃撃戦以上の緊迫感を生んでいるのである。

それは終盤、映画館のロビーでの、イタリア人を偽装したブラッド・ピットたちと、クリストフ・ヴァルツのやりとりも例外ではない。彼らは一見、中身のない無駄話をしているように見えて、必死に相手のボロを探り出そうとしているのである。いや、クリストフ・ヴァルツは明らかにこの男たちが嘘をついていると見抜いている。彼は第1章の農場主との対話と同じように、この場の駆け引きに勝っているのである。しかし敵は彼ら一組ではなく、三つ巴の攻防に含まれていることを、残念ながらクリストフ・ヴァルツは知る由もない。

クライマックスのナチスのプロパガンダ映画を観て大笑いするヒトラーとゲッペルスのやりとりは、だいぶ誇張されたエンターテイメントに帰する。この手癖は、ヨーロッパ映画の作家やアメリカ系ユダヤ人の作家には絶対に真似出来ない芸当である。ラストの爽快さは、チャールズ・チャップリンの『独裁者』やフリッツ・ラングの『死刑執行人もまた死す』と並ぶような高揚感を我々観客にもたらすことになる。ラスト・シーンの爽快さをもたらすのは、何も数発の銃声でも後の粛清でもなく、焼け焦げたフィルムなのである。この映画的奇跡は真に見逃せない。

【第290回】『デス・プルーフ in グラインドハウス』(クエンティン・タランティーノ/2007)


 映画は冒頭、一つの車に乗った3人の女たちの他愛もない馬鹿話を延々描写する。それはまるで『レザボア・ドッグス』冒頭の円卓を囲んでの馬鹿話のように、一見何の当たり障りもない会話に見えて、各々のキャラクターを伝える役割も同時に担っている。その会話の内容から、女たちの中にオースティンのラジオ局で一番の人気DJ、ジャングル・ジュリア(シドニー・タミーア・ポワチエ)がいることがわかる。彼女は久しぶりに地元に戻ってきた大学時代の女友達アーリーン(ヴァネッサ・フェルリト)と親友のシャナ(ジョーダン・ラッド)を連れて、田舎町の酒場で派手に遊ぼうと画策するのである。

その後、車はあるバーの前で停まる。そこはグエロスという名の田舎町になる感じの良いBARで、1人また1人と店に吸い込まれるように入っていくが、嫌な視線を感じたのか、女は後ろを振り返る。そこには彼女たちを付けて来た1台の車が停まり、明らかにこちらの様子を伺っている。光の加減なのか何なのか、女の視点からは残念ながら運転手の顔は見えない。この場面を観ていくつかの映画との類似点を見つけるのは容易い。女たちの楽しい時間は、ドライバーによって脅かされている。

グエロス店内で散々馬鹿話をした後、女たちは2件目にテキサス・チリ・パーラーへと足を運ぶ。俳優としてのクエンティン・タランティーノの粋な計らいもあり、話と共に酒も弾み、女たちは徐々にタガが外れ始める。猛烈な雨の中、一服するために外に出たジャングル・ジュリアは、激しい雨の中、停車する一台の車を発見する。それはグエロスで自分たちを見ていたあの車である。ここで男の正体は呆気なく晒されることになる。ドクロマークの付いた不気味なシボレーを乗り回し、顔に傷痕のある謎の中年男は、通称スタントマン・マイク(カート・ラッセル)というらしい。女たちは当初はスタントマン・マイクの存在を気味悪く思うが、酒で陽気になっているのも手伝い、つい心を許してしまう。テキサス・チリ・パーラーのジャンクフードで食欲を満たした初老の男にも、果たすことの出来ない欲望がある。その夜、凶行は起こるのである。

今作は『デス・プルーフ in グラインドハウス』というタイトルからも明らかなように、エクスプロイテーション映画やB級映画などを2、3本立てで上映していたアメリカの映画館へオマージュ的作品である。フィルムに傷が入っていたり、焼けたような独特の質感をしているのは、これらの劇場にかかっているフィルムが全国各地の使い回しによるものだからに他ならない。タランティーノはこのある種の「ロー・ファイ」な表現方法として、フィルムを故意に劣化させているのである。これらの映画館では、間違っても文芸大作などかかるはずもなく、劇場に足を運ぶ若者の趣味・嗜好は専ら下品で猥雑な方向へ向かっていくのは致し方ないことだった。ポルノ系映画やスラッシャー映画において、女たちは男の性欲を満たすために存在し、破壊的な車はしばしば男性器のメタファーとして使用された。

しかしながらそれらエクスプロイテーション映画の大部分が、プログラム・ピクチュアの規範をはみ出さなかったことを考えると、今作の逸脱ぶりは極めて稀だと言えやしないか。そもそも観客は開巻から折り返し地点に至るまで、後にこの男の欲望の犠牲になる女たちの馬鹿話を延々聞かされたことになるからである。通俗的な映画において、死んでしまう人間にまで懇切丁寧な描写をする必要はほとんどない。考えられる理由としては、その殺人の瞬間に驚かせようという意図が働いたとしか思えない。そうでなければ彼女たちの無駄話に付き合わせることは、説話論としては得策ではない。

スタントマン・マイクの一つ目の犯行から時制が14ヶ月後に飛び、場所もテキサスからテネシーへと飛び、第二の犯行は準備される。日本で言うところのコンビニの前で、スタントウーマンのキム(トレイシー・トムズ)とゾーイ(ゾーイ・ベル)、メイク係のアバナシー(ロザリオ・ドーソン)、新進女優のリー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)の4人の乗る車が、男のターゲットになろうとしている。またしてもここで観客は女たちの馬鹿話に付き合わされることになる。4人の女の他愛もない馬鹿話はいつまで続くのかと思われたが、タランティーノのオールタイム・フェイバリットであるリチャード・C・サラフィアンの『バニシング・ポイント』やジョン・ハフの『ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー』が唐突に引用され(『ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー』は『ジャッキー・ブラウン』でテレビの中でかかっていた)、女たちの狂乱の終着地点として、1970年代型ダッジ・チャレンジャーでのアクロバティックなスタントライドに挑戦することになる。

この場面のネゴシエーションの馬鹿さ加減は、これまでの馬鹿話とは違い、底抜けに面白い。それはスタントマン・マイクの凶行がいずれ起きることを我々が知っているからであり、殺人鬼の凶行を今か今かと待ちわびているからである。ホラー映画において、頭の悪い若者たちがしばしば殺人鬼の餌食となるように、彼女たちの生の終わりの瞬間が残酷にも設定され、我々観客はそれが現実に起きる出来事ではなく、最初から映画の中の出来事として架空の死であることを理解しているからである。ゾーイがボンネットに乗り、スリルと興奮を味わっている最中、女たちの登場を待ちわびていたスタントマン・マイクの双眼鏡のフレームの中に、彼女たち3人を乗せた(厳密には1人は車外にいる)車が入り込む。

しかしながらタランティーノの魅力は、ここからラストまでの場面にあると言っても過言ではない。ここではエクスプロイテーション映画というジャンルからのあっと驚く逸脱が、物語を支えている。ここに来てタランティーノが、前半部分でただ簡単に死んでいく人たちを過剰に描写したことの意味を悟り、スクリーンの前でガッツ・ポーズをしてしまう。この場面は、「裏切りと復讐」というモチーフを持つクエンティン・タランティーノの面目躍如とも言える胸のすく名場面である。80年代以降、最も味のある俳優であるカート・ラッセルの顔に刻まれた皺が今作ほど重い十字架となる作品はない。惨めなまでに陰惨なスタントマン・マイクの姿は、これまで幾多の落ち目の俳優を輝かせたタランティーノらしい演出であり、カート・ラッセルの21世紀の代表作でもある。他愛のない馬鹿話から着想するタランティーノのシンプルな面白さに原点回帰した21世紀の傑作中の傑作である。

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