【第805回】『ターンレフト ターンライト』(ジョニー・トー/2002)


 雨の台北。交差点で信号待ちをする人の群れ。その中に無名のバイオリニスト、ジョン(金城武)と、雇われ翻訳家イブ(ジジ・リョン)の姿があった。2人は互いを知らず、その存在に気づくこともない。実は、2人が住む部屋は、壁一枚を隔てたお隣同士だった。でもジョンはアパートの右側から出入りし、出る時は必ず右側へ歩き出す。方やイブはアパートの玄関の左側から入り、出る時は左側へ歩き出す癖があった。だから、彼らは一度も顔を合わせたことがない。冒頭、黒い傘を差した集団の中で、何やら目立つ緑の傘を差した男と、赤い傘の女がいる。彼らの出会いそうで出会わないやりとりを俯瞰で見せた導入部分の記号的明示にまずは驚かされる。彼らの住む部屋は隣同士であるが、階段の存在が事態をややこしくしている。マンションの左右には同じような階段と同じような入り口があり、彼らは隣り合っているけれども決して顔を合わせることはない。隣人に興味・関心のない社会というのはここ日本でも香港でも同様である。シーンが変わると、ジョンとイブの2人はたまたま公園の噴水の端と端に座っている。円形になった公園の噴水のちょうど対角線上に2人は座り、互いに仕事の資料に目を通すが、うっかり者のイブの資料が風の悪戯で噴水に飛ばされてしまう。その光景を見たジョンは対角線上にいるイブに話しかける。それが2人の出会いだった。

 2人はすぐに打ち解け、思ひ出話で盛り上がるうちに、同じメリーゴーランドに乗ったことに気付く。なんと彼らは、学生時代に一度出会っていたのだ。互いに意識しながらも名前すら聞けずじまい、相手の学生番号だけをいつまでも忘れずにいたふたりは、こうして運命的に再会したのである。『ダイエット・ラブ』でも10年後の出会いがあったが、この場面はジョニー・トー作品の中でも最も運命的な出会いであろう。互いの回想シーンが入り、途切れることのなかった赤い糸はこうして結ばれていたかに見えた。しかしながらポーランドの小説の台詞で明示された通り、運命の出会いは時として残酷な運命にかき消されていく。突然の夕立の中、電話番号を交換して慌ただしく別れたふたりは、翌朝になって言葉を失う。電話番号を書いたメモが、雨でにじんで読めなくなっていたのだ。21世紀の映画であれば、当然互いの携帯電話を赤外線送信したり、フルフルしたりするのだろうが、ジョニー・トーはこの古典的な運命のラブストーリーの中に、最新の連絡手段を挟むことがない。彼らは携帯電話など持っておらず、家では留守番電話録音機能付きの自宅電話を使用しているのである。互いに手当たり次第に電話をかけるが、ハズレつづき。しかも雨に濡れたせいで、ひどい風邪をこじらせてしまう。たまたま相前後して同じ食堂に電話をかけ、同じ出前を頼んだふたりに、シャオホン(テリー・クワン)が配達に行く。ハンサムなジョンに一目惚れしたシャオホンは、彼が探している女性が隣のイブだと一瞬でピンときたが、知らんぷりを通す。かたやイブは入院先で、昔自分を追い回していた医師のフー(エドマンド・チェン)に出くわす。イブに好きな人がいることを知ったフーは、探偵を雇ってイブの身辺を探る。

 その結果、思いがけないことが判明する。イブが写っている写真のどこかに、必ずジョンが写っていることを。フーとシャオホンは、イブとジョンが振り向いてくれない腹いせに、2人を絶対に会わせまいと同盟を結成し、いやがらせを決意する。ジョニー・トーのご都合主義の脚本も、ここまで来れば天晴れであろう。ジョンとイブが伺い知らないところで、2人の周辺が俄かに慌しくなり、恋敵が現れる。彼らはいつも決まって押しが強く、今作ではジョンとイブの居ない間に2人の部屋に勝手に押しかけ、留守番電話録音機能付きの自宅電話のメッセージの内容を勝手に恋人設定に書き換えてしまう。この恋敵たちの強引さは日本ではストーカーとして絶対に理解されることはないが、香港映画では許されるらしい。ジョニー・トーの映画では決まって、主人公たちにフられてしまった人たちの赤い糸さえも強引に結びつけるのである(ここでは大家さんまで)。クライマックスのあっと驚く強引な展開には、半ば呆れながら笑ってしまった。アナログな手法にこだわってきたジョニー・トーだからこそ、2人が再会するあまりにもドラマチックな場面が必要だったのである。チェン・チュウキョンとトー・フンモの2000年代に入ってからのカメラワークはハイ・アングルを多用しながら、ショット同士を細かくつなぎ、ドラマを盛り上げる。その手法はアクション映画においてもラブ・ストーリーにおいても変わることがない。結果的にこれ以降、金城武の出演作はないものの、管理人の偏愛映画に違いない。

【第792回】『ホワイト・バレット』(ジョニー・トー/2016)


 香港にある外科病院、緊急の手術室では脳外科の女性医師トン(ヴィッキー・チャオ)が手術を執刀している。院長に代わるかと尋ねられるが、自信家の彼女は上司の助言を断り、自ら執刀する。トンたち医療チームと緊急病棟の患者たちの顔合わせ。飄々とした73歳のお爺ちゃん、植物人間ら個性的な面子の中で、ただ一人ある男だけはトンを見るなり、恨みの言葉を隠さない。トンに勧められた手術の影響で両脚が麻痺を起こし、動かなくなった(そんなはずはないだろう 笑)青年はトンをなじる。そんな折、1台の救急車が病院に搬送される。警察との銃撃戦中に凶悪強盗団一味のチョン(ウォレス・チョン)が頭に被弾し、緊急搬送されたのだった。彼を撃ったチャン警部(ルイス・クー)はチョンに瀕死の重傷を負わせた挙句、一味にも逃げられてしまった。エリート・コースを歩むチャン警部はこのままでは帰れないと、自分がチョンを撃ったことを上司に誤魔化し、女性医師トンの技術に賭けようとしていた。緊急手術室のドアが閉まり、全身麻酔の注射を打たれたチョンは突然暴れ出し、頭部に撃ち込まれた弾丸の摘出手術を拒否する。いかにもジョニー・トーらしい劇画的で稚拙な脚本だが 笑、権力構造下で事件をもみ消し、何とか犯人を炙り出したい警部。大陸から香港へ引っ越して来て、エリート街道を突き進みながら執刀ミスで自信喪失気味の女医。病院のベッドに手錠で縛られ、仲間の救出を待つ妙に哲学的な組織の容疑者の三者三様の駆け引きを明らかにする。

 本来ならばICU(集中治療室)に入れられるべき重病患者たちが、パーテーションのない1つの空間に収められていること自体が、ジョニー・トー信者にとっては何かきな臭い匂いを最初から漂よわせているのだが 笑、それにしても脚本の冗長な展開にはほとほと参った 笑。『奪命金』では投資銀行の内部、『香港、華麗なるオフィス・ライフ』では書き割りのような心底斬新なオフィス内部で事件は起こったが、それにしてもジョニー・トーの映画で一度も屋外に出ないのは初めてではないか?いわゆる1シチュエーションもののシンプルな構造の中で、全てが円環状に繋がっている見事なアンサンブル・プレイにジョニー・トーは果敢に挑戦しているものの、人には向き不向きがある 笑。脚本の整合性や演出は、ちょうど同じ頃に公開されたイエジー・スコリモフスキの『イレブン・ミニッツ』とは比べるべくもないが、ラスト9分間に唖然とさせられた『イレブン・ミニッツ』に対し、今作もラスト18分間の力業の描写には心底唖然とさせられた 笑。『アンディ・ラウの 麻雀大将』あたりからジョニー・トー組のアクション活劇の常連となったルイス・クーのニヒリストぶりは、明らかにアンディ・ラウとジョニー・トーの90年代の歩みを懐古するものだが、『名探偵ゴッドアイ』を観てしまった我々にはアンディ・ラウにはないルイス・クーならではの+αが欲しい。一切の笑みを見せないチャン警部と、ヒステリックに彼をなじる女性医師トンの対比には一瞬だけ歪な化学反応が香るものの、善と悪を超えた男同士の友情を前に、ヒロインの意思は今回も徐々に後退して行く。

 冒頭からの冗長な1時間10分に目を瞑れば、真にジョニー・トーらしい活劇の妙に心底唸らされる。その口火を切るのは、ケツにナイフをぶっ刺されたラム・シューの大逆転に他ならない。クライマックスのカタルシスはジョニー・トーの傑作であり代表作である『スリ』の傘の場面を彷彿とさせる。ザック・スナイダーの『300 〈スリーハンドレッド〉』にモロに影響されたクライマックス場面は、ハリウッドの流儀をわかりやすい形で香港映画のフォルムに移植しようとするジョニー・トーの職人的世界観が滲む。トーの映画では警察組織もマフィア組織も互いにチームワークを競い合いながら、やがて運動会のクライマックスのようなシンパシーへと帰結する。原題の「三人行」とは孔子の「論語」に書かれている「三人行えば必ず我が師有り」の事で、要約すれば「自分の心の持ち方一つで、あらゆる人がわが師となる。」という人間の心理に違いない。だが一切の哲学的な問いを一生に臥すようなジョニー・トーならではの馬鹿馬鹿しさの方を私は断固支持する。明らかにCGで足したわざとらしい出鱈目なデジタル処理も、近年のハリウッド映画ではなかなか見られない香港映画の香具師なプロダクションに、思わず笑みが溢れた 笑。

【第303回】『ザ・ミッション 非情の掟』(ジョニー・トー/1999)


 ジョニー・トーの映画では個人に対する組織というものが何度もクローズ・アップされる。『ヒーロー・ネバー・ダイ 』では組織を命を賭けて守った男たちが、最終的に裏切られた組織へ復讐を企てる。今作は彼らのように組織の用心棒のNo.1ではなく、用心棒チームの全員が主役であるかのように描いている。

何者かに命を狙われた黒社会のボス、ブン(コウ・ホン)を守るために雇われた元殺し屋グァイ(アンソニー・ウォン)、銃のエキスパート、フェイ(ラム・シュー)、以前はスゴ腕狙撃手だったマイク(ロイ・チョン)、そして現役の殺し屋ロイ(フランシス・ン)と彼の弟分、シン(ジャッキー・ロイ)の5人。そんな彼等が与えられたミッションは、ブンを命の限り守り、真犯人を割り出すこと。最初はお互い干渉しないようにしていた5人だったが、やがて、固い絆で結ばれていく。

ジョニー・トーの男の美学は今作では最初から全開である。白髪交じりの角刈りを披露する裏社会のボスであるブンは何者かに命を狙われている。最初は反目し合う5人だったが、徐々にチームとして何かが芽生えていく様子が素晴らしい。最初はビルの屋上からブンをライフル銃が掠め、5人は動揺しながらも暗闇の中で高所に潜む狙撃手を必死に探す。この場面では地上で命を狙われる側とビルの屋上から狙撃する側の2つのショットの切り返しが活劇の重要な核になるが、残念ながら屋上で狙う側の描写はほとんど出て来ない。しかしそれがかえって暗闇の中でどこから弾が飛んでくるかわからない恐怖を演出している。

またこの白髪交じりの角刈りの親分であるブン(コウ・ホン)が、親分とは思えない人の良さを見せるのだ。自分は前日に撃たれたにも関わらず、彼ら5人に飲み物を振舞おうとする。コーヒーかお茶か紅茶か聞く親分に対し、5人は申し訳なさそうな表情で見つめている。ジョニー・トーはそういう男たちの哀愁溢れる描写がすこぶる巧い。親分にここまでされたら、気持ちで返さない子分たちではない。

中盤のショッピング・モールである「ジャスコ」の閉店後の撃ち合いの場面は、アジアン・ノワール屈指の名場面となる。人のいないショッピング・モールのエレベーターをブンを囲むように5人は陣取り降りていくのだが、反対側の昇りのエスカレーターを上がっていく警備員が実は殺し屋であり、いきなり振り向きざまに撃ち込んでくるが、彼ら用心棒たちはすぐに引き金を引き、事なきを得るのだ。その後の5人それぞれが別角度から銃を構えたままじっと待つ様子はあまりにも図式的な構図が美しい。静けさの中にジリジリと迫り来る銃撃の恐怖があり、警備員さえも敵だったとすれば、ジャスコの従業員や清掃作業員さえもまったく信用出来ない。彼らの研ぎ澄まされた五感だけが、ブン組長を助けることになるのだが、誰かが引き金を引いた途端、5人が一斉に色めき立つのである。

その後の紙屑サッカーとタバコの煙の鎮火の場面は、緊張と緩和におけるジョニー・トー流の緩和の場面となる。彼らはビルの屋上からの銃撃の場面では、組長をケガさせてしまい少し気を落とすが、ショッピング・モールでの銃撃戦では、自分たちが力づくで組長を守ったという自負がある。そのことが彼らの緊張感ある雰囲気に余裕(緩和)を誘い込むのである。

クライマックスの銃撃戦は、ライフルに対して拳銃が勝つというジョニー・トーらしい有り得なさだが 笑、そこで挙がってきた黒幕の驚くべき正体にも唖然とさせられる。しかも彼は撃たれても食べ物を口に運び、咀嚼する手を止めないのである。何という化け物なのだろうか 笑。中盤にはあれだけ穏やかな表情を見せた親分でさえ、組織の掟は絶対であり、最後には悲しみの離別となるが、今作は親分の側には肩入れせず、あくまで組織の末端に生きる人間たちの友情にスポットを当てている。オープニングが我らが黒澤明なら、ラスト・シーンは明らかにタランティーノの『レザボア・ドッグス』へのオマージュだろう。

細部の書き込みの雑さは相変わらずだし、毎回毎回引用元がすぐにわかってしまうところがジョニー・トーのあざとさだが、B級プログラム・ピクチュアとして観ればそこまで悪くない。色々突っ込みながら見ていればそれなりに楽しめるものの、日本のヤクザ映画を散々観て来たものからすれば、このカッチリ決まった様式美や男の美学は21世紀を迎えようとする時代にはあまりにも古びていた。けれどそこがジョニー・トーの魅力であろう。彼のフィルモグラフィの中で、90年代の作品で一番人気があるのはおそらく今作である。

【第302回】『過ぎゆく時の中で』(ジョニー・トー/1989)


 オートバイ・レーサーだった10年前に事故を起こし、今はトラックの運転手として一人息子のポーキー(ウォン・コンコン)と一緒に暮らすアロン(チョウ・ユンファ)は、自転車のうまい男の子を捜すテレビCMのオーディションにポーキーを連れていく。審査の結果、ポーキーは合格するが、そのCMのディレクターであるシルヴィア(シルヴィア・チャン)は10年前にはアロンと同棲し、子供を身籠ったが、派手好きで浮気を繰り返すアロンに三行半を突きつけ、渡米した元恋人だった。

まだハリウッド・デビュー前、駆け出しだった頃のチョウ・ユンファとシルヴィア・チャンの初共演作。チョウ・ユンファは初期には『風の輝く朝に』や『傾城之恋』などのメロドラマ然とした作品があったが、この後に主演した『男たちの挽歌』の大ヒットがきっかけとなり、チョウ・ユンファ=マークのイメージが大陸中国及び世界に急速に広まっていく。タランティーノがオマージュを捧げた『友は風の彼方に』や『愛と復讐の挽歌』シリーズでも漢チョウ・ユンファが大活躍だった。そのアクション・スターとしてのチョウ・ユンファだったイメージを180℃変え、演技派に成長させたのだが今作である。

今や『イップマン』のプロデューサーとして知られるレイモンド・ウォン(当時は香港を代表する喜劇役者だった)は、今作を最初から悲劇として考えていたという。『僕たちは天使じゃない』と『ゴールデン・ガイ』という2つの喜劇に挟まれた今作は、当初別の監督が起用されるはずだったがスケジュールが合わず、コメディを十八番としていた新人ジョニー・トーに白羽の矢が立った。ジョニー・トーにとって初のファミリー映画であり、バッド・エンディングものだったが、B級プログラム・ピクチュアに長けた職人監督であるジョニー・トーにとっては悲劇も喜劇も関係なかったようである。

冒頭、アロン(チョウ・ユンファ)と一人息子のポーキー(ウォン・コンコン)の朝のドタバタぶりを告げる導入シーンが素晴らしい。この場面だけで、2人の関係性や仲の良さがわかる。アロンにとってポーキーは自慢の息子であり、幼い頃の自分の面影を持った大切な一人息子である。ヤンチャなポーキーを演じるのは、『僕たちは天使じゃない』と『ゴールデン・ガイ』と併せて、チョウ・ユンファと3度目の共演となるウォン・コンコンであり、今作では実の父子という間柄で息の合った演技を見せる。アロンは大事故のトラウマなのか、それとも大恋愛のトラウマなのか、息子を育てる責任感からなのか、10年間一度もレースを走っていない。

そんな父と息子の生活が一変するのが、チョウ・ユンファとシルヴィア・チャンの再会からである。片親のトラック運転手として、生活を一手に引き受けるチョウ・ユンファの生活は困窮しており、息子をCMタレントにして一攫千金を夢見るのだが、そこで出会ったシルヴィアは、かつてポーポーと呼んでいた昔の恋人であり、ポーキーの母親なのである。シルヴィアはその後渡米し、母親に引き取られ、死んだと言われていたわが子が生きていて、今のポーキーであると知って驚きの表情を見せる。

この母親と息子との再会の場面は、もう少しドラマチックに盛り上げても良かったと思うのだが、久しぶりの親子水入らずの状況に持っていくが、ジョニー・トーの映画ではいつも恋敵が現れる。アロンは今だにシルヴィアのことが忘れられなかったが、彼女は10年前の地獄のような日々を思えば、もはやアロンのもとへ戻る気はなかった。『華麗上班族』ではシルヴィアの浮気に対し、チョウ・ユンファの静かな葛藤が物語を盛り上げたが、今作における2人の関係は真逆の様相を呈している。

そこから先は我々が思い描いていたような展開へと静かに進んで行く。あくまで親子3人の幸せな生活を夢見る息子ポーキーとアロンとは対照的に、シルヴィアは今の大企業の重役としての生活や、パートナーであるパトリックと別れる気はない。別れた恋人から花をプレゼントされ、無理やりキスをされ、アロンにとっては息子のことを思えばこその説得なのだが、シルヴィアにとっては母親としての幸せと同時に、女としての幸せも望んでいる。今のアロンの生活では残念ながらその夢が叶えられそうもない。この父親と母親の絶望的な距離の狭間で揺れる一人息子のポーキーが何とも泣かせるのである。シルヴィアにもらったプレゼントを、ぼろアパートの窓から投げる場面は涙なしには見られない父と息子の名場面である。考えてみればまだ幼い子供であるポーキーに、父を取るか母を取るか選択させるのは、何とも酷な判断だと言えるだろう。

クライマックスではアロンが遂に10年ぶりにレースに復帰する。それまでジャッキー・チェンのようなおかしなカツラを被せられていたチョウ・ユンファが髪を切り落とし(たフリをし)、短髪になって登場する。その後ろ姿に滲むのは、ポーキーとポーポーへの熱い想いであり、10年前に幸せに出来なかった家族への懺悔の気持ちにも見える。10年走れなかった男が、どうしてライセンスも失効されているはずなのに、レースに出られるのかはこの際問わない。ジョニー・トーの映画とはそういうものである。ラストの瞬間には、その後全開になったジョニー・トーのアクション・シーンへの非凡な才能の片鱗がしっかりと見える。今作はチョウ・ユンファの演技派としての名声を高めただけではなく、まだ駆け出しの新人監督だったジョニー・トーにとって、キャリアを代表する作品となった。『Needing You』が登場するまでは、今作がジョニー・トーのキャリア最大のヒット作なのである。

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