【第1160回】『アメリカン・グラフィティ』(ジョージ・ルーカス/1973)


 1962年。カリフォルニア北部の小さな地方都市。若者たちの唯一の気晴らしはカスタム・カーをぶっ飛ばしてガールハントすることだ。ボリュームいっぱいにあげたカー・ラジオからは町一番の人気者のDJ(ウルフマン・ジャック)のうなり声と「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の弾むリズムが流れてくる。若者たちの溜り場は「メルのドライブイン」。そこに仲のいい4人が集まる。17歳のカート・ヘンダーソン(リチャード・ドレイファス)の車はシトロエン、同じく17歳のスティーヴ・ボレンダー(ロニー・ハワード)の車は58年型シボレー、16歳のテリー・フィールズ(チャーリー・マーティン・スミス)はスクーターのベスパ、そして22歳のビッグ・ジョン・ミルナー(ポール・ル・マット)はドラッグ・レースのチャンピオンで31年型のカスタム・フォードのデューク・クーペに乗っている。今夜はその4人が顔を揃える最後の夜だった。高校を卒業したカートとスティーヴが東部の大学へ進学するため、明朝町を去るからだ。ジョージ・ルーカスの2本目の監督作品にして、70年代青春映画の金字塔。高校を卒業し、いよいよ大人になる目前の通過儀礼となる卒業パーティからその翌朝までの1日を描いた物語である。アメリカ人であれば誰もが通る青春の甘酸っぱい思いと愛と友情、オールディーズ音楽、クラシック・カー、ブロンド少女、リーゼント、ブルー・ジーンズ。ジョージ・ルーカスはそれらを50年代の記号を至る所に散りばめる。その中でカート、スティーヴ、テリーの3名の行動をあえて同期させず、別行動を取らせたのも大きい。

 クラシック・カーの味わいもさることながら、ここでは今で言うところのオールディーズ・ミュージックが全編に渡り響く。リチャード・ブルックス『暴力教室』のオープニングでも使用されたBill Haley & His Cometsの『Rock Around The Clock』、Del Shannonの『悲しき街角』、ゼメキスの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でも使用されたChuck Berryの『Johnny B. Goode』、少し季節外れにも感じるBeach Boysの『Surfin' Safari』、そして何と言っても卒業ダンスの際に流れるThe Plattersの『Smoke Gets In Your Eyes』はエドワード・ヤンの『恐怖分子』においても最も印象的な場面で使用されていた。これら幾つものポップ・カルチャーの記号が物語にエヴァーグリーンな魅力を沸き立たせる。クライマックスはジョージ・ルーカスお得意のカーレースに帰結する。『スター・ウォーズ・エピソード1/新たな希望』においても、フォースの運命を賭けてアナキンの決死のレースが幕を開けたが、今作でもビッグ・ジョンとボブの男と男の運命の果たし合いが始まる。面子を賭けたレースは随分とあっけなく勝敗が決まるものの、4人の親友たちは現実に戻り、それぞれの進むべき道へと進んで行く。幸福だった50年代に別れを告げ、公民権運動やケネディ暗殺、LSDやサマー・オブ・ラブ、ベトナム戦争を経て、アメリカの価値観そのものが大きく変貌していく。ルーカスが「失われた時代」に目を向け、自分たちの青春を振り返った名作である。

【第1159回】『THX-1138』(ジョージ・ルーカス/1971)


 時は25世紀。人類はコンピュータが支配する地下に広がる世界で、精神抑制剤を投与されながら機械的管理の下、登録番号で呼ばれながらさまざまな作業に従事していた。しかし主人公のTHX1138(ロバート・デュヴァル)と女性のルーム・メイト、LUH3417(マギー・マコーミー)は抑制剤の投与をしない日々を続けてしまい、次第に“人を愛する感情”が目覚め、この世界では禁止されている肉体関係を交わしてしまう。薬の未投与のおかげで毎日の作業にも支障をきたしはじめ、その事を知ったコンピュータはTHXを投獄し、裁判にかけようとするのだが……。ジョージ・ルーカスの記念すべき長編デビュー作。25世紀においては人間とコンピューターの関係は逆転しており、どういうわけか人間がロボットに管理される生活を送っている。今作はまるで刑務所のような窮屈な地下組織が舞台となっており、70年代のカリフォルニアの風景は一切出て来ない。そこに見られるのは、白い壁に囲まれた発狂するような空間であり、ここでは人間たちが互いを登録番号で呼び合いながら、機械のような生活を送っている。

 出演はルームメイトとして管理社会に放り込まれることになるロバート・デュヴァルとマギー・マコーミー、SEN-5421に扮した名脇役ドナルド・プレザンス、そしてHologram SRTに扮したドン・ペドロ・コリーくらいであり、ミニマムな世界と極力台詞を排し、ショットの構成に心血を注いだ映像世界からは、実験映画との親和性をありありと感じる。それと共に、今作が影響を受けているだろう作品として、60年代末の反権力の象徴である『イージー・ライダー』が挙げられる。管理社会とは同調圧力と等価であり、その抑圧をあまり感じない者にとっては、何も考えずに食べて寝るだけの生活をしていればいいが、アウトローには窮屈でとても耐えられない。主人公であるロバート・デュヴァルがコンピューターに管理される規律社会の中で、規律を破りマギー・マコーミーと抱きあう場面は、後の『スター・ウォーズ』におけるアナキン・スカイウォーカーとアミダラに置き換えるとわかりやすい。ジョージ・ルーカスの映画においては男女の触れ合いはしばしタブー視されるが、主人公はその鉄の掟を幾つかの葛藤を超えて、いとも簡単に破ってしまう。

 抑圧下における国民のささやかな楽しみは『スター・ウォーズ』において度々描かれてきたが、今作ではまるで精神病院のような閉鎖的で抑圧された空間から、ロバート・デュヴァルが果敢にも脱走を試みる。考えてみれば今作における管理社会の黒幕や実質権力者とはいったい誰であろうか?モニターの向こうにその姿を確認することは出来ないまま、主人公は管理社会という現実からの逃避を試みる。随分と手薄なセキュリティの裏をかき、ロバート・デュヴァルが脱走した先にはやはり追っ手がついて回る。しかし彼らは後ろから前方にいるターゲットを襲うことはしない。無表情なロバート・デュヴァルも人間を殺すことはない。そこで行われているのは紛れもなくカー・チェイスに違いないのだが、どこか図式的でアクションが沸き立ってこない。男にとって守るべきヒロインや、社会の敗者となった主人公に対する巨大な権力者は遂に出てくることはない。しかしながらこれは紛れもないアウトロー映画であり、SFというジャンルの中で実に純粋な反権力の映画である。

【第672回】『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』(ジョージ・ルーカス/1977)


 記念すべきシリーズ1作目にして、全9部のトリロジーの4本目。公開は新3部作よりも前になったが、ジョージ・ルーカスは今作を撮った時から既に9本の壮大な構想を練っていたという。新3部作では、クワイやオビ=ワンに見出された若きアナキンが、ジェダイ・マスターになるという壮大な予言から始まったが、最後の最後に暗黒面に落ち、ジェダイは皆殺しにされ、オビ=ワンとマスター・ヨーダはしばし地下へと潜る。『シスの復讐』において、アナキンの妻であるアミダラは双子を身籠り、共和国崩壊の最中に生んだ子供が、この旧3部作の主人公となる。『ファントム・メナス』が若き日のアナキンの成長譚だとしたら、今作は若きルークの成長譚そのものである。セリ市でロボットたちを買った若い農夫ルーク(マーク・ハミル)は、偶然R2-D2の映像伝達回路に収められたレーア姫の救いを求めるメッセージを発見し、心を動かされる。他に救助の手を求めるべくルークの許を去ったR2-D2を追ったC-3POとルークは、砂漠の蛮族タスケン・レイダーズに襲われたところをベン・ケノービ(アレックス・ギネス)と名のる老人に助けられる。彼こそ、共和国のジェダィ騎士団の生き残りで、レーア姫がメッセージの中で助けを求めた勇士オビ=ワンだった。

 叙事詩の如き壮大な英雄物語では、しばしば歴史は繰り返される。前作『シスの復讐』において、ラストにアミダラが生んだ2人の子供は、互いを知らないまま別々に育てられるが、何の因果か奇跡のような出会いに導かれていく。この時点でルークも我々観客も、その血族の因果など知る由も無いし、当初はオビ=ワンさえもルークをジェダイの使徒にしようとは考えていなかったはずである。最後に「MAY THE FORCE BE WITH YOU」という言葉を残し、別れたかつての教え子と最後に一戦を交えたきり、オビ=ワンは世捨て人としての生活を送っている。ルークとその両親の彼は変人だからという言葉にも明らかなように、捲土重来のチャンスを伺っていた男にまたとないチャンスがやって来るのである。『ファントム・メナス』におけるアナキンは、奴隷として実の母親と共にこき使われていたが、今作では両親不在のルークは親代わりであるアナキンの母親の親族に引き取られている。タトゥーインの街では地道に農業をやるしか生計を立てる道はなく、ルークもその状況に不満があるにせよ、親代わりの両親に逆らうつもりもない。そんな平安の日々を帝国軍の攻撃がぶち壊す。この場面は明らかにジョン・フォードの『捜索者』へのオマージュ的場面である。

旧3部作でルークの仲間となるのはオビ=ワンとC-3POとR2-D2だけではない。宇宙船調達のため、タトゥーイン惑星の宇宙空港のある街モス・イーズリーで密輸船長ハン・ソロ(ハリソン・フォード)とその右腕チューバッカ(ピーター・メイヒュー)に出会う。クライマックスにはオビ=ワンとダース・ベイダーと成り果てたアナキン・スカイウォーカーとの因縁の再会が待ち構えている。ダース・ベイダーはかつてジェダイの騎士時代の名残りで、フォースを持つ男がいま自分の元へ急接近していることを感じ取るのである。髪も白髪になり、すっかり老いぼれたオビ=ワンは無謀にも、たった一人でダースベイダー討伐へと向かう。ストーム・トルーパーへの変装のアイデアがまさに牧歌的で70年代そのもだと言える。マスクを被れば敵か味方かわからないという安直なオチを用いながら、ルークたちはしたたかに振る舞う。途中、焼却炉に投げ込まれた絶体絶命の場面も、VFXに頼ることが出来なかった70年代の方法論であろう。タコの足に絡まれたルークが、何度も水に引っ張られる場面のSFとは思えない演出がすこぶる良い。結局、宇宙船を降りれば、人間と人間とのアナログな活劇でしかないということを逆手に取り、ジョージ・ルーカスは素晴らしいアイデアで物語を押し進めるのである。

『スター・ウォーズ』シリーズにかつてあって、今は失われたものがあるとしたら、この人物の動きのアナログな活劇的魅力に他ならない。ストーム・トルーパーも人間も、宇宙船を降りればただの人間同士の戦いに終始する。あくまで「特撮」と「VFX」は別物であり、水と油だということを声高に叫ぶ今作のSFとしての魅力は永遠に色褪せることはない。砂漠の上を2台のロボットが歩くということが、インターネットもない時代の僕らにとってどれだけ衝撃的だったかは、当時を体験していない世代にもきっと想像出来る。クライマックスのまったく空間把握の出来ていないSF描写も、この時代の手探りな状況の証明となる。子供心を魅了した永遠に色褪せない不滅の名作である。

【第669回】『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』(ジョージ・ルーカス/2005)


 クローン大戦勃発から4年が経過し、戦争は銀河共和国優位の情勢にあった。しかしそんな中、パルパティーン最高議長(イアン・マクダーミド)がコルサントに襲来した独立星系連合軍に捕らえられてしまう。繰り広げられる艦隊戦の中をパルパティーン救出に向かうオビ=ワン・ケノービ(ユアン・マクレガー)とアナキン・スカイウォーカー(ヘイデン・クリステンセン)は、パルパティーンが捕らえられている敵の旗艦インビジブル・ハンドに突入し、再びドゥークー伯爵(クリストファー・リー)と対決。新シリーズ3部作の完結編にして、旧シリーズと新シリーズをつなぐ重要な役割も果たす最終編。前作からオビ=ワン・ケノービとアナキン・スカイウォーカーの不和は誰の目にも明らかだったが、その亀裂がとうとう修復不可能となるまでを描いた悲劇の物語である。アナキン・スカイウォーカーとパドメ・アミダラ(ナタリー・ポートマン)は秘密の恋を続けているが、彼女のお腹の中には赤ん坊がいることがわかる。だがその幸せな知らせも束の間、アナキンはトラウマに満ちた夢に悩まされる。前作でアナキンの心に深い傷を負わせることになった母親の不在が、ここではアミダラの死の予知夢へと昇華され、その一瞬の隙をダークサイドに突かれることになる。

 ジェダイ評議会は非常時大権を盾に、長年権力の座にあり続けるパルパティーンに疑いの目を向けていた。評議会はパルパティーンと親しいアナキンをスパイとして情報を探ろうとするが、アナキンのジェダイ・マスターへの昇格は認めず、アナキンは自身に対する処遇に不満を抱く様になる。アナキンが暗黒面に落ちるきっかけとなる事件だけにもう少し丁寧に描写して欲しかったが、残念ながらここでのやりとりは大味に終始し、要領を得ない。そもそものきっかけはアナキンの予知夢を止めることが出来るというバルバディーンの甘い囁きだったが、幼い頃から長年ジェダイとして銀河共和国に仕えてきたアナキンが、何故暗黒面に興味を持ち、バルバディーンの考えに心酔したのかが、バルバディーンの言動や行動からは今ひとつ伝わらない。アナキンの心の中にある葛藤が善と悪の間で何度も揺れなければドラマチックな場面とはならないが、バルバディーンに随分あっさりと陥落し、暗黒面へとすがってしまったのはやや短絡的にも見える。暗黒面に堕ちたアナキンは、シスとしての名「ダース・ベイダー」を与えられる。

 クライマックスの溶鉱炉の場面は、オビ=ワン・ケノービとアナキン・スカイウォーカー両者の怒りが渦巻き、身動きも取れないほど烈火のごとく燃えている。ここで師弟は初めて互いのライフセーバーを交え殺し合うことになる。新シリーズ3部作ではいつも肝心なところでやられてしまうオビ=ワン・ケノービだったが、幼い訓練生も含めてジェダイを全員虐殺したアナキンが心底許せず、弟子に引導を渡そうと最強の力でアナキンに立ち向かう。ここでのアナキンの目は既にかつての優しかった弟子の目ではなく、ダースベイダーとしての残虐非道な目である。アナキンはパドメ・アミダラの命を救うために自ら暗黒面に落ちたが、当のパドメ・アミダラはそのアナキンの判断が理解し難い。我々観客にとってもさっぱり理解出来ない理由から、オビ=ワンとアナキンは殺し合い、やがてどちらかが致命的な一撃を浴びせる。ラストのアミダラの出産シーンと、致命的な重傷を負ったアナキンの手術シーンの並行描写は、おそらくジョージ・ルーカスが新シリーズ3部作で最も撮りたかった思い入れたっぷりの場面になっている。生の誕生と死の超越とが同時に起こり、後の旧シリーズ三部作につながったのだと思うと実に感慨深い。

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