【第587回】『BFG: ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』(スティーヴン・スピルバーグ/2016)

あらすじ・結末に触れていますので、これから観る方はクリックしないで下さい

【第349回】『リンカーン』(スティーヴン・スピルバーグ/2012)


 南北戦争末期。国を二分した激しい戦いは既に4年目に入り、戦況は北軍に傾きつつあったが、いまだ多くの若者の血が流れ続けていた。再選を果たし、任期2期目を迎えた大統領エイブラハム・リンカーン(ダニエル・デイ=ルイス)は、奴隷制度の撤廃を定めた合衆国憲法修正第13条の成立に向け、いよいよ本格的な多数派工作に乗り出す。しかし修正案の成立にこだわれば、戦争の終結は先延ばししなければならなくなってしまう。一方家庭でも、子どもの死などで心に傷を抱える妻メアリーとの口論は絶えず、正義感あふれる長男ロバート(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)の北軍入隊を、自らの願いとは裏腹に黙って見届けることしかできない歯がゆさにも苦悩を深めていく。そんな中、あらゆる手を尽くして反対派議員の切り崩しに奔走するリンカーンだったが…。

『カラーパープル』、『アミスタッド』で奴隷制度の撤廃に本腰を入れて取り組んだスピルバーグのもう一つの奴隷解放の映画史とも言える作品。これまで名もなき市井の人々を描くことの多かったスピルバーグだが、今作では偉人として知られた第十六代大統領エイブラハム・リンカーンの波乱に満ちた生涯を映画化している。80年代の『カラーパープル』でも本筋に関わり合いのないところで少し触れていたが、1800年代のアメリカでは奴隷制存続と撤廃に揺れ、アメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退した。脱退した州はアメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。依然として黒人奴隷を使う農業中心のプランテーション経済を南部が敷く中、北部では工業化が進み、いち早く奴隷制度から脱却し、近代的な労働力や競争力を必要としていたのである。今作においても常々議題に挙がるのは、議会の定数の不均衡である。フランスから買い上げたルイジアナ州と、メキシコから独立したテキサス州とカリフォルニア州を加えたことで、自由州派(北部)と奴隷州派(南部)の均衡が崩れてしまった。今では信じられないことだが、国としての権限よりも州としての権限の方がずっと強い影響力を持っていた時代である。

映画は共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領に再選するところから始まる。南部の諸州ではリンカーンが奴隷制廃止に動くことを恐れ、結果として南部では一州も取れないまま大統領に再選する。リンカーンは北部では強い影響力を誇りながら、南部ではまったく人気がなく、日本でいうところのねじれ国会のような状況で厳しい政権運営を迫られていたのである。今作ではリンカーンが長引く南北戦争を憂い、黒人を奴隷から解放し、一刻も早く北軍と南軍の不毛な戦争を終わらせようと、議会での多数派工作に打って出るのだが、肝心の南北戦争の描写はほとんど出て来ない。冒頭、黒人青年2人が戦争の惨状や自分たち黒人の現状を伝えるが、リンカーンが黒人の生の声を聞くのはほぼその場面だけであり、あとは民主党員を説得しようと物々しい政治家特有のネゴシエーション工作が描かれる。スピルバーグの映画としても、会話劇が物語に占める割合がここまで多いのも珍しい。

他にフォーカスしている部分として、父と子の確執が挙げられる。リンカーンには4人の息子がいたが、そのうち長男のロバート・トッド・リンカーンだけが両親の元を離れ、独立した人生を送っていた。劇中でも母親の台詞に出て来るが、浪人してハーバード大に入学した才人だった。彼は父親同様に法律家になろうという夢を持つが、父親の皮肉めいた発言により、父子の確執は一層拡がっていく。彼は志願兵として北軍の兵士になろうと懇願するものの、両親は彼の行動にことごとく待ったをかけるのである。それはロバートの弟たちの不幸な死に起因している。末娘のエディは結核を患い早くに病死し、ロバートの弟たちウィリーとタッドも腸チフスにより、11歳と18歳で亡くなっている。母親はとりわけウィリーを可愛がったが彼の病死の精神的ショックは大きく、今で言う鬱病の診断を受けていたという。息子たちの相次ぐ死に心を痛めた両親が、長男の正義感に待ったをかけたのはやむを得ない事情もあったのである。ここでは息子の病死により精神にダメージを受けた母親が子供じみた大人となり、大人びた子供である長男のロバートと対峙する。

だが作劇上、リンカーンにとって目の上のたんこぶとなるのは長男のロバートくらいであり、共和党でリンカーンと別の道を辿る議員も民主党議員もあまり骨がなく、物語の伏線がいまいち盛り上がらない。リンカーンの秘書はともかくとしても、奴隷解放急進派や保守派重鎮議員とのやりとりには南北戦争並みの激しい言葉の応酬が欲しいところだが、ほとんど見られないまま、なし崩し的に憲法第13条の改正に向かう。これは現代の日本を揶揄するものではないかと勘繰りもしたが、どうやらそういうことではないらしい。史実は史実として描写した結果、今一つ抑揚のないスピルバーグらしくない作品になってしまった。

これまで数々の歴史上の出来事に光を当ててきたスピルバーグだが、それらはどれも歴史を裏で支えた普通の人物にスポットライトを当てていた。著名人と言ってもそれはオスカー・シンドラーやジョン・クィンシー・アダムズやジェームズ・ドノヴァンなど知る人ぞ知る人物ばかりであり、『続・激突! カージャック』や『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』では三面記事に取り上げられるような市井の人々まで描こうとした。時には第一次世界大戦に駆り出された馬までが映画の主役になったのである。新作『ブリッジ・オブ・スパイ』においても、何の変哲もない普通の弁護士がドイツに渡り、冷戦下の極秘任務に挑むからこそ、そこにスピルバーグの旨味が生まれるのである。それが今回アメリカ国民でなくても誰でも知っている19世紀の偉人にして、歴代最高の大統領を描くに際し、その描写に力みが出たのは否めない。南北戦争と奴隷解放の題材なら、リンカーンのような雲の上の偉人ではなく、一兵士の立場から描いた方がスピルバーグの良さは出たかもしれない。

【第348回】『戦火の馬』(スティーヴン・スピルバーグ/2011)


 第一次世界大戦前夜のイギリス。緑の丘陵地隊にある小さな村の牧場で一頭の仔馬が誕生する。その馬は4本の脚先が白く、額に菱形の白い斑点が特徴的だった。その仔馬は貧しい農夫テッド(ピーター・ミュラン)によって競り落とされ、少年アルバート(ジェレミー・アーヴァイン)の家にやってくる。ジョーイと名付けられた仔馬は、アルバートの愛情を一身に受けて、賢く気高い名馬へと成長していく。しかし戦争が始まると、アルバートが知らないうちにイギリス軍へ売られてしまうジョーイ。やがて、ニコルズ大尉(トム・ヒドルストン)の馬としてフランスの前線へと送られたジョーイは、ついにドイツ軍との決戦の時を迎えたのだったが…。

冒頭、仔馬の出産シーンを見た主人公はその崇高な生の誕生に魅了される。だが彼の家柄は貧しく、両親は昼夜問わず懸命に働いて、その土地の地主に地代を納めていた。そんな父親が酔いに任せて、地主とその馬の所有権を巡り競売で争う。無事落札し、親子は馬を家に持ち帰るが、貧しい家計の足しになる農耕馬を買ってくると思った母親は父親の突発的な判断に対し激怒する。だが息子が僕が必死で教えるからと母親を説得し、文字通り家族の生活を賭けた調教が始まるのである。ここでもアルバートがジョーイに言葉を教える「教育的」シークエンスが登場する。彼は「ホー、ホー」と口笛を吹き、その口笛の合図でジョーイに走り寄るよう一つずつ丁寧に教えるのである。この言葉が通じない対象に対し、主人公が献身的に教育を施すシークエンスは『E.T.』でも『カラーパープル』でも『オールウェイズ』でも『アミスタッド』でも何度も登場したスピルバーグの刻印に他ならない。彼は教育を通じて、コミュニケーションの取れない相手とも友情を育んでいくのである。

だが「ホー、ホー」という口笛を覚えたくらいでは、残念ながら家族の生活の足しにはなり得ない。地主は地代の期限を家族に迫り、今日払えなければここを強制退去しろと言うのだが、その屈辱的な状況になっても父親は自分の頑固なやり方の殻に閉じこもる。彼は最初からジョーイの教育を投げてしまっており、そんな父親の態度に業を煮やした息子が献身的にジョーイに接するのである。ここでもスピルバーグ映画特有の子供じみた大人と大人びた子供との対比は有効である。猟銃の銃口を向ける父親とジョーイの間に、息子が割って入る場面の父と子のどうしようもない価値観の隔たりが、やがて事件を巻き起こすことになる。馬はアルバートよりも一足早く戦地へ向かう。彼に馬の行方を任せてくれと言ったイギリス陸軍大尉も、戦況によってはその約束を果たせなくなることはわかっていたはずだが、アルバートとジョーイの友情は無残にも、残酷な戦争により引き裂かれる。

今作における第一次世界大戦下というのは、馬が戦力となった最後の時代を意味する。言うまでもなく産業の近代化は各国の戦争のスタイルを様変わりさせていった。そしてこの僅か10数年後には我が国はアメリカに原爆を落とされる国となった。この時代は馬がまだ戦力たり得た最後の時代であり、タイトルである『WAR HORSE』となるために大砲や銃の音、戦車や地雷の音に反応しないよう特別な訓練が施され、その中でも俊敏で筋肉の張りがしっかりした馬は、山の向こうに戦車や大砲や軍需物資を運ぶ役目を担うこともあった。ジョーイはもう一頭の黒い馬とともに軍人に目をつけられ、戦争の前線を渡り歩く。彼らの雇い手はイギリス軍からドイツ軍の歩兵へと渡り、その後フランス人で、戦争で両親を失った少女へ渡り、やがてドイツ軍の砲兵へとたらい回しにされる。ドイツ軍の兄弟が息をひそめるように隠れた納屋では、夜の闇の中で壁越しに近づくドイツ兵たちの懐中電灯に兄弟が怯える。そしてフランス人少女エミリーが初めてジョーイの背に乗り、希望に満ちた態度で小高い丘を勢いよく昇るとき、そこには残酷にもドイツ軍がいる。これは『太陽の帝国』における主人公が戦闘機の残骸に出会う場面に酷似している。たった一枚の窓や、一つの小高い丘を進んだだけでそこには残酷な光景が転がっている。スピルバーグはさりげなく戦争の悲惨さ残酷さを描くことに長けている。

クライマックスの戦車と対峙するジョーイが発狂する場面から、彼が孤独な疾走を続ける場面は、馬の扱いになれていない現代の作家群においても、スピルバーグがいかに馬の扱いに秀でているのかを端的に現す名場面となる。先ほど述べたように、本来前線に立つ馬には、戦車と対峙しても微動だにしない能力が要求される。しかしここでのジョーイは前後不覚に陥ったことを小刻みな前足の起立とのけぞるような体勢で伝える。そのショットがしっかり描けているか否かが大監督と凡百の監督との分かれ目となる。馬の疾走をヤヌス・カミンスキーはスピードを殺さないように様々な角度から据え、それを編集の小刻みなリズムが支える。有刺鉄線に絡まる場面は実際にプラスチックの線で試したものに、後から合成処理を施したものであり、実際に馬はその厳しい状況下で演技をしているのである。『ジョーズ』の頃から30年が経過したとはいえ、スピルバーグは馬が主演の映画を撮るために、あえてそこまでするのである。ラストのアルバートとジョーイの再会の場面は流石にスピルバーグの力みを演出に感じたものの 笑、やはり何度観ても素晴らしい戦争映画である。ラストの夕陽をバックに父親と息子、馬のシルエットがオレンジの背景を背に黒く浮かびあがる様子は、スピルバーグ×カミンスキーの一つの到達点であろう。アメリカン・ニュー・シネマとはまったく異質の影の黒である。

【第347回】『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』(スティーヴン・スピルバーグ/2011)


 相棒のスノーウィと世界中を駆け巡り、難事件に挑む少年レポーター、タンタン。ある日彼は、蚤の市で美しい船の模型を手に入れる。それは海賊レッド・ラッカムに襲撃され、海上で忽然と消えたといわれる伝説の軍艦ユニコーン号。ところがその日以来、なぜか正体不明の男たちに追いかけられることに。やがて模型のマストに暗号が記された羊皮紙の巻物を発見したタンタンだったが、ほどなく謎の男サッカリンに拉致され、貨物船の船室に閉じ込められてしまう。その後スノーウィに助けられたタンタンは、ユニコーン号最後の船長アドック卿の子孫、ハドック船長と出会う。2人は、サッカリンの執拗な追跡をかわしながら、ユニコーン号の謎を解き明かすべく奔走するのだったが…。

スピルバーグ初のモーションキャプチャ映画にして、前作『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』とも連なる冒険モノ。70年代からスピルバーグの映画を順番に観ていた者にとっては、彼のフィルモグラフィの変化はある程度許容出来る。作り手も年を取るなら、観客も同時に年を取っていくのは自然なことである。特に『シンドラーのリスト』以降、徐々に陰惨さを極めることになるスピルバーグの作風の変化は、撮影監督であるヤヌス・カミンスキーに負うところが大きい。だが80年代半ばまでのスピルバーグに対する世間の評価というのは、もれなくヒューマニズムとファンタジーの作家だというのが大方の見方であった。彼のフィルモグラフィを俯瞰で眺めた時、必ず議題に上るのはいったいどこから彼の作風が『E.T.』のようなファンタジーではなくなったのかということである。80年代以降、彼が製作総指揮に回った作品は10本20本では下らない。『1941』で大コケした後、スピルバーグの監督と製作総指揮を巡る線引きは実に一貫している。要は自分にしか撮れない映画は自分で撮り、他の人に任せるべき素材は任せるのである。

それでも『ジュラシック・パーク』の続編である『ロスト・ワールド』やインディ・ジョーンズ・シリーズの4作品など不可解な部分が多いのも事実である。個人的には『ロスト・ワールド』はスピルバーグがホークスの文脈を現代に蘇らせるために、前作における『赤ちゃん教育』から『ハタリ!』へと移行する彼が定義する映画史への目配せが多分に感じられるし、インディ・ジョーンズ・シリーズでは盟友ジョージ・ルーカスのような親子関係にまつわる因果を描きながら、スター・ウォーズ新3部作と同じ轍を踏まない強固な意志は感じるものの、もはやスピルバーグが撮るべき素材ではないことは明らかだろう。だが現在の陰惨な物語のスピルバーグ作品を好まない者や子供達にとっては、『シンドラーのリスト』以降のスピルバーグ映画が難解過ぎるのもまた事実であり、『プライベート・ライアン』や『アミスタッド』を子供に見せるのはかなり勇気が要る。

劇中の主人公タンタンの言葉にもあったように、スピルバーグという人物は根はロマンチストでありながらそれをひた隠しにした現実主義者であり、タンタンの生き写しのような人物である。『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』では両親の面影に囚われた青年が平凡で幸せな家族を偽装しようとするが、愛する人の父親に嘘(欺瞞)を暴かれ一瞬狼狽する。そこに思いがけない言葉が返って来る「君はロマンチストなんだね」と。今作におけるタンタンとハドック船長の関係性はこれまでのスピルバーグ作品同様に、大人びた子供と子供じみた大人の対比である。スピルバーグがなぜタンタンに強く心惹かれ、映画化に至ったのか?それはタンタンという人物造形に大人びた冷静沈着な子供像を見出したからであろう。様々な難事件を解決し、一向に頼りにならない瓜二つのインターポールの刑事をリードしながら、財宝のありかを執念深く探す様子が彼の琴線に触れたのである。ハドック船長に関しても当初はどうしようもないアル中で酒浸りな人物として描かれるが、ある段階に差し掛かると、タンタンの気持ちを鼓舞し、彼に教育を施すことになる。

モーションキャプチャに関しても、前作『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』のように大抵のアクションがCGを用いて処理されるのであれば、最初からモーションキャプチャでも大差ない。アニメと実写の差とは登場人物を生身の人間が演じるか、人物の動きを模したデジタル変換された技術が演じるかであり、アクションを構成するスピルバーグ側の手腕にはそこまで変化はないのである。あるとすれば製作費の都合だろうか?実際に今作では陸・海・空を舞台に有機的に結びつき、その配置・順番含め素晴らしい活劇の流れが披露される。3D演出に関しては横の動きよりも縦の動きに重点が置かれ、一貫して高低差を感じるアクションが迫力十分である。これは弟子のゼメキスの影響が色濃い。特に素晴らしかったのはヘリコプターでの悪天候通過の場面とジープでの追走劇だろう。車に轢かれそうになる場面など、実際に実写では映像化不能な高処理なショットを連結させることに成功している。クライマックスでのクレーン同士の争いも申し分ない。船上シーンも思えば『フック』の頃のような無邪気さを取り戻しながら、より高低差を意識したロー・アングルとハイ・アングルの配置が素晴らしい。何よりも一旦ヤヌス・カミンスキーと離れ、自らの思いを具現化した砂漠の彷徨場面とラスト・シーンの長回しの欲望は圧巻である。

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