【第369回】『キャロル』(トッド・ヘインズ/2015)

あらすじ・結末に触れていますので、これから観る人はクリックしないで下さい

【第367回】『アイム・ノット・ゼア』(トッド・ヘインズ/2007)


 トッド・ヘインズはかつて『ベルベット・ゴールドマイン』において、デヴィッド・ボウイとイギー・ポップの性別を越えた尋常ならざる交流を描いていたが、今作は同じく音楽史を彩った象徴的な出来事に目を向ける。映画は60年代に世界をリードした「フォークの神様」ボブ・ディランの半生にスポットを当てている。『ベルベット・ゴールドマイン』では70年代の英国シーンを細かなディテイルに至るまで忠実に再現することでリアリティを生んでいたが、今作は処女作『ポイズン』に立ち返ったかのように、6人の俳優がボブ・ディランの精神性を切り取った人生の断片を入れ替わり立ち替わり演じ、それを時系列バラバラにコラージュ的につなぎ合わせていくことで、ディランとその時代の生きたドキュメンタリーであろうとする。

19世紀フランスの詩人アルチュール・ランボー(ベン・ウィショー)は「なぜプロテスト・ミュージックをやめたのか?」という尋問を受けている。1959年、「ファシストを殺すマシン」と書かれたギターケースを持つ黒人少年ウディ・ガスリー(マーカス・カール・フランクリン)は黒人ブルース・シンガーの家に転がり込む。しかし老母に「今の世界のことを歌いなさい」と言われ、再び旅に出るのである。彼ら1人1人はボブ・ディランが幼少期から思春期に至る最も多感な時期に影響を受けた芸術家たちであり、彼らの凝縮された人生が1960年代のアメリカ史における重大事件と幾重にも折り重なっていく。その中でも『ベルベット・ゴールドマイン』を彷彿とさせるかのようなジャック・ロリンズ(クリスチャン・ベール)のエピソードが興味深い。60年代後半のプロテスト・フォーク界で中心的存在となった彼は、パーティのスピーチでJFKの殺害犯を称えたジョークを漏らしたことで民衆の反感を買い地下へと身を隠す。約20年後、彼は教会でジョン牧師と名乗って再び姿を現す。ヘインズ作品特有の苦悩は、ここでも自らの肥大化したキャラと生身の自分自身とのギャップに疲弊することで反復される。そもそも『ベルベット・ゴールドマイン』において、かつてボウイの大ファンで今は記者として働く男に扮したクリスチャン・ベールが、あれから10年経って今作ではジャックを演じているというのが実に感慨深い。

ベトナム戦争が本格化した1965年、新人俳優ロビー(ヒース・レジャー)は、フランス人の美大生クレア(シャルロット・ゲンズブール)と出会い、結婚する。しかし次第に2人の感情はすれ違い始める。このアメリカ人とフランス人の恋を、『ベルベット・ゴールドマイン』における英国人ボウイと米国人イギーの関係性に置き換えることは容易い。ベトナム戦争の後遺症で人格が変わってしまうロビーという男を、今は亡きヒース・レジャーがどこかシリアスに神経質に演じている。73年、ベトナム戦争からの米軍の撤退のニュースを見ていたクレアは離婚を決意するが、彼女の周りには2人の娘がいるのである。1965年、ジュード(ケイト・ブランシェット)はロックバンドを率いてフォーク・フェスティバルに出演し、ブーイングを受ける。彼はバンドと共にロンドンに向かい、ニューヨークの人気モデル、ココ・リヴィングトン(ミシェル・ウィリアムズ)と出会う。ライブで再びロックを演奏し、パーティ会場で悪態をつき、会場を後にするが、地面に倒れ込む。これは実に見事なニュー・ポート・ロック・フェスティヴァルの暗喩に違いない。ディランにとってアコースティックからエレクトリックへと移行した時代の転換点として今は称えられるが、当時はフォークに対する裏切りとして好意的に受け取られなかったのである。このケイト・ブランシェットのエピソードの熱のこもった描き方が新作『キャロル』につながったのは間違いない事実であろう。

結びの6人目の挿話として、西部の町リドルで暮らすビリー(リチャード・ギア)の隠遁生活が登場する。一匹狼である彼の行動が、60年代に下降期に入っていた西部劇というジャンルにオマージュを捧げたものであることは想像に難くない。ハイウェイ建設のため町民に立ち退き命令が下るものの、ビリーはその黒幕がギャレット長官であることを突き止め、ギャレットの演説会で彼の悪行を非難する。町民たちはその言葉で一斉蜂起を始めるのだ。冒頭の列車の到着と円環状に連なるかのごとく、クライマックスで登場人物はあてのない旅に出る。寡作家であるトッド・ヘインズの時代考証は細部に至るまでまったく隙がないが、『ベルベット・ゴールドマイン』や『エデンより彼方に』と比べれば、あまりにも複雑な語りを選んだために、観客を置き去りにしてしまうきらいはある。ディランの半生を時系列に沿って伝えるならばボブ・ディラン信者は熱狂しただろうが、むしろ今作でヘインズが真に描きたかったのは、ディランが疾走した60年代の時代背景の再現に他ならない。物語の構造は非常に複雑で難解で、ディランがどんな人間だったかを知るにはまったく適していない作品には違いないが、トッド・ヘインズの過去のアメリカ文化への尋常ならざる熱量とのめり込み方は十分に理解出来た。

【第366回】『エデンより彼方に』(トッド・ヘインズ/2002)


 庭付きの大豪邸、黒人の家政婦と庭師、国産車に赤がまばゆいドレス、かしましい長男と長女、この50年代の典型的なブルジョワジーの家庭を仕切るのは、妻であるキャシー・ウィテカー(ジュリアン・ムーア)である。彼女は一流企業の重役の夫フランク(デニス・クエイド)を持ち、何不自由のない豪勢な生活を慎ましくも謳歌している。普段は近所のミドルクラス以上の奥様方と社交性のある会話で盛り上がり、時にリベラルな婦人誌の取材さえ受けるこのご婦人の何者にも代えがたい気品は、ご近所の好奇な目さえも一手に集めてしまう。まさに人も羨むような家庭像がそこにある。これは50年代のアメリカの上流階級としては理想的と言ってもいい。

キャシーは自宅に婦人誌の記者を招き入れ、嫌みのない話し方でインタビューを受けているが、ふと窓の外を見ると黒い人影がゆっくりと庭を横切っている。監督であるトッド・ヘインズはブルジョワジーの家庭に入る一筋の亀裂を、こうして丁寧に組み立てていく。その黒い影の正体は、かつてこの家の庭師だった男の長男レイモンド(デニス・ヘイスバード)であり、不穏な侵入者だと思った人影は、ウィテカー家に危害を加えるものではないとわかったキャシーは一転して安堵の表情を浮かべる。一方同じ頃、一流企業の重役の激務にストレスを患うフランクは、突如夜の路地裏へとゆっくりと黒い影を追うように消えていく。妻が見た庭への黒い影の侵入と、夫が見た路地裏での黒い影とはゆっくりと交差し、ノワール・サスペンスにおける崩壊の起点としてそこに立ち現れるのである。夫は仕事の精神的ストレスから、ずっと隠していたある病気を再発してしまう。そして妻のキャシーも首に巻いていた紫のスカーフが強風に流され、風にたなびいた後、庭に生えた豪勢な木の枝の上に落ちる。それを拾うのは黒人庭師のレイモンドである。

トッド・ヘインズの作品ではしばしば同性愛がクローズ・アップされる。それどころか彼の映画では同性愛でなくても、ブラザー・コンプレックスや化学物質過敏症などを突如発病し、精神のバランスを徐々に崩していく登場人物たちの姿を目の当たりにする。今作におけるこの平和に見える家庭にも転落のきっかけが転がっている。夫の同性愛の告白と時を同じくして、ブルジョワジーの家庭に嫁いだ女が、虚飾にまみれた自分のイメージと実際の自分とのギャップに苦しみ始める。前作『ベルベット・ゴールドマイン』同様に、自らの置かれた環境で当たり前になった自由を謳歌している最中、登場人物たちは突如湧き上がる自我に目覚め、置かれた環境からの逃避を試みる。そのきっかけが美術館での黒人庭師との親しげな耳打ちだったとは少しも気付くはずはない。男性の描写の中に、女性特有の美意識が滲む印象的な場面がある。仮初めのホーム・パーティの後で、夫フランクのパーティ中の心無い言葉への不快感を露わにしたキャシーに対し、夫フランクは後ろからきつく抱擁し、ソファーへと押し倒す。ここで夫ならば愛のないSEXをすれば夫婦の亀裂は少しは収まるにもかかわらず、別のパートナーが出来た夫は妻を拒絶する。この無理となって突き放す一連の女性的な描写には、同性愛者を公言するトッド・ヘインズならではのパートナーとの関係性が滲んでいる。

今更言うまでもないことだが、今作はダグラス・サークの『天はすべて許し給う』にオマージュを捧げている。あちらは50年代のある地方都市を舞台にした未亡人が主人公の悲しいメロドラマだったが、庭師は黒人ではないし、夫は同性愛者でもない(それどころか既に死んでいる)。今作における設定の書き換えがどのような意図によるものかはわからないのだが、当時はゲイは病気とされ、街中で白人が黒人と親しげに話しただけで好奇の目で見られた。この設定変更が当時のマッカーシズム溢れる社会の重苦しい空気を表すためのゲイや黒人だとしたら十分合点が行く。町中の好奇の目、検閲のような監視体制、根も葉もない噂の浸透、学校における陰湿なイジメなどがつまるところ、共産党員やその支持者への密告や自主規制への肥大化した暗喩だとしたら、ヘインズの描いた時代の空気感は十分に納得しうる。リベラルを謳った婦人誌の記者こそが心の中では黒人を差別し、50年代の典型的なブルジョワジーの妻を破綻させた張本人であり、彼女の親友を語っていた燐家の妻も同じような立場から、キャシーの転落の後押しを迫る。前々作『SAFE』では80年代の中流階級、前作『ベルベット・ゴールドマイン』では70年代のグラム・ロックの栄光と挫折を描いていたが、今作ではそこから更に時代を遡り、1950年代の赤狩りに揺れるアメリカの空気感を実に見事に的確に描写している。その細部に至る緻密さ、長回しを基調としたカメラワーク、背景へのこだわり、どれを取っても頭一つ抜けている傑作中の傑作である。

【第365回】『ベルベット・ゴールドマイン』(トッド・ヘインズ/1998)


 厚底ブーツにベルボトム、いわゆる英国ヒッピー風の出で立ちの女の子たちが熱狂的に何かを追っている。そこはビートルズが一時代を終えたばかりの大英帝国の街角であり、ブリティッシュ・イノベーションに陰りが見え、アメリカではウッドストックやヒッピー・ムーブメントが終わり、新たな時代の息吹が待たれていた時代である。その時代の転換期にスターは突如現れる。中性的なルックスと美貌、カリスマ性溢れる出で立ち、奇抜な衣装に身を包んだその男の名前はブライアン・スレイド(ジョナサン・リース・マイヤーズ)と言うのだが、明らかにデヴィッド・ボウイその人に違いない。彼は円盤型のスペース・オディティに乗り、突然この星に降臨するのである。80年代後半にはカレン・カーペンターの壮絶な最期のメタファーをバービー人形で奇抜に表現した『Superstar: The Karen Carpenter Story』でも見せたトッド・ヘインズのシニカルな批評眼は今作でも健在である。かつて「ジギー・スターダスト」という架空のロック・スターに扮したデヴィッド・ボウイの姿に倣い、二重三重の倒錯性で魅せる分裂症気味でシニカルなユーモアは、ヘラルド紙の記者アーサー(クリスチャン・べール)がスレイドと自己の同一化を図ることで果たされようとしている。彼はヘラルド紙の上司の指令により、無理矢理自らの思春期を回顧する機会に迫られ、結果的に人々の記憶から薄らいで行くばかりだったスレイドの記憶へと退行させる。偽装殺人によりこの世から一旦は消えたことになっているスレイドの姿はここでは回想のみの出演に留まる。物語はアーサーがスレイドと深い関わりのあった人たちの元を訪れることで、彼の面影を掘り起こしていくのである。

今作でデヴィッド・ボウイの栄光に満ちた半生の中で強調されるのは、ブライアン・スレイド(ジョナサン・リース・マイヤーズ)とアメリカから来た“ワイルド・ラッツ”のヴォーカリスト、カート・ワイルド(ユアン・マグレガー)との運命の出会いだろう。明らかに観る人が観ればデヴィッド・ボウイとイギー・ポップだと類推される2人の関係性のうち、イギーの絶頂期であり、暗黒期でもある『淫力魔人』から『ラスト・フォー・ライフ』あたりの2人の蜜月を、ヘインズはゲイならではの視点でセンセーショナルに描いている。イギー・ポップとデヴィッド・ボウイの関係性は愛情以前に深い友情に結ばれていたのは間違いない。彼らは共に音楽業界の最前線に立つカリスマ・ロック・スターとして、何らかのシンパシーを感じていたのは想像に難くない。当時、イギー・ポップは『淫力魔人』リリース後、薬物中毒によるパラノイアを抱えていた。バンドは活動中止に追い込まれ、急遽ソロになったイギーに救いの手を差し伸べたのはデヴィッド・ボウイであった。しかしながらボウイが差し伸べた手をイギーは振り払ってしまう。この辺りの愛憎入り乱れた関係性や音楽史にはあまり深く踏み込まず、監督は愛情と挫折だけを強調する。英国人と米国人、その2人の必然的な出会いの場面をとあるフェスに設定したヘインズは、スレイドにとって深い挫折となったステージに、カートの荒々しい演奏を用意する。時にイギー・ポップの代名詞となった過激なパフォーマンス、ステージ上で嘔吐したり、ナイフで己の体を切り刻んだり、裸でガラス破片の上を転げ回って救急車で搬送されるといった奇行を繰り返したイギーの、全裸でその場にいるオーディエンス全員にアナルを見せつけるパフォーマンスを、雷に打たれたような強い眼差しでスレイドが見つめる場面が鮮烈な印象を残す。

スレイドはここで自らと同じようにポップ・アイコンとしてのプレッシャーに打ちのめされ、どこまでも正直過ぎる行動の代償として、ドラッグ中毒に陥った痩せこけたアメリカ人の姿を目撃し、一目で恋に落ちる。それをヘインズ作品特有の遠目からの凝視で提示するのである。ヘインズにとってこの「見ること」と「見られること」の連なりは、21世紀のどの作家よりもセクシュアルである。ブライアン・スレイドとカート・ワイルドの蜜月の瞬間は一度も出てこないが、バービー人形でのお飯事の場面は明らかに同性愛者の暗喩として用いられる。ヘインズの映画ではまぐわうことよりも、唇を重ねることよりも、この見ることと見られることが愛することの証明として何度も登場する。それはブライアン・スレイドとカート・ワイルドに関わらず、ヘラルド紙の記者アーサーも、スレイドのアメリカ人の妻マンディ(トニー・コレット)も決定的な別離の瞬間を「見ること」と「見られること」の関係性の中に見つけるのである。特に打ちのめされたマンディがベッドで娼婦を抱くスレイドの顔を嫉妬に溢れた表情で見つめる場面や、自分の元を去っていこうとするカート・ワイルドの姿を豪邸の2階から見つめるブライアン・スレイドの姿がエモーショナルに胸に迫る。ヘインズは開放的だった70年代の反動としての80年代を冷静に見つめている。今作の出来を見たボウイは作品世界を酷評し、自らの数々の代表的な楽曲の使用にNOを突きつけた。それゆえグラム・ロックでもT.REXやブライアン・フェリーしか使用出来ず、『ベルベット・ゴールドマイン』というタイトルだけが残った。しかしながらボウイが亡くなった今、彼の名曲たちが自然とこの映像世界に付随して立ち上がってくるかのようだ。あらためてデヴィッド・ボウイとイギーポップに哀悼の意を表したい。

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