【第391回】『ストリート・オブ・ノー・リターン』(サミュエル・フラー/1989)


 港町のある一角では、まるで戦争のような暴動が起きている。ヒスパニック系の白人と黒人たちが互いに武器を持ち、奇声を浴びせながら暴力に訴えかける。警察権力が止めに入ることはなく、ある種無法化したストリートにふらふらとホームレスの男が千鳥足で現れる。彼こそが今作の主役であるキース・キャラダインである。『最前線物語』では弟のロバート・キャラダインがマーク・ハミルと共にリー・マーヴィン扮する軍曹について行ったが、このホームレスの男に救いの手を差し伸べるものはいない。孤独な一匹狼である男は酩酊しながらも、賑やかな方向に行けばアルコールがあるのではと考え、誰も寄り付かず、無法地帯となったストリートに現れたのだ。阿鼻叫喚の地獄絵図の中、逃げ惑う人たちの傍らをフラつく主人公の脳裏には、ある瞬間がフラッシュバックする。かつて彼は街一番の歌手として知られていた。しかし街の若者の人気を一身に集めた栄光の日々は、シリア(ヴァレンティナ・ヴァルガス)と出会った瞬間から一変する。ラテン系のセクシーな気品と優雅さ、それに少しの退廃を併せ持ったファム・ファタールたるこの女に主人公は心を奪われてしまう。だがシリアの情夫、暗黒街のドン・エディ(マルク・ド・ジョンジュ)は、自分の女を奪った街のスターに逆上し、歌手の命とも言える喉を切り裂く。その日から人気歌手だったマイケルは姿を隠し、今やアル中の浮狼者にまで身を落としているのである。

栄光と挫折、栄華と退廃、平和と暴力、生と死など、およそ正反対な要素が全て含まれる堂々たるアクション映画である。男は運命の女に恋をしたことで、歌手としての未来を絶たれる。かつて自らのM.V.に出演していた黒い馬に乗った裸の女。その女が服を着て舞台に立つだけで、彼女の美しさに見惚れてしまうのは男の悲しい性なのだろうか?出会った時は裸のエキストラに過ぎなかった女が服を着て、舞台の幕間に出ている姿に恋をし、服を脱がして抱き合う。このファム・ファタールを巡る男のある種の倒錯した感情が何とも言えず素晴らしい。ベッドを離れた女に主人公はついていき、一緒にシャワーを浴びる。この主人公のキャラクターのヨーロッパ的な伊達男の設定に、かつてのフラー作品の男性像との変化を思いながら何とも言えない感慨に耽る。女に骨抜きにされた男は、ただ夜の街を彷徨することしか出来なくなっている。千鳥足でストリートを闊歩する男の前に、自分と同じような男が突っ伏して倒れている。その傍らには瓶に入った酒の割れ残った底の部分があり、彼は寝ている男に許可をもらい、割れた小瓶の破片を物ともせず、無理矢理飲み干してしまう。そこで初めて男は横たわる男の安否に気づくのである。黒人署長ボレル(ビル・デューク)の強権的なやり口とそれに従うように見えて反乱する主人公の対立構造はさながら『ランボー』のようである。ボレルは今夜起きた暴動の首謀者を見つけ出さなければ、初めての黒人署長の地位と名誉を失うことになる。お上は治安悪化の原因はお前が取れと圧力をかけるのである。人種差別をもろともせず、常に理性的な行動を取って来た男が初めて見せた焦りのようなものが、その後の展開を予感させる。ここでもかつてのフラー作品同様に、人種も階級も違うキース・キャラダインとビル・デュークには友情が静かな芽生えるのである。

中盤の放水シーンがフラーの暴力を決定づけているのは言うまでもない。今作においてキース・キャラダイン扮する主人公は決して自分から引き金を引いたりしない。荒廃する現代、大量殺戮への道は開かれているものの、最初は放水で威嚇し逃げるだけで、続く黒人ギャングに囲まれた場面でもどういうわけか彼は床に捨ててあった手榴弾を拾い上げ、彼らにピンを抜いて見せ、爆発するぞと脅すだけである。黒人ボスの命令により結果的に手榴弾は暴発するものの、それはあくまで主人公の殺人ではなく、襲ってきた人間が勝手に自爆したに過ぎないと言わんばかりである。その後ボスの車に乗り込み敵のアジトを見つけることになるが、そこで『ホワイト・ドッグ』並みの人種差別主義者の悪知恵を聞くことになる。これまで孤独だった主人公が黒人署長ボレルに密告する場面と、その直後のギャング一掃作戦はややご都合主義的ではあるものの、ボレルはまるで『最前線物語』の軍曹のように、キース・キャラダインに行けと先陣切って乗り込むことを命じるのである。敵のアジトの堅牢な警備体制を掻い潜り侵入するキース・キャラダインの一連のアクションも予定調和の域を出ないが、今作において最終的な決断や殺しを担うのはキース・キャラダインではなく、一貫して黒人署長ボレルなのである。主人公には悪の組織に囚われた姫を救出するミッションもなく、結果的にボレルが恩赦で牢獄から出したシリアが彼を救い出すことになるのだが、路地裏の男を掬い上げるファム・ファタールのある種倒錯した描写こそが、アメリカを追われフランスに居を構えながら、一貫してアウトローだったサミュエル・フラーらしいハッピー・エンドの余韻を残す。

余談だが今作は『デンジャーヒート/地獄の最前線』より後に撮影されながら、日本での劇場公開は今作の方が先だったという曰く付きの作品である。それゆえあまり話題にのぼることはないが今作がフラーの遺作となり、1997年に85年に渡る生涯を閉じることになる。10代の頃から新聞記者として働き、30代で『最前線物語』で描かれた歩兵として第二次世界大戦に歩兵として従軍し、30代後半で監督デビューした遅咲きの作家だったフラーは、フォードやホークス、ヒッチコックと言った映画史の巨人たちと交流を深めた最後の大監督として有名だった。同世代のカサヴェテス、レイ、後輩たるゴダール、トリュフォー、ファスビンダー、ヴェンダース、ボクダノヴィッチ、シャブロル、カウリスマキなどの歓待を受け、映画人としての交流を深めた。彼はアメリカでは一貫して暴力の作家、戦争映画の巨匠として評価されながら、実は暴力を嫌い、あらゆる差別を嫌い、国家の束縛を嫌った永遠のアウトローだったはずである。今作を撮った時、既に80歳近い老齢でありながら、その瑞々しい表現を何の先入観もなしに観ると、初期衝動の爆発した20代の撮った作品にしか見えない。その奇跡のような瑞々しい初期衝動に溢れたショット群に、あらためて驚きを禁じ得ない。

【第390回】『ホワイト・ドッグ』(サミュエル・フラー/1981)


 売れない若手女優ジュリー(クリスティ・マクニコル)の運転する車が急なカーブを曲がるところでうっかり何かを轢いてしまう。恐る恐る車を降りた女は、そこに横たわる白い大きな犬を発見する。人気のない急カーブだし、別に逃げようと思えば幾らでも逃げられる場所だが、彼女は白い全身が真っ赤な血に染まった犬を助手席に乗せ、動物病院へと搬送する。彼女は犬の命を見殺しにしない勇敢な女性であり、女優としての仕事が鳴かず飛ばずで生活が困窮する中で、手術費を支払い、白い犬と一緒に暮らそうとするのである。こんなに良い飼い主に拾われて犬は幸せだが、女は毎日の生活の中であるおかしな事態に気付いてしまう。白い犬は彼女を襲うことはないが、例外的にまるで狂気で錯乱したかのような異様な歯軋りを見せる。野生の犬であれば彼女にもなつくはずないが、その犬は明らかにある人種を敵視するよう教育されている。久しぶりのジュリーの撮影現場に持ち込まれ、大人しく地面に伏せていたはずの犬が、黒人女性に飛びかかり、彼女に瀕死の重傷を負わせることになる。この一連のショットの残忍さや不穏さは明らかに『ショック集団』で芽生えたフラーの暴力性の延長線上にある。不法侵入しレイプしようとした男にはこのくらいの制裁が必要だが、丸腰の黒人女性を狙った凶行は意図的としか思えない。主人公は安楽死を主張する恋人に反対し、犬を正常に戻すため動物の調教場を経営するカラザス(バール・アイヴス)のもとを訪れる。

そこで明かされる「ホワイト・ドッグ」の恐るべき秘密とは、黒人差別主義者の調教師が小さい頃から訓練し、黒人を殺すように仕組んだ獰猛な殺人鬼だとわかるのだ。その衝撃的事実を耳にした主人公は、これまでの生命を重んじる自らの主張とは180度反対の主張、つまり悲劇をもたらすのであれば殺処分が妥当だと、飼い主ではなく一人の人間としての主張を展開するが、今度は逆に黒人の調教師キーズ(ポール・ウィンフィールド)が取り合おうとしない。これはフィクションの物語だが、実際に殺人犬がいた場合、どのような措置を取るのが妥当だろうか?調教場のオーナーであるカラザスも調教師のキーズも、もしこの情報がどこかから漏れた場合、とんでもない問題に発展することは予期しているのだが、犬を生かすという判断をした矢先、白い犬はあっさりと柵を飛び越えていく。犬の逃亡の最中、黒人少年の街路への飛び出しが犬に見えるか見えないかギリギリのところで行われる場面は、ホラー映画並みに圧倒的なスリルを観客に提供する。間一髪のところで未遂に終わったものの、次に出くわした大人が悲劇のターゲットになってしまう。教会のキリストのステンドグラスだけがこの殺人の現場を見ているということなのだろうか?前半のレイプ魔の侵入の際は、戦争のけたたましい砲弾がテレビから鳴り響く中、犯人は凶行に及ぼうとしたが、フラーは殺人をただの殺人にはせずに、暴力に更なる苛烈な暴力を掛け合わせることで強烈な問題提起を施すのだ。

ジュリーの気持ちをキーズが汲み取りながらも、5週間プログラムで何とか犬を手なづけるが、その段階になって白い犬の飼い主を自称する男が現れる。彼は一見して非常に温厚で穏やかなリベラリストに見えるし、いかにも純朴そうな少女の真ん中に挟まれて微笑む。恰幅の良い男はジュリーをチョコレートで釣りながら、ホワイト・ドッグの返還を求めるが、教会で1人の黒人男性を殺めた事の重大性を理解しているジュリーは激昂し、受け取ったチョコレートを投げつける。『裸のキッス』のラストの大衆の好奇な眼差しのように、時に人種差別主義者の歪んだ見解が、市井の人々を恐怖に陥れるということに、主人公は反旗を翻すのである。5週間プログラムの最終試験の現場、キーズの献身的な調教が身を結ぶのか?はたまた幼年期からの人種差別主義者の歪んだ調教が勝るのかは実際にスクリーンで確認して頂きたい。アメリカの欺瞞を、映画を通じて問題提起してきた職人監督フラーの人種差別への告発は、馬鹿げたことに人種差別主義団体の圧力を食らい、アメリカでは今作が陽の目を見ることがなかった。そのことに晩年のフラーは打ちのめされ、失意の中、家族を連れてフランスへと渡ることになる。

【第388回】『裸のキッス』(サミュエル・フラー/1964)


 冒頭、もの凄い形相をした美人がカメラに向かって殴りかかる。その対象は女の売り上げをピンハネした娼館のオーナーだとわかるのだが、まるで全盛期のヒッチコックばりの細かいショットの連続が、バッグを使った暴力の烈しさを伝える。その上びっくりさせられるのは、美女の髪が勢いで地面に落ち、ヒロインとはとても思えない無残な丸坊主姿を晒すことである。あまりにもショッキングな導入部分を持った映画が今作『裸のキッス』である。女を丸坊主にするというということは、娼婦を囲い、逃げられるなくすることと同義であることは想像に難くない。オーナーはそうやって娼婦たちを最下層に閉じ込めようとするが、彼女は束縛をもろともせず、いとも簡単に環境からの逃避を試みる。それから2年が経過するも、そう簡単に娼婦の立場から這い上がることは出来ない。グラントビルという小さな町に、シャンパンのセールス嬢として現れる。ちなみに街の映画館ではフラーの前作である『ショック集団』が上映されている。警部のグリフ(アンソニー・B・アイスリー)は町で一目見た瞬間から彼女に惚れ、猛烈なアタックをかけるが、彼女は心を許さず、体だけをグリフに預けることになる。グリフは一夜を過ごした後、警部としての本能から町を去るよう忠告する。だが娼婦からの完全なる更生を決意したケリーは町に住居を見つけ、心機一転、身障者児童の福祉施設の看護婦として働き始める。導入部分では汚い大人に対し、暴力の鉄槌を食らわしたヒロインが子供達を前にした時、母親のような温和な表情を見せるのが実に印象的である。フラーは女の二面性へと観客をリードしながら、汚れてしまった女の苦悩と這い上がるための過酷な試練とを用意する。やがて町の若き富豪グラント(マイケル・ダンテ)に見初められた女は、熱烈なプロポーズをされるのだった。

子供達は身体に障害を持ちながら、ピュアな気持ちを抱えて、将来に希望を持って生き続けるが、それとは対照的に大人たちのギスギスした関係性があらゆる汚れをまとった偽善的姿として描かれる。この町における善人と言えるのは、警部のグリフと、ヒロインが借りるテナントのオーナーを務めるベティ・ブロンソンしか出て来ないという設定がまず凄まじい。汚れたヒロインが町の有力者に見初められる展開はシンデレラ・ストーリーを予感させるが、ヒロインの淡い希望をあっさりと踏みにじるサミュエル・フラーの社会警告は、前作『ショック集団』同様に胸に迫る。最初は街の人たちに部外者として好奇の目で見られていたヒロインと、長年、街の有力者として尊敬の眼差しを向けられていたグラントの関係性があっさりと逆転するクライマックス、ラスト・シーンの偽善者たる街の住民たちの心無い拍手と笑顔とは、まさにアメリカ社会の病巣を鋭くえぐるサミュエル・フラーならではの問題提起が光る。誰一人として自分を知る者がいない田舎町で、心機一転やり直そうと誓ったヒロインが、結局その田舎町でも悪意や欺瞞の目に晒されるというあまりにも夢のない物語をフラーは皮肉めいたタッチで描いている。

前作『ショック集団』では主人公の恋人のストリッパーを演じたコンスタンス・タワーズが、今作では後ろ指さされるようなうらぶれた娼婦を演じている。だが彼女は娼婦にまで立場を落としても、魂までは売り飛ばすことがない。ヒロインと身障者児童施設で同僚として働く女性が金に目がくらみ、娼婦にまで身を落としそうになるのを身を呈して防ぐ場面がある。ここでは自らの体験から彼女の防波堤になろうとし、しまいには売春宿の女主人に直談判に押しかける。同じ娼婦にまで身を落とした主人公と女主人の関係性でありながら、ここでの2人の態度はまるで違う。搾取する側と搾取される側の娼婦が正面から対峙し、導入部分のようなショッキングで突発的なヒロインの暴力に至る。口の中に25ドル札を入れる場面のセンセーショナルな描き方はまさに反骨の作家フラーの名場面であろう。それはプロポーズされた愛するグラントの裏の顔を見てしまった場面でも同様である。エリート警官に憧れながらも、一貫して日陰の街の門番をさせられる羽目になっているグリフの焦燥感や、グリフとグラントの友情や三角関係の描き方は多少物足りないが、その唐突な展開こそがサミュエル・フラーの真骨頂であり、旨味である。64年の作品としてはあまりにも鮮烈だったであろう小児性愛者の生々しい描写や、フィアンセに決定的場面を見られた男の転落を表現した狼狽する表情を据えたクローズ・アップからの突然の暴力の凄まじさは、50歳を超えたベテラン監督とは思えない強度を誇る。コンスタンス・タワーズが声高らかに歌う『Little Child (Daddy Dear)』の美しさも絶品である。「娼婦と倒錯者は同じ世界だ」と皮肉交じりに言われながらも、自由を信じたヒロインの生き様が胸に迫る。途中まではシンデレラ・ストーリーを地で行くメロドラマ的な展開、それをクライマックスで破壊し、アメリカの欺瞞を暴こうとするフラーの鮮やかな手捌きは未だに色褪せない。

【第387回】『ショック集団』(サミュエル・フラー/1963)


 ある男は精神が不均衡になった患者のフリをするが、それを見ていた東洋人の男が「そんな演技では医者は騙せんぞ」とほくそ笑みながら小声で告げる。新聞記者ジョニー・バレット(ピーター・ブレック)はピューリツァー賞を夢見る新進気鋭の若手記者であり、周りを出し抜くような特ダネ記事を欲していた。それは愛する恋人(コンスタンス・タワーズ)との幸せな未来のためであり、並外れた野心のためだと信じている。バレットは精神病院で起きた殺人事件の犯人を突き止めるために、精神病患者になったフリをして、病院内への潜入を目論む。ストリッパーの恋人はそんな手荒な方法を取るパートナーの算段に当初は反対の意思を表明したものの、2人の明るい未来のために彼の妹になり、兄貴に犯されたシスコンの妹のフリをする。こうして大それた取材は幕を開ける。

映画は事件を目撃したとされる3人の精神病患者への問いかけを行う3幕構成を取る。1人目の自閉症気味な南部の貧しい労働者階級の男スチュアートは、朝鮮戦争の帰還兵であり、共産主義陣営に情報を明かすスパイの任務を負っていた。しかしその危険な任務の代償がアンビバレントな精神を生み、将官になったつもりでいる。2人目の黒人学生トレントは、人種差別が色濃く残る南部の大学で人種差別に遭い、心に深い傷を負っている。彼は狂気じみたイメージの中で自分自身をKKKの一員と同一化し、白人男性の撲殺を夢に見ている。3人目のボーデンという男は天才科学者であり、第二次世界大戦で広島・長崎に投下された原爆開発の責任者だったことが明かされる。彼は焦土と化した広島・長崎の映像を見たショックが原因で、6歳児に精神が退行している。サミュエル・フラーは彼ら3人の病巣を通して、アメリカ合衆国に巣食う闇の部分をジャーナリストならではの手法でえぐり出そうとする。そのブラック・ユーモアに満ちた不条理世界と混沌はフラー映画の中でも異彩を放つ。

彼らと同化を図り懐へと潜り込む作業はとりあえず成功を収めるが、それと同時にバレットが精神の均衡を徐々に失っていく様子は終わりのない悪夢の始まりとなる。精神病院のルックを最も特徴づけている長い廊下と等間隔に備え付けられた電球の明かりが、永遠に終わることのない悪夢の回廊のように見えて仕方ない。バレットは毎晩、ストリッパーの恋人が夢の中で彼を魅了するイメージを見るのだが、その平和なイメージが目の前にいる3人の精神病患者を前にして、徐々に失われていく。スチュアートの悪夢のイメージとして、フラーのかつての傑作ノワール『東京暗黒街 竹の家』の映像マテリアルが新たな編集を施され、歪んだイメージとして突如現れる。真打ちとして3人目に登場するジーン・エヴァンズがバレットと2人でかくれんぼをする場面の、椅子の下でにやける様子には心底肝を冷やした。彼は戦争という避けられない恐怖の中で、まったく変わり果てた姿を見せる。6歳児に退行した男の書いた肖像画に、バレットはまるで鏡に映った正気ではなくなった自分の姿を見つけ、絶望のかな切り声を上げる頃には、もう彼はアメリカの深い闇の中に引きずり込まれているのだった。

バレットと恋人の決定的な亀裂を表現するために、サミュエル・フラーはここでもキスを用いる。彼の言動のおかしさや虚ろな目を見て、恋人がすっかり変わり果てた姿になったことに気付いた恋人は、唇を重ね合わせることで男の理性を取り戻させようとするが、バレットは乱暴に振り払い、唇を拭うことになる。フラー作品では男女の距離が縮まる決定的な瞬間に用いられてきた突然のキスが、今作では2人の不和を決定的なものとするのである。観客はジョン・フォードの『騎兵隊』のヒロインとしても知られたコンスタンス・タワーズのキスさえも拒否したこの男の精神状態が、いよいよ錯乱寸前にあることを目撃してしまうあまりにもショッキングな場面である。こうして恋人の電気ショック容認は起こるべくして起こってしまう。人間が家畜同然の動物のような状態になってしまう電気ショックの恐怖は、今日に至るまで有効だろう。拘束着を着せられたバレットが電気ショックを食らう場面は、戦場で弾を食らうかそれ以上のショックを我々にもたらすことになる。クライマックスの雨降りからの嵐のイメージは、ハリウッド映画において最も過激なイメージとなる。『四十挺の拳銃』の突然の嵐のように、あらゆる天変地異が白昼夢のように、真っ白な長い廊下に座り込んだ彼の元へと降りかかる。その畳み掛けるようなモンタージュの恐怖と衝撃は今作を伝説たらしめている。

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