【第396回】『ぼくらの家路』(エドワード・ベルガー/2013)


 木漏れ日のオレンジがかった光が白いベッドに差し込んでいる。朝日に照らされながらうつ伏せに眠る弟とあおむけに横になる兄弟の無邪気で対比的な構図。その楽園のような眠りから急に目覚めた兄は急いでキッチンへと向かい、朝食の準備をしている。1枚の食パンの上に、下手くそに塗りたくられたストロベリー・ジャム。弟を急かすようなやんわりとした兄のお節介。通勤ラッシュの車の流れが一瞬途切れたところで、弟の手をつないだ兄は小走りに広い道路を渡っていく。あまりにも慣れた一連の行動は親のいない兄弟を連想させるが、信じられないことに彼らの母親は次のシークエンスでひょっこり現れる。10歳のジャック(イヴォ・ピッツカー)は、6歳になる弟のマヌエル(ゲオルク・アルムス)の世話を母親に託されている。当の母親とこの家族には父親がおらず、母親は毎晩父親候補の男性を連れ込みSEXに興じている。深夜に隣の部屋から漏れ聞こえる母親の喘ぎ声、ノックもせずにずかずかと快楽部屋に入り込む10歳の息子の静かなる抵抗。明らかに教育上相応しくない空間で、それでも健気な長男ジャックの愛情の乾きが胸を打つ。ただ母親の目を自分に向けたいがために、娼婦を抱くような赤の他人の男性に嫉妬しながらも、弟にだけは絶対に当たることのない健気な兄を、母親は施設へと送る。

夏休みの間だけという名目だが、生まれて初めての施設での暮らし。弟とも引き裂かれ、慣れない兄にはこのような息苦しい環境は当然厳しい。閉塞感のある限定された空間に閉じ込められた主人公に待ち構える運命は、刑務所モノの映画とさして変わらない。余所者の入居に色めき立つリーダー格の嫌がらせ、言葉を失ったかのように寡黙な男との密かな友情、およそ限定された空間で繰り広げられる様々な手荒な行動を一通り体験した後、言葉を失うような憎悪が主人公に降りかかる。この一連のシークエンスを見て、ダルデンヌ兄弟の『ロゼッタ』を連想した人も多いに違いない。辺鄙な林を通り過ぎたところに沼というロケーション、住居の中をまるで主人公の一挙手一投足を追うかのようなステディ・カムの背中に接近した手持ちカメラの動き、交通量の多い道路を渡ろうとする小柄な体型、忙しなく昇り降りする急な階段と少年の息遣いなど、今作には実に様々なダルデンヌ兄弟作品との類似点が浮かび上がる。池の場面の過酷な描写は『ロゼッタ』そのものであり、その後施設を抜け出し、母親を探す描写は父親と母親という性別の違いはあれど、『少年と自転車』の過酷な描写に似通っている。右も左もわからない子供が、様々な試練を乗り越え、愛する母親に会いたいと願う純粋な思い。ただそれだけのシンプルな物語ながら、今作の物語はそれだけに留まらず、EU圏の格差社会をも浮き彫りにする。意気揚々と階段を駆け上がる主人公の躍動が何度も失望に変わり、父の形見を貸してくれたもの言わぬ友人との交流と贖罪の思いから、子供ながらに罪を犯す場面には心底絶句する。監督であるエドワード・ベルガーはクローズ・アップで撮れば済む場面を、あえて少年の躍動する姿を据えることで、葛藤や焦燥感に苛まれる少年の感情を浮き彫りにする。

ヨーロッパ映画において、不良少年の物語と言えば真っ先に挙がるのがフランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない』のジャン=ピエール・レオだろう。トリュフォーの自伝的物語だった『大人は判ってくれない』にあったのは、第二次世界大戦後のフランスの貧しい核家族の暮らしに他ならない。狭いボロ・アパートでの暮らしとゴミの分別。月に一度、3人で映画を観に行くことが唯一の楽しみだったトリュフォー家の淡い思い出。映画好きで大金持ちだった親友の部屋で、煙草をくゆらせて煙を充満させる主人公の危機は、今にして思えば中流家庭の悲哀を謳ったに過ぎないとも言える。あの傑作を生み出した1960年代からおよそ50年の歳月が流れ、EU圏の国家間のボーダレス化、移民の流入、富むものと貧しい者の厳しい経済格差は云うまでもなく、今作の主人公の家族を危険に晒している。一億総中流社会と言われた日本経済の現在同様に、中流幻想にあった家族はほとんど下流家族の危機に瀕している。主人公の健気さとは対照的な母親の身勝手さに激怒し、批判する観客は多いだろうが、それは脚本上意図された粗にしか過ぎず、監督が真に伝えたかったのはドイツにおいても最下層の貧困はいよいよ末期症状に達しているという真摯な問題提起ではないだろうか?息子にSEXの現場を覗かれても気にも留めない母親は確かにクズに違いないが、クライマックスの主人公の決断は監督にとって、あえて突き放した精一杯のエールに他ならない。この結末が主人公にとって何の支えにもならないのは明らかだが、それでも彼らの未来への前進を願ってやまない。

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