【第641回】『ジャック・リーチャー NEVER GO BACK』(エドワード・ズウィック/2016)

あらすじ・結末に触れていますので、これから観る方はクリックしないで下さい

【第640回】『ラスト サムライ』(エドワード・ズウィック/2003)


 日本は剣で作られたとする神話、イザナミとイザナギの神を紹介する古事記の一節。クレーン撮影されたカメラが草むらに正座する男の前に回り込む。彼は目を瞑り、静かに瞑想する。武士の社会が長らく続いていた帝国日本も、欧米に則した近代化へ進み始めていた。戦さのスタイルは様変わりし、新たな洋式鉄砲と軍隊に希望をかける人々の圧力に押され、従来の武士の勢力は絶滅の危機に瀕していた。1876年サンフランシスコ、ウィンチェスター社の銃のプロモーションのために西海岸を訪れていたネイサン・オールグレン(トム・クルーズ)は、楽屋で小さな椅子に腰掛け、ウィスキーの瓶を呷る。南北戦争時代、北軍の士官として戦場に赴き、大尉にまで上り詰めた男は典型的なPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っていた。彼の脳裏にはインディアンの部族に奇襲を仕掛けた光景が残像のようにこびり付いて離れない。子供たちは逃げ惑い、絶叫し、その場に倒れ動かなくなる。阿鼻叫喚の地獄絵図。良心の呵責に苛まれた男は、戦場での体験から逃れるようにウイスキー浸りの日々を送る。そんな折、南北戦争の英雄に意外な声が掛かる。日本の実業家にして大臣の大村(原田眞人)はバグリー大佐(トニー・ゴールドウィン)を介し、南北戦争の英雄に日本の軍隊の教授職のオファーがかかる。

 当時の日本はまさに明治維新の転換点にあった。阿片戦争後、世界的に帝国主義の波が強まる中で日本は当初、鎖国体制を極力維持し、旧来の体制を維持しようとした。しかし江戸幕府は、朝廷の意に反する形で開国・通商路線を選択したため、攘夷運動は尊王論と結びつき、尊王攘夷運動として広く展開される。こうして長州・薩摩の血みどろの抗争を経て、将軍慶喜は大政奉還を行う。王政復古の大号令が発令して明治政府が成立した。当時の日本は近代国家建設のために急速な近代的軍備の増強が必要であり、外国の力を必要としていた。オールグレンに白羽の矢が立ったのもそういう表向きの理由があってのことだが、大村は同時に不平士族の領袖である勝元(渡辺謙)たちを一掃しようと目論んでいた。勝元のモチーフは西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した西郷隆盛に違いない。大金のオファーに目が眩んだオールグレンは当初は明治維新の裏方として活躍しようとするが、急場凌ぎの軍勢で彼らに挑んだオールグレン率いる部隊と相対し、南北戦争では起こらなかった敗北を喫し、勝元に生け捕られる。自分の弟の命を奪った憎き白人であるオールグレンを氏尾(真田広之)は真っ先に処刑しようとするが、勝元はそれを許さないばかりか、妹のたか(小雪)に手当てをさせ、面倒を見させる。なぜ生け捕りにした自分を殺さないかということは物語の主題と共振する。

 日本の描写は『キル・ビル』や『ウルヴァリン: SAMURAI』程ではないが、少なからず可笑しな描写は散見される。武士と農民が共存する勝元村のレイアウトや密度、そこで働く人々の描写、中盤以降命を狙った忍者(!!)、何より英語がペラペラの武士がいたのかという致命的な疑問にはあえて目を瞑りたい。賛否両論巻き起こったこの映画が日本でも大ヒットを記録したのは、大スターであるトム・クルーズが勝元やたか、信忠(小山田真)や飛源(池松壮亮)と触れ合ううちに、西洋とは一線を画す精神世界である武士道に触れ、その神秘主義のような武士道精神の虜になるからに違いない。本国アメリカで酒浸りの生活を送っていた主人公は、極東の島国で南北戦争のトラウマを癒し、日本人の文化から愚直に学ぼうとする。そのひたむきな姿に心打たれる。自分が愛した男を無残にも殺した仇である西洋人に対し、徐々に好意を寄せるたか(小雪)には今ひとつ感情移入出来ないが、最初は半目しあった氏尾(真田広之)との友情が心地良い。寡黙なサムライを演じた福本清三や思いっきり勝新な中尾(菅田俊)ら日本の俳優陣が素晴らしい演技でトム様と渡辺謙を下支えする。CG全盛時代の現代において、あえて生身の人間同士を対峙させた戦の場面の素晴らしさ。榴弾砲や回転式機関銃ガトリング砲さえも備える政府軍に対し、戦国時代から300年ほとんど進化の見られない装備で玉砕覚悟で武士道の精神を塗した愚かな展開は決して映画的な美談に留まらない。日本軍がアメリカの地で玉砕した先の大戦の記憶をも暗喩しているように思えてならない。なお、『ジャック・リーチャー』の試写会には今作で幼い飛源を演じた池松壮亮がトム・クルーズとエドワード・ズウィックの祝福に駆け付けた。当時まだ中学生だった池松の成長した姿に、トム様は目を丸くし喜んでいたのが印象的だった。

【第437回】『完全なるチェックメイト』(エドワード・ズウィック/2014)


 アイスランドのレイキャヴィークの丘陵地隊を走る一台の車、物々しいサイレン。モノクロテレビの中では、世界各国の言葉でチェスのニュースが伝えられる。静寂過ぎる室内、男はそっとカーテンを開け、真っ暗闇に視線を走らせる。その視線がオーバー・ラップし、時代は1951年に遡る。第二次世界大戦が集結し、トルーマン大統領の「トルーマン・ドクトリン」に端を発するアメリカとソ連の冷戦時代。マッカーシズム溢れる重々しい監視下の空気。同じように彼はカーテンを静かに開け、中の様子を伺う黒塗りの車を目撃する。ニューヨークの貧しいユダヤ人家庭、父母は既に離婚し、母と姉との3人暮らし、共産主義者の母親はFBIに監視されている。彼は母親を救いたい一心で、外の怪しい車について密告するが、母親は意に介さない。物心ついた頃から父親不在の息子は、赤狩りで母親まで奪われるのを心底恐れている。微かな物音、僅かな光にも反応する彼の神経過敏な性格はこのような幼少期の体験に由来し、寝室に置かれたチェス盤に自然と彼の手は伸びる。木製の四角四面、白と黒のマス目、様々な形をした駒、チェスの中にしか自分自身を見出すことの出来なかった少年は、それから飛躍的な進化を遂げる。シングルマザーのレジーナ(ロビン・ワイガード)はチェスばかりしている息子が負ければ諦めるだろうとチェスクラブに誘い、大人と勝負させる。母親の読み通り、惜敗した息子は後ろを向くと、目に涙を浮かべている。しかしクラブ・オーナーの「この子は才能があります」という言葉に涙を拭き、再戦を申し込むのである。

順調すぎるくらいの成長により、当時の史上最年少記録となる15歳でグランドマスターに輝く。破竹の快進撃を続ける男は、1962年ブルガリアで行われたチェス・オリンピアードの舞台にいる。相手のロシア人の打ち手を待ちながら、斜め前にいるボリス・スパスキーに目をやった時、彼の病的な神経が唐突に顔を出す。真空状態になる音、ノイズは徐々に烈しさを増し、幻覚に目が眩む。再び目の前の男に視線を落とすが、一向に駒を打つ気配がない。次の瞬間、絶叫し立ち上がったボビーはソ連チームの不正に激怒し、大股で会場を立ち去る。この一連の行動に彼の奇行の一端が垣間見えるが、それはあくまで序章にしか過ぎない。ここから彼の病気は進行し、IQ187の天才はチェスの悪魔に取り憑かれ、見る見るうちに狂い出す。変な音がすると電話機を分解し、部屋では絶対に大切な会話はしない。現代で言えば明らかに「統合失調症」かそれに類する神経症的な病気を抱えている男は、母親どころか姉にも直接会おうとしない。そのくせ律儀なまでに母親への電話を繰り返し、姉への手紙の送付をやめることがない。だがその文面は徐々に狂い出し、反ソ連、自身はユダヤ系にもかかわらず、反ユダヤを標榜し、ホテルの部屋では怪しい講話を一晩中聴いている。ソ連の一強時代を切り崩した真にエポック・メイキングな英雄にもかかわらず、傍若無人な要求と試合のボイコットも辞さない彼の態度は、次第に世間の並外れた英雄の評価さえも変えてしまう。引退、復帰を繰り返し、精神の病が限界に達した男は、カリフォルニアの広大な海を前にして気を失っている。そこに偶然ボリス・スパスキーを目にしたことで、彼は突如狂ったように汚い言葉を投げ掛ける。ポール・マーシャル(マイケル・スタールバーグ)、ビル・ロンバーディ神父(ピーター・サースガード)のサポートを得て、ようやく冒頭のアイスランドのレイキャヴィークでのボリス・スパスキーとの再戦に臨むのだが、ここでも彼の病理は暗い影を落とす。

空港での逃走、8mmカメラの音への執拗なこだわり、観客の咳払いへの異常な反応、卓球室での無観客試合の要求など、ボビー・フィッシャーの常人には到底理解出来ない病理はここに来て最高潮を迎える。将棋・囲碁・チェスなどのボード・ゲーム競技の多くが競技者が椅子に座ることで、動的な動きが制限されるのに対し、ブラッドフォード・ヤングの撮影方法は、プレイヤー同士の視線の動きを、8mm映像も用いた短いカット割りで積み上げることで静的な癖を回避する。チェスの悪魔に取り憑かれたボビー・フィッシャーの不可解な言動と、あまりにも意表をつく斬新な指し手が、やがて対戦相手のチャンピオンであるボリス・スパスキーの狂気さえも導き出す様子は圧巻の一言に尽きる。椅子から妙な音がすると主催者にクレームを入れ、ローラーの部分を手回ししながら様子を伺うスパスキーの姿、それを横目でじっくりと凝視する神経症的なトビー・マグワイアの目があまりにも印象的である。レントゲン写真をしげしげと眺めながら、何とも言えない表情を浮かべるスパスキーの姿も、ボビー・フィッシャー同様に既にチェスの悪魔に魅せられ、ラビットホールにすっぽりと落ち、敵の術中にはまった狂気の落伍者に過ぎないのである。かくしてキッシンジャーやニクソン、ブレジネフの期待を背負ったアメリカとソ連の血みどろの代理戦争は、あっと驚くような劇的な結末を迎える。50年代のルックが見事な背景や道具立てをもって然るべき効果をもたらしているのに対し、70年代の描写がやや散漫な印象は否めないものの、冷戦下の構図で英雄にもなり、同時に戦犯にもなった破天荒な天才ボビー・フィッシャーの生き様を描写したエドワード・ズウィックの筆致は実に誠実で隙がない。ありきたりなロマンスや友情を捏造しない姿勢、チェスに取り憑かれた2人の男の丁寧な描写には大いに唸る。2016年の忘れ得ぬアメリカ映画の1本に違いない。

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