【第440回】『エール』(エリック・ラルティゴ/2013)


 フランスの片田舎の村にある一軒の牛舎。深夜になっても明かりが消える気配のない牛舎内では、家族4人が遅くまで牛のお産に立ち会っている。無事生まれ、息をし始めた子供を満足そうに見つめる親子の姿。翌朝、ほとんど寝る時間もないまま家族4人で朝食を囲み、娘は登校前に父、母、弟と軽い抱擁と口づけを交わす。その距離感に大切な情報を読み取る。そう、この家族は娘を除き、父、母、弟は耳の聞こえない聾唖者なのだ。耳の聞こえない家族と娘の唯一にして、絶対的なコミュニケーション手段は手話。テレビの中のニュースを娘は逐一手話で知らせ、他人とのやりとりを取り持つのも必然的に娘が媒介者になる。思春期の高校生と言えば遊びたい盛りだが、彼女は健気にも酪農と学業を両立し、少女から大人の女性になるための通過儀礼も済ませていない。だが無理が祟ってか、スペイン語の授業では居眠りをし、教師に注意される始末。決してスレンダーではない体型、いかにも田舎娘という洗練されていない表情、カーキ色のコートにジーンズという出で立ちも含め、失礼ながらフランス映画らしからぬヒロイン像に少々驚く。

両親の酪農の手伝いに加え、父親が過疎化の進む村の首長選挙に立候補したことで、ポーラ・ベリエ(ルアンヌ・エメラ)の身辺は俄かに忙しくなる。特に夢や目標もなく、高校を卒業したら普通に両親の酪農を手伝うことが自分の課せられた使命だと何となく自覚した矢先、思いがけない出来事が彼女の秘めたる才能に気付かせる。密かに憧れる同級生とのロマンス、メンターたる教師との出会いが重なり、彼女は歌い手としてのパリ行きを夢見るも、聾唖の家族を前にして言い出せない。過疎化の阻止を謳う父親を前にして、人一倍思いやりのあるポーラはひたすら自問自答し、悩む。やがて憧れの同級生とデュオを組むようにメンターに提案されたポーラは、初めて家に男の子を呼ぶ。妙にそわそわする母親、娘の恋人を認めたくない父親、姉とSEXしたのかぶっきらぼうに聞く弟の描写は、フランスでも日本でもまったく変わらない家族の風景に他ならない。初めての生理を憧れの人に見られ、言いふらされたポーラは逆上し、彼の頬を平手打ちにする。だが少女の生理と時を同じくして起きた少年の声変わりが、彼らの運命を残酷にも引き裂いてゆく。この辺りの脚本はやや強引過ぎるきらいはあるが、少女の成長譚を一貫してウェルメイドに切り取るエリック・ラルティゴの手腕と、実に誠実な筆致が心地良い。

少女の夢を認められない両親の心情を杓子定規に受け取ることが出来ないのは、彼らが愛する娘の歌声を聴くことが出来ないからに尽きる。我々観客は、音楽教師を一瞬で驚かせたルアンヌ・エメラの奇跡の歌声を耳にしているせいで娘の夢に加担するものの、両親はその歌声を視覚的な情報として受け取ることしか出来ない。このコミュニケーションの断絶こそが今作の肝であり、映画の本質だろう。発表会の客席に陣取る両親は、周囲の人間たちの拍手から一歩二歩遅れてスタンディング・オベーションで拍手をする。このあまりにももどかしい聾唖者のハンデに対し、父親がびっくりするような方法論で娘の才能を嗅ぎ取ろうとする場面にはうっかり涙がこぼれた。翌朝の両親の行為も涙なしには見ることが出来ない。前半のSEXネタや弟のゴム・アレルギーなどのブラック・ジョークにはあまり笑わなかったはずなのに、ラスト・ミニッツ・レスキューを果たす恋人とトマソン(エリック・エルモスニーノ)の手に汗握るユーモアには肝を冷やした。ラストの『青春の翼』の全身総毛立つような高揚感は、フランス映画に新たなヒロインの誕生を告げる。フランス映画にしては鈍臭い映画だが、マイノリティやヒロインに対する優しい視線、一貫してリベラルな態度が最大公約数を撃ち抜き、見事大ヒットとなったのである。

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