【第1151回】『ピープルvsジョージ・ルーカス』(アレクサンドレ・O・フィリップ/2010)


 ジョージ・ルーカスの処女作『THX 1138』において、主人公のロバート・デュヴァルは管理社会に抵抗し、恋仲だったマギー・マコーミーを捨ててまで、管理社会からの脱走を試みる。ラストの夕日(朝日?)をバックにした主人公のシルエットは時代の反逆者のイメージであり、反権力の象徴だった。ところが2作目『アメリカン・グラフィティ』が配給会社であるユニバーサルの予想を覆すヒットとなり、続く『スター・ウォーズ』も20世紀フォックスの読みを遥かに覆すヒットを飛ばすと、彼はルーカス・フィルムスを設立し、何者にも縛られないコントロール体制を築く。だが皮肉なことにその何者にも縛られない自由な創作体制というのは、彼のクリエイティビティを守りつつも、彼を個人主義の権化に肥大化させる。盟友であり、『アメリカン・グラフィティ』公開の際には恩人だったフランシス・フォード・コッポラとも袂を分かち、『帝国の逆襲』で監督を任せたはずのアーヴィン・カーシュナーとは撮影の段階でことごとく揉め、彼をコントロールしようとして犬猿の仲に陥る。だからこそ次の『ジェダイの復讐』ではイエスマンであるリチャード・マーカンドを監督に起用し、自らもノリノリで製作総指揮を務めるが『帝国の逆襲』ほどの評価は得られず、その後19年間の沈黙に入る。そこには愛妻だったマーシア・ルーカスとの確執と離婚問題も暗い影を落としている。

 今作において最も興味深いのは、彼ら多くのファンはもれなく『スター・ウォーズ』教の信者でありながらも、それを生み出したジョージ・ルーカスには一定以上の尊敬を持っていないことである。彼らの多くが、幼少時代に映画館で観た旧3部作の内容に感動し、人生を狂わされるような衝撃的な体験をする。ポップ・カルチャーで言えば、ビートルズとの出会い以上のスペシャルな体験であり、本来ならば旧3部作で完結するはずだったはずの大河ドラマの続きに対し、それぞれが幸福な夢想をしている。だがその幸福な夢想に対して、ジョージ・ルーカスが新たに提供したその先の未来に希望が持てなければ、彼らはいったいどうなるのか?ルーカスとファンの亀裂の端緒となるのは、97年に公開された特別編におけるルーカス側の一方的なCGの付け足しである。彼にとって稚拙に見える場面をことごとく新しいテクノロジーで塗り変え、オリジナル版のフィルムは消失したという理由で、新しく作った特別編しか見せようとはしない。しかしファンが求めているのは自分達が若い頃に観たものとまったく同じ映像であり、それを稚拙だからと隠す監督の態度を糾弾しているのである。そして亀裂が決定的なものになったのは『エピソード1/ファントム・メナス』の登場である。特に新キャラであったジャー・ジャー・ビンクスの登場に対する失望感が世界中から聞かれ、最悪だという評価で埋め尽くされた当時の苦い思い出を語る。

 公開された新作には、『スター・ウォーズ』シリーズの全ての権利をディズニーに売却した想像主であるジョージ・ルーカスは今作には一切関与していない。その一因として挙げられるのは、ファンのバッシングに疲れたからと幾つかのインタビューで答えている。確かに彼は『THX 1138』や『アメリカン・グラフィティ』の頃には考えられないほどの富と成功を手にしたが、映画監督としてのキャリアは『スター・ウォーズ』シリーズ6部作の完成をもって皮肉にも終焉する。ルーカスの近況を見て、個人主義者の末路とかハングリー精神の欠如とか様々な言われ方をするが、ハリウッドにおける70年代デビュー組の中で一番の犠牲者は、ジョージ・ルーカスなのかもしれない。

【第451回】『草原の実験』(アレクサンドル・コット/2014)


 動物の羽が敷き詰められたあまりにも異様な平地をティルト・アップすると、1卓の木製の机の無人ショットが唐突に立ち現れる。映像はゆっくりとトラックの荷台に切り変わり、羊のお腹の上で、坊主頭の男が気持ちよさそうに太陽を浴びながら眠っている。恰幅の良いお腹、いかにも労働者の風貌をした男は、羊を手土産に娘の待つ家へと戻る。娘は「おかえり」の声も発しないまま、ただ黙って俯き、黙々と料理を食べる。風が吹き渡る草原、ポツンと佇む一軒の家、そこにはまるで西部劇の薄幸のヒロインのような美しい少女が、静かに幽閉されている。父親の仕事を見送り、ただ帰りを待つだけの侘しい日々、どうやらこの家には母親がいないらしい。冒頭、父親は子供のようにはしゃぐと、誇らしげな表情で戦闘機に乗り込む。室内に飾られたフレームに入れられたモノクロ写真にも明らかなように、父親は決して羊飼いではなく、軍に関係する人物なのだとやんわりと明かされるが、監督はその謎にフォーカスしない。それよりも少女の美しい姿が実に印象的である。澄んだ瞳、おでこを見せるお下げ髪、花柄のシャツに毛糸のニット。彼女はどんな感慨にも決して言葉を発しようとしない。彼女が生まれつき言葉が話せないのか?それとも映像上の演出なのかはともかくとして、美しい少女の透き通るような瞳に吸い込まれる。

地面にそっと染み出した水、石に叩きつけられ、太陽の元で一瞬で干からびる水、叩きつけるような雨など、あらゆる水のイメージは、かつて同じく旧ソ連の映画界を背負ったアンドレイ・タルコフスキーの強い影響下にあるのは間違いない。幽閉された少女の元に、2人の男が水(潤い)を求めて現れる。1人は彼女の幼馴染の男性で、朝、父親を送った帰りに必ず馬で現れ、彼女の周りをくるくる回る律儀で礼儀正しい男。そしてもう一人は、旅の途中で井戸水を汲みに現れた西洋人の男である。屋根の上で、双眼鏡のピントを合わせ、よそ者に注意を向ける薄幸の少女は当初、西洋人の男の訪問に居留守を装う。窓ガラスから覗き込む好奇な目を交わし、仕方なく厳重に鍵のかけられた井戸を跡にしようとするが、振り返ると美しい少女がドアの前に立っている。水面に映る2人のシルエットが、水面の振動で大きく揺れる。その揺れが止まるまでの一部始終をしっかりフレームの中に収めるところに、監督であるアレクサンドル・コットの圧倒的な才能を感じずにはいられない。少年は思わずカメラを手にし、彼女の美しい姿にシャッターを切る。背を向けてはにかみ、歩き出す少年の満足げな表情。その日の晩、窓の外に再び少年が顔を見せる。外へ手招きする姿に、いそいそと外へ出た少女は、家の壁の前に真っ直ぐ立つ。その後ろに映写機で写し出された昼間の少女の姿。彼女はこの驚くべき少年のアイデアと映画的快楽に打ち震える。典型的なボーイ・ミーツ・ガールものながら、映像詩と呼ぶべき数々のイメージの羅列の中で、2人の男は1人の女を愛し、女は2人の愛の間でもがき苦しむ。

中盤の大雨の夜の中庭で繰り広げられた示唆的なシーンの後、徐々に崩壊へと向かう家族の様子にじっと息を呑む。翳りゆく父の姿に心を痛めたヒロインが、厳重に置いてあった猟銃を荒涼とした空に放つ場面から、失われる父性に代わり、新たな父性候補が顔を出す。家の前に鎮座するあまりにも象徴的な枯れ木はおそらくタルコフスキーの『サクリファイス』の強固なオマージュに他ならない。地平線の向こうに、静かに立ち昇る太陽を見ながら、静かに終わりを迎える一つの父性。ここから映像詩は水の潤いから一転して乾きへと代わり、太陽は燦々と輝き、枯れ木は更に乾き、むしろ朽ち果てる。父性の消失を経て、少女の大きな決断を前にして、2人の男は庭先で争う。その様子を室内の窓ガラスからじっと見つめるヒロインの姿。ガラスに入ったヒビを指でなぞりながら、2人の争いの顛末を見つめていた少女は、何を思ったか2人にバケツの水を叩きつける。ここで干上がった映像詩にもう一度潤いが走るが、次の松明のショットがクライマックスを示唆的に照らし出す。ここまで丁寧に敷き詰めた映像詩の余韻に対し、ラストの展開はあまりにも奇抜だし、CG映像はこれまでの統一された映画のルックをも損なうものだが、父性を失った後、髪を切るだけであまりにも対照的な表情を見せたヒロインであるエレーナ・アンがただただ素晴らしい。軒下にただ干してあるだけの2人の上着の官能性など、完璧に計算されたショット構成は一縷の隙もない。だからこそ最後、三輪バギーの突入だけはCGで描いて欲しくなかったが 笑、それを補ってあまりあるクライマックスまでの静謐な描写は圧巻の一言である。ロング・ショットの快楽が溢れた今作は、ロシア映画ファンでなくとも必見と申し上げておきたい。

このカテゴリーに該当する記事はありません。