【第453回】『ギャラクシー街道』(三谷幸喜/2015)


 西暦2265年の近未来、木星と土星の間に浮かぶ宇宙空間に作られた人口居住区「うず潮」。スペースコロニーと地球を結ぶ幹線道路であるルート246666を、人々は「ギャラクシー街道」と呼び愛した。かつては、交通量も多く、沿道にもたくさんの飲食店が並んでいたが、開通して150年、老朽化が著しくそろそろ閉鎖の噂も聞こえている。冒頭、黒縁メガネの男ノア(香取慎吾)は椅子にもたれながら、深刻そうにため息をつく。下手くそな字で書き上げた帰国申請書にもう一度目を通し、ペットの唾で封をし、切手を貼る。厨房内ではノアに雇われたパートタイマーのハナ(大竹しのぶ)が、隅っこに腰を下ろして煙草を吸っている。客のいない店内、ガラガラのスペースに店長は腰掛け、週刊漫画を読み始める。すると窓ガラスに吐きかけられた汚らしい痰。苛立つノアの表情。店内の端っこの席に腰掛けたスーツ姿の男は、この状況を克明に記録していく。街道沿いに念願だった店を出したあの頃の思いはノアにはない。愛する妻に何の相談もなしに、地球への帰国を勝手に決めた男の表情は心底冴えない。そこにノアの妻ノエ(綾瀬はるか)が戻って来る。

絵に描いたような倦怠期の夫婦であるノアとハナに子供はいない。結婚して5年、2人で切り盛りするハンバーガー・ショップ「サンドサンドバーガー・コスモ店」の経営は暗礁に乗り上げている。閑散とした店内、客は少ないながらも一見さんや常連客がポツポツと顔を出す。警備隊員、風俗の客引きと客、それに娼婦、役人、シンガー。そこに降って沸いたようにノアのかつての恋人レイ(優香)が夫を伴い現れる。その姿に動揺を隠せないノエの表情。夫婦とかつての恋人との出会いは、3人にとって開いてはいけない過去の扉を開ける作業に他ならない。物語は倦怠期の夫婦の再生を本線としながらも、そこに幾つかの伏線が入り乱れる。相手に直接思いを伝えられない夫婦の媒介者として、首から下のない堂本博士(西田敏行)が2人のメンターとして登場し、妻ノエに一方的に好意を抱く男性として、両性具有のメンデス(遠藤憲一)が現れる。他にもムタ(石丸幹二)とゼット(山本耕史)の風俗の駆け引き、ハトヤ隊員(小栗旬)と上司であるトチヤマ隊長(阿南健治)のカミングアウトと恋の鞘当てなど、様々な愛を巡る物語が、それぞれのテーブル内で繰り広げられる。この数々の散りばめられた伏線が曲者で、今作においては三角関係の腰を度々折る脱線エピソードにしかなっていない。要は三谷が真っ当な恋愛ものになるのを避ける為、このような伏線の複雑な挿入がなされるのだが、そのことが観客にかえって混乱を催しかねない逆効果をもたらしている。

「サンドサンドバーガー・コスモ店」の内装は時代考証はメチャクチャであるものの、古き良きアメリカン・ヴィンテージを感じさせる美術班の努力は文句なしに素晴らしい。翻ってSF映画という観点では、『ゼロ・グラビティ』のような無重力空間を漂う宇宙服の主人公の描写はあるものの、いとも簡単に重力にあがなう香取慎吾の簡単な目的達成は、コメディ映画とはいえ、あまりにもリアリティに欠ける。大竹しのぶの絶叫の影響により、香取がハッチを開けて歩く場面の美術造形はなかなか見応えがあるが、あくまでそれもSFとしての最低限の道具立てに留まってしまう。要はせっかくの未来であるはずの時代設定が、映画にとってあまり円滑に機能していない。細部の詰めの甘さが残る。今作の勝機としては、SF映画としてのディテイルを徹底的に詰めるか?それともかつての恋人と現在の妻との三角関係の恋の鞘当てを奇を衒わずに、シリアスにしっかり描き切るかの二者択一であるように思うのだが、三谷幸喜の判断はそのどちらも真剣に描かずに、適当な笑いではぐらかしている印象を受ける。男子トイレの個室での馬鹿話、明らかにゼメキスの『ロジャー・ラビット』を意識しただろう段田安則の挿話、レイの夫ババサヒブ(梶原善)の脱皮、メンデスの出産などとってつけたようなエピソードが並ぶが、そのいずれもが本筋の三角関係を無駄にはぐらかし、脱線させる。私は一貫して映画監督としての三谷幸喜の才をあまり認めていないのだが、それにしても今作の迷走ぶりには思わず大丈夫かと心配してしまう。そのくらい邦画大作としては暗澹たる出来に甘んじている。

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