【第466回】『消えた声が、その名を呼ぶ』(ファティ・アキン/2014)


 寡黙で職人的な鍛冶屋が、トルコ人の依頼に従い、切れなくなった刃物を元通りに仕立てる。お代を問われた男は、いつもより2割り増しの値段を吹っかけるが、裕福なトルコ人は気にも留めず支払う。使用人から貰い過ぎを指摘されるが、主人公は悪びれる様子もない。1915年オスマン帝国マルディン、戦争の時代に突入する気配の中で、ナザレット(タハール・ラヒム)は鍛冶職人としての腕を磨き、その能力で生計を立てる。小学校に双子の娘を迎えに行き、3人でクイズをしながら帰路につく。フランスの首都は?「パリ」「イタリア」アメリカの首都は?「ニューヨーク」「シカゴ」。遠く離れた世界のことを幼い娘たちはまだ知らない。家に帰れば妻、兄弟、妻の兄弟などたくさんのアルメニア人と囲む食卓。娘を食卓へと急かす妻の怒声が飛び、話は昨今の政治情勢と複数のアルメニア人の失踪に及ぶ。娘たちに物語を読み聞かせて寝かせた後、夫婦だけの寝室で今日の労を振り返る主人公。妻は髪をとかしながら歌を歌っているが、突然その歌がやむ。眠るまで続けてと妻にねだり、慌しかった今日1日が終わろうとする。その日の夜更け、深い眠りについた夫婦の部屋の表のドアが何度も叩かれる。何事だと目を覚ましたナザレットは恐る恐るドアを開けると、トルコ人憲兵たちの姿。隠してあった賄賂を憲兵に渡すが、彼らの反応は変わらない。こうしてこの辺り一帯のアルメニア人男性たちは、いきなり戦場に駆り出される。

こうして繰り広げられる地獄絵図は、ナチス・ドイツのホロコーストと同様の過酷な様相を呈する。強制連行、砂漠の強い光の中での力仕事、疲れて倒れた人間は容赦なく鞭で叩かれ、病気になろうが死ぬまで扱き使われる。女たちのレイプは子供が見ている前で遂行され、無理矢理改宗を迫られる。人権も何もない処遇はまさに奴隷そのものであり、残虐な行いはやがてエスカレートしていく。中盤の岩壁の前で膝をつかされての処刑場面の壮絶さが息を呑む。人種の違い、宗教の違いだけで、人間が罪のない人間を次々に処刑していく様子は、昨今のイスラム国や自爆テロを否が応にも想起させる。いったいこの惨たらしい事件の背景には何があったのか?当時オスマン・トルコは露土戦争やクリミア戦争による戦禍を引きずり、弱体化していた。帝国政府はロシアと同じくキリスト教徒であるアルメニア人が、トルコ軍を背後から襲うのではないかと懸念した。かくしてアルメニア人の男を労役にこき使うか監獄にぶち込むかしながら、女・老人・子供をシリアの砂漠方面へと強制移動させたのである。歴史に埋没したジェノサイドの真実はここにある。強制連行で飢えた男たちは、まさに石にかじりつき、空腹を誤魔化す。日夜鍬でいつ終わるのかわからない広大な空間に道を作りながら、多くの仲間が犠牲になった。病人の死と埋葬、イスラム教への誘い、そのどちらにも打ち勝つ崇高な精神と頑強な体はトルコ人の激昂を買う。手と足を縄でつながれ、ゴツゴツとした岩山を歩かされる様子は西部劇の奴隷にも似ている。首に当てられたナイフ、流れ出る血、処刑人の葛藤。人が人を裁くことが出来るのか?ファティ・アキンの重い問題提起が情け容赦なく降りかかる。

前半の息苦しい描写、生き延びた地獄の日々が、シリア、レバノン、キューバ、ミネアポリス、ノースダコタにまたがる8年間へと繋がる中盤からクライマックスまでの流れが凄まじい。残酷な運命に従う他なかったナザレットがここでは被害者から加害者へと転じ、この世界のどこかで生きているだろう娘を探す執念の物語に絶句する。彼は声を失ったジェノサイドの犠牲者であり、同じようにジェノサイドの犠牲者となった夥しい数のアルメニア人たちの叫びを代弁するかのようである。脚が不自由だというだけで娘を見限った富豪の男への復讐。トルコ人撤退の際、大きな石をぶつけようとした男を躊躇させた少年の顔への投石。許容出来ない復讐への思いはありながらも、時に思い留まったかと思えば、猟銃で脅してきたアメリカ人に致命傷を与える。戦場の痛みはやがてナザレットを勇敢で情け容赦ない戦士に変える。キューバの理髪店、ようやく会えるかもしれない娘が既に去っていたことへの怒りと苦しみ。アメリカ大陸にたどり着いてからの流れ者=移民としてのアイデンティティはまさに西部劇の変奏曲に他ならない。頭上に飛翔する黒い鶴の群れ、森の中に到着する汽車、蛮人によるレイプ未遂と線路での昏睡、そこから目覚めるまでの娘の幻影など、幾つものイメージがナザレットを導いていく。ようやく訪れたラスト・シーンには不覚にも涙がこぼれた。

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