【第469回】『リップヴァンウィンクルの花嫁』(岩井俊二/2016)


 千代田区から中央区に連なる人ごみの中、1人の女が繁華街に立つ。大量に溢れる人間たち、目印がない中、女はおもむろに手を挙げる。その手の自信なさ気な所作。もじもじしながら、誰かに見られるのではないかという罪悪感と羞恥心に駆られ、女はかろうじて目立たない手を挙げる。赤いポストの脇、あまり大きくない身長はポストのシルエットに隠れるようにして立っている。携帯のLINEメール、まだ見ぬ未来の彼氏とのやりとり。やがて男と出会った女の姿は雑踏の中にゆっくりと消えていく。インターネットでワンクリックでモノを買うように、LINEメールのやりとりだけで始まる恋、出会い系サイトと感じの良いアイコンのJPEG、クラムボンというTWITTERのハンドルネーム、何でもない日常を生きる一人暮らしで派遣教員の女・皆川七海(黒木華)は、こうしてSNSでつながった鉄也(地曵豪)と結婚を決める。今作は2000年代に爆発的に流行したSNSのつながりに端を発する物語である。『リリィ・シュシュのすべて』に明らかなように、岩井監督は早くからBBSでの原作公募など、SNS的なつながりを重視してきた。スクール・カーストに巻き込まれたイジメ、教員を目指して勉学に励んだ旧友との再会も、彼女はキャバ嬢になっている。生きにくい時代の閉鎖的空気をゆっくりと醸成しながら、ヒロインは女としての一番の幸せである結婚へと向かう。

結婚式という晴れの舞台、新郎と新婦の間の来賓の数に悩まされ、2人の間に漂う不和。かつて『Love Letter』において、届くはずのない手紙を書いたヒロインに返事が届いたように、TWITTER上でふと漏らした小さな愚痴に、思いがけなく返事が届く。「簡単に代理出席者を集められますよ」「それって嘘くさくないですか?」そう、明らかにSNS上のやりとりはとんでもなく嘘臭いのだが、主人公はやすやすと信じ、安易に身を委ねてしまう。こうしてフィアンセの鉄也とSNS上で出会ったように、七海は何でも屋の男(綾野剛)と出会ってしまう。出会いの場、彼の名刺には「安室行舛」と書かれている。そして俳優もやっているという彼のもう1枚の名刺には「市川RAIZO」の文字、クラムボンという名のTwitterアカウントに届いた「ランバラル」というHNの男からの書き込み、幾つもの偽名やハンドルネームを使い分ける現代の若者たちは、現実の自分とヴァーチャル・リアリティとしての虚構の身体との間を往来している。「市川 RAIZO」はともかくとしても、「安室行舛」や「ランバラル」の名前が『機動戦士ガンダム』からの引用であることは今更云うまでもない。それは七海のTwitterアカウントの変遷、「クラムボン」から「カンパネルラ」への変更自体が、宮沢賢治のファンタジーから連想されることとも無縁ではない。彼らには一貫して、虚構の中の自分と現実の自分との狭間に立つ。何でも屋という多忙な代行業につく男が、LINEに打ったメールに即座に返事を返す矛盾は徐々にヒロインの心を蝕んでいく。

蒲田にあるカプセル・ホテルの給仕から安室行舛の運転する会社に乗り込んだ時の、ヒロインの運命のギアを踏んでしまった感が、中盤以降の劇的な展開を及ぼす様は実に色鮮やかで凄まじい。思えば初期のテレビ短編である『蟹缶』や『花とアリス』においても、些細な嘘から思わぬ物語が駆動する端緒はあったものの、ここでの安室行舛の嘘から、ヒロインがどんどん行き先を変えつつトランク片手に動く。その様子はこれまで以上に岩井映画のヒロインに物理的な身軽さを齎す。『スワロウテイル』や『リリィ・シュシュのすべて』のように、金に目が眩んだヒロインは安易に安室行舛の提案に乗り、月額100万円の仕事を請け負ってしまう。まるで西洋にもぐり込んだような旧い屋敷、散らかった室内の俯瞰ショットは岩井作品にとってまさしく「バブル時代の終わり」を痛烈に体現しているかのようである。ここでは『夏至物語』や『ルナティック・ラブ』、『花とアリス』のように狂信的な妄言を信じるストーカー的な登場人物が、ワシントン・アーヴィングの『スケッチブック』という短編に登場した人物の名を纏い現れるが、その実、参照元はおそらく村川透の『野獣死すべし』ではないかとも推測出来る。同性との秘めたる恋は『undo』や『PiCNiC』とも地続きに愛する者の死がひたすら胸を締め付ける。衆人の前に裸体を晒してしまった女の俗とヒロインである黒木華の少女性の聖の交差を、黒い喪服から白いウェディング・ドレスへの記号的・色彩的変化で表現したクライマックスがただただ素晴らしい。夏目ナナ、森下くるみなどAV女優の起用も、虚構のハンドルネーム同様に、芸名としての仮の人生と現実の狭間を往来する。クライマックスの新居に無造作に置かれた三脚、その1つ1つに座っていくヒロインの姿、ツノカクシに角が生えた特殊なフォルムが新居の外観と交差するラスト・ショットの素晴らしさ。手を挙げることも躊躇したヒロインが、安室のトラックの前で左右に振る手の豪快な仕草に、ヒロインの成長が克明に見える。あまりにも美しく極上な3時間である。

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