【第485回】『マイ・ファニー・レディ』(ピーター・ボグダノヴィッチ/2014)


 ニューヨーク5番街のバーで、1人の売れっ子女優イザベラ・パターソン(イモージェン・プーツ)がTVインタビューを受けている。現代的で皮肉屋なニュースキャスターの嫌味な問いかけにも動じず、自分の人生観をゆっくりとカミング・アウト(告白)していく。物語はハッピー・エンドが好きと応えるヒロインの自信に満ちた表情。キャサリン・ヘプバーンと9作で共演したスペンサー・トレイシーとの身長差が逆転したロマンス、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの優雅なタップ・ダンス、ハンフリー・ボガートとローレン・ バコールのロマンチックなキスなど、しばしばハリウッド黄金期の傑作群と名コンビに自らの足跡をなぞらえながら、元娼婦とは思えないインテリを垣間見せるのが、いかにも知性派ピーター・ボグダノヴィッチらしい。ラナ・ターナーはマービン・ルロイにハリウッド大通りで見出されたと語ったところで、キャスターが「本当は雑誌編集者にサンセット大通りで見出されたのよ。あなたも知ってるでしょ?」と痛烈なリターンを喰らうが、それでもイジーはまったく意に介さない。ブルックリンでの貧しい幼少時代、発明家の父親が開発した「グロー」という商品。日本では売れたらしいが実際は定かではない父親の発明品に敬意を表し、彼女は「グロー」という名の高級コールガールとしてNYの夜を闊歩している。イザベラはあの日のことをゆっくりと回想し始める。

売れっ子舞台演出家と娼婦との恋はさながら、現代に蘇ったスクリューボール・コメディの様相を呈す。4年前のニューヨーク、LAからバークレー・ホテルに降り立った売れっ子舞台演出家アーノルド(オーウェン・ウィルソン)は、小さなバッグ片手に、意気揚々と予約していたスウィート・ルームに足を運ぶ。久しぶりの単身生活。エレベーターの途中で人気俳優セス(リス・エヴァンス)にご飯を誘われるが、疲れているからという理由で断った男は、密室のスウィート・ルームでいきなり高級コールガールを呼ぶ。キングサイズのベッドの端、受話器の横に置かれた赤ワインの入ったグラス、男は手馴れた口調でコミュニケーションを取る。そのシュールな構図が可笑しい。ホテルの電話で娼婦に電話する一方で、彼の携帯電話には家族からの着信。その後のドタバタ喜劇のようなアクションは云うまでもない。会話口を枕で隠すオーウェン・ウィルソンの所作に、保留機能があるからと思わず伝えたくなるが 笑、こうしてアーノルドは娼婦時代のイザベラに出会う。顔を見るなり、2時間でも3時間でもと延長を伝える男は、娼婦とSEXせずに食事に誘う。そんな男の生真面目なエスコートに娼婦の心はときめく。夢のようなニューヨークの一夜、ちゃっかりヤることもこなした朝の光景、男は「3万ドルを支払うから、これからは好きな人とだけSEXしなさい」と言い、コールガールの卒業を促すのである。かくして運良く3万ドルの大金を手にしたヒロインは娼婦の生活を卒業し、憧れだったブロードウェイのオーディションを受ける。夢にまで見たシンデレラ・ストーリーが幕を開けることになる。

近年のロマン・ポランスキーやウディ・アレン同様に、老作家が若い俳優たちを駒のように扱うのは嫉妬と羨望の果てだろうか?緊密すぎる人間関係が、幾つもの悲喜劇を織り成す中盤以降のタペストリーのような怒涛の展開の見事さ。ボグダノヴィッチのシニカルで悲哀に満ちた人間賛歌に酔いしれる。アーノルドが手掛けた新作ミュージカルは、彼の風刺的な現実と薄皮1枚でつながっており、まるでコインの表と裏のように現実と虚構の間を行ったり来たりする。みんながみんな穴兄弟・竿姉妹なのに、突然怒り狂う妻デルタ(キャスリーン・ハーン)がサングラスをして、翌朝本読みに現れるシニカルなユーモア。最初は真っ当な人間のフリをしていた精神科医のジェニファー・アニストンの唐突な壊れっぷり。ただ1人真っ当な人間を演じるウィル・フォーテの姿には、真っ先にアレクサンダー・ペインの『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』を思い出した。結果的にファム・ファタールとしか言いようがないイザベラ・パターソンの造形が、まったくファム・ファタールとして機能していない天然無意識っぷりもある意味凄い。終盤、運命の人として登場するあの俳優のビッグ・サプライズには驚く。もしかしたら製作総指揮を務めたウェス・アンダーソンやノア・バームバック作品への出演も今後、有り得るかもしれない。ラストのモノクロ映画、「リスに胡桃をあげるのではなく、胡桃にリスをあげたっていいじゃないか」のフレーズはエルンスト・ルビッチの『小間使い』へのオマージュに他ならない。実に鮮やかな90分間の大人のスクリューボール・コメディである。

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