【第506回】『ダーティハリー2』(テッド・ポスト/1973)


 真っ赤な背景に浮かぶ真っ黒な44口径マグナム。真っ直ぐに掲げられた腕。撃鉄をゆっくりと引き、もう一度目標めがけて構えられたカメラが、ハリー・キャラハン(クリント・イーストウッド)のナレーションの後、突如我々観客の方を向く。「こいつは拳銃の中で、一番強力な改造拳銃だ。簡単に人の頭をふっとばせる。どうだい?試してみるかい?」の言葉の後、唐突に発射される。場面は変わり、裁判所の法廷内のドアが開き、容疑者カーマイン・リッカ(リチャード・デヴォン)とその弁護士が大きな扉を開く。その瞬間待ち構えていたマスコミのカメラのフラッシュと怒号。その数はみるみるうちに膨れ上がり、外に出るとプラカードを掲げた抗議団体のデモが辺りを埋め尽くす。彼は革命家スカーゲ惨殺事件の容疑者と目されていたが、裁判では証拠不十分として無罪となる。彼に向けられた民衆の激しい怒りと抗議の声。それをもみ消すように急いで車中に消えるリッカ氏の姿。TVではこのニュースがいま、全国に向けて生放送されている。カーテンの閉じられた薄暗い部屋、そのニュースを逐一放送するブラウン管テレビを消し、男は出かけようとしている。白いヘルメットに黒のサングラス、革ジャンを羽織った男はドアを開けると、眩しい光が入って来る。ハイウェイを足早に走り去るリッカ氏を乗せた車。車内では弁護士と微笑み合い、ほくそ笑む男の後ろを一台の白バイが追いかけてくる。その姿はサイドミラーにも映るくらい大きくなり、運転手はゆっくりと脇道へ車を停める。「センター・ラインを越えていた」と難癖を付けられた運転手は苦笑いを見せ、後部座席では権力者が苛立ちの表情を見せる中、次の瞬間惨劇は起こる。

サンフランシスコ市警察殺人課に勤めるハリー・キャラハン刑事の活躍を描いた『ダーティハリー』シリーズの第二弾。前作のラスト、正義を守る刑事の誇りでもあるバッジを川に投げ捨てたキャラハンだったが、あっさりと刑事に戻ってきている。だが本部捜査課の警部補であるニール・ブリッグス(ハル・ホルブルック)に殺人課を追い出されていることもわかる。前作ではチコというメキシコ系の相棒がいたが、彼は警察を辞め、教師になったことが明かされ、代わりにアーリー・スミス(フェルトン・ペリー)という黒人警官が彼の相棒という設定となる。ここにもイーストウッドのマイノリティへの尋常ならざる思いが見て取れる。前作では快楽殺人犯スコルピオの正体は開巻早々明かされることになるが、今作では犯人を探すミステリーの要素はクライマックスまで引き延ばされる。テッド・ポスト×クリント・イーストウッド・コンビの前作『奴らを高く吊るせ!』では牛泥棒の濡れ衣を着せられ、縛り首という「私刑」に晒された男の復讐劇を描いていたが、今作も極端な「自警主義」と「私刑」への感情を持った犯人が唐突に現れる。ここでもイーストウッドの通奏低音となる「法と正義の行使の不一致」が頭をもたげている。今作の犯人の動機は「毎日1人ずつ殺す。実行されたくなければ10万ドル払え」という前作のスコルピオの妄言とは違い、大衆の心を代弁している。法の抜け穴を突き、鼻で笑いながら平然とアメリカ社会に溶け込む無法者たちを、暴力で取り締まることは本来、ハリー・キャラハンの十八番だったはずだが、彼はどういうわけか犯人の行動を快く思わない。ここでは極端な「自警主義」や「私刑の情」に対し、一貫してNOと言うハリー・キャラハンの姿が鮮明に印象付けられる。

今作はおそらく、シリーズ史上最も派手なアクションのオンパレードであるが、全体のバランスで見ればいまいち振るわない。前作がドン・シーゲルの「引き算の美学」に裏打ちされた102分の省略の映画だったとすれば、124分となった今作の仕上がりはやや間延びしていると言わざるを得ない。それは本筋に直接関係ない様々な要素を盛り込み過ぎたため、来たるべきアクション・シーンを活かしきれていないことに尽きる。前半のハイジャック場面は丸々不要だし、アパートの階下に住むアジア人女性ソニーとのロマンスもモテ男キャラハンを描いているが、一切不要だろう。中盤の売春婦(マーガレット・エイブリィ)とポン引きのPIMPであるJJウィルソンのくだりも、多分にブラックスプロイテーション映画を意識した作りになっているが、その丹念な仕事ぶりが果たして今作のクオリティに何%ほど寄与したのかは甚だ疑問である。親友であるチャーリー・マッコイとの間柄を紐づける場面は最低限必要だが、それにしても愛妻の誘惑はさすがに蛇足だろう。中盤の射撃大会の場面は原題である『Magnum Force』を表現するために必要だったが、あそこで優勝した人物と、連覇を逃したハリーとが最後に銃で決着をつけるというなら話はわかるが、クライマックスの場面には肝心要のMagnum Forceはまったく登場しない。

これは今となってみれば、テッド・ポスト流の皮肉と据えるのが正しいかもしれない。78年にベトナム戦争の悲惨さを描いた『戦場』という映画を手掛けたテッド・ポストの反戦主義は、ここでは暴力に対し、決して暴力に打って出ないハリー・キャラハンの造形として反復される。導入部分の「こいつは拳銃の中で、一番強力な改造拳銃だ。簡単に人の頭をふっとばせる。どうだい?試してみるかい?」のあまりにもサディスティックな挑発に対し、今作のアクションは拍子抜けするくらい、ハリー・キャラハンとMagnum Forceとを大きく引き離す。コンビを組んだアーリー・スミスの哀れなど細部に渡る甘さが目立つし、警察内部の腐敗を描いた作品としては ステファーノ・ヴァンツィーナの『黒い警察』との親和性も無視出来ないが、随所に出て来たカー・チェイス場面の素晴らしさは例を見ない。何よりも今作は脚本に将来有望な2人の若者、マイケル・チミノとジョン・ミリアスを起用したことでも永遠に記憶される。

【第496回】『奴らを高く吊るせ!』(テッド・ポスト/1968)


 川から牛の群れを陸地へと挙げる牧場主ジェド・クーパー(クリント・イーストウッド)の姿。牛たちの背中には血統を現す焼き印が見える。馬に跨がり、ゆっくりと群れを先導するが、羊の鳴き声を聞いて後ろを振り返る。次の瞬間、ゆっくりと川に身を沈めるジェドの姿。川の中腹ではまってしまった羊を抱きかかえながら、陸地へと上がった男は、対岸に響く大量の馬の蹄の音を聞く。総勢9名の物々しい集団が川を渡り、ジェドの四方を取り囲む。全員馬に乗ったままで、ジェドを威圧する。男たちは最初からジェドの問答を想定し、罠にかけているようにも見える。「この牛は誰から買った?」「その男の風貌はどんな様子だった?」男たちは疑念の表情を浮かべながらジェドに問いかけるが、その問いにも淀みなく答えてみせる。だがジェドが牛泥棒の犯人で殺人犯だと疑わない集団は、やがて彼の首に縄を引っ掛け、対岸まで引きずり歩く。木に括られた吊るし首の縄、馬に半身を乗せられた絶体絶命の状況、やがてリーダー格の発砲に釣られ、ジェドがかろうじて乗っていた馬が勢いよく駆け出す。ショッキングな音楽、脱力した脚のクローズ・アップ、脱糞した男の意識は遠のくが、すんでのところで保安官が通り掛かり、彼を救う。オクラホマ準州で裁きを受けるべきだという男の言葉に従い、主人公は私刑を免れ、法の裁きを受けることになる。かくして男は犯人たちを乗せた護送車でフォート・グラントへと移送される。まるで見世物小屋のような絞首台、娼婦たちの活気、ジェドは他の犯罪者たちと並んで地下牢へと運ばれていく。

セルジオ・レオーネの命を受け、イタリアに渡り作られた「名無しの3部作」を経て、今作はアメリカに凱旋し作られた記念すべき第一作である。前年の67年に本国アメリカで初めて「名無しの3部作」が上映され、一躍新鋭イーストウッドの名前は全米中に轟く。数々の大作映画の主演オファーがイーストウッドに届くものの、彼はビッグ・オファーを全て断り、自身が設立した「マルパソ・カンパニー」の第一回作品として、無名監督だったテッド・ポストに白羽の矢を立てる。そうして作られた今作には、「名無しの3部作」のような派手な撃ち合いはまったく出て来ない。そもそもジェドの人物造形は、かつてセントルイスで保安官をしていたが、今はしがない牧場主をやっている曰くありげな男として登場する。牧場主は丸腰であり、自警するための銃など持ち合わせていない。彼は冒頭、私刑と言う名の一般人の言われなきリンチに晒される。その誘導尋問に乗り、言われなき私刑の犠牲者になるが、ジョン・フォード組の常連だったベン・ジョンソンにより、命を救われる。今となってはこの辺りの配役の妙こそ、西部劇の世代交代を体現しているようにも思える。この導入部分の決定的な信念こそが、後のイーストウッドに脈々と受け継がれた「法律で人を裁くことの難しさ」の素地を形成したのは云うまでもない。『荒野のストレンジャー』、『ペイルライダー』、『アウトロー』、と連綿と続き、『許されざる者』へ至るイーストウッドの西部劇の変遷の源流に、今作は位置付けられる。

イーストウッドの首の痛々しいキズ、この頃はまだ準州だったオクラホマを司るアダム・フェントン判事(パット・ヒングル)との信頼と不和、当初はソフィー(ルース・ホワイト)という名の娼婦に首っ丈だったジェドの命を救うことになる雑貨屋の女主人レイチェル(インガー・スティーヴンス)とのロマンス、見世物小屋のような絞首台にかけられる若者たちの異様な迫力(その内の1人は何とブルース・ダーン!)、フォート・グラントへと向かう道中で象徴的に登場する若き日のデニス・ホッパーの処刑シーンなど、正義とは何かという大義をシリアスに追った物語は多少肩に力が入り過ぎる。「法と正義のアンビバレント」に固執するあまり、正統派西部劇の痛快なアクションよりも、徹底して暴力の虚しさに特化した描写の数々が今の目線で言えばだいぶ冗長に映る。若者たちの吊るし首と自らの生命の危機がほぼ同時に訪れる中盤の名場面、直前に娼婦と一戦を交えた言い訳はあれど、それにしても彼が握ったコルトを発射出来ないのはなぜなのか?イーストウッドがまともな射撃の腕を見せるのは、最初の酒場の再会シーンくらいしかない。2度目の瀕死の重傷を救った美しいヒロインと共有する復讐の念には、深い亡霊のイメージが横たわるのは云うまでもない。物語の突然の断絶を果たすクライマックス・シーンも、イーストウッド×ポストなりの西部劇へのアンチテーゼを孕んでいたのは間違いない。若さゆえの未熟な作品ながら、ここには確かにイーストウッド映画の不穏さの原型が見て取れる。

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