【第593回】『ハドソン川の奇跡』(クリント・イーストウッド/2016)

あらすじ・結末に触れていますので、これから観る方はクリックしないで下さい

【第592回】『アメリカン・スナイパー』(クリント・イーストウッド/2014)


 2003年イラク、犬のような臭いを放つ空気、どこからともなく聞こえて来るアザーンの調べ、瓦礫の山と砂煙で壊滅状態になった街を、アメリカ海兵隊M1戦車はゆっくりと力強く歩を進める。その戦車を弾除けにするように、後ろから歩兵たちは潜伏する住民を探そうと、家々の門を蹴破って中に侵入する。その様子を後方から支援する特殊部隊ネイビー・シールズのスナイパーであるクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)の姿。彼は屋上に身を潜め、狙撃銃の引き金に手をかけ、そっと照準器に目をやる。屋上で何やら携帯電話で連絡を取っている男がいるが、実戦が初めての彼は、いちいち上官の指示を聞かなければ狙撃の判断が出来ない。そうこうしている間に男は住居に戻り、代わりに中から母親とまだ10歳にも満たない少年が出て来る。母親は黒のチャードルを全身に纏い、息子と寄り添いながら海兵隊の進路を塞ぐように立っている。明らかに民間人の格好である。だが次の瞬間、母親がチャードルの陰からRKG-3対戦車手榴弾を手渡すのを確認し、彼はもう一度引き金を引く準備をする。横にいる同僚の「間違っていたら軍法会議だぞ」の声にも怯むことなく、彼はアメリカの正義の名の下に引き金を引く。射撃の瞬間がオーバーラップし、時代はクリスの幼少時代に遡る。初めてのライフル体験で父親のアドバイスを聞きながら鹿を撃ち殺したクリスは、ライフルを地面に置いたことをこっびどく叱られる。日曜礼拝に家族4人で訪れる光景、まだ幼かったクリスには、教会の十字架よりも青い聖書の方に興味が行く。現在と過去を切れ目なく繋げるオーバーラップ、父親から子供に受け継がれる教育とイニシエーションの主題、陰惨な物語に立ち現れるシンボリックな十字架という3つのイーストウッドの署名が、開巻早々現れる導入部分の見事さが息を呑む。

主人公であるクリス・カイルは、イラク戦争で160名以上の戦闘員を殺し、「ネイビー・シールズ最強の狙撃手」と呼ばれた人物として広く知られている。イーストウッドにとって今作は、『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』、硫黄島2部作に続く4本目の戦争映画だが、それ以外の作品においても、監督イーストウッドは戦争の爪痕を無理に隠そうとはしない。『グラン・トリノ』や『目撃』の主人公たちは朝鮮戦争帰りの退役軍人だったし、『ダーティ・ハリー』シリーズ1〜3に登場したサイコキラーたちはいずれも、ヴェトナム戦争帰りの若者だった。イーストウッドは既に60年代の終わりから、PTSDに似た症状をヴェトナム帰りの若者の苦悩として描いていた。監督デビュー作『恐怖のメロディ』でも、『ミスティ』をリクエストしながら、主人公に詰め寄る女は現代的にはストーカーに分類されるだろう。今作において兄クリスと弟コルトン(マックス・チャールズ)の兄弟は、信心深かった父親の教えを忠実に守ろうとする。小さい頃、仲間にいじめられ目が赤く腫れあがった弟と向かい合った家族4人の食事の時、父親は聖書のフレーズを引用しながら、弟を守るのはお前だと強く言い放った後、ズボンのベルトをやおらテーブルの上に叩きつける。その様子をじっと見つめていた母親は一言も言葉を発することがない。この異様なまでの常軌を逸した加虐性こそがイーストウッド映画の素地を作る。『ブロンコ・ビリー』のように、週末には馬に跨り金を稼ぐ兄弟の青春はやがて、TVモニターの向こう側に見たタンザニアとケニアにおけるアメリカ大使館爆破事件に生き様を見出す。『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』のような鬼教官によるしごきの描写は出て来るが、クリスにとって生涯の手本となるのは信心深かった実の父親の面影に他ならない。

『許されざる者』において、ウィリアム・マニーの誘いを断れずに再び賞金稼ぎの旅に出たネッド・ローガン(モーガン・フリーマン)の背中を、呆然と立ち尽くしながら見つめた妻のように、戦争=殺人で傷つくのはいつだって女たちである。今作でも新婚早々のクリスの出兵を、妻タヤ・カイル(シエナ・ミラー)は寂しげな表情で見つめるしかない。右手でライフル銃の引き金に手をかけ、片目で照準器をじっと見つめ、左手でアメリカに残した新婚妻に電話をかける様子は、『ホワイトハンター ブラックハート』において、女優の小言を聞きながら、上の空で手帳にスケッチしていたジョン・ヒューストン以上の神業を見せつける。実戦では絶対に有り得ない話だが、トラックの下に落ちた携帯の声のしない受話器に向かい、妻タヤが何度も呼びかける姿の描写が凄まじい。ここでも『許されざる者』以降の父性の欠如の主題が一貫して頭をもたげる。妻の制止を無視し、クリスは合計4度も不毛な戦争に加担する(加担せざるを得ない)。そのことに苦しむのは愛する妻であり、まだ幼い息子と娘に違いない。アメリカ軍クリス・カイルと、元五輪金メダリストでイラク軍のムスタファ(サミー・シーク)の鏡像関係は、『ダーティ・ハリー』におけるハリー・キャラハンと連続殺人鬼スコルピオの裏表一体の危うい関係同様である。クリスがもはや「Kids」と呼べるだろう自分の息子や娘の世話を怠り(それがクリスの選択ではなく。アメリカ合衆国の選択だったとしても)、アメリカから遠く離れたイラクの子供らを多少の躊躇がありながら撃つ殺す様子は、2000年代のイーストウッドの陰惨さを見守った観客にとってはあまりにも痛ましい。2人目の娘が生まれた時、保育器に入った彼女の泣き声をフォローしない看護師にブチ切れ、何度も窓を叩くクリスは何らかの「妄執」に取り憑かれている。2000年代で最も陰惨なクライマックスを持った今作は皮肉にも、イーストウッド映画最大のヒットとなった。

【第590回】『ジャージー・ボーイズ』(クリント・イーストウッド/2014)


 1951年、ニュージャージー州ベルヴィルの街角。一軒の床屋ではフランキーの父アンソニー・カステルチオ(ルー・ヴォープ)が、常連客でマフィアのボスのジップ・デカルロ(クリストファー・ウォーケン)の髪を切っている。フランキー(ジョン・ロイド・ヤング)は昼間はこの店で見習いとして働いているが、16歳でまだハサミは持たせてもらえない。デカルロはヒゲを剃ってくれとフランキーを呼び止める。恐る恐る首元に刃先を合わせた瞬間、入り口のドアが勢いよく開き、びっくりしたフランキーはあろうことか、デカルロの首を切ってしまう。静かに入って来いと罵倒するデカルロの姿に、フランキーの親友トミー・デヴィート(ヴィンセント・ピアッツァ)はただただ平謝りする。やがてデカルロの車で家まで送られるフランキーの姿。彼の母親メアリー・リナルディ(キャサリン・ナルドゥッチ)は二階の窓辺に立ち、息子の様子を心配そうに見つめている。デカルロ、カステルチオ、デヴィート、リナルディの名前にも明らかなように、ニューアークのファースト・ウォード一帯は当時リトル・イタリーとして栄えていた。トニーとニック(ジョニー・カニツァロ)の悪友兄弟とつるみ、トラブルばかり巻き起こすフランキーの姿に、母親は「門限は11時よ」と心配そうに嗜める。いつものライブハウス、フランキーは舞台上からバー・カウンターで男につめ寄られる女メアリー・デルガド(レネー・マリーノ)を見つけ、一瞬で恋に落ちる。その姿は『ダーティ・ファイター』において、主人公のファイロ・ベドー(クリント・イーストウッド)が客として入ったミュージック・バーのステージで、カントリー歌手であるリン・ハルゼイ=テイラー(ソンドラ・ロック)に目が釘付けになった場面を思い出さずにはいられない。かくして時代遅れの男と気の強い女のコミュニケーションはやがて実を結び、2人は結婚を果たす。

今作はニュージャージーの貧しい地区出身の若者4人が結成した「ザ・フォー・シーズンズ」の栄光と挫折に彩られた真実の物語である。『シェリー(Sherry)』『恋はヤセがまん(Big Girls Don’t Cry)』『悲しき朝焼け(Dawn)』『悲しきラグ・ドール(Rag Doll)』など、数々のヒット曲を持つフォー・シーズンズだが、その背景を知る者は意外に少ない。フランキー・カステルチオとしてこの世に生を受けた男は歌手になる際、野暮ったい名前を嫌い、フランキー・ヴァリ(Frankie Vally)に改名するが、2歳年上の姉さん女房であるデルガドに「y」ではなく、「i」にするよう助言される。追い出されたボウリング場の夜、煌々と輝く「Four Seasons」の文字に天啓を得る描写は、『ダーティハリー』における「イエスは救い給う」と書かれた教会の屋上のケバケバしいネオンや、『Bird』における「ビバップ上陸」と書かれたカラフルなネオン管を連想させる。1951年を起点とする今作は、奇しくもチャーリー・パーカーが死んだ55年を通過し、60年代POPSの歴史に金字塔を打ち立てる。臙脂色のスーツ、黒の蝶ネクタイを付け、軽快なステップを踏む駆け出しの4人を、少し離れたところで見ていたジップ・デカルロが、フランキーの美しいファルセットで歌われた『マイ・マザーズ・アイズ(My Mother’s Eyes)』に、思わず涙ぐむ場面は何度観ても素晴らしい。デカルロはフランキーに、お札を真ん中で千切ると、何かあった時は俺に相談してくれと呟きポケットへ入れる。年長者と少し年の離れた若者との教育とイニシエーションの主題は、両親でもレコード会社社長でもなく、強面のジップ・デカルロとの間にきつく結ばれる。その後訪れる天才作曲家ボブ・ゴーディオとの運命的な出会いは、彼が手がけた大ヒット曲The Royal Teensの『Short Shorts』をきっかけに結ばれる。日本人には馴染み深いあの『タモリ倶楽部』のオープニング・テーマである。

グループにありがちな栄光と挫折の物語は、今作でもフランキー、トミー、ニック、ボビーをいとも簡単に引き裂いてゆく。それと共に印象的なのは、フランキーが家庭を顧みなかったことが原因で、徐々に拡がってゆく妻や最愛の娘との不和に他ならない。ここでも『許されざる者』以降のイーストウッドは一貫して父親としての苦悩や後悔の念を滲ませる。ニュージャージーからニューヨークへと勝手に旅し、2日間連絡をよこさず妻(母親)を苦しめる娘フランシーヌ(フレイヤ・ティングレイ)の描写は真っ先に『愛のそよ風』を思い出す。バンド活動に100%目を向けていたはずのカメラが家族の方を向くと、妻にも娘にもすっかりそっぼを向かれている。その後、雑誌の記者だったロレイン(エリカ・ピッチニーニ)と浮気し、愛する母娘と決定的な亀裂を生んだフランキーのセレブリティと傲慢さは、最悪の結末を迎えることとなり、様々な不幸がフランキーに襲いかかる。まるで娘の死と引き換えに出来た不朽の名曲『君の瞳に恋してる(Can't Take My Eyes Off You )』の筆舌に尽くしがたい美しさが観客の心を強く揺さぶる。今作で最も特徴的なのは、禁忌とも云うべき登場人物たちのカメラ目線での自分語りに他ならない。冒頭、トミーの溌剌とした茶目っ気たっぷりの語りに唖然とさせられた我々観客は、やがて禁忌のバトンがトミーからボブへと受け継がれ、ボブから今度はニックへと変遷するのを目撃する。クライマックスの極めて演劇的な「カーテン・コール」の素晴らしさ。まったく笑みも見せずにタップを踏むクリストファー・ウォーケンの表情に、マイケル・チミノの『ディア・ハンター』のニックと何気なくジュークボックスから流れた『君の瞳に恋してる(Can't Take My Eyes Off You )』を想起せずにはいられない。

【第588回】『J・エドガー』(クリント・イーストウッド/2012)


 1960年代前半、ワシントンD.C.、ガラスケースに大事そうに入れられたジョン・デリンジャーのデスマスク(彼のことが知りたければ、マイケル・マンの『パブリック・エネミーズ』やジョン・ミリアスの『デリンジャー』を参照されたい)、難事件を解決した猟銃の数々が整然と並べられた部屋で、FBI長官のジョン・エドガー・フーヴァー(レオナルド・ディカプリオ)はキング牧師への苛立ちを隠さない。共産党とつながったキング牧師が主導する公民権運動はやがてアメリカを滅ぼし、国家を蝕む元凶になると。激しい勢いでキング牧師を罵倒するフーヴァに対し、新聞記者はそんな中傷行為をすれば、FBIの評判に傷が付きかねないとやんわりと釘を刺す。だが彼は部下にキング牧師宅の盗聴を命じると共に、自身の伝記をスミス捜査官(エド・ウェストウィック)に筆記させる。ジョン・エドガー・フーヴァーは初代FBIの長官として、クーリッジ、フーバー、ルーズベルト、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンという8人もの大統領の間を務め上げ、FBIのリーダーとしての在位はおよそ40年にも及ぶ。FBIの前身となる司法省捜査局時代から、新設された過激派対策科を任されたフーヴァーは、ミッチェル・パーマー司法長官爆破事件から、類まれな才能を見せ、出世街道を駆け上がる。彼は幼い頃から兄よりも才能を見込まれ、母親アニー(ジュディ・デンチ)の尋常ならざる愛情を受けて育った。父親はもともと政界でキャリアを築いたエリートだったが、ある政変が元で失脚し、今は精神を病んでいる。家の前のベンチでボーッと外を眺めながら、フーヴァーが帰宅すると異様な形相で縋る父親の姿が一瞬だが印象に残る。ここでも『許されざる者』以降のイーストウッドに通底する父親の不在が露わになる。

フーヴァーがまだ駆け出しの頃、司法省の新人秘書ヘレン・ギャンディ(ナオミ・ワッツ)をデートに誘う。近代的なアメリカ国会図書館の外観、彼は人気のない夜の図書館の中で、図書館に集まる全ての蔵書のデータをインデックス化し、検索時間を飛躍的に向上させたアルバイト時代の功績を自慢げに話す。ストップ・ウォッチをヘレンにもたせ、図書館内を一気呵成に走り回るフーヴァーの行動は明らかに常軌を逸している。一連の作業の後、たった3回目のデートにも関わらず、フーヴァーはヘレンに結婚を申し出る。唇を強引に奪おうと顔を寄せるフーヴァーに対し、明らかな戸惑いを浮かべるヘレンの姿。「私は結婚よりも仕事に集中したいの」その答えに導かれるように、翌日からヘレンはフーヴァーの専属秘書となる。ヘレンとの関係性以上に、イーストウッドが強調するのがクライド・トルソン副長官(アーミー・ハマー)との尋常ならざる関係である。ジョン・フォードの『ドノバン珊瑚礁』のドロシー・ムーアとのロマンス(これ自体も衝撃的だが)の告白を受け、肉体関係の有無を聞いた後、明らかに取り乱すトルソンとフーヴァーのホテルの部屋での殴り合いは異様な光景となる。異様な光景は明らかに男同士の関係を暗喩しているが、それでもイーストウッドは観客の判断に委ねるとフーヴァーの性癖を明らかにしない。

今作のタイトルである『J・エドガー』とはジョン・エドガー・フーヴァーの親愛を込めた呼び方であり、「J・エドガー」と呼ぶのは大統領でも許されず、母親やトルソンやヘレンなど限られた人物だけが呼ぶことが出来た。イーストウッドは彼のホモセクシャリティと共に、トランスヴェスタイトの気も隠そうとしない。長年独身を貫き、社会的な信用があった一方で母親とは長年暮らしていた。フーヴァーがドロシー・ムーアやシャーリー・テンプルたちとコミュニケーションを取る姿は虚飾の姿であり、本当は鏡の前で母親と共に、自分の性癖を明かせないもどかしさを懺悔する。これまでもイーストウッドは一貫して、黒でも白でもない灰色な人物に興味・執着を示してきた。『Bird』のチャーリー・パーカー、『ホワイトハンター ブラックハート』のジョン・ヒューストンも栄光と挫折の両方を知る人物として描かれた。とりわけイーストウッドは破天荒に見える人物の陰の部分に固執する。亡き娘の亡霊に取り付かれた『Bird』のチャーリー・パーカーも、『アフリカの女王』の撮影前に、象を一頭仕留めねばならないというジョン・ヒューストンの強迫観念も、忽然と姿を消した息子の姿を探し歩くアンジェリーナ・ジョリーの描写も主人公の「妄執」に他ならない。今作におけるフーヴァーも正にこの「妄執」を自らの行動の動機とした人物である。フーヴァーとトルソンの関係性は最初の面接の場面から常軌を逸しており、映画はクライマックスに向かうに従い、徐々にメッキが剥がれたフーヴァーの姿を露わにする。官僚機構への苛立ちはこれまで幾度も見られたが、ここまで痛烈なFBI批判は類を見ない。

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