【第1055回】『アメリカン・スリープオーバー』(デヴィッド・ロバート・ミッチェル/2012)


 アメリカのデトロイト郊外、新学期を目前に控えた夏の終わり、マギー(クレア・スロマ)は季節の終わったプールサイドで自分の夏の物足りなさを憂い、楽しい何かをするべきじゃないかと親友のベスにぼやく。翌日に街で開かれるパレードで、仲間たちとダンスを踊ることになっているマギーは、ダンス仲間からその日の夜開かれるスリープオーバー(お泊り会)に招待される。しかしお泊り会を子供っぽく思ったマギーは、友達の家へ顔を出す前に、知り合いから教わった年上のパーティに乗り込むことにする。そしてマギーはそのパーティで、昼間プールで見かけた年上の男と再会を果たす。一方その頃、キス未体験のロブ・サルバーティ(マーロン・モートン)はスーパーマーケットで偶然出会った美しい少女に目を輝かせる。またジェンの兄スコット・ホランド(ブレット・ヤコブセン)は妹を送り迎えする車中で、密かに想いを寄せていたアビー姉妹(ジェイド・ラムジー、ニキータ・ラムジー)のどちらか一方が片思いだった事実を聞く。その夜、街では他にもいくつかのスリープオーバーが同時に開かれていた。ロブは訪問先の姉に求愛するも受け入れられず、一目惚れした女性を捜し街を彷徨っていた。少女は友達の家で彼氏の浮気を知り、スコットはアビー姉妹に会いに行こうとする。

 『イット・フォローズ』同様にデビット・ロバート・ミッチェル監督の長編処女作は、ミシガン州メトロ・デトロイトの郊外住宅地クローソンで撮影されている。夏の終わりの気配は同時に少年少女期の終わりを意味し、一夜限りの「ボーイ・ミーツ・ガール」な物語は、荒涼とした乾いた空の下で揺蕩う。狭い街で開かれる幾つものスリープオーバー、マギーとベスが乗る自転車と派手派手しい飲料、ロブが嗅いだヘアスプレー、芝刈り機を動かすハンサムな男、『オデュッセイア』に出演した姉妹とのモノクロ写真、荒涼としたデトロイトの透き通った空に一瞬見えた流星、ロシア産のウォッカのボトル、オレンジ色のライターなど幾つもの道具立てが一夏の恋に少年少女を駆り立てる。卒業時期の「プロム・パーティ」と並び、イニシエーションとしてのスリープオーバーは、半袖でも平気だった昼間から、マギーたちを突如荒涼とした雨の風景へ一変させる。天気の変わり目はまるで相米慎二の『台風クラブ』のように登場人物たちの孤独の感情を次々に吸い寄せて行くかのように映る。デビット・ロバート・ミッチェルの手腕はインディーズ映画にありがちな細切れのショットを用いず、少年少女の彷徨を堅実に丁寧に紡ぐ。世界の中心のような湖を平泳ぎで泳ぎ切った少女が乗ったボートとキス、滑り台のたもとで少女が止まった地点で寄り添う2人の男女の心の揺れ、2010年代の青春映画の新たな金字塔の誕生である。

【第550回】『イット・フォローズ』(デヴィッド・ロバート・ミッチェル/2014)


 住宅街の道端に固定されたカメラが45℃パンすると、ごく普通の二階建て住宅が見える。厳かな家の白い扉が勢いよく開き、若い少女は車道まで一目散で走り去る。足元には走るのには不向きな赤いピンヒール、微妙に後ずさりするような少女の不審な走り方。彼女の気配を察した近所のおばさんが「大丈夫かい」と声をかけるが、少女は「大丈夫です」と素っ気なく返す。家の中から「アリー」という大きな叫び声。どうやら父親が異変に気付いたらしく声を掛けるが、少女は黙って車に乗り、海岸線へと走り去る。両側に植えられた落葉樹の木々、落ち葉が地面に落ち、風に揺れる光景、人の気配のしない閑静な住宅街のルックは、あからさまにジョン・カーペンターの『ハロウィン』を想起させる。やがて海岸線にたどり着き、少女は誰もいない砂浜に腰掛け、夜明けを待つ。父親からの着信にようやく出た少女は贖罪と感謝の気持ちを話す。翌朝、彼女は変わり果てた姿で発見される。

いかにもB級ホラー・テイストな作品だが、アイデア一発勝負が素晴らしい。「それ」は人からうつすことが出来、「それ」はゆっくりと歩いてくる、「それ」はうつされた者にしか見えず、「それ」に捕まると必ず死ぬという映画の文言通り、「それ」はある日突然、ヒロインのジェイ(マイカ・モンロー)を襲う。「それ」は少女の大人への通過儀礼を媒介として感染する。居心地の良い仲間たちの関係性を拒否し、ある日彼女は離れた街に住むヒュー(ジェイク・ウィアリー)と恋に落ちる。新鮮味のない友情から、未知の世界を感じさせる年上の男との恋。ジェイは映画館の行列で暇つぶしに「誰になり替わりたいかゲーム」をしている。他愛のないゲームだったが、ヒューは狼狽し、そそくさと席を立つ。この時点でジェイは不穏さの正体に気付いていない。その夜ふいに訪れた大人への儀式、女になった余韻に浸る少女に待ち構える突然の凶行。わけもわからないままに椅子にくくりつけられ、拷問の儀式を待つ様子は、2000年代の『SAW』シリーズを彷彿とさせる。だが物理的に対処不能な伝染する怖さは、近年の幾多のアメリカ産ホラー映画と比べても異彩を放つ。

少女は大人への通過儀礼を済ませた瞬間、一転して死の恐怖に怯える。今作では直接襲ってくるキャラクターは決して凶悪ではないものの、一貫して死の恐怖がヒロインに迫る。少女は前半部分で裏庭のプールに浮かびながら、電線を伝うリスを見ている。この時点で落ち葉の溢れたプールの水質は汚いが、常に水が張っている。それが中盤以降には水が抜かれ、空気も抜けた無残な姿を晒している。本来、大人への通過儀礼を済ますことは幸福なはずだが、大人になった彼女はまた1つ死に近付いてゆく。かつて家族と狩りに行った砂浜、ポール(キーア・ギルクリスト)と初めてキスをしたプールへヒロインが向かう様子は少女の子供時代への退行を意味する。少女は初めての性交から、恐怖を克服するために3人の男と身体を交える。理想の憧れの男ヒュー(ジェイク・ウィアリー)、後腐れない近所に住む男グレッグ(ダニエル・ゾヴァット)、初恋の人であり、ヒロインを密かに愛し続けているポール(キーア・ギルクリスト)。結婚の契りもない男たちとのSEXの変遷は少女の想像上の関係でもあり、パラノイア的な誇大妄想の産物である。だがホラー映画の伝統を重んじながら、メランコリックな精神性を大事にした中盤までの丁寧な展開に対し、ラストの着地点が随分勿体無い。今作の醍醐味は大人への通過儀礼を済ませた少女の説明不要の恐怖であり、妄執のはずであり、心理的パラノイアは銃火器では対処不能である。だがクライマックスで監督は、銃火器によって「それ」に対処しようとする。死ぬときは一緒という淡い憧れは、永遠の孤独の前には力を持たない。

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