【第653回】『さざなみ』(アンドリュー・ヘイ/2015)


 イギリス・ノーフォーク州の緑豊かな田園地帯、ケイト・マーサー(シャーロット・ランプリング)は愛犬マックスを連れて、朝の日課である散歩に出かける。「ケイト先生っ」かつての教え子に声をかけられた彼女は、双子の子供が生まれたという教え子を祝福する。師弟同士の他愛もない会話。教え子は土曜日のパーティを楽しみにしていますねと声をかけ、その場を立ち去る。今週土曜日に行われるパーティは妻ケイトと夫ジェフ・マーサー(トム・コートネイ)の結婚45周年を記念したパーティである。本来40年のルビー婚式のパーティを盛大に行うはずだったが、夫のバイパス手術の影響で祝うことが出来なかった。結婚45年のサファイア婚式。妻はこの日を迎えるのを楽しみにしていた。リードをつけずに散歩に出た愛犬マックスが勢い良く部屋に戻ると、朝食の支度をするいつもの日課。妻は式で流す曲は何が良いかしらと言いながら、The Plattersの『Smoke Gets In Your Eyes』を鼻歌で口ずさむ。テーブルに座った夫ジェフは夢見心地の妻に反応することなく、手紙の文面に集中している。ドイツ語で書かれた手紙には、亡くなった夫のかつての恋人ケチャが当時とそのままの状態で発見されたことを知らせる内容が書いてあった。

 50年以上前、ジェフは最愛のパートナーだったカチャとのデート登山の最中、彼女は足を滑らせクレパスに落ち、突如行方不明となった。ジェフは絶望し、山に恋人との永遠の別れをしてきた。だが温暖化により雪が溶け、彼女は奇跡的に当時の姿のまま発見される。50年以上前に氷漬けになったかつての最愛の人の美しき死体。その事実に夫の心はかき乱される。ジェフが「ぼくのカチャ」と不用意に口にしたとき、平和だった夫婦関係に静かに亀裂が入る。シャーロット・ランプリング扮する妻は夫ジェフのことを深く愛する。かつて音楽の教師をしていたケイトは年上のジェフと恋に落ちた。その時ジェフは亡き恋人だったカチャへの想いをケイトのブロンドの髪に重ねた。夫婦の間には子供はいない。代替わりし続けた愛犬と共に、45年連れ添ってきた事実がケイトの嫉妬から徐々にうつろう様子が残酷で容赦ない。妻はあと数日後の土曜日に行われる結婚45周年のお祝いパーティーを前に、気もそぞろな夫の様子が心底気に入らない。女は体裁を繕い、何事も無かったかのように振舞うが内心穏やかではない。『45 YEARS』の邦題である「さざなみ」とは実にしっくり来る表現である。妻の心に吹き込んだすきま風は平穏を装う妻のルーティン・ワークを狂わせ、妻はしばらくやめていたはずの煙草にさえ手を出す。

 もうこの世にはいない女性に嫉妬し、激しく張り合うことは勝ち目のない勝負に挑むようなものである。少しずつシワが増え、足腰も弱くなっていく自分とは対照的に、氷漬けになったカチャは若く美しい姿を保っている。そのことが彼女は無性に腹立たしい。青春時代の思い出の中の恋敵と張り合おうとした妻の乙女心は老い先短くなり、ケイトの身体の上で力なく果てるジェフの不躾な態度にいたく傷つけられる。スイス製の高価な腕時計を見つけ、思わず愛する人に伝えたくなった妻の想いに対し、夫は電話を取ることがない。久しぶりに図書館を訪ね、足腰が弱っていてスイスに行けるはずなどないのに、妻に内緒で(それも見え見えの嘘で)取り繕う夫のデリカシーの無さ。たった6日間の物語の中に、監督であるアンドリュー・ヘイは妻と夫の心のズレを幾つも見せる。やたら吠え掛かる愛犬マックスの制止を振り切り、3階の夫の秘密の部屋に上がる妻の行動は、もはや取り返しのつかない残酷な結末に向かって突き進む。クライマックスのThe Plattersの『Smoke Gets In Your Eyes』は2人が結婚に至った思い出の1曲だが、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』、エドワード・ヤンの『恐怖分子』を越えるような恋の終わりの残酷さをありありと体現する。45年少しずつ積み上げて来たものが、たった6日間でいとも簡単に崩れてゆく。70歳になったシャーロット・ランプリングの乙女のような悲しい表情が忘れられない余韻を残す。

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