【第791回】『トッド・ソロンズの子犬物語』(トッド・ソロンズ/2016)


 アメリカ・ニューヨーク、幼いウィンナードック(ダックスフント)がケージに入れられ、車に乗せられてどこかへ向かう。まるで『ドナドナ』の冒頭部分を地で行くような子犬の姿は、ペットショップのケージへと家畜の意思に関わらず入れられる。ウィンドウの中に入れられた犬たちの鳴き声にウィンナードックは面食らった様子で、透明なガラスケースの外の世界を不思議そうな表情で見つめている。安易な発想でムツゴロウさんと市川崑が共同で手掛けた1986年の大ヒット作『子猫物語』の犬版なのかと思うととんでもない大火傷をしてしまう。『子犬物語』の前にトッド・ソロンズのクレジットがあることを忘れてはならない。ウィンナードックは当初、父親に飼われ、小児ガンを患った9歳のレミ(キートン・ナイジェル・クック)にもらわれる。庭先の草むらに寝そべり、じっと空を見つめる少年の元に、父親ダニー(トレイシー・レッツ)がウィンナードックを届ける様子はなかなかに感動的である。犬が我が家に来た瞬間から、余命いくばくもない少年に1つの生きがいが見つかる。だが夫が妻に無断で買って来たウィンナードックを妻ダイアナ(ジュリー・デルピー)は快く思わない。トッド・ソロンズの映画ではいつでも、大人になりきれていない幼稚な大人たちが登場する。大人びた子供であるレミは9歳の素直な感情を両親に投げかけるのだが、彼の心を突くような答えは一切返って来ない。

 今作は一頭のロバの運命にイエス・キリストの受難劇を暗喩したロベール・ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』への21世紀的オマージュ作品に違いない。飼い主の身勝手な都合でたらい回しにされるメス犬は、奔放な飼い主たちの元を転々とする。幼いウィンナードックの命を救うのは何と、トッド・ソロンズの処女作『ウェルカム・ドールハウス』においていじめられっ子を演じたドーン・ウィーナーの成長した姿に他ならない。彼女はドッグ・フードを買いに出たコンビニで、元クラスメイトだった麻薬中毒者ブランドン(キーラン・カルキン)と再会する。演者がヘザー・マタラッツォとブレンダン・セクストン・Jrからグレタ・ガーウィグとキーラン・カルキン(あのマコーレー・カルキンの弟!!)に変わっているものの、トッド・ソロンズの全ての作品はこうして円環状に(サーガとして)繋がっている。そのドーン・ウィーナー自体は『おわらない物語 アビバの場合』において自殺したことが匂わされていたはずだが(ついでにアビバはドーン・ウィーナーの従姉妹の設定だったはずである)、前後の整合性は無視したとしても、心底イケてないグレタ・ガーウィグにだけは奇跡のような展開が待ち構える。

 トッド・ソロンズの作品はいつだって幸せな大団円とはならないのだが、今作でも人間の劣悪さを露悪的に表明する数々の描写がことごとく胸に突き刺さる。犬の去勢とダウン症の人々の生殖行為を並列に扱う厭な思想、小児ガンとヤク中、老い先短いネガ思考と若者たちのポジ思考(ただ単にバカ)との対比、家では黒人をこき使いながら、孫が連れて来たブラックに露骨に嫌な表情を見せる屈折ババアなど、今作にもウィンナードック以外の人間たちは心底救えない人間たちしか出て来ない。しまいには心底厭なババアが神に縋ったことでまさかの悲劇が訪れる。90分以内の映画で、途中休憩を挟む有り得ないような挑発的展開には大いに笑ったし、スケボーに乗るウィンナードックのスロー・モーションは露悪的なトッド・ソロンズのセンスが露わになる名場面に違いない(まるでマカロニ・ウェスタンのイーストウッドのよう)。要はアメリカや日本に生まれた私たちは幸せだが、北朝鮮やシリアで生を受けた子供たちの人生は生まれた瞬間から積んでいるという発想がトッド・ソロンズの根底にはある(それは心底最低な発想だが、不確かな事実も孕んでいる)。しかし一見幸せなオプションを有しているかに見える先進国に生を受けた我々も、明日もし車に撥ねられて死ねば政情不安な北朝鮮やシリアに生を受けた子供たちよりも、短い生を全うすることになる。優しさと残酷さとは文字通り、人生においては表裏一体であり、地球上に生を受けた人々が国家や家柄を選べないように(心底憂鬱な表情を浮かべるマリアッチ楽団の主張を参照!!)、ペットであるウィンナードックも飼い主を選べない。ダニー・デヴィートやエレン・バースティンのような伝説的な名優たちをフレームに据えた物語は結局、世界一性格の悪い監督トッド・ソロンズの世界観を代弁したに過ぎない。切り取られたショットの芸術性以上に、その倫理観において激しく賛否の分かれるタブーをえぐるような作品である。

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